0613
昨日の授業で「テントと家の違いはなんですか?」という質問があった。テントは目的地と出発地があって、その目的地の方に仮設でつくるものだと思う。目的地と出発地という概念を消そうとしているので、この生活はテントじゃだめだ。テントでは仮設の繰り返しにしかならない。地面に置いた時に、「いつの間に家が建ったの?」っていうリアクションができないと。 地面に置いた時に、まさか歩いて持ってきたとは思いもしない形をしていないと。
今日、たまたまお昼ご飯を食べながら人と話す機会をもった。いまやっている学問や仕事に対して「本当にそれをやりたいのかわからない」という悩みは多くの人がもってると思うけど、やったことが無いことをやりたいかどうかなんてわかるわけがないしとにかくやるしかない。そしてやればやるほど自分が「それをやっている」とか「それができている」とは思えなくなる。だから「これは本当にやりたいことなのか」っていう気持ち悪さは一生持ちつづけることになる。そこに答えをだしちゃいけない。だから東京モード学園の広告が嫌いだ。あれは「やりたい奴は集まれ」じゃなくて「ちょっと試してみたい奴は集まれ」くらいでないといけないはず。
今日は先日のご夫婦の家に、今度は家ごと泊めてもらうことに。夜自分の過去の作品を紹介するなど。
たくさんの人に憧れを持ちたい。憧れるということはその人を自分の中に取り込むこと。取り込むためにはその人のことに出会わないといけないし、知らないといけないし、すくなからず衝撃を受けないといけない。そして出会うほどに別れがきつい。また会えるだろうとはわかっていても、あるいは時間が経てばこの感情も消えてなくなるということがわかっていても、その感情の渦中にいるときの苦しみとかさみしさとは無関係だな。そんなことは慰めにならない。感情はその瞬間だけにわき起こるものだから、その瞬間にしか考えられない。お腹が痛い時に、お腹が痛くない時のことを考えられなくなるのと一緒だ。「いつか痛くなくなるよ」なんてことは、お腹が痛いその時に言われても慰めにならない。