03171854

 この時期、東日本大震災に関しての記事などで「忘れない」という言葉をよく見るけど、違和感がある。これはメディア向けの言葉というかアピールの言葉で、中身というか、言霊がない感じがする。外の人が外の人に向かっていう言葉。まあ僕も言ってしまえば外の人なのだけど。でも僕はずっとずーっと、住むことについて考えてきたんだ。3000日のあいだほとんど毎日毎晩、考えたり書いたり人と話したりして、自分なりに考えを進めてきた。それを、震災から何年目かの節目の日に、思い出したように「震災を忘れない」と言い出す人が今の僕の文を読み、意味がわからないとか言うのは、そりゃあんたにはわからんだろうとしか思わない。直接話ができれば一瞬で全て解決するんだろうけど、時代背景的に、人と人が直接話さないままそれぞれ好き勝手やるコミュニケーションの方が圧倒的に多い。これは分断が起こるわけだ。

 昨日はちょっと「移住を生活する」史上初の大変なことがあり、日記を書く暇がなかったのだけど、とりあえず315日の続きを書かねばならない。

315日の敷地に借りた吉原神社は僕が友人たちと「空鼠」に住んでいたころに知り合った吉原さん(本名)という人が総代をやっている神社。吉原さんはこのあたりの町会の会長をやっているものすごくパワフルで経験値の豊富なおじさんで、昔はフェンスが張られて廃れていた吉原弁財天(吉原神社のすぐ近くにある)を整備し、賑やかすぎるくらいに賑やかにした人。僕たちも当時は吉原さんに頼まれ、「吉原弁財天」の壁画を描いたりして、吉原に行くことが多かった。

 

 吉原弁財天。手前の樹で隠れている絵は僕の他に友人たちである、作家の林友深、写真家の小山一平、映像をつくる仕事をしている阿部圭佑、アーティストの橋本匠と一緒に描いた絵。その右に、これも友人の服部紫野と林が現在も描き直している途中の鳳凰の絵が見える。

 15日にここにきた経緯としては、細野さんの車庫の前で絵を描いている時に、ここまできたからには(細野さんの車庫から歩いて30分くらいのところに吉原神社がある)吉原さんのところにも行こうと思い立ち、吉原さんに電話をしたら、出て一言目が

「どこにいんだ?」

と聞いてきて、さすが吉原さんは話が早いと思った。

今また家と一緒に移動生活をしていると言う話をしたら、

「ああ、またやってんのか。」

「いま、細野さんのところにいまして」

「じゃあこっちこいよ」

「吉原神社に一晩泊まってもいいですか」

「別に構わねえよ。じゃあ神社に言っとくわ」

 そして最後は「はいどうもー」と言ってすぐに切る。泣ける。。これぞ東京の下町だ。さらに出がけに、細野さんから「いま飲み物を届けるから!」というラインが届き、大量の飲み物とおつまみ的なお菓子を持ってきてくれた。ちょっと重すぎるので、人にあげたりして重量を減らした。

それで絵を描き終わって歩き始めて割とすぐに

「えーちょっとちょっとちょっとちょっと!」

という声が左から聞こえ、自転車が停まり、子供を連れたお母さんが「いま、Tシャツ着てるんですよ!ちょうど今日着てるわと思って。写真撮っていいですか」と言いながら話しかけてきた。

 なんと世に30着くらいしか出回っていない僕の手刷りTシャツを着ている人だった。3331で買ったらしい。3331のことを「秋葉原にあるデザインの場所で・・なんだっけ」と言っていて、3331に来る客の多様性を見た気がした。

 吉原神社に着いて、宮司さんの奥さんに怪訝な顔をされたが吉原さんがきて「ここで野宿したいっていうからよ。」と言ったら一瞬で雰囲気が変わり、奥さんも「一泊?ちょっと宮司さんに言っとくわ」という感じになった。ちなみに僕はこの神社の入り口にある「逢初め桜」の看板の作者でもある。

その日たまたま吉原弁財天で絵を描き直しにきていた林と服部と合流し、吉原さんの計らいで彼女たちを含む6人で夜はふぐ料理屋へ晩御飯を食べにいった。しかしふぐはなかった。合流した細野さんが店のおばちゃんに「サンミツになっちまうな」と言っていた。

 翌16日。吉原はソープ街なので、じっくり仕事ができるオフィスが近くにない。オフィスが近くにないと、やたらとうろうろしてしまう。僕はタイムズカーシェアのメンバーなので車を短時間借りて、駐車場から動かさないまま中で過ごすことでオフィスとして使おうとした(我ながら現在の都会的なアイデアだ)が、ちょっと予約のタイミングとカードタッチのタイミングで行き詰まり、電話してるうちに時間が経ったので諦め、副カフェをオフィスに。スムージーを注文して、ドリンクのみの注文は一時間以内のご利用でお願いします、というプレッシャーのもと、絵の続きを描いた。他に客はあまりいなかったのだけど、普段は混んでいる店なので、その対応なんだろうと思う。とにかく一時間(土日休日は30分)という線引きに、都会だなあと思うし、すこし悲しさも感じる。金を払わないと、風を凌いでテーブルを使える場所は少ない。とりあえずこのあたりにはない。

歩いていると

「おはようございます!どうですか~」

とか

「どうぞー。案内所どうですか~」

とか、ソープランドのキャッチの男性に声をかけられまくる。僕が見ため男なので、というかそれだけでめちゃめちゃ声をかけられる。昔ここで「吉原芸術大サービス」というアートイベントをやった時にここを初めて訪れた女友達は、数は少ないけどじっと体を弄るようにこっちを見てくるキャッチの人がいて、品定めされてるようでちょっと嫌だと言っていたのを思い出した。

 散々歩き回りながら絵を描いたり、公園でぼーっとしたりしたあと、「芸術大サービス」のときに大変お世話になった中谷さんという人がやっている「能登屋」というお蕎麦やさんでお昼ごはんを食べた。蕎麦と親子丼。親子丼には肉のコロッケ付き。中谷さんは元気そうだった。食べおわってお金を払おうとしたら女将さんに「もう中谷さんにもらったから」と言われ、厨房で忙しそうに走り回っている中谷さんに「払いますよ」と言っても「次もらうから」といって聞かない。「これ宣伝しといて、三重塔、いとこが作ったから。」と言われたので宣伝する。

 中谷さんのいとこにあたるソバジマさんという人が作ったものらしい。サンプルで作ったものだというなので実在する塔ではない。横幅6尺、高さ4メートルくらいあるらしい。修行してこう言うものが作れるようになったが、この技術を活かす場所を探しているとのことだった。

 吉原は、端からみるとソープ街一色という印象だけれど、当然普通に暮らしてる家族もいるし、今は江戸時代でもないので地域は一枚岩ではない。当たり前だ。何にも言えることだろうけど、場所について何かしらの情報を得ると、僕たちはその地域をまとめて一括りにしがちだけど、どんな地域であれ一括りにはできないなと、吉原で親子連れとすれ違いながら思った。

 うろうろして神社に戻ってきたら、なんと近所の光武さんという人が朝ごはんを届けてくれていた。もうお腹いっぱいだったので後で食べることにする。

 「SOOO dramatic」の今村さんは、3時ごろにはそこにいるとのことだったので、昼の2時半ごろに吉原神社を出発しようと思ったのだけどやたら風が強くて、一旦出発を断念した。iPhoneで調べたら瞬間風速30メートルくらいの日だった。しかし吉原神社には一泊ということで言ってあるし、どうしようとうろうろしていたら宮司の奥さんが「大丈夫?」と聞いてきてくれた。そして僕の家が置いてある神社の裏を指して「風があんなにピュービュー言ってるのはあそこだけじゃないか」

いうアドバイスをくれた。ここは背の高い病院のそばということもあり、いつも風が強いらしい。「ちょっと様子見てきます」と言って神社の外に出て、近所を歩きながら風を観察してたら、あの奥さんの言ってたことは正しいことがわかった。外も相当風は強いのだけど、神社の境内ほどじゃない。さすがいつもここにいる人なだけある。

 ということで15時半過ぎに、頑張って神社を出発することにした。入谷のSOOO dramaticまでは1時間くらいだし、多少風が強くてもなんとかなるだろうと思った。しかしこれが甘かった。1年ぶりに家を動かしたので、風に対する感覚が鈍っていたのかもしれない。出発して5分もしないころ、国際通りという大きな道路の横断歩道を渡っている最中に大変な事になった。突風が吹いて、中で家を背負っている僕は左にぐっと押されたと思ったら、事態が飲み込めないまま、家の左側の屋根が風で押されて剥がれ、割れ、左下の木のフレームが折れ、歩道を歩いているおばちゃんの「大丈夫?」という声が聞こえたかと思うと瓦が何枚も飛んでいった。あれよあれよと家が空中分解した。時間にしてものの5, 6秒。アベンジャーズ インフィニティ・ウォーのサノスの指パッチンで灰になって消えていく人々みたいに。外から映像を撮っていたらさぞ面白い絵が撮れていたと思う。

 やばいやばいやばいやばいと心の中でつぶやきながら、ドアと、前の壁と、右側の屋根だけになった、もはや家とも呼べないものを背負って(もう風の抵抗をうけないほどスカスカになっている)とりあえず国際通りを渡りきり、路地に入って電信柱の裏に壁と屋根1枚だけになったスカスカの家を置いて、飛んで行ったパーツたちを拾いに走った。すぐ近くの工事現場で交通整理をしていたおじさんが、屋根の一部を持って「大変だな。またやりなおさねえと」と言いながらこちらに歩いてきた。なんて良い人なんだと思いながら「ありがとうございます!」といいながら他のパーツを拾いに走った。瓦とか、屋根の一部とか、壁の一部とか、寝袋を入れてある丸めた銀マットとか、どっかの棒とか。おじさんも「なんぼか飛んで行ったわ」と言いながらパーツを持ってきてくれた。

 拾って電信柱のそばに置いて、また他のものを拾いに言っている間に置いたものが飛んで行って、それを拾って、みたいにしながらなんとか目に入る全てのパーツを集め(こうやって壊れた家のパーツを集める夢を昔みたことがあるなと思いながら)、頭をすごいスピードで働かせ、いまこそタイムズカーシェアを使う時だと思い、しかしこのパーツたちをここに置いておいたらまた風で飛んでいってしまうのではと思って数分間ウロウロしていたら、また交通整理のおじさんが近づいてきたので、

「すいませんが、車を持ってくるので、これを見ておいてもらえませんか?」

という言葉が僕の口をついてでてきた。普段ほとんど場合言葉を口にする前に一旦止まって頭で考えてしまう癖があるんだけど、このときはまさに口をついてでてきた。そしておじさんは茶色いせんべいを口でもぐもぐとしながら「あ、これ見とけばいいのねおっけー」みたいに言ってくれた。やはり下町は最高だ・・。

 幸い近くにカーシェアのステーションがあった。タイムズが日本で勢力を拡大してくれていて本当に良かった。とか思いながらブラウンのソリオを借り、現場に戻ってきて窓越しにおじさんにお辞儀をしたらおじさんがなぜかビシッと敬礼して、すっと自分の持ち場に戻っていった。

 しかし家が大きくて、このままではソリオに入らないという問題が発生した。分解しようにも、ドライバーを持っていないのでできない。そこでiPhoneで「100円ショップ」と検索し、そこから1キロくらいの入谷駅前に100円ショップセリアを見つけ、本当はダメなんだろうけど、家をトランクに押し込み、30センチほど突き出ているせいで閉まらないトランクのドアをシートベルトでどうにか半開きで固定し、家が飛び出したトランク半開きの状態でハザードランプを焚きながらゆっくりソリオを数分間走らせて入谷駅ちかくの路地まで走らせ、車を降りてダッシュでセリアに突入して「ドライバーはどこですか?」と店員に聞き、「3番通路です」「ありがとうございます」と3番通路に突っ込み目についたプラスドライバーをひとつ掴んでレジに走り、110円を払って車に戻り、トランクの中で家を解体して車に収めた。

 それでソードラマチックのイベントスペースに家を運び込み、今村さんと合流して事情を説明し「今日は近くのゲストハウス(tocoという最高の宿があると教えてくれた)に泊まり、明日1日かけて家を修理する」ということになった。このビルのオーナーさんも、ものすごく良い人で、金曜まではイベントがないからということで使わせてもらうことができた。それでその日はtocoで一泊。ヨーロッパからの旅行者と、日本人の大学生らしき宿泊客でそれなりに賑わっているように見えたのだけど「賑やかですね」と宿の人に話を聞いてみたら、ここもやはりCOVID-19の影響でアジアからの旅行者がいなくなり、全体としてはいつもの半分くらいの宿泊者数になっているらしい。庭が良かった。ドミトリーで2200円くらい。チェックアウトのときにリビングを通ったら就活生らしき宿泊者の子がエントリーシートを書いていた。

 17日の9時ごろから補修作業を開始。昨日までは車を借りてここまで運ぶので精一杯だったので、余裕がなかったのだけど、今日改めて見ると見事に大破している。暴風災害による「全壊状態」と言っていい。最初どこから手をつければいいかわからなかったけど、とりあえず屋根からやっていくことにした。セリアで白ガムテープと、ペンチと、針金と、金具と発泡スチロール用接着剤(売っていて助かった)を買ってきて準備完了。屋根の片方は下地3つのパーツに割れていたのでまずはそれを1枚にくっつけなければいけない。瓦を外して、下地を露出させ、発泡スチロールの割れ目に接着剤を塗り、くっつけてガムテープを貼り、下地が1枚になったら再び瓦をつける。瓦が何枚も飛んでいってしまったかと思ったけど、幸い1枚なくなっただけだった。他にも行方不明になったパーツは特になかったけれど、光武さんにもらったパンとミカンはどこかに吹っ飛んでしまった。すいません。屋根を直したあとはドア側の壁。これも3つのパーツと一本の棒に別れてしまっていたけど、金具と接着剤とガムテープでなんとかした。他の壁2面もひどい有様だった(歩く時に正面にあたる壁は無傷だった。この壁だけが無傷だった)けど、同じように100円ショップで買ったものでなんとかした。補修が全て終わった頃には16時になっていた。7時間。しかし全壊状態から、百円ショップで買ったものだけで7時間補修したら再生するというのは、結構すごいことなのではないか。こんな家は他にないんじゃないか?

 直した家をソードラマチックの前にあるウッドデッキに移動させ、今夜はここで眠る。

Posted by satoshimurakami