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寝すぎた。起きたら九時過ぎてた。雨はやんだみたい。しかし昨日は凄い台風だった。早く過ぎ去ってくれて助かったけど、そのうちまた新しい台風がくるんだろうな。ゴジラとかエヴァンゲリオンの使徒が「海から現れて日本を襲う」っていうシナリオは台風の発生過程からきてるんじゃないかな。台風もだいたい同じように南の海上で発生して、だいたい同じような進路をとって日本を襲う。津波もそうかもな。天災が海の向こうからやってくるイメージは昔からあるんだろうな。
絵を描いたり風が止むのを待ったりして、2時過ぎに道の駅を出発した。道の駅はほんと便利だ。最悪、敷地が借りられなくても道の駅に逃げ込むことができるしトイレも洗面台も自動販売機もある。道の駅で敷地交渉するとうまくいく時とうまくいかない時があるのが不思議。どの駅も敷地は国土交通省のものみたいだけど、駅長によって「国のものだから寝泊まりダメだ」っていうのと「国のものだから国民は自由に使える」っていうふうに方針が分かれる。「国のものだからダメだ」って理屈はよくわからない。国って誰なんだ。国って僕たちの事じゃないのかな。先日の下飯野の水野さんが
「神輿を担いでくれた人を外に寝かすのは町としてどうなんや。公民館に寝かせてあげようや」
と言って町の人たちに議論をふっかけたのはとっても大事なことで、「公共」が「自分たちのもの」っていう意識が僕たちはとても低いのだと思う。議論をするまでもなく「とりあえずダメ」みたいにしてしまう。
最近ツイッターで、借りた敷地の写真をアップするようにしている。そこがどんな敷地なのか(お寺だったり公民館だったりお店だったり)っていう説明を添えて。毎日アップしてると、家は変わらないで敷地だけ日々変わっていくように見えてくる。同じ敷地の上に家が建ったり店が建ったり駐車場になったりっていう風に、敷地の上にあるものが変わっていく風景はよくみるけど、敷地の方が変わっていくってのは見たことない。考えてみると敷地っていう制度が社会のシステムの側にあるのに対して、僕の家(寝室)は人間の生活の側にある。泥臭くて熱をもった生活の側にあるものだ。敷地を変えつづけることによって、僕の生活をシステムから取り戻すことができるかもしれない。日々の生活の重心はシステムのほうにあっちゃいけない。このからだの方に重心を置かないといけない。じゃないと福知山線の脱線事故みたいなことがおこってしまう。小さい頃の、生きている感覚がからだと共にあった感じ。あれを思い出すのだ。
夕方まで歩いて、そろそろ敷地を探そうと思ってたら職質された。もう40回くらいされているので、向こうが近づいてきて何か言う前に身分証を差し出すようにしてる。
「交番とか、警察署の敷地を一晩借りる事はできますか?」
って、かねてから聞いてみたかったことを聞いたら
「無理です」
って言われた。警察署や交番には秘密の情報がたくさんあるので、なにかのスキに持っていかれたら困るっていうリスクを想定してのことらしい。行き倒れ状態の人が来たら「保護する」ということで場所を与えるっていうことはあると言われた。
5時頃、高岡市の内島っていう地域についた。道の駅があったけど、人が多そうだったので近くにお寺を探してそこで敷地交渉した。そしたら住職さんは僕の話が全部終わる前に
「いいよそこ置いて」
って言ってくれた。それですぐ家の中に引っ込んでいった。道の駅の近くで敷地を借りると住み心地が良い。