文は、読むときによって自分と近づいて同期したり、ものすごく離れたりする。自分で書いたものに関しては、書いた後しばらくの自分はその文章に近いところにいることが多い。いま保坂和志のカンバセイションピースを持ち歩いてときどき読んでいるけど、いまその文体と自分がとても近いところにいるらしく、するすると読める。

道の駅の人に「古里温泉郷」について聞いてみたら、「昔は賑やかだったけど今はもうさびれちゃって・・。」と言う。日帰りで入れる温泉もありますかねと聞いたら、あると言われた。多分夕方4時くらいから入れるんじゃないかと。古里温泉郷は、画家のNさんから「昔現代アートの連中か何人か雇われて来て地域活性をしようとしてたけど、よそもんがちょっときてどうにかなる話でもないからな。なんともならなかった」というような話を聞いていたものあって気になっていたので、次はその辺で敷地を探してみようと思った。ふるさと温泉郷は道の駅から10キロくらい東にすすんだところにある。

道の駅の駐車場を出発しようと、家の窓を開けたら、窓の桟に黒い火山灰が積もっていた。わずか一晩で。やっぱり灰は降ってないようでいて降っているらしい。お昼過ぎに道の駅を出発した。道中、右手に海で左手に桜島の山が見える景色が続いた。海沿いに集落がいくつかあったけど、空き家らしき建物も目立った。桜島は過去の何回かの噴火で、村や神社が飲み込まれたりしている。そして噴火のたびに新しい地面ができ、その上に新しく村や神社ができる。いまこの文を書いているふるさと公園のあたりも、安永溶岩という地盤の上にできている。そうやって火山と一緒に生活してきた。そういえば三宅島もそうだった。

ふるさと温泉郷について、まず目についたのは2軒の潰れたホテルだった。幹線道路から一本入ったところに旅館が並んでいる奥入瀬渓流温泉郷と違い、ここは国道沿いの、海側のみに観光ホテルが並んでいる。2軒のうち1軒の駐車場には「古に思いを込めて~溶岩で灯篭をつくりました」と書かれた看板と、溶岩でできた黒い大きな灯篭が立っていたが、逆にそれが寂れた雰囲気を演出してしまっていた。この場合、古よりも先に現在のことを考えるべきだったんじゃないか。

潰れたホテルを通り過ぎたら大きな空き地があった。たぶんここにもかつてホテルがあったんだろうと思う。その向こうに「源泉掛け流し」というノボリが2本立っていて、ようやくほっとした。道の駅で聞いた通り、どうやらまだ営業しているホテルがあるらしい。ノボリはその向こうのもう一軒のホテルの前にも立っていた。どうやらこの2軒が生き残っている。その向こうから先に建物はなかった。正確には一軒の小さい木造小屋の廃墟(ほとんど全壊状態)と、建設会社の仮設事務所以外は、原っぱがひろがっていた。ここらにも昔はホテルがあったんだろうか。

家をとりあえず路上において、今夜はどこを敷地にしようかうろうろしていたら民家から(ホテルが並んでいる海側と違い、山側の方は民家がいくつか並んでいる)出てきたおじさんから突然「お茶やるよ」と言って500mmペットボトルのお茶を差し出された。お茶は蓋が開いていて、中身もすこし減っていた。「これはちょっと飲めないな、、」と思ったけどおじさんはあげる気満々なのが伝わって来てしまい、受け取ってしまった。

「あんた、あの白い家しょって歩いてた人だろ。生まれは?」と聞かれたので「東京です」と答えた。

「今夜ここらへんで寝ようかと思ってるんですけど、そこのホテルって日帰りで温泉入れるんですかね」

「日帰りで入れるよ。寝るならこの上で寝な。公園。あれがあるから、屋根が。そんでそこからすぐ道路に降りられるから。」

というアドバイスを受けて、その”ふるさと公園”という公園の東屋の下を敷地にした。

家をおいて、暗くなるまで絵を描いていた。「ふるさと公園」は林芙美子という作家の銅像と文学碑が建てられている。なんだかんだ観光客らしきカップルもちらほら来ていた。彼らが話す言葉は日本語だったり韓国語だったりした。心配事がひとつあった。僕はいま現金1000円くらいしかもっておらず、しかも付近にホテル以外の施設が何もなさそうだった。ホテルも外から覗いて見える範囲には食べ物が買えそうな売店はなかった。食料が調達できないかもしれない。いま手元には、道の駅を出発する前に桜島港の売店で念のために買っておいたおにぎりがひとつあるだけだった。

暗くなって気温が下がり、絵を描くのをやめてしばらく国道沿いを、さらに東のほうまで歩いてみた。売店かコンビニか何かないかと思ったけどその気配は全く感じられなかった。ただ、観音橋という大きな橋があり、その下に昔溶岩が海まで流れてそのまま固まったような綺麗な河口が見えた。

そのあと桜島シーサイドホテルというホテルで日帰り風呂。500円だった。売店はなかった。風呂場には他に2人の男性客と、奥の露天風呂から子供の声がして、一瞬男の子の姿が見えた。なんだかんだ宿泊客もいるらしい。しかしこの子供が不思議だった。僕は風呂場にはいってすぐにシャワーで体を流して、一回室内の風呂に浸かって、そのあと露天風呂のほうに移動したらその男の子がいなかった。出て行くところは見てないので、露天風呂にいると思ったらいなかった。もしかしたら、塀を越えて女湯の方からきていた子なのかもしれないけど。でも塀もそんな簡単に越えられそうな高さでもない。不思議だ。

泉質は道の駅で寝た時に使った桜島港の国民宿舎の温泉と同じく、茶色でちょっとどろっとしていてしょっぱい。風呂を出て、何人かの宿泊客とすれ違ってホテルを出た。出がけに、ホテルの従業員のおばちゃんと話した。

おばちゃんの話だと、隣のホテル(たぶん、あの空き地のことを指している)は10年くらい前に潰れた。その向こうのホテルがとっても大きいホテルだったんだけど(たぶん空き地の手前にあった「ふるさと観光ホテル」を指している。溶岩の灯篭があったホテルだ)、それが5,6年前に潰れた。

「今は二軒だけです。二軒だけで頑張ってるんですけど。」とおばちゃんは笑っていた。

「ふるさと観光ホテル」は多分この地域では重要なホテルなんだろう。ふるさと公園に「火の神神社」という小さな神社があるのだけど、その案内板のテキストはふるさと観光ホテルの会長が書いていた。案内板には、御岳の沈静化と、家内安全・無病息災・旅人の安全を願い、神事を観光ホテルの敷地内で毎月行なっていると書かれている。

シーサイドホテルをでて、その隣の「さくらじまホテル」に入って見た。売店があった。ロビーで「ちょっと売店をみせてもらっていいですか」と言うと、従業員のおじちゃんが「たいしたもんないですけど!食料なら道の駅がいいですよ」と、ここから8キロくらい東にある道の駅のことを言う。

「ちょっと向かいの公園で一泊するもんなんですけどね。ちょっとみてもいいですか」

「ああ。お車じゃないんですか。車だったらねえ、コンビニまでいけるんですけどねえ。歩きだとねえ。もう最近はさびれちゃって。小学校も無くなっちゃったんだから。ここには黒砂糖とかそんなもんしかないですよ。」

売店には溶岩で作られた焼き物(とっくりとかおちょことか)が売っていて、すこしだけおつまみのようなもの(ピーナッツとかスニッカーズとかチョコとか黒砂糖とか)もあった。そこで残りの500円を使い、スニッカーズ1つと貝ひものおつまみ1つを買った。おじちゃんは「さくらじまホテル」と印刷されたビニール袋に入れてくれた。この袋は大切にしようと思った。ぼくはホテル内にあるだろう自販機でビールが買えるはずだとふんで貝ひものおつまみを買ったのだが、ビールは300円だったので買うことができなかった。なので昨日の夕食はスニッカーズと貝ひものおつまみで、おにぎりは次の朝ご飯にした。

看板は人に泊まってもらい、そのあいだその人にお金を払う期間をつくったらいい。夏の間とか。エアコンは必要だな。一体型のやつ。

My love she speaks like silenceという素敵な歌い出しから始まるBob Dylanの曲を聴きながら歯磨きが終わった後そのまま、家が置いてある道の駅から離れて桜島港まで降りていって、数キロしか離れてない対岸の鹿児島市の夜景と、その光に向かって出航するフェリーを眺めて、あの対岸には橋口さんや、山下くんや、未来美展で過ごした時間や出会った人たちがいるのだと感じて、女木島から見た高松の夜景に似ているなと思い、高松に住んでいたころの自分や、当時一緒に暮らしていた人や高松で出会った人たちがあの夜景の中にいると感じたりして、またこれまで出会って別れていった人たちや、これから新しく出会ったり、また再会したりする、そういうあらゆる人たちの存在を光の中に感じていたのかもしれないとにかくそれらのせいで、ぼくはものすごく幸せだった。Bob Dylanのその曲は、彼の友人の結婚式のために作られた曲(本当に最高だ)だということも相まって、なんともこらえきれず鼻歌を歌ったりスキップをしたりしてしまった。ここでさっき買った黒伊佐錦(鹿児島の定番芋焼酎)のワンカップがあれば最高だなと思ったがあいにくそれは家に置いてきてしまって手元になかったけれど。この時間とイメージは誰にも邪魔されない。こうしている間にも火山灰は気づかないくらいゆっくりとこの体に積もっているんだろうと思ったが、火山灰がこの体の形に積もってくれていることが、何かを証明してくれているようでそれも幸せだった。ようは気持ち次第なのだ。

しかしあとになって冷静に考えてみると、鹿児島港から15分の距離にもかかわらず、鹿児島の市街からは全然違う、うら寂しい風景(あえて言う)がひろがり、過疎化している桜島は、女木島と重なる部分がある。海を隔てている。ということは、それがどんなに短い距離でも、そこに遠さをつくってしまうらしい。かといって、桜島と鹿児島港の間に橋を渡すべきだとは思えない。

昨日は家を画家のNさんの家の向かいにある空き家に置かせてもらい、僕はユースホステルに泊まった。Nさんの提案でそういうことになった。結局宿代も夕食も払ってもらってしまい、いろいろお世話になってしまった。この恩を僕は後輩に返せばいいんだろう。たぶん。そう言ったらNさんは「こんなの大したことない。まあお互い様だしね」と言った。素敵だ。彼と僕とは50歳くらい違うが、僕も時が来たら同じセリフを後輩に言いたい。
今日朝10時過ぎにユースホステルを出て、自分の家のところに戻り、そこで絵を描いた。描いている2時間余りのあいだ、門の向こうの道路は、自動車が1台だけ通っただけで他には人っ子一人通らなかった。
絵を描いていたら紙がざらついてきた。見えないけれど、火山灰がすこしずつ紙に積もっている。Nさんの絵にも火山灰が自然と練りこまれているんだろう。途中、Nさんがお茶に読んでくれた。

火山灰がな、降ってないようで降ってたり、あと木の上に積もったのが風で舞い上がったりするからな。夏も窓開けたいんだけど火山灰が降る日なんかは開けられん。でも地元の人も口じゃ「火山灰が・・」とかいうけど心では感謝しているしな。
私は桜島が好きで、(25年以上住んでいても)その気持ちはずっと変わらない。その証拠に、ここはいいところですよとか、良い木がありますよとか、いろいろお誘いが来るんだけど、ここから出ようという気にならない。”満ち足りている”。私はよそもんなんだけど、桜島が好きでたまらない人だということで、地元の人も受け入れてくれている。普通田舎は、受け入れてくれなかったりするんだけどな。
でももうちょっとお金があればなあと思う。大きな絵が売れたらそれを(妻と)分け合って、その残りで何年も暮らさないといけないしな。

そして別れた。別れ際に握手を求めたら彼の手が強く握り返してくれた。「お体にきをつけて」と言ったら「お互いにな。目的の遂行のためにはそれが第一だから」と言われた。素敵な作家だ。

Nさんの家から1キロくらい歩いたところにある道の駅に家を動かした。距離にしてたった1キロだけど、別れたので、彼の存在は距離以上に遠くに感じる。道の駅では、敷地の交渉は拍子抜けするぐらいすんなりうまくいった。桜島は観光客が多い。道の駅や、この温泉施設にいるとよくわかる。
僕は家を着いてすぐに絵を描き始めた。絵を描いてるあいだ、ふと右の方をみるといつもそこに桜島の御岳が見える。何度見てもはっとするくらいかっこいい山だ。あのかっこよさ、火山灰くらい常に振らせてくれてないと困る。

以前一郎さんや未来美展の人たちと話した時、なんでいつも噴火してるような山の下で人が生活してるのか、という話をして「気がついたら住んでたからじゃないか」とか言ってたけど、今は、それはよそもんの僕にはわからないだろうと感じる。わからないけど、そこにこういう形で人が住んでいて、これからも住んでいくんだろうなというようにして住んでいる人が現実にいる以上、それは尊重しないといけないだろう。ある土地について、よそもんが、そこに住むべきかどうかなんて議論するのはもしかしたらかなりナンセンスというかやってはいけない議論なような気がするけど、しかし放射能や原発という話になるとそういうあってはならん議論がふきだしてしまうんだろう。そういう議論が生まれてしまうというだけでもそれがあってはならないものだろうということがわかる。例えばここで、火山と海に囲まれてたくましく住んでいる人たちに「そこに住むべきではない」なんていうことをいう権利は神にもどんな人間にもない。

桜島に住むということは、ひとつには火山灰と共に生きるということらしい。コインランドリーが多いのも少なからずその影響もあると思う。雨が降ると道路に積もっている黒っぽい灰がよく見えるようになる。克灰袋という黄色い袋があって、それが道路にゴミ捨て場のゴミ袋みたいに積まれていたりもした。多分そこは”克灰袋”の収集所で、各々の家がこの黄色い袋に灰を集めて捨てるシステムになってるんだろう。しかし”克灰袋”とは不思議な名前だ。
画家のNさんの家の室内も全体にくすんでいるように見え、床も少しざらついていた。洗濯物とか大変じゃないですかと聞いたらそんな毎日降るわけじゃないし、だいたい火山灰は体に悪いもんでもないと言っていた。
いま桜島港のそばにある、”マグマ温泉”という温泉施設の座敷スペースにいるのだけど、この温泉の脱衣所にも「営業時間中に掃除機をかけることがあります。鹿児島の降灰など、特有の事情をご理解のうえご了承ください。」みたいなことが書かれていた。

それにしてもさっきから、30畳くらいあるこの座敷の隅っこの、腰の高さくらいの仕切りで適当に区切られた1坪ほどのせまいスペースの中で女性がうどんか何かをすすっている。こんな客席があるわけないのでたぶん彼女は従業員で、まかないか何かを食べてるんだろうけどいつもここで食べてるのか?なんだかいたたまれない・・。他に部屋がないのか。でもこれで十分なような気もする。座敷にはテレビも置いてあり、そこではいま大相撲が放送されていて、そのテレビから流れてくる歓声にまじってうどんがすすられる音が聞こえてきて不思議な空間だ。そのしきりのすぐ隣では高校生か大学生くらい(就職の話とか飲み行くとかっていう話をしてるから多分大学生だろう)の男の子二人組が寝っ転がって、明日のご飯が豚しゃぶだったら今日豚しゃぶ食べるの嫌だな、という話をしている。他の客もすこし訝しんでその仕切りを見ている。これでいいんだろうな。

ここでは温泉に入りながら、窓の外に錦江湾が一望できる。右下のほうには桜島港が見え、そこから出航する桜島フェリーが見える。さっきなんとなく、窓から鹿児島港のほうをみてぼーっとしていたら、視界の右下の隅でフェリーが、なんていうか、見えない大きな手で船体ごと雑に動かされたみたいに急加速したように見えた。ちょっとびっくりして目を右下に向けたら、もうフェリーはいかにも船らしくゆっくりを海の上を進んでいた。誰にも見られてないと思って油断していたフェリーが、僕に見られていることに気づきあわててフェリーらしさを取り戻していた。

鹿児島にはコインランドリーが多い。やっぱり桜島がある影響なのか。天文館公園の周辺だけでコインランドリーが4店舗もあった。これはとても多い。橋口さんに言ったら「気がつかなかったなあ。でもたぶん昔はそんなになかっと思うよ。最近よ。」と言った。
一昨日の昼に家を預けてある橋口さんの家に戻って、「明日、ミニ門松をつくるワークショップをやる」というので、その材料になる竹を切るのを手伝った。太い孟宗竹を短く斜めに切り、その中に細いホウライチクをすこし長く斜めに切ったものを門松の置き方で3本入れて、そのまわりを植物や折り紙で装飾する。ワークショップには僕も手伝いつつ参加させてもらった。かわいい門松ができたので松本に送った。

そして昨日、お昼下がりに橋口家を出発した。フェリーで桜島へ渡り、そこから志布志方面に歩くことにした。
鹿児島の水族館のそばの港から桜島への船は24時間行き来していて、日中は15分に一本出ている。家と一緒にフェリーに乗る手続きをするのはいつも面倒に感じてしまうけど、この家がどんな扱いになるのか楽しみなところもある。
これまでのフェリーでの家の扱いを整理すると、神戸→大分の”さんふらわあ”は「船長と相談します」と言われ、すこし待ってから放送で呼び出され『手荷物扱い』で、追加料金はいらないですと言われた。家は船員しか通れない通路に置かせてもらった。宮崎→神戸の”宮崎カーフェリー”も『手荷物』にしてくれて、家は船体の中の自動車が積まれるところの柱にくくりつけられた。小豆島→新岡山のフェリーは『貨物』扱いになり、追加料金が取られた。「貨物は二輪車に積む」という決まりがあるらしく、僕の家は二輪車よりも大きいにもかかわらず二輪車に積まれた。「積まれた」というより二輪車の荷台には大きすぎて載らず、フレームの上に無理やり載せられた。「二輪車からおろして普通に地面に置いたほうがいいんじゃないか」と言ったが「貨物はこれに乗せるという決まりなんだ」と言われた。別府→大阪の「さんふらわあ」も『手荷物』にしてくれた。ただしこれは僕があらかじめ受付で「過去に二回さんふらわあにのせてもらったけど、どっちも手荷物という扱いにしてくれた」と言った。

そして今回は鹿児島→桜島。まず港の桜島フェリーの建物前に家を置き、2階の乗船窓口に行って「大きな手荷物がある」と言って写真を見せた。一人目の女性はキョトンとしていたけど二人目の女性が来てその人は笑っていた。ちょっと待ってくださいと言ってどこかに電話してしばらく話していた。
電話を待っているあいだ、一人目の人に「これまではさんふらわあに2回くらい乗ったことがあって手荷物にしてもらったんですけど、でも小豆島で乗った時は貨物料金が取られた覚えがあります」とぺらぺら説明していたらそこで始めてその人も笑った。
そして電話を終えた二人目の人が「一般旅客運賃だけでいいです。160円です。桜島についてから支払ってください。」と言った。僕はお礼を言った。そしたら彼女達が「ただ・・」と言って、”どの船に乗せるのがいいか”という相談をしはじめた。どうやら鹿児島桜島のフェリーには5種類の船が運行しているらしく、それぞれ通路や客室の広さがちがうから、どの便でいくのが一番いいか考えてくれていた。そしたら「5分後の船がいいかも」と言われた。
「間に合いますか?」
「やってみます」
僕は下に置いてある家を急いで取りに行ったが、家を建物内に入れるのにガラス戸のロックを外さないといけなくて、それが原因で5分後の出航に間に合わなかった。
「間に合いませんでした」
と行って再び窓口に行った。そこで15分後のフェリーをすすめられ、「ガンバって」と見送られて、今度はフェリーに乗れた。ただし乗船ブリッジを通り船に乗ってすぐのところのちょっとしたスペースにしか家を置けず、そこから先は通路が狭くてすすめなかった。船員に聞いたら「そこで大丈夫だと思います。お客様が出入りするくらいで、出航してしまえば邪魔にもなりません。あとは車椅子の方がきたりしなければ大丈夫です。」と言われて、このままいけるかと思ったけど、ふと気がついて「桜島に着いたらここと同じところから船を降りるんですか?」と聞いたら、それは船の反対側からだと言われた。それはまずい。乗ったはいいけどこのままだと桜島についても家を船から降ろせない。ということになり、一旦その船は降りて、次の便で自動車と同じところから乗ることにした。
再び窓口に行った。一人目の女性が、あれ、乗れなかったんですか。というので説明すると彼女は再び電話をとってまたいろいろ話し始めた。電話を切って「なんども行き来させてすみません」と言う。「こちらこそお手数かけてすいません」と言った。次の便で自動車と一緒に入ってください。船員にはこちらから言っておきます。と言われ、僕はお礼を言って建物を出て、船に乗るのを待っている自動車の列の横を通って、とうとう乗った。

船は15分で桜島に着く。時間は短いけれど、それでも「船旅」という感じがする。船の移動の時間は、それがどんなに短くても特別な時間になっていると思う。桜島についたら愛想の良い男性が僕が出るのを待っててくれて、誘導してくれた。「すいませんね、一便乗れなくて」と言われた。僕はその親切さにびっくりした。運賃は160円です。というのでその安さにまたびっくりした。路上でお金を払ってその男性とも別れた。

桜島に着いたら、ある画家の人を訪ねることに決めていた。橋口さんに教えてもらった人で「あんな気骨のある画家は見たことがない」と言っていた。アルタミラの洞窟壁画を見て衝撃を受け、それ以来ずっと牛を描いていて、さらに桜島に出会い、移住してきて、それからは桜島の景色に牛がいる絵をずっと描いている。という。いちおう武蔵美の先輩にあたる人らしい。

画家の家に着いた。木造平家の古い家だった。入り口の木の引き戸がすこしだけ開いていた。その隙間から「こんにちはー」というと「はいー」と声が返って来て、白髪の男性が出て来た。「橋口さんから聞いて、訪ねて来ました。村上と申します。」と言ったら彼はすこし笑って「まあ、あがんなさい」と言って家に入れてくれた。最近大きな個展があり、それが終わったのですこし休んでいるところらしい。突然の訪問にもかかわらず、「いつものことだが、なんにもない」といいつつお茶などやチョコレートなどを出してくれた。

 彼は吉祥寺にあったころの武蔵美を卒業し、それから東京に住んで絵を描いていた。33年間住んだが、いろいろと思うところがあって、東京では絵が描けなくなった。そこでどうしたもんかと思っていた。ある日、友達にもらったテレビの白い紐をひっぱって電源を入れたら、そこに桜島が映っていた。それをみて「ああ、ここに行ってみよう」と思った。ここはいい。フェリーも15分に一回出るし、夜中もずっと運行してる。交通の便がいい。こんなに近くて行きやすいはずなのに、鹿児市のほうの港の雰囲気と、桜島に降りた時の港の雰囲気は全然違う。それはある意味では我々に責任があって、船の時間ていうのは贅沢な時間で、たった15分なんだけど、こっちから向こうに行く時は「出かける」という感じがするし、帰って来ると「帰ってくる」という感じがする。それがいいと思っている。ここは意外と人がおおらかというか、なにをしてもとがめないでいてくれるところがある。でも公務員が主な産業みたいなことになってしまっている。以前鹿児島でおおきな水害があった。桜島の噴火を除けば、それが最大の天災だったと思う。その影響で、市民に親しまれていた橋を、行政が撤去すると言い出し、それに対する反対運動をやった。でもどうしても撤去になってしまったから、その橋の拓本をとるプロジェクトをやった。そのとき協力してくれた建築家は、それ以来行政から仕事をもらえなくなった。
 外の人はいろいろ思うかもしれないが、火山灰は悪いもんじゃない。地球のずっと深いところから、何千度っていう熱で完璧に消毒されたものが吹き上がって来るもんだ。ただ、今日みたいに雨の日は大丈夫だけど、晴れてる日だと火山灰が道路に積もって、そこを車が通るうちに細かかった灰がゴロゴロしたものになって、さらにそれを車がばーっと巻き上げて体からすっぽりかぶっちゃうなんてことがあると、腹が立つけど、それは車のせいであって火山灰のせいではない。
ここはテレビは置いてない。ラジオはいつもつけてる。ラジオはつけてないと、災害なんかの情報がわからない。この間も震度4の地震があった。ここらの人間は、そういう時まず桜島を疑う。
 思い返してみたら、画家ということでいっても、自分の他に、こっちに引っ越して来て住みついた人は一人もいなかった。一人画家がいたけど、宮崎の方に行っちまった。東京に女房がいる。弟の看病をしながら暮らしている。彼女とは東京で長いこと一緒に暮らしていたが、僕に絵を描かせるために鹿児島に送り出してくれた。東京にすんでいたときはいろいろ煩わしいこともあって絵をかけなかったけど、こっちで一人でいると描ける。この絵は20年くらい前に描き始めて、今年の個展に間に合うようにして展示した。僕の世代はこうなんだ。一度出品した絵をもう一回引っ張り出して描き加えたりする。既存の画壇には入ったことがない。自分でグループを作ったりしたことはあったけど、やっぱり何人かでやっているとだんだんやり方に違いがでてくる。それはそういうもんだ。画壇とか、ジャンルとかはあまり考えすぎないようにしたほうがいい。現代アートと油絵も、何の隔たりもないと思っている。画壇にはやたら隔たりを作ろうとしている人もいるが。あんまりジャンル分けしないほうがいいんだけど、いま人が作っている作品は全て現代美術だと思う。
 女房とは離れて暮らしているけど、電話は1日になんどもする。最近は、安く電話ができるようになった。携帯電話が安いので、そのためだけにもっている。他のことにはつかわない。四六時中連絡が来ることになってしまう。このあいだ、自分の個展の手伝いのために4年ぶりに来てくれた。4年ぶりに会った。それで数十日間一緒に生活した。いくら夫婦でも四年ぶりにあったらいろいろとお互いに生活をやり方が変わっているから、最初はそれを合わせるだけで努力が必要だったが、いろいろ喧嘩もしながらやってるうちにペースがあって来た。いまは東京と鹿児島で離れているけど、一緒にいるつもりだ。彼女もいろいろしんどかったと思う。でも、俺に絵を描かせるために送り出してくれた。久しぶりに会って、「苦労かけてしまったな」と思った。俺も彼女ももう歳なので、そろそろ一緒に住まないといけないなと思う。
 ここで絵を描いていると、自然と人とは違う方法論になって来る。変わったことをやろうとしてやるんじゃなくて、自然と変わって来る。
このあたりは歴史のある通りで、島津家の頃もこのへんには役職のある人が住んでいた。もっというと縄文時代の頃から人が住んでいた。でも、この家は夫婦二人ともなくなって空き家になってるし、もう80になる私がここらでは一番若い。
 制作するということは、自己批判の繰り返しだ。それだけでも価値があることだと思う。それぞれが、それぞれのやり方で方法論を探りながら制作している。それが個人的なものでも、この方法論には価値があるんだということを、当人が言っていかなきゃいけない。価値のあることをやっているんだと主張して、場合によっては行政からお金をもらう権利も主張していいはずだ。それは価値のあることなんだから。作家として生きることの責任を考えてやっていかないといけない。僕も、たくさんの人の協力でこれまで生きて来た。よくあんな適当なことばっかり言って、これまで生きて来られたと思う。

素晴らしい作家だ。話していて、なんだか緊張してしまった。あまり人と話して緊張することはないのだけど、緊張してしまった。絵も何枚か見せてもらった。橋口さんのいう通り、どの絵も桜島(山や木などのモチーフ)と、牛が描かれている。26年桜島にすみ、桜島を描いている。そして「絵で食っていかなきゃいけない」という責任のとりかた。彼は彼の方法で何十年も筋を通してやっている。その凄みがあった。

ただいま新岩国駅を通過。
という電光板の表示が目に入ってしまい、新岩国駅以外の、通過された何万という駅や家のことを想像させられた。やっぱり自分は新幹線が苦手らしい。これまで各地で散々新幹線の悪影響について聞いてきたからなのか、この速すぎるスピードがダメなのか、いろいろ複合的な原因があるんだろうけど、気分が悪い。体調が悪いせいもあるだろう。とうとう鹿児島に戻るまでに風邪を完治させられなかった。
さっきまで山陰にいて、今は山陽を走っている。あっちこっちで光が全然違う。山陽は明るい。色が鮮やかに見える。
前に日記を書いてから1ヶ月ちかくたってしまった。
10月26日の日記に、淀川の砂について書いてある。僕はその翌日、知人のFに自転車を借りて桜ノ宮のあたりまで行き、淀川の砂をとって販売している卸売業者をみつけた。神交産業という会社で、淀川の砂の卸売販売と、コンクリートの製造をやっているらしい。川沿いに工場があり、砂が積まれていた。大阪市のウェブサイトによると、淀川の砂をとってもらうことによって船の航行もスムーズになるので許可しているらしい。この砂の話はもうすこし掘り下げて考えてみると面白そうだ。
その話はいいとして、僕はFの事務所に26日に到着し、29日ごろに遠藤一郎さんの未来へ号バスに家ごとのせてもらって鹿児島に行った。未来美展という、彼の生徒や彼が見つけた良い表現者たちによるグループ展に呼ばれて参加した。みんな愛おしい人たちだった。僕は例によって反省点をたくさんかかえて終了した。展示をするといつも反省することになる。今回は、一郎さんの本気さを事前に感知しきれず、結果として自分の展示や展示にまつわることに詰めが甘い部分が生まれてしまった。また、一郎さんが先生として人に接しているのをみて、「自分の議論をしてしまう」ことと「先生として振る舞う」ことの境界線について、とても考えさせられた。あるいは言い切ることの責任と無責任について。俺は俺のやり方でしか前に進めないことを知っている。なので引き続きぶっちぎれるよう頑張るしかない。
未来美展が11月3~5日で、そのあと僕は鹿児島在住のソウルメイト橋口さん(久々に再会したと思ったが2年ぶりくらいだった)の家に自分の家を預け、7日にJETSTARで東京に行き、10~12日のあいだTERATOTERA祭りに5年ぶり2回目の参加。「看板図書館」という新作をやってみたが、ここでも反省した。3日間なので図書館としては日数が足りず、あまりまわらなかった。良いプロジェクトだとは思うんだけど。そのまま東京に1週間くらい滞在し、下見をしたりインタビューを受けたり人と飲んだりし、17日にANAのプレミアムクラスシート(1時間20分のフライトだったけど軽食サービスが付いている)で鳥取県に移動。倉吉市でひらかれる日本海新聞主催の「絵本ワールド鳥取」という素敵なイベントに呼ばれて”講演会”と”ワークショップ”を頼まれていた。鳥取は初めて上陸した。

こんにちは。
突然のお手紙で驚かせてしまったらすみません。お元気ですか?
最近、私は鳥取に行く機会がありました。夜の日本海沿いの道路を、車に乗せてもらって走りました。風がとても強くて、雨がすこし降っていました。海は、ガードレールの向こう側に見えているはずなのですが、実際には暗闇が広がっているだけでした。窓を開けてみると音が聞こえました。波打ち際の大きな音が、暗闇の中から聞こえました。私は恐怖を覚えました。あまりにこわかったので、ずっと窓を開けて聞いていることができませんでした。しかし、あの恐ろしい海からおいしい松葉ガニが獲れるのです。もうすぐ松葉ガニの季節だそうです。鳥取の人に聞くと、「今はまだ高いけど、もうすこしすると小さくて安いカニが出回るはずです。それと、足が1本無いやつとか、そういうのはちゃんとしたところでは売れないんで、市場なんかですこし安く買えます」と言っていました。足が一本ないカニが安く食べられるのは、産地の特権ですね。松葉ガニ食べたいです。
すっかり寒くなってしまいましたね。豚汁や甘酒が美味しい季節になりました。
喉風邪が流行っているようです。私はすっかりやられてしまいました。かれこれ1週間、咳が続いています。私の周りにも数人同じ症状の人がいます。どうぞお体にお気をつけください。

18日に講演会。”講演会”だ。笑ってしまう。会場では「たくさんのふしぎ 家をせおって歩く」を読んでいるという人がたくさんいて驚いた。僕は自分の絵本の紹介をしたあと、東京から鳥取まで飛行機だと1時間20分だが歩きだと700キロなので50日間くらいかかるという話をし、さらに鳥取から鹿児島までも50日間かかるという話をし、なぜこんな高速で移動しなければいけないのかという話をし、もし2日間のイベントのために100日の移動をしていたらどっちがどうなんですかという話をして、”最初の目的からずれていくのが面白い”という話をし、むしろ目的が先行しすぎるのは悪いことだという話をし、”分業進みすぎ問題”の話をした。本当はバックミンスターフラーやミヒャエルエンデやお金や労働や、虫の話もしたかったし、そういう原稿も用意したんだけど、原稿を用意しすぎたために話に魂が入ってないということを話しながら発見してしまい、早い段階で質問を受けることにした。その質問の時間に、軒を深く出すことが、雨の室内への吹き込みを防ぐということにおいていかに効果的なことか。かつての日本の家屋がいかに工夫にとんでいたかという話ができたのはよかった。
話のあと夕書房の本「家をせおって歩いた」の販売会とサイン会があった。肝心の「家をせおって歩く」はどこも売り切れてしまって、増刷もハードカバー化もまだまだなさそうなので残念そうにする人がたくさんいる。悲しい。
18日の夜、”たみ”というスペースに遊びに行き、そこで「鳥取市内にあたらしくオープンする洋食屋の改装を”パーリー建築”の
人たちがやっている」という話をきいた。パーリー建築の宮原君とは小豆島で会った。「そして今日そのオープニングフェスがある」というので、久々に会いに行こうと思い、車で連れて行ってもらい、彼等が改装したその店の綺麗さとお洒落さにびっくりして倉吉に帰ってきた。
19日にワークショップをやった。最初のプランでは、牛乳パックや紙や段ボールで子供たちに一人につき一つ、自分のサイズの家を作ってもらい、それをみんなで担いで外に出て行進して、公園や路上にその家を建てて街にしてしまい、公共空間を占拠してしまったら面白いだろうと思ったんだけど(それで警察が来て子供達が居住権を主張したら良い)、会場が大学のキャンパス内で、しかもちょっと山の上にあったので”公共空間に置く”という感じにはならないことがわかり、またスタッフの人たちが集めてくれた大量の牛乳パックをみて僕自身がすこしテンションがあがってしまい、ワークショップ開始時間の1時間前から畳3畳分くらいの、壁構造とラーメン構造を組み合わせた大きな家を作り始めてしまったらワークショップ開始時間になっても全然間に合わず、ワークショップのために集まってくれた子供達にそれを手伝ってもらうことになり、(しかし子供達はみんなものすごく楽しそうにしていた。あんな大きな空間を手作りで立ち上げるという経験がなかったんだろうと思う)結局それを最後まで作った。しかし途中参加の男の子が自分で小さな家を作り始めたので、おかげで最終的に二つの家ができた。それをみんなで神輿みたいに担いで外に持って行き、外の芝生に建てて一通り遊び、またみんなでもとの場所に戻した。
ここも楽しい現場だった。鳥取はまたゆっくりまわりたい。そして今日のお昼過ぎに倉吉を出発。姫路経由で鹿児島に戻っているその新幹線の車内でこれを書いている。これを書いているうちに気分が回復してきた。明日からまたしばらく九州をみてまわろうと思う。橋口さんと一緒に行動するか、一人で家と一緒に歩き回るかはまだ決めていない。
最近頼まれ仕事が続いている。自分発の制作ができていない。焦っている。どの現場も楽しかったし学ぶことはあったが。
新幹線はもう熊本に着こうとしている。速い。

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楠葉を朝9時に出発、友人と楠葉駅で別れて26キロほど歩いた。基本的に淀川沿いを下っていった。ちょうど昨日自転車乗りの男性からきいた桜ノ宮のあたりも通ったが、すでに24キロくらい歩いたあとだったのでそこに砂船をつかって砂を集めている工場があるかどうかを探す気力はおこらなかった。明日見にいってみようと思う。淀川沿いは歩くには素晴らしいコースだ。道中、ヘビトンボが潰れて死んでいるのをたくさん見た。淀川もこのあたりは意外にも水が綺麗なのかもしれない。あのさらさらした砂とヘビトンボと何か関係があるかもしれない。京都で鴨川は途中から桂川になり、その桂川と宇治川と木津川が全て合流して淀川になる。淀川には、洪水のたびに上流から運ばれてくる良質なサラサラした砂が川底にたまっている。淀川が増水して道路まで侵食すると、道路上にその砂を撒き散らす。その上でヘビトンボが死んでいる。そういえば国立科学博物館で見た東日本大震災の断層の実物もとてもさらさらしたきめ細かい砂のような粘土だった。というかあの良質な砂が、長い時間をかけて埋もれて押しつぶされていくとあの粘土になるのかもしれない。

終盤は加藤文太郎という登山家に関するラジオドラマを聴きながら歩いた。エベレストを夢見て若くして亡くなったサラリーマン登山家。いろいろと神格化されてしまっている可能性があるので慎重にならないといけないけど人の心を捉える生き方をしていた。ぐっときた。1時間以上ある作品だったけど面白かったので二回も聞いてしまった。

登山家は、はじめ旅行のことを知らなかった。ディーゼルエンジンの図面をひく仕事をしながら須磨にある社員寮に住んでいた。知人が登山を教えてくれてから、近隣の山をものすごい勢いで単独で登り始めた。サラリーマンをやりながらお金をため、装備も手作りし、有給休暇をもらって登った。六甲全山縦走という今でも続くルートを最初にやったのは彼だ。須磨の社員寮を早朝に出発し、六甲全山を縦走して宝塚で下山、そこから電車も使わずに、その日のうちに須磨の自宅まで歩いて帰った。合計100キロの道のりを16時間で走破した。一人で。当時はガイドをつけ、パーティを組んでグループで登る登山が一般的だったなか、足が速すぎて他の人間を置いていってしまうという理由や、費用がかからないという理由などから一人で山に登った。単独行の文太郎と言われた。北アルプスの冬山で友人の吉田くんと登山中「”山の声”に呼ばれて、悪天候になるのはわかっていながら槍ヶ岳に挑戦したが吹雪にのまれて凍死した。」

そして僕は大阪市内の知人Fの事務所に突入。事務所はテナントビルの4階にあり、家が階段をとおらなかったので屋根を分解して強行突破した。Fは最近健康づくりにはまっているらしい。2014年に最初に家と一緒に大阪に来た時もお世話になった。というかその時に知り合った。当時僕はものすごく体調が悪く、着いた時には熱を出していた。その時はこの事務所は無く、Fの実家のビルの一階の空テナントに一週間くらい滞在させてもらった。その空きテナントはいまでは電気工事士の事務所が入ったらしい。当時やったたこ焼き器をつかったアヒージョパーティの話や、味園に飲みに行った話など思い出話をやって懐かしい気持ちになった。あの時僕は26歳だった。

その事務所は、信号がある交差点のかどの4階建てのテナントビルの最上階にある。事務所の窓からはその交差点が綺麗に見下ろせる。自転車やタクシーやトラックなどいろいろな乗り物がよく通るけど、東西南北を大通りにかこまれたブロックのちょうど真ん中なので、そんなに通行量があるわけではない。信号機は、そこに車もなにもいない時も、赤と黄色と青を繰り返し点灯させている。真夜中になっても。交差点の対角には、少なくとも夜の11時までは開いているタバコ屋がある。事務所には夫婦と、アシスタントの計三人。家は別の場所に借りているけど、ここに泊まることもある。そこではデザイン・カメラマン・ライター・WEBなどの仕事を請け負っている。事務所を開いてもうすぐ一年。もともと住居だった部屋を使っているので、台所がついていて簡単な料理もできる。レンガ模様の壁紙と、リアルな木の竪板張り模様の壁紙と白い壁紙と黒板に囲まれていて床も木の板張りになっているので、全体的に茶色い印象を受ける。友人や自分たちで壁紙張りをおこなった。「茶色っぽくなっちゃったなあ」と思ったので、椅子はポイントで色が欲しいと思い、椅子はカラフルなものを使っている。事務所の近くにはインド人の家族が営んでいるインド料理屋がある。小学生くらいの子供が二人いて、夕方にいると客席に座ってゲームをして遊んだりしている。母親はおでこに赤いビンディーをつけているのでヒンドゥー教徒なんだろう。日本にあるインド料理屋で働くインド人でちゃんとビンドゥをつけている人は初めて見た。レジの上にあるテレビでは、インド人であろう歌手のミュージックビデオらしきものが絶えず流れている。一時期は頻繁にこの店に通ってランチを食べていた。

夜は初めて来たなあ。ランチやすいからなあ。

エレファントカシマシの宮本は生活のことを敗北と死に至る道と歌った。生活は、自分を地面に溶かしていくものだ。それを宮本はそう歌った。生活は床や路上など、とにかく下に向かっていくエネルギーだ。「路上」が、自分の「下」にあるのは面白い。ケルアックは「路上」で道路の上でおこる人間のアレコレを書いたけれど、考えてみればお気楽なもんだと思ってしまった。僕は道路そのものを捉えたい。考えてみれば僕は道路上にいることが多い。道路は人と地球の間にあって、人工物で、絶えず雨とか草木とか、自然からの侵食を受けている。整備を怠った道路はあっという間に草木に飲み込まれる。人は道路の上でアレコレ忙しくやっているが道路の下ではそれとは全く無関係に気まぐれに断層がすべったりして、道路とその上にのっているものをめちゃくちゃにする。ほとんどの家と生活は道路によって紐づけられているが、当の道路は自然と人工の波打ち際みたいにただよっている。一郎さんも言っていたけどどうも人間ばかり見すぎている。人間の動きと地球の動きを同時に捉えたい。道路のあり方は格好のヒントになる。

10月25日

昨日、2週間ほど家を預かってもらっていた京都造形大学からnowakiに家を動かした。

nowakiというのは野分と書き、台風のような暴風のこと。かつては、それはただの災害というよりは、恵みをもたらすものとしても考えられていた。そこから店名をとった。店の雰囲気とは裏腹にラディカルな名前だ。京都を南北に走る大通りから一本東にはいった長屋が並んでいる通りにある。夜になると通りは静まりかえる。店の2階にいると音がほとんど何も聞こえないほど。二階にはユキという猫がいる。ユキはおとなしい奴で、僕は鳴き声を聞いたことがない。もう開業から丸五年たっている。素敵な器と本を扱っている。

今日はそこから枚方の友達の実家まで家を動かした。23キロくらい。

途中、京都と奈良から三つの川(桂川、宇治川、木津川)が大阪で合流して淀川になったあたりの河川敷を歩いているとき、通りすがりの自転車乗りと歩きながら1時間以上話した。

その河川敷の道路は、先日の台風の影響で一部砂で覆われていた。台風や大雨があるたびに度々こういうことがある。数年前の台風のときはこの道路はまるごと川に飲み込まれた。そして水が引くと、上流から運ばれてきた砂が路上に残る。砂はとてもさらさらしていた。ここいらの砂は良質なことで有名。コンクリートの材料などで使われる。この砂を取るための砂船は、ここらの住民にはおなじみのものになっている。だいたい毎日朝9時ごろに、大阪の大川・桜ノ宮あたりにある船着場から、水位を上げ下げして船を行き来させる、観光スポットにもなっている毛馬閘門を通って、その船はやってくる。川底にある砂をとり、昼頃には船が沈むんじゃないかというくらいに大量の砂を積んで大川に帰っていく。神戸のポートピアの埋め立ての時にここの砂が使われ、業者たち左団扇だった。大阪府としても、砂が積もりすぎると船の行き来に支障が出るため、砂の採取を許している。

側にはゴルフ場がある。ゴルフ場とその道路との間にはネットが貼られているが、増水した川によってネットに流木や草木が押し込まれ、一部は壊れてしまっている。その自転車乗りの男性は枚方に住んでいて、いつもこの河川敷を走る。その道路は道幅が広く、景色もいいのでツーリングしている人たちが多くいて、家と一緒に歩く僕たちを横目で見ながら走り去っていく。ゴルフ場が切れたあたりで男性と別れ、樟葉駅へ向かった。

くずは駅近くで突然後ろから

すいませーん!

と声が来たような気がしたけど無視していたら、今度は無視できない大声でまた「すいませーん!」と声をかけられた。あまりに大きな声だったので「はい!」とこっちも自分でびっくりするくらいの大声で返事をしてしまった。キックボードに乗った小学生の男の子だった。彼はやたらと丁寧な言葉遣いで快活に話しかけて来た。

すいませーん!

はい!

あなたは、何者なんですか?

ええと、絵描き、です。

絵描き!絵描きとは!すごいですねえ!いやはや。これができるとは。

ふふ、言葉遣い丁寧ですね

いやいや。さっき河川敷でみたんですよ

そうですか

ほんまびっくりしました。ずっとやってるんですか

ずっとやってます

それはしんどいですねえ。

しんどいですねー

おつかれさまです。がんばってください。

はい。ありがとう

では失礼します。

と言って少年は僕の右側を抜きさってキックボードで走り去っていった

その後友達と合流し、実家に家を置かせてもらった。友達は母親とそっくりだった。