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久々の珈琲貴族エジンバラにて、本を読みたいのだけど向かいの席でなにやら打ち合わせをしている男性二人組の会話が耳に入ってきてしまい、なかなか本に入り込めない。頻繁に「現代美術」というワードを発していて気になってしまう。さらに「コ本やでイベントやったときには…..」「高山明さんが……」「小森瀬尾の映画が……」など、作品をよく知っている作家や友人の名前まで飛び出してきて、いよいよこれは知り合いの知り合いくらいのアレっぽいぞ、という確信を得てからは、ぜんぜん集中できなくなってしまった。イヤホンをしてApple Musicで「ホワイトノイズ」と検索して大音量で流してみたが、声は突破してきた。たまらず荷物をすべて席においたまま一旦店を出て、向かいのマルイアネックスに入っているドラッグストアまで走って耳栓を買ってきた。
新宿から吉祥寺に電車で移動。混雑している電車、やはりなかなかきついものがある。大町に慣れた体には他人が近すぎる。なぜきついのかを考えてみた。「車内で何かよくないことが起こるかもしれないという予感のかけらのようなもの」が私を疲れさせるのではないか、という仮説が生まれた。
吉祥寺シアターにて、円盤に乗る派『いまのところまだ存在しているわたしのたましいが……』を見た。円盤に乗る派は『仮想的な失調』以来だなと思って行ったら、前作がそれだった。100分があっという間だった。まだうまく飲み込めないけれど、きっとこの先もずっと覚えているであろう、変な作品だった。いびつなオペラのような。説明的なせりふの連続。見れてよかった。と同時に、どこか苦しそうな印象も受けた。現実がいよいよ暗黒時代みたいになってきているなかで、この作品を見られてよかった。それと久々に演劇を見て、舞台に奥行きがあるという当たり前の事実に感動した。手前に人がいて、奥にも人がいた。目の前で生身の人間が動いて、喋ってくれていることに感謝の念が湧いた。ディスプレイやスクリーンと違って、自分の位置から見えない部分があったり、席によって見え方が違うことが新鮮に映った。小説のことも考えさせられた。小説はシーンの連続によって全体を浮かび上がらせるけれど、全体を貫く道が一望に見渡せる見晴らしの良い場所があるわけではない。ひとつひとつのシーンが全体であり部分でもあるような魔法がときどき起こる。劇場で三人の知り合いに会い、東京だなあと思った。アフロヘアの友人の後ろの席だったので、「この頭、もしかしてと思ってたけどやっぱりそうだったか」と言ったら「ああ、僕の頭で見えませんでしたか?」と笑っていたのがとてもよかった。ひとつの、演劇を見るよろこびだった。
帰り。電車に乗るのが面倒で、シェアサイクルでつつじヶ丘まで帰った。信号待ちをしているとき、道路工事の交通整理をしている腰の曲がったおじさんが近づいて来て、「そのライト明るくていいなあ」と話しかけられる。演劇が続いているようだった。「ああ、明るくていいっすよねえ」と返す。「おれのライト暗くてなあ」とおじさんが言うので「ライトは明るい方がいいっすよ」とアドバイスをしてみた。「明るいの、あんま売ってなくてなあ」とおじさん。「ああ、そんなもんですかねえ」と私。信号が青に変わり「じゃあ、失礼しまーす」と自転車を漕ぎ出すとおじさんは大きな声で「あい!どうもー!」と送り出してくれた。その言い方が妙に慣れていて、こういう挨拶を日々交わしているのだろうなと思った。