看板図書館part5日本語
part5
<平野屋>
–ご主人が始められたお店ですか?
いえいえ、私で3代目です
-この商店街、皆さん三代目とか..
そうだねえ。やっぱりお城の前で、この通りっちゅうもんは昔から豆腐屋さんやら向かいの薬屋さんやらは、江戸時代の寛永やら
うちらまだ明治やさけえ、ほんでも100年以上は経っとるけども
おまんじゅう屋さん、いま四十何軒しかおらんけども
わしら学校出て商売継いだ時は百二十軒から金沢にはおったね
昭和40年になるかならんかの時は百二十軒あった
いま3分の1やわね
ほんでもこんな忙しくならんということは、そんだけおまんじゅうとかお餅を食べんようになったちゅうことやわね
食べもんが変わったちゅうか、こんだけケーキ屋さんとか色んなもんがでてきて
昔はやっぱり餅っていうものは、今はお正月の餅しか注文ないけど
昔は今みたいな時でも毎日こうしてお米持ってきて
これひとつ。ひとつってのは二升やけども
これでお餅ついてくださいっちゅうて、そんなもんがいっぱいあったもんやけど
こんだけ平生からお餅を食べんようになったちゅうことやね。食生活が変わってしもうて
ちょうどそういうころ田植えしとったもんやさかい
機械なんかあんまりないさけえ、たくさんの人が田植えしとる
そういうときにおやつとかおまんじゅう持っていくんや。田んぼへ
それがだんだんお寿司に変わったり
今じゃ機械になったら、あんまりそういうことしとらんもんね。コンビニでなんでも買ってきて
昔は田んぼに配達に行ったもんや
で、田んぼって言ってもいっぱい田植えしとってどの田んぼかわからんだわね
<ひがし洋傘店>
ここで傘張っとった。おばあちゃんの実家が、傘の骨をつくっとったんや
ほんで、うちに女の子おるからどうやけえっちゅうてお嫁に来た
大正や。大正9年にうちのおばあちゃん生まれて
大正時代にもう傘張りをしてたのよ
傘張りだったんです
それが和傘がだんだん駄目になったので、洋傘に変わったんです
-ここで傘張ってたんですか?
張ってたんです。柿渋も作ったし
和傘張る糊も全部手作りで
わたし小さい時見てた。子供の頃やから
小さいときにここに養女に来とるから、見てるんやそれを
渋柿の青い小さいときに採って、それを潰して踏んで、それで柿渋を作って
穴蔵みたいなところに1年分柿渋入れて
糊はわらび粉でつくってたよ
わからないでしょう(笑)
糊をこうして炊いてつくってたんですよ
柿渋はお洋服につくと取れないでね、気いつけなさいよとかって言われてた
それでね、油引いて干すとこがないから
向かいの福光屋さんのうしろに空き地があったの
そこをお借りして、傘を干して
雨が降ると一家総出で傘片付けに行かんなんのよ
いま福光屋さんの蔵になってる、あすこなんですけど
-金沢雨が多いから
昔はねえ、和傘で
いつも私のいとこのうちが傘の骨作ってて
不思議やねえ、あんな傘の骨を作ってて
子供は9人、親とで11人食べていけたんやねえ言うて
<JO-HOUSE>
お店自体は1972年オープンなんですけど
この場所になったのは2004年です
もともとJO-HOUSEはうちの奥さんのお父さんがやってたんですよ
JO-HOUSE30周年の時に、僕と夫婦で代替わりして継ぎました
昔から美大生とか音楽好きな人のたまり場でした
Jazzが流れて、でフォークの人がライブしたりとか
-高田渡のポスターがありましたね
そう高田渡さんと、西岡恭蔵さん、あと加川良さん、友部さん、大塚まさじさんは
ルーティンでずっと毎年やってもらってて。ライブを
今は毎年やってるのは友部さんだけなんですけど
-友部さん毎年来てるんですか?
毎年2月か3月にやってますね。友部正人さん