0616
プレセティア内康さんは、もともと魚屋さんだったらしい。それがだんだん仕出し(料理を作って家まで出前する)もするようになっていき、そのうち「おたくの魚屋の二階で宴会やっていいか」という話になり、宴会場になりはじめる。そうしたら、料理も出るし結婚式なんかもここでやるといいんじゃないか(当時結婚式は公民館などで行われることが多かったらしい)という話になってきて、結婚式もやりはじめる。そうこうしているうちに魚屋を切り離し、だんだんいまの式場のかたちになっていったらしい。時代に合わせて商売を変えて、その都度建物を作り替えて、規模を大きくしてきたのだ。だからいま式場をやっているのはとても自然なことのように感じる。良いな。
今日は、東京で知り合った人が紹介してくれた石巻にあるシェアハウスに向かう。そこに家を置かせてもらうよてい。歩いていて思った。昨日と同じだ。これは冒険でも旅でもなんでもない。全てが淡々とした日常に回収されて行く。今日も昨日と同じように敷地を出て、笑われたり話しかけられたりしながら家と一緒に歩いて次の敷地に向かう。着いたらお風呂かシャワーに入ってどこかでご飯を食べて、人と話すかもしれないし話さないかもしれない。日常ってのはそういう揺り戻す力のことかもしれない。どんな冒険者も探検家もその日々の生活はその力によって日常に回収されていく。だから常に誰かにとっての日常は、他の全ての人間にとっての非日常なのだ。そういう目で自分の日常を、あのうんざりの日常を見られたらいいのに。
石巻の路上で、トレーラーハウスに住んでいるという人に出会った。家が被災して仮設住宅に住んでいたのだけどもういい加減出て行こうと思い立って、仮設を出てトレーラーハウスに住み始めたらしい。僕が「住所と生活は必ずしも一致しなくてもいいんじゃないかと思ってる」っていう話をしたら、仮設住宅に住んでいたとき、住民票をそこに移さなくて良かった、という話をしてくれた。そうだったのか。それが仮設たるゆえんか。住民票をそこに移せたら、住んでいる人の気持ちもすこし違ってくるんじゃないか。
夜、シェアハウスの人たちとすこし話す。みんなそれぞれ復興のために忙しく働いているひとたちだった。僕と同年代くらいなのに、彼らは他者のために立ち上がっている。すごい。