8月5日13時34分、昨日受けた西田幾多郎レクチャー「無の哲学」

最も重要で、制作論としても考えても面白い概念

●純粋経験
「風がざわざわいえばざわざわが直覚の事実である。風がということもない。事実には主語も客語もない」
風で木がざわざわしているのを見た時、そこにはただ「ざわざわ」だけがある。私が、とか、木が、とか、風が、とか、主体と客体の区別はなく「ざわざわ」だけがある。さらに言えば
「花を見た時は即ち自己が花となって居るのである。」
このような経験の"後"に、主客がわかれるのである。経験の段階では、主客はわかれない。
これはデカルトへの批判でもある。「コギト」には「私」が他から切り離された存在であるという前提がある。ものが先行してある感じ。砕いて言えば「名詞族」である。対して西田はいわば「動詞族」で、これは「万物は流転する」「同じ川には入れない」などの言葉で知られる、イオニア自然哲学のからの影響がある。矛盾を孕んだ自然という全体を考えるという冒険。
・鴨長明も方丈記で似たようなことを言っていた。
・アリストテレスのカテゴリー論を参考にしつつ、「ものが存在するとはどういうことか」を考えていく。
「りんご(という特殊)」は「果物(という一般のなかにあるもの)」である。「果物」は「植物」である。「植物」は「生物」である、というふうに、何かは何かを包んでいるし、同時に何かにつつまれている。存在するとは、そのような、包み包まれる「場所がある」ということである。そのような場所がないものは、存在しない。
しかし、この「一般」という概念をどんどん遡っていった最後のものには、それを包む「一般」がない。例えば「生物は存在である」→「存在は〇〇である」の〇〇を考えるのは難しい。
しかし、先ほどは「場所がなければ存在しない」と言った。では、それは存在しないのか?そうではない。
「最高の一般概念は何処までも一般的なるものでなければならぬ。如何なる意味に於ても特殊なる内容を超えたものでなければならぬ。・・・。すべての特殊なる内容を超えた物は無に等しき有でなければならぬ。真に一般的なるものは有無を超越し而も之を内に包むもの、即ち自己自身の中に矛盾を含むものでなければならぬ。」
(この「無に等しき有」という概念を、荒川修作が「死なない」と言ったことに絡めて考えたら面白いのではないか?)

Posted by satoshimurakami