2012年5月11日(金)

◯玉音放送の「堪え難きを耐え、忍びがたきを忍び」って言葉、それまでの戦争での国民の苦労をねぎらって「よく耐えてくれた」っていう文脈かと誤解してたけど、そうじゃないんだね。

ポツダム宣言を受け入れてしまう以上、これから私達が受ける苦難は計り知れないし、悔しい思いもたくさんするだろうけど、いずれ来るはずの平和な未来のためにいまは「堪え難きを耐え、忍びがたきを忍び」生きる決意をしようっていう意味だね。すごい!

そんな堪え難きを耐え、忍びがたきを忍んだ決意をした人達が描いた未来の世界に生きてる僕は、彼らに対しての責任を取れた生き方ができてるか。

 

 

◯ 気仙で「くっつきハウス」をやるということと、東京で「引っ越しと定住を繰り返す生活(仮)」とか今構想中の「家主リレー(仮)」「シフト性のお茶会(仮)」をやるということは、言ってしまえば同じことのはずなんだけど、なんでこんなに出来上がってくる形が違ってくるんだろう。いずれも、「自らの社会的な立ち位置を知るための場の演出」っていう言葉にまとめられるはずなんだけど、大船渡で家主リレーとかやっても、あんまり効果的ではないような。「家主リレー」は、人がランダムに触れ合う色が強い。

いまある多くの仮設住宅は役所による抽選で近所に住む人が決まってしまうので、すでに人がランダムに振り分けられている状況にある。そこでもう一度ランダムを持ち込んでは効果がない。

あと、「社会的立ち位置」のなかの「社会」ていう言葉の指す範囲が違う。気仙での仮設住宅村でいう「社会」は、おなじ仮設住宅村に住んでるみんなを、改めて「地域社会」と呼ぶことにしよう、という意図がある。

比べて東京では、町を歩いている人に試しに適当に話しかけてみてると、たぶん一人一人ごとに、様々な社会(クラスタ)で生きてる人と当たる。東京では「住んでる場所」で、その人が生きる社会が全て決まるわけじゃないから、むしろ「場所と時間で縛る」ていうルールを加えるだけで、「自らの社会的な立ち位置を知るための場の演出」が成り立つ。

 

東京では、人生観が変わるような奇跡的な出会いの可能性が、自分から半径50メートル以内とかにいつも転がってるのに「いつもどおりの自分」が立てる予定の中だけで生きていては、気がつかない。奇跡と出会うためには自らの予定を、予定を超えた所で立てなきゃいけない。

 

東北の仮設住宅では、抽選によってランダムにご近所が決まってしまって、それが原因で問題になってもいるけど、東京では、人はもっとランダムに振り分けられた方が、奇跡と出会えると思う。

 

東北の仮設住宅では、抽選によってランダムにご近所が決まってしまって、それが原因で孤独死が起きているけど、東京では、人がもっとランダムに振り分けられないばっかりに、自殺や過労死が起きているのかもしれない。

Posted by satoshimurakami