12月18日

9時51分。携帯で夢のなかを撮影することに成功し、その動画を見ていたのだが、それも夢だった。

午後、地点の『ノー・ライト』を観に行った。『光のない。』のマルチリンガル版なのだけど、超えていたように思う。観る前は正直、あれ以上のものが可能だなんて思っていなかった。
『光のない。』の記憶が、あの演劇の凄みを見せつけられた衝撃が、開幕しょっぱなの「わたしたち〜」という役者から観客への呼びかけで鮮明に蘇ってきて、そのあと「わたし、たっち?」という、イントネーションをずらした発語で、ああ、僕は今こういうものを必要としていたのだと、またあのときと同じように思えた。とんでもないことを、現実の空間で実現させようとしている、という気概を感じただけで、なんだか涙がでてきて、最初の10分くらいはずっと涙ぐんでいた。
放射能という、見えないけどそこにあるもの、あるいは情報としては見えるのだけど、どうしても現実的な存在を感じられない遠くのニュースのこととか、被災者や、最近だと戦争やウイルスのことなど、「みえる みえない」「きこえる きこえない」にまつわる具体的なものごとから、空に舞い上がるように、抽象的なものへと書き換えていく手つき。
あれだけ印象的なセリフがたくさんあったのに、終わってみるとほとんど思い出せず、ただ、ものすごいものを見たという感慨だけが残るような。そして、それが大事なんだと思えるような。字幕として投影されたテキストを追いながら、わかる↔わからないを無数に反復し、その果てに、理解できるできないとか、そういう問題ではないところまでつれていってくれて、最終的に「完全になにかがつたわってきた」と感じられるような、それもわたし一人に伝わってきたと思えるような、私を信じてくれてありがとうと思えるような、魔法の時間。大砲にこめた抽象概念そのものをくらったような。途中何度も正体不明の感動で涙がでてきた。人間は表現を通してここまでのことができるのかと。バイオリンケースの使い方も、役者の配置やポーズ(特に片手を上げて、わたしたち〜と呼びかけるポーズ)や舞台の空間や衣装もよかった。主演の人たち、同じ人間、同じ空間を占めている動物とは思えないほどだった。なにかがおりていた。足だけ出して上半身埋まって声だけ出してた声楽のみなさんもほんとうに素晴らしかった。マルチリンガルという、役者の発音のつたなさがマイナスになってしまいそうな手法が、母語である日本語もイントネーションをずらしているこの劇のなかではむしろプラスに働くことも発見だったし、そのような技術を、観客を信じてきっちり、でもさりげなく使うこと、演劇の魔法をかけ続けることに注力されていた。この、抽象的なことを観客を信じてやり遂げる気概は「誰かいませんかー」と呼びかけるセリフにも象徴的に現れていたように思う。今年を締める作品としてはこれ以上ない。芸術は、やる価値があるものなのだと背中を押してくれる、消えない炎みたいな記憶。
加えて、鑑賞後に内田と話していて出てきた話題。マレーヴィチの『太陽の征服』という舞台美術のスケッチと、今回の美術の精神が似ている。
太陽を消すこと→光がないこと
遠近法への抵抗→窓(テレビ)の向こうに映る世界とこの場所との、遠さと生生しさの共存(→つまり、抽象と具象の共存。テキストは抽象が可能だが人間の体は具象なのでテキストを上演する演劇は、その融合というか乗り越えを前提として引き受けている)
奇跡的な一致に思う。舞台美術の木津氏は『太陽の征服』を知っていたのか?知っていてもいなくてもおもしろい。

Posted by satoshimurakami