4月24日
朝、泊めてもらった人と一緒に出社した。
家を編集部に置かせてもらい、僕はギャラリー•間で友達も参加してる展示を観にでかけた。
この生活には二段階の移動がある。家ごと「移動」する時と、家を置いて「外出」するとき。特に「外出」が許されるとき(家を置いていいよ、という場所が与えれた時にだけできる)の解放感は毎度ものすごさがある。気持ちが良い。今日は天気も良い。
で、ギャラリー•間に行こうと思ったんだけど、切符を買おうとする段階で、なんとなく「地下鉄に乗りたくないな」と思い、しかも観たら頭を使いそうな展示だったので、急に行く気が失せてしまって。でもせっかく外出できるし、と思い、結局映画を観に行く。
渋谷まで行ってアクトオブキリングを観たのだけど、これがまたすこい映画で。
アクトオブキリング。安直に語ることが許されない。見なければよかったのかも、とさえ思ってしまう。
感想メモ。
登場人物がみんな人間的に歪みきっているように、僕には見えて。それは彼らがみんな、目の前の出来事をどこか「他人事」のように眺めていて、それでも涙や笑いや、嗚咽が「精神の防衛機能として変な風に」溢れ出してしまう。そんな風に見えて、この映画を観て、「この〜のシーンの入れ方は〜」というふうに、この映画を「映像作品」として語れる、ということは、彼らのような「歪み」を僕たちも知らず知らずのうちに抱えてしまっている事にもなるんじゃないかと思えて、話をするのも許されない。一人一人が観て、一人で考えるしかない。そんな映画。
外出していて、僕のあの家は「いちおう中で眠れはするけど、基本的に何の役割も果たさない」所が愛おしいなと思った。ただ重くて目立つだけの、家の形をしている荷物。
映画に行く途中、大塚駅ホームに鳩の死体。何の文脈も前兆もなく、突如挿入される死の風景。背筋が伸びる。
あと、映画の帰り。路上でネズミがぼーっとしてた。
福音館書店に戻って、家を取って出発する。記念撮影。
このあいだ御茶ノ水美術学院で話した高校生と路上で偶然再開した。
夜は、吉原での展示のスタッフをやってくれてた茂原さんたちの家に、家を置かせてもらう。中野。
先輩作家の田原唯之さんから突然下のリンクが貼られたメールが来る。
Julie-O/Kevin Olusola