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土地

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床下

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間取り

丘の上にある一軒家のガレージ。見晴らしがすごく良い。安達太良山が見える。
トイレとお風呂場は、ガレージを貸してくれた家のものを使わせてもらった。どちらも家から徒歩3分。また二階の一室を書斎として使わせてもらった。徒歩4分。

歩いて8分くらいのところにコンビニ、15分くらいのところにPLANT 5という大きな店がある。薬や本や生鮮食品、日用品、大工用具などもある。

今日は丘の上に建ってる家のガレージを敷地に借りた。去年もお世話になったところ。
ハーレーを3台くらい持っている80歳のめちゃ元気なおじさんと、最近麻雀の勉強を始めた奥さんが住んでる。

おじさんの話
「ハタチのころは陸送の仕事をやってた。シャシーだけの車を走らせて運ぶの。運転席とそれが運転席とモーターしかなくて、モーターがリアモーターだから後ろが重くて、走ってると、前がちょっとした石とかで浮いちゃうんだよ。それでみんな俵を三つくらい前にくくりつけて走らせてた。帰りは汽車でかえってきた。

俺は25か26で結婚した。陸送の仕事は全国まわって、1週間も10日も帰ってこねえから。九州なんか行くと、10日くらいかかるからね。帰りは汽車で帰ってくるけど。
青森だって4日くらいかかったんだよなあ。
それで嫁さんに逃げられちゃ叶わねえと思って、商売変えなきゃいけないと思って。
陸送やめて、26のころは京浜急行のバスの運転手やってた。
京急っつうのはバスを10年なら10年やると、駅の方の試験うけられるのね。そうすると駅の助役になって、それから駅長になれるのね。試験で。ああ、じゃあこれ最後には駅長にでもなれるのかなあと思って(笑)
路線バスは蒲田から羽田までの路線バスやってたんだけど。あと東京駅の八重洲口から神奈川県の城ヶ島ね。これをやってた。川崎駅前から八重洲口とかね。
で、運転手やってるうちに、俺は全国を陸送やってたもんだから、道はよく知ってるっていうことで1年かそこらで観光課の方にまわされたんだよ。観光は東京の羽田にあった。
昔は長距離の観光バスなんてなかったからなあ。せいぜい長野とか福島とか。せいぜい一泊どまりで。秋田へ行くやつなんてなかったなあ。」

「年寄りはみんな退職したら田舎暮らしするんじゃないか。都会は遊びに行くにはいいんだ。さあ、田舎へ帰ろうっつって。やりたいことやって言いたいこと言って。さあ、帰ろうって。みんな「いいなあ」って言って。特にバイクなんか運転するとなると、どこでもさ、田舎の温泉はいけるし。好きなように。
それがいいよねえ。一生暮らすんなら、それがいいよなあ。のんびり温泉でも行って。あちこち見て。」

「あそこの庭に、除染した土が埋まってるの。埋めた業者は取りに来るって言って全然来ないんだ。土を集めるとこは決まったみたいなんだよ。富岡ってとこ。そこへ集めようって決まったみたいなんだけど全然来ねえ。嘘ばっかり言ってんだ。
福島も変な県になっちゃったなあ。原発のなあ。」

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間取り

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土地

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道路のすぐ向いにセブンイレブンがあるので、トイレや買い物には便利。徒歩2分。

お風呂場までが少し遠い。徒歩25分ほどのところにあるちょっとしたショッピングモールのような施設の中に入ってる「まねきの湯」というスーパー銭湯。座敷があるので書斎としても使った。朝7時から夜中の1時までやってる。入浴料500円。

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志賀家のお父さんが家をトラックに積んで郡山まで運んでくれた。

福島県は浜通りと中通りと会津若松の三つの地域にわけられる、いわき市や原発がある浜通りから郡山市や福島市がある中通りへの道は、だいたいどこも似たような山道になってる。

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遠野町。こんな山道にも生活がある。とんでもないとこに家が建ってて、おじさんが畑仕事をやってたり、女の人が犬の散歩をしてたりする。

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古殿町松川。手前に見えてる家は廃墟になってた。

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古殿町鎌田

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石川町。戦前は微量ながらウランをとってた。

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石川町。真ん中あたりにぽつんと立ってる大きな木は桜。そばの家にはカラスを飼っているおじさんが住んでる。おじさんはそのカラスが自慢で、桜を見に行くとカラスの話をしてくれるらしい。

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玉川村。突然視界が開ける。ここには空港がある。昔は韓国からの客がたくさんいた。
バブルの頃に、韓国のパチンコ資本系の人達が一斉につくったゴルフ場に来るために韓国から観光客がたくさんきてた。この辺は雪が降らないので冬でもできる。でも震災後はぱったりと来なくなった。写ってる電車は水戸と郡山をつなぐ水郡線。

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須賀川牡丹園の松林。地域では有名。

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郡山市

次男の海くんに運転してもらって、最近開通した国道6号線で原発の近くまで行ってきた。バイク屋や歩行者はだめだけど、車で通り抜けることはできるようになった。
このへんの自治会で買ったけど最近はみんな慣れてあまり使わなくなったという線量計を持って出かけた。

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いわき市錦町のこの家のキッチンで0.057マイクロシーベルト/h。
去年は富岡町までは行った。家はたくさんたってるけど人の気配がなくて、緑が茂りすぎていた。鳥がたくさんないていた。

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今回は富岡町からもうすこし先まで行ってみた。もともと田んぼだったであろうところが広大な草原になってる。

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大熊町のあたり。途中で止まったり国道以外の道に入ったりはできないようになってる。このあたりまでくると、国道沿いの全ての家がフェンスで閉じられている。

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「ようこそ大熊町へ」「花と緑のあふれる合宿の里とみおか」「TOYOPET マークX」というありとあらゆる看板が、見てるだけでキツい。相変わらず緑がものすごく茂っている。「イノシシ衝突注意」と書かれた看板がたくさん立ってる。道路はたくさんの車が走ってる。ダンプカーや、大きなバス(たぶん作業員を運んでる)が多い。
ドラッグストアに寄ろうと思って駐車場に入ったら、そこはドラッグストアではなくて除染工事の集合場所になってたり、レンタルビデオ屋だと思ったら業者の事務所だったりする。あちこちでマスクをした作業員が草を刈ったりしている。

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大熊町を通ってる時、締め切った車内で3.057マイクロシーベルト/h。このあと最大で7.9マイクロシーベルト/hまで上がった。

富岡町にある規制線の外で車を降りてちょっと散歩してみた。「ホットスポット注意」と書かれたコーンがアパートのベランダ下の茂みに置いてある。地面を観察してみると、アリがいる。なにか大きな食べ物を巣に運んでいる。川には透明な水が流れている。
景色の全てが、見てるだけでしんどい。気持ち悪くなってしまって、あまり長居はできない。

帰りの車内で、海君の中学や高校の同級生の話を聞いたりした。中学の同級生は工場等で働いてる。高校の同級生の多くは東京に働きにいったけど、いずれはみんなここに帰ってくるつもりらしい。いわきの高校生は可愛い子が多くて、海君の高校もかわいい子が多いけど、1学年ごとにアタリとハズレがきて、海君の学年はハズレだった。らしい。

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家に帰ってきて、彼の部屋に入れてもらった。彼はシナリオライターになる勉強をしてる。
「公募ガイド」という雑誌が置いてあった。課題で書いたシナリオを3つくらい見せてもらった。笑えるホラー。面白かった。
あと最近買ったばっかりの『Red Dead Redemption』という洋ゲーもやらせてもらった。アメリカで作られたゲームで、アメリカの西部開拓時代が舞台。主人公は結婚していて子供もいるガンマン。狼に自分の馬が食い殺されたり、悪いことをしたら自分に懸賞金がかけられたりする。

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トラちゃん。いい顔してる。

志賀家は2011年の地震で横幅が5センチ伸びたらしい。その影響で家中の建具がすこしずつ開閉しにくくなった。

いわき市で造園業を営んでいる志賀さんの家の客間にいる。今日の敷地はこの家の庭を借りた。造園家の家なので色んな木が生えてる。広くて綺麗な家で、トラという白くて声が低い猫がいる。元々野良猫だった。
ここには去年もお世話になった。年が僕と近い息子が二人いて、一人は東京でアニメーションの仕事をしてる。とんでもなく安い給料で働いてる。個人の建築事務所と同じか、それ以上に酷い。アニメーターにお金が降りないってのはよく聞くけど、本当だった。

ここに来るまでに、勿来の民宿から1時間くらい歩いた。僕が到着したらここのお母さんが「ここ自由につかっていいよ。用意しといたから」と言ってくれた。
「なんでこんなしんどいのを続けようと思ったの?」
と聞かれた。続けようという意志を働かせたわけじゃない。よくわからない。しんどさはある。うまく説明できない。
いま僕はこの生活のマニュアルを作ってる。この家のつくりかたと、日々の過ごし方、細かいディティールを他の人向けに説明しようとしている。このマニュアルは当然、とても長いものにならないといけない。この生活にはたくさんの登場人物が居るし、たくさんの町がでてくる。この生活は、マニュアルが完成したら一区切りできたと言えるかもしれない。その時に初めて「建築すること」について少しは何かを話せるようになるかもしれない。

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勿来は「来る勿かれ(くるなかれ)」という意味で、かつて有名な関所があったところ。その勿来の関跡の近くに、文学歴史館というヤバい施設があった。

勿来の歌を詠んだ歌人の資料を収集展示している施設らしい。

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常設展示の一つ目の部屋「歌枕なこそ」。
木をつなぎ合わせた攻撃的な天井があって、句碑をイメージしたかのような白い柱のようなものがたくさん立っている。中央に謎の球体がある。
部屋の中では結構な音量で、女性や男性の声で歌が詠まれたり、 海の音や嵐の音がサラウンドで流れている。かなり怖い。
写真で見えている左側の4つのモニターでは全て同じ映像が流れている。右側にも4つモニターがあり、やはり同じ映像が流れている。海や夕日の映像をバックにして、勿来にちなんだ歌がテロップで流れる。

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球体の中には昔の勿来の関の模型らしきものがあるけど、木のせいでよく見えない。

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一つ目の部屋から二つ目の部屋へ向かう通路。新聞の見出しみたいなものが印刷されたデカい板がある。精神が分裂する。

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これが二つ目の部屋「不思議タウンなこそ」。天井にお札がめっちゃ貼ってあると思ったら寄付金の目録だった。

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「のぞくべからず」とわざとらしく書かれた井戸がある。覗いてみると女の人の声がする。「覗くならもっとちゃんと覗きなさい」と言われる。その通りに深く覗くと、いきなりライトがついて顔の写真を撮られる。

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井戸で撮られた写真は、別のところにある。「手配書」みたいな板で使われている。
「鼠小僧次郎吉 窃盗百二十二回 金高三千両余により獄門の刑に処す」
と書かれている。

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これは「厠(かわや)」。人のシルエットらしきものが浮かび上がっている。
「覗くんじゃないよ。覗くなら隣にしな」
という女の人の声がする。隣を覗いてみるとセンサーが反応して、厠の底にあるモニターがついて、ウンコに目がついてるかわいらしいキャラクターが登場して
「かわやエコロジー」
という短い番組が始まる。アニメーションの雰囲気がものすごくポップで、他の展示物と様子が全然ちがう。
「江戸時代は、うんこもお金に替えられていた」というような話を教えてくれる。番組はなかなか面白かった。

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他にも妙にインタラクティブな仕掛けがたくさんあって楽しい。入場料は320円。

今日の敷地は勿来町にある海の目の前の民宿の庭を借りた。
昨日のおばあちゃんの友達が経営していて、去年もここに泊まらせてもらったことがある。「あ、そうなのー」という相槌が特徴的なおばちゃん。
昭和45年からやっている民宿で、20年くらい前は夏のピーク時に1日で60人くらいの宿泊客を受け入れていた。高校生のバイトを住み込みで3人くらい雇って乗り切った。ここの他に2つ宿舎があったらしい。

海の家も海水浴場を埋め尽くすくらいにザーッと並んでたけど、今は2,3件になってしまった。50件くらいあった民宿も今は7,8件になった。後継者がいないのが主な原因らしい。民宿やってるなら嫁にはいけないと言われて、民宿をたたんだ人もいた。

「孫が中学2年生。サッカーやってっから、忙しいのね。だからお母さんは継ぐ気はねえと思うよ。他もどこもないの。あと継ぐ人。やっぱし親やってること見てて、嫌だと思うんだろうね。朝早くて夜は遅い。仕事っつーとね、原発作業の人ら泊まりに来た時は朝4時に起きるでしょ。そうすっと、5時半に食事なの。こっから原発まで行くのに結構時間かかっから。原発仕事の人もここ泊りに来るの。もうあっちは一杯で。5時45分には出かけるから。帰ってくんのはね、やっぱし6時っくらいになっちゃうね。それが、5月に帰った人らが6月にまた来ますっていうから、来んのかなって思ってたら、10月になっちゃったの。1回来たら2ヶ月くらい泊まってく。」

震災前は夏になると小さい子供を連れて家族で何泊かする客はいたけど、震災後は海に泳ぎに来る人がほとんどいなくなった。夏に数組くるぐらい。客層は仕事の人ばっかりになった。震災で来る人たちの種類がかわった。

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震災後から堤防のかさ上げ工事をしてる。

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かさ上げ工事がまだ行われてない堤防に「海 出入口」という落書きがされている。

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今日の敷地は福島県いわき市勿来町にある「健康センター関の湯」の駐車場の端を借りた。ここでは寝ずに、去年この町で知り合ったおばあちゃん(ポカリ飲みな、と電話をくれた人)のマンションに泊まらせてもらった。

僕の他におばあちゃんの風呂友達(銭湯で知り合ったらしい)のおばちゃんもマンションに一緒に泊まった。二人とも80歳近い歳だけど元気で、短歌を詠んだりなどしている。
おばあちゃんは旦那さんを亡くしている。僕に「タバコはやめたほうがいい」と言った。
旦那さんは愛煙家で、それで血管がつまって倒れちゃった。特に習ったこともないけど、無我夢中で心臓マッサージをしたら息を吹き返した。救急車を呼んだけど、旦那さんは「おれはだいじょうぶだ」と言って乗りたがらなかった。
なんとか救急車に乗せて病院に行ったら、医者に
「一人で倒れてたらもう駄目だったなあ」
と言われた。それ以後、血管の詰まりをなおすために5回くらいカテーテルを入れた。そして6回目のカテーテルの時、たまたま専門の先生がいなかった。代わりにインターンシップの若い先生がやってくれたけど、それが失敗した。血がたくさんでたけど、意識は普通にあった。そのあとたくさんの機械を体につけられて、ベッドで安静にしてる旦那さんから
「孫の手を持ってきてくれ」
と言われた。おばあちゃんは孫の手を取りに家に帰った。車のガソリンも少なくなったのでガソリンを入れた。それで時間がかかってしまった。
「あの時、孫の手を何に使うのか聞いとけばなあ。取りに帰ることなんてなかったのに」
と今でも少し後悔してる。病院に戻ったときには、旦那さんの病室に心臓の電気ショックの機械が運び込まれているところだった。

おばあちゃんは小学校と中学校の同期会に定期的に行っている。
「それがねえ。一人一人と減ってくんだわ。酔っ払って男の人が
『十年後もやるか』って言ってね、『ばか十年後誰が生きてんだよ。おめえひとりでやれ』って言われてね。『そうかあ。もういい歳だなあ』って言ってね」

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寝室は一つしかないので、おばあちゃんと風呂友達のおばちゃんと僕の3人で3組の布団を川の字に並べて寝た。こんな事は体験したことがない。新しすぎる。

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翌日の朝ごはん。張り切って作ってくれた。三人でじっくり時間をかけて食べた。

福島県いわき市の勿来町まで来た。雨が降ってきたのでお風呂にでも入ろうと思って、去年も入った関の湯という大きな温泉施設に来た。駐車場に立ってた従業員らしきおじさんに、僕がお風呂に入ってるあいだ家を駐車場に置かせてくれと頼んだら
「かまいませんが貴重品だけは気をつけてくださいね。あとここは普通の銭湯とは違って、どちらかといえば滞在型の施設なので高いですよ。2000円します。」
と言われた。僕の事情をすこし説明したら割引してくれた。偉い人だったらしい。
去年はいくら払って入ったのか覚えてない。

いまはラウンジにいる。畳の大広間で、大きな窓があって海が見える。空は曇っていて、水平線がぼやけている。太陽の光で海が白く光ってる。

去年この町でしりあったおばあちゃんに電話したら
「明日でかけるからね、いまパーマかけてるのよ!パーマ終わったら連絡するから」
と言われた。

今日の敷地は茨城県常陸太田市大中町にある有機栽培の農家の納屋のなかを借りた。ここのご主人は元々東京の人で、親戚も誰もいないこの町に、完全に新規就農で農家を始めた。畑は借地が多い。もう20年くらいやってる。農協を通して市場に作物を出荷するのではなく、地元や首都圏の消費者と直接契約をして、ダンボールに詰めた十数種類の野菜を消費者に定期的に送るというスタイルを取ってる。「家庭菜園の請負業」のような感じらしい。

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野菜は商品である前に食べ物であり、もともと日本の農業はここのようにいくつもの種類の少しずつ野菜を育てるというものだったはずで、一つの農家が一つの野菜を大量に育てて出荷するっていう方向性に変わったのは戦後の話で、それは結局あまりうまくいかなかった。今はその影響もあって農業の就労人口が減っていると考えてる。

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スナックエンドウのアーチ

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トマトのビニールハウス

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中古の農具の試運転で草刈りしてるご主人

ご主人の話

「自分の畑に他の畑の土を入れると、作物が元気になってブワーッと育つとうことがある。土のなかって微生物がたくさんいて、微生物の多様性分析をしている人がいて、その人に聞いた話なんだけど。
土がそれを耕す人の手癖とか性格とかに合った微生物に向いたものにだんだん特化していっちゃうんだって。だからたまにガラッとやり方変えると、微生物が「なんだなんだ!」って混乱して、違う種類のが急に増えたりして、そうなると作物がガーっと良くなったりするから。方法論を同じことで固定していっちゃうと、作物がそれなりにしかできなくなる。
基本的に土の中には色々な微生物がいた方がいい。お互いに鑑賞しあって、病原菌だけがブワッと大繁殖したりしないから。
あとは、そこで育ててた種を急によそで育てて、それで戻したりすると良い」

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おまわり「これで寝てるのか。」

僕「これで寝てます。敷地を借りて、マットを敷いて、寝袋で。」

おまわり「ああ。公園とか、道の駅とか、テント貼ったりしてな、知らない人が寝てるっていう苦情がくるもんだから、そうやって寝てないか聞いてみたんだ」

「ファッションの仕事を辞めようって思ったのは、ちょうどその当時、ユニクロとか、ファストファッションが台頭してきて、日本ではインターネットが普及しはじめる直前の頃だった。すでに会社にはMacが導入されてたりして。そんな中、自分で勝手に想像したファッション業界の十年後は
『自称作家がわんさか出てきて、インターネットを使って自分で好きなように作って売る時代。もうファッションの世界はなんだかよくわからないカオスな状況になっちゃうんじゃないかなぁ。』
漠然と思ってた。
その当時、体調崩すほどがんばって仕事してて、土日も疲れて一日中寝てしまうか、マーケットリサーチに費やして。そんな状況で、10年後、もっともっとこの業界は酷いことになってるんじゃないか、そう考えたら、もうこの仕事にこだわる理由ってあるのかな?離れてしまってもいいんじゃないかな?って気持ちが強くなってきて。
で、悩んだ結果
『10年後、さっき言ったみたいな状況になってしまうと思うんだよね。何度考えても。』って友人たちに訥々と語って、ファッションの世界から身を引いた。
結局モノを本気で作りたかったら、いろんな制約の中じゃなくて、自由に作れる時代が来ちゃう。そのとき、すでにこんな大量消費生産のなかで、(今でこそこんなに苦しいのに)作ることも消費することも、どんどん加速して行ったら、きっと、なんとなくつまらなくなるんだろうなぁ。つまらないところにいても仕方ないし、それより、自分が一番やりたい事は何だろう?って考えた。
デザインよりもアートが好き。真っ先に心に浮かんできて。
苦しみながらデザインの仕事をすることよりも、まっさらな気持ちで芸術を観ることのほうが自分のなかで大事な事だって気づいた。
それで、生活も気持ちも安定した状態で、たくさんの作品を観る機会をもっとつくりたい。今までみたいに疲れて土日寝ちゃうとか、そういう仕事との向き合いかたをしたくないって思った。そもそも、クリエィティブな仕事というのは、ものをつくることだけじゃない、ってずっと思っていて。
例えば、工夫してより簡潔に、誰がみてもわかりやすい書類のフォーマットを作ることだって、クリエィティブなことであって。いつもそう思って働いてきたから、どんな職種でもそれなりに楽しんでこなしてきたと思う。本当にいろんな仕事を経験したんだけど。
ファッションの仕事を辞めて10年後、自称作家という人たちは、予想通り増え続けて、インターネットでのショッピングは日常の事になった。当然だけど、どのジャンルもマーケットはある意味良くも悪くも活性化されたと思う。本当に、良くも悪くも。
今でも、あの頃、友だちと話していたことを思い出す。
『アンダーグラウンドなカルチャーも、そのうちきっと全部オーバーグラウンドになっちゃうんだろうね。もうすでにその気配がじわじわきてる。この怖さってなんだろうね。経験してないからよくわからない。でも、もしかしたら、それはものすごくつまらない状況かもしれないね。』
今がつまらない状況かと聞かれたら、やっぱり答えはわからない。
でも、今はっきりと言えるのは、好きなことを大事に続けてこれたことは、自分にとっては良い選択だったな、ということ。鑑賞を通してしか得られないことがある、と確信を持って言える自分になれたこと」