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国際芸術祭「あいち2025」で、バゼル・アッバス & ルアン・アブ⹀ラーメ、バラリ、ハイカル、ジュルムッド(Basel Abbas and Ruanne Abou-Rahme with Baraari, Haykal and Julmud)のパフォーマンスを見た。パレスチナルーツのアーティストたちで、音楽と声と映像(最近のパレスチナで撮られたものらしい)のパフォーマンス、と言えばいいのか。会場が地下のクラブで、フロアは暗く、客は酒を片手に体を揺らしていて、バゼルたちも客席を煽るように腕を振っていたので、僕もいわゆる「クラブ」に来て楽しく踊るような需要の仕方をしていた。傍目にはクラブに遊びに来ているお客さんと舞台上のミュージシャンたちという構図。これが芸術祭のイベントだとは、事前情報がない人にはわからないかもしれない。でも、いわゆる「クラブイベント」ではなかった。

ステージ上には3人いた。1人は座って主にPCを操作しながらたまにマイクで声を乗せる。これがバゼル。もう1人は立って体を揺らしながらマイクで声を入れたりラップをしたり歌ったり、同時にときどき機材をいじって音も操っている。そして3人目は、2人のうしろで踊ったり、手を叩いたり、2人のパフォーマンスにマイクで応答したりと、賑やかしをしている。この3人目の存在がよかった。

むろんパレスチナはいま現在凄惨な状況で、そのバックグラウンドについて多少は頭に入れた上で僕はパフォーマンスを見ているので、いろいろなことを考えてしまうという影響もあるとは思うけど、ちょっと異様な体験だったので保存しておく。

序盤は僕も最前列で楽しく踊っていた。まわりのひとたちもときどき歓声をあげつつ、楽しそうに体をゆらしている。しかしだんだん「踊る」という需要の仕方が果たして正しいのかわからなくなっていった。バゼルたちは客席を楽しませているように見える。しかし同時に、フロアの盛り上がりなど自分たちには関係ないかのような、そんな態度も感じとれた。バゼルはときどき自分のスマホでパフォーマンスの様子を撮影していたけど、その対象は客席ではなく舞台上の自分たちだった、ように見えた。客席と舞台との距離は1、2メートル程度しか離れてないのに、じっさいに行こうとすると何十年もかかってしまいそうな、踊れば踊るほど、自分とバゼルたちとでは置かれている状況が全く違うということを思い知らされるような。それでも、これだけの距離で隔たれていても、舞台上で音が鳴れば客たちは踊り、楽しむことができるという、音楽という形式の懐の大きさへの感動もある。芸術はこのためにあるよなとも思った。遠さと近さが同時にあった。異様な時間だった。踊りながら、本当に踊っているのかどうかがわからなくなっていった。「世界」は、ひとりひとりそれぞれの方法でしか広がらないのだと思った。僕はあの異様さに打ちのめされることで、世界の「外側」に触れた気がする。たぶん。自分という湖に新しい水路が通じてしまって、山から降りてくるその冷たい水が流入部をすこしだけ冷やしてしまうような感じ。仮に20代前半とかで作品がめちゃくちゃに売れて世界中を飛び回るようなアーティストがいたとしても、そのひとにはそのひとの世界があり、その広さはそのひと固有のもので、現実の物理的な世界の大きさとはあまり関係がない。それぞれのひとに世界の狭さがあり、広さがある。大事なのは湖の大きさではなく、新しい水によって流入部がすこし冷やされること。世界の広さはそうやってしか感じられない。じっさいに身体が移動しているかどうかにかかわらないところで、世界は広がったり縮まったりしてしまう。ひとはみんな忙しく、それぞれの世界に身を置いて精一杯生きているので、その広さは他人と比較できない。さみしくなってしまった。いったんそうなってしまったら、芸術祭に来ているお客さんたちがあちこちで再会したり、新たな人との出会いのなかで楽しそうに話している会場内の光景がすべてさみしく感じられてしまい、いたたまれなくなった。

Posted by satoshimurakami