12月3日今年気がついたことのメモ
⚫︎複数人でひとつのプロジェクトに取り組むさいに、それを進めるなかで起こるひとつひとつの物事/出来事に対して、「できる・できない」だけでなく「やりたい・やりたくない」といった暗黙の判断基準を仲間内で共有できていること(もっと単純に言えば「バイブスがあうこと」)が、チームとして楽しく活動するためには重要だった。「いますぐやったほうがいい/やったほうがいいけど、後回しにしてよい/今必要ではないけどやりたい/必要だけどやりたくない」などの細かい選択肢をひとりひとりがリラックスした状態で選択できたほうが、創造的にプロジェクトを進められる。
→「これができてないです」と人に指摘したり、「これができてなくてごめんなさい」と謝ったりするのは、プロジェクトを円滑に進めるためには仕方のないことかもしれないが、すべてをその基準にあてはめてしまうと、最終的には人間の価値は「できる」と「できない」だけで測れることになってしまう。すると「できない人」が発生してしまう。「できる人」「できない人」という二項対立ではない状態に持っていくこと。つまり「ありがとう」「ごめんなさい」だけではない関係を作れるかどうかが肝。
→心がリラックスした状態のほうが、創造的な気持ちでいられる。この意味で、「反省」は時に毒になる。スターバックスで支払った100円がイスラエルでミサイルに代わっているかもしれない、ということを椿昇から10年ほど前に教わったとき、私は自分の無知に愕然としつつも、「そういったことを知るのはおもしろい」と感じられた。おもしろいと思えたから、この問題を自分ごととして考えられた。「反省しろ」と糾弾されていたら、私の心は萎縮してしまって、自分の問題として考えるのは難しかったと思う。飼い主の顔色を伺う犬みたいに、自分の言動に「間違い」がないかということばかりを気にしてしまい、ついにはぷっつんと切れてしまって、「うるせえ好きにやらせろ!」と怒り出していたかもしれない。反省ではなく、「発見」とみなしたほうが、主体的な(つまり創造的な)心持ちでいられる。なによりも、心が萎縮しないことが重要だった。そのほうがいろいろなことに気がつける。
⚫︎美術館や芸術祭における「ラーニング」の役割がひとつはっきりした。まず「集まることが重要だ」という暗黙の前提がある。そして人が集まる口実に芸術(作品)を「使う」のがラーニングである。あるいは、「作る」という営みを「作家」だけのものにしないための実践である、とも言える。
→出自や年代、価値観の違う人どうしが集まるには、まず“共通の話題”が必要である。芸術作品はその役割を自然に担ってくれる。なぜなら芸術家は、私たちがふだん見過ごしている社会や人間の問題を、作品というかたちで「問い」として提示する専門家だから。そして、その問いには正解がない。なので、誰も間違えることがない。だからこそ、「ここが面白い」と話し合えたり、同じ手法で何かを作ってみたりするにはもってこいだった。
→その対話や体験は、社会の問題を自分の言葉で考え、自分ごととして捉えるための練習になる。小さな“自分の問題として考える”ことの積み重ねが、やがて自分が住む街の出来事を、他人事ではなく自分の延長として考える力につながっていく。芸術の力を民主的なものに解きほぐしていくイメージ。
⚫︎29日の「あいち」のイベントでの発見。グループディスカッションのような場でのファシリテーターの責任の大きさ。
共通のテーマがないまま、初対面同士でグループディスカッションを始めてしまうと、「自己開示」になりやすく、本人も実は望んでいないほどの自己開示を自分でやってしまうことにつながったりする。前段のレクチャーを受けての感想シェアという立て付けはよいが、最初に「なにについて話すか」をグループ内で決めておくべきだった。