03031219
バスの中で、大きなスーツケースとバックパック、明らかに他の人間の持ち物よりも体積が大きな荷物、をなるべく人の邪魔にならないように色々持ち替えたり動かしたりしながら考えるのは、例えば僕は会話において引用があったり、他の出来事に結びつけられることが人間の証であり、また男女の格差や社会の仕組みに対して批判的に戦っている人をかっこいいと思っていて、その思想を生活に取り込んで、日々の暮らしの様々な場面で、誰かと一緒に暮らしていたり、誰かと仕事をしていたりするときに、これはこの社会の制度がーとか、そういうふうな話し方をして会話を進めていきがちな事があるし、そういう人間が特にインターネット上にたくさんいることも感じていて、でもそういうときに本当に考えなければいけないのは、それはたしかに社会の制度や男女の格差が前提であって、それは絶対に踏み越えてはいけないステップではあるのだけど、それ以上に、何よりもこれはあなたとわたしの問題なのだということだ。あなたという人は、とりあえず分類上は男あるいは女あるいは性的少数者で、何歳で、体は五体満足あるいは障害があって、所得はどうとかっていう属性をもってはいるけれど、それ以上に、あなたはあなたという存在そのものであって、そのあなたとわたしの関係性においてこういう問題がおこっているのであって、もしかしたら社会の制度とか格差とかはもう全然関係ないと思えばそうも思えるということもある。でも、先人たちが積み重ねてきた歴史や、知恵を参照しないわけにもいかない。でもインターネットは思慮深さを簡単に欠いて、色々な問題を簡単に一般化して、あなたがあなたであって、わたしがわたしであることを踏まえた上でこの関係性ができていて、さらにその上でこういう話題がもちあがったり問題が現れたりしているのだということを驚くほど無意識に忘れさってしまう。
要するに、ぼくが、周りの人たちとの関係性のなかで生きているそのさなかに起こった問題に対して、その場にいあわせない、顔も知らないような人たちからの意見なんて、知ったこっちゃないということだ。まさに、余計なお世話だバカヤロウってやつで、でも問題はこの一般化したがる人たちというものが、自分の中にも住み着いているということで、誰かとコミュニケーションをとるときにはいつも、この点は気をつけなければいけない。歴史を引用することと、社会の問題と、あなたと私の関係性の問題であるということがコミュニケーションということなのだから、あなたはコミュニケーションが苦手ですか?という調査をどっかの会社が先日やったらしいが、普通に考えて、私はコミュニケーションが得意です、とか、不得意ですとかって、簡単に答えられるわけがない。そんなの相手によって変わるし場によっても変わるし、もっというと話題によっても変わる。そういうのを全部すっ飛ばして、人をコミュニケーションが得意な人とそうでない人に二分してしまう、そういう暴力的な力がはたらく調査が普通に行われているのが頭にくる。