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さだまさしをよく聞いている。主人公って歌が良い。毎日家賃と食費と光熱費と保険料と税金と年金払うために就職して結婚して子供作って、仕事クビにならないようにして仕事休まないように 風邪ひかないようにしなくちゃってやってたら、自分が主人公だって忘れちゃいそうだ。フリーターのときは忘れちゃいそうだった。だからブコウスキーを読んだんだ。日雇い労働者でも主人 公だったんだな、ブコウスキーは。ウディ•ガスリーもそうだな。そんでニーチェは「自分を笑え」って教えてくれたんだった。

釡石の友達のところにお昼まで居た。疲れを取るためには二度寝が効果的だってことがよくわかった。そんで大槌まで送ってもらって、北上を再開する。
安くておいしいカレー屋があるってきいたのでそこでお昼ご飯を食べて出発しようとしたら、大きなリュックを背負った男の人に話しかけられた。その人は完全に旅人の身なりをしていた。徒歩で歩いているらしく、八戸から南下してるという。
「僕も八戸までは行こうと思ってるんです」
って話をしたら
「大丈夫?情報持ってる?」
といわれた。明らかに旅人という身なりの人から発せられたこの「情報」という言葉から切実なものを感じた。多分「テントをはれる場所」「シャワーを浴びられる場所」といった含みがあるんだろう。
「持ってないです」
って言ったら
「このさき、船越というところに家族旅行村っていうキャンプ場がある。自分は昨日そこでテントを張って、200円でシャワー浴びた」
と教えてくれた。キャンプ場はいままでいったことない。せっかくだから今日はそこに行ってみることにした。その人は別れ際に
「がんばりましょう」
って言ってくれた。この言葉は嬉しい。「がんばって」よりも「がんばろう」の方が元気をもらえる。

そのキャンプ場まで13キロくらい。昨日までと同じようにトンネルがあって歩道が無い山道を歩く。岩手県はトンネルが多い。しばらくびくびくと歩いてたけど、あまりに車の音が大きくてこ わいから、逆に段々と「なんでこんなびくびくしないといけないんだ」っていう怒りに変わってくる。腹が立つ。歩行者がこんなこわい思いしないといけないなんて不公平だ。しかも今日は濃い 霧がかかってて、なんとなく何か起こりそうな感じ。
キャンプ場に着いて、八戸から下ってる旅人に紹介してもらった説明をしたら 「まあ嬉しい」
という感じになって、僕の活動に関しても
「えらいわ~」
という感じになって、なんかよい感じのまま
「みんなの談話室になってる小屋があるからそこ使っていいぞ」
っていう感じに落ち着いた。 僕の他にバイク乗りのおじちゃんが2組テントを張ってた。
このキャンプ場は山の上にあるんだけど、海までおりていくとここらも津波でごっそりと何も無くなっている。一面の荒野という感じ。海をみると景色が素晴らしくて、海水浴場としてすごく賑 わってた場所だったんだろうけど、いまは本当に海と陸しかない。景色が良すぎるのが逆に寂しい。近くをふらふらと歩いてたら、パトカーが近くに停まって
「村上さーん!」
と声をかけてきた。いま家を持ってないのにな。なんでわかったんだ。
「なんでわかったんですか?」
って聞いたら
「勘です」
と答えた。
「国道沿いを、けったいなもん持って歩いてる人がいる」 という匿名の通報があったらしい。それでお巡りさん達は「キャンプ場に行ったんじゃないか」と推理してここまできたらしい。すごい。もはや職質は日常のことになってるので、いつも通り身 分証明書を見せて自分の活動の説明をした。お巡りさんの一人がすこし申し訳なさそうに質問してくるので、なんかこっちまで申し訳ない気持ちになる。
「失礼な話なんですが、この先行く土地で泥棒なんかがあったときのために、靴底の型をとらせてもらってもよろしいでしょうか」
「私も(芸術家とか)そういう仕事につきたかった。こんな人を疑ってばかりじゃなくて(苦笑)」
おまわりさんにも葛藤があるんだろうな。大変だ。がんばってください。
その警官は、別の警官が
「芸術家ならサインもらっとくか」
なんて言って、適当な大学ノートを僕に渡そうとしたのを
「いやいや失礼でしょ」
といって止めてくれた。誠実な人だな。

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「いま住んでいる仮設は山の上の方にあって、とても良いところで皆よくしてくれる。でも震災前はまさかここに住むことになろうとは思ってもみなかった」

と、お父さんが言っていた。流される前の家があったところと、いまの仮設住宅があるところは数キロしか離れてない。ずっと移住している僕からしたらそれはただの「数キロ」でしかなくて、同じ地域のようなものなんだけど、ここに住んでいた人からしたらこの数キロっていう距離は大きいんだろうな。それは自分の実家を思い浮かべればよくわかる。学区が違ったり町会がちがったりするだけで、自分の住んでいるところとは全然違う場所のような気がしたものだった。そういう行政的な区分けとは無関係に動いているんだな。

お昼頃絵を描いていたら気分がわるくなってきた。ときどき訪れるこの吐き気はなんなんだろう。昨日のトンネルのせいなのか疲れてるのかいつものビタミンB不足なのか。すこし横になったら良くなった。いつでも眠れるって環境のときは寝る気にならなくて、眠いときはたいてい眠れる環境にいないのだ。寝た方がいいとわかっても夜更かししたりしちゃうのだよなあ。残念だ。

3時頃に鵜住居を出発して大槌町に向かう。ここにも知り合いが一人いて、今日はその人の家の駐車場あたりに家を置かせてもらえればいいと思って、のんびりしすぎた。そしたらその人と全然連絡が取れず、あっというまに空が暗くなりはじめた。
やばいどこか探そうと思っても、大槌町も津波の被害がひどいところで、一 面なんにもなくなってしまっている。見渡す限り草原と化している。休日なので復興工事も休みらしく、ひと気がない。ツイッターで「家の置き場を探していま す」って呼びかけたりしたけど特に収穫もなくて、家と一緒に呆然とたたずんでいたら釡石の友達から
「最悪、家はどっか置いてうちきてもいいよ」
というメールがきた。「救世主だ」と思った。「ヘルプ」というメールを返した。
そしたら1台の車が近寄ってきて
「子供と写真とってもらってもいいですか」
と、子連れのお母さんが話しかけてきた。すかさず家を置けそうな場所を探している事を相談したら 「すぐ近くに一般の車も停められる大きな駐車場があって、そこなら置いといても大丈夫だと思う。敷地っていっても、ここらは津波で流されちゃって敷地も何も ないような状態だから、どこ置いても大丈夫だと思うけどね」 という。たしかに、こんな草原と化したようなところで「家を置く敷地を探している」っていうのはなんかおかしいというか、皮肉な話だな。
その駐車場に行ったら、なんか人がぞろぞろと集まってきてみんな写真を撮りまくってくる。そこは大槌町役場の仮庁舎だった。明日までだったら置いといていい よと言ってくれた。
そのあと釡石の友達に車で迎えにきてもらう。ありがたすぎる。そして車は本当に速いな。

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釜石のほほえむスクエアで家の修理などやっていたら、大船渡在住の人が二人わざわざ訪ねてきてくれた。コーヒーを飲みながらお話。家を背負って歩いてると体幹が鍛えられる気がするという話をしたら

「そっか。体が大黒柱になるわけだから鍛えられますね」

と言われた。そうだな。僕の体がそのまま家の大黒柱になるんだ。生活をささえるのは、文字通り僕の体なんだな。それはこの移動生活に限った話じゃない。

ほほえむスクエアを出て大槌町へ向かう。11キロくらいしかないんだけど、途中に1.2キロのトンネルがあって、そこで気力を削られた。入った瞬間から「なんかここ嫌な感じだなあ〜」って思ったんだけど、すすむうちにどんどん汗をかいてきて、思考がなぜかネガティブになって、油断したら死について考えちゃって、負けじと音楽をかけながら歌を大声で歌って(でも油断したらどんな歌詞でも死にまつわる内容に解釈しそうになる)なんとか乗り切る。疲れて発狂しそうになった。でもトンネルを抜けたとき生まれ変わったような気持ちになって清々しかった。何かを取り込んだような気がして、しばらくからだのバランスをとるのがむずかしかった。でも勝った。勝ったぞ。何に勝ったかはわからないけれど。

 

トンネルを抜けてわりとすぐ、車にのった家族連れに話しかけられる。近くで「沢口パン」ていうパン屋さんをやっている家族で、すこし事情を話したら「うち泊まっていいぞ」て言ってくれた。

店は鵜住居っていう面白い地名の場所にあった。来客ノートに絵を1枚描いた。

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ここも津波の被害がひどい。震災前は建物もたくさんあったから海なんか全然見えないところだった。でも震災後は何も遮るものがなくなって、こんなに海は近かったんだと思い知ったという。地震のあと、まさかここまで津波が来るとは思ってなくて、でも海の近くの電柱から順番に倒れていくのが見えたから急いで逃げた。という。恐ろしい。

ここは地面を19.5メートルまでかさ上げするらしい。それが終わるのはいつになるのかよくわからない、でも待つしかない。いまの仮設もいずれ出て行かなきゃいけない。仮設住宅も維持費がかかるので、まだ仮設暮らしを続けている(これも本意ではないはずなのだけど)人を集めて、空になった仮設は取り壊すっていう段階になりつつある。パン屋にはカフェが併設されていて、それは震災後にはじめたらしい。以前からやろうという話はあったけれど、震災後に山の上に建てられた仮設から出られず閉じこもっている人たちをみて、人が集まるところはあったほうがいいということではじめたらしい。

夜は家をトラックの中に入れさせてもらい、僕は仮設住宅内にある談話室で寝かせてもらう。大船渡以来二度目だな。

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そういえば昨日、家を置いた仮設商店街に店を構える写真屋さんが一枚写真を撮ってくれた。ちゃんとライティングもして。それを今朝現像して持ってきてくれた。面白い写真にな ってた。

午前中絵を描いていたら、2年くらい前に陸前高田で知り合った友人からツイッターで連絡がくる。なんと釡石に住んでるらしい。なにがあるかわからないな。
さっそく落ち合って、昨日に引き続き釡石ラーメンをたべる。以前やっていた仕事は体調を崩してしまって辞めたらしい。彼女は、前に会ったときよりもなんとなく力が抜けてリラ ックスした感じになってた。いま思うと、復興にむけてがんばるぞーって感じですこし力が入ってのかも、なんて話をする。越喜来の潮目の話をしたら「ぜひ見たい」というので、 いったん家だけ釡石の「ほほえむスクエア」というキッチンカーが集まってる広場に置かせてもらう。
ここも面白かった。ハピスコーヒーという店の前に置かせてもらったのだけ ど、そのオーナーはもともと東京で副業でコーヒー屋をやっていて、震災後にこっちの仮設住宅を車でまわってコーヒーを振る舞う活動をしているうちに
「あなたのとこのコーヒーが飲みたいのだけどどこにいるのかわからない」
という話になり、定点を持とうとしてこの「ほほえむスクエア」という広場でやりはじめたらしい。仮設住宅をまわるコーヒー屋さんって良いな。家の近くに定期的に店がやってきたりイ ベントがやってくると生活に新鮮なリズムが生まれて、たとえ家に閉じ込められたとしても発狂するのを食い止められそうだ。家族で遊園地に行って自分だけメリーゴーランドに乗ると自分はまわってるけど母親は同じところにたってて、その前を通り過ぎる時が楽しくて手をふっちゃうみたいな感じだ。本当に一人でメリーゴーランド乗ってるだけだとただま わってるだけでつまんないんだけど。で、定点をもった後もキッチンカーのままなのが良いなあと思った。
「まわる」ってのは良い。直線的に移動するんじゃなくて、ある周期でまわりつづけるってのは良い。移動しながらその場に留まる方法のひとつ。レコードを聞く時、レコードその ものは動いてないけどそれは回っているから針があたる点は動きつづける。そしたら音楽が流れる。面白いなー。永遠に動きつづけるためには直線じゃだめだ回転しないと。

彼女に潮目を見せたらやっぱり感動してくれた。その足でわいちさんの家に行って奥さんと一緒に七夕の飾り作りを手伝った。最初に顔を合わせて
「なんで戻ってきたのー」
って言われた時はどきっとした。もう過ぎた事が突然戻ってくるのはレコードの音が飛ぶのと同じだ。

帰ってきたら釡石災害FMのパーソナリティの人がコーヒー屋に来ていて、急遽ラジオにでることに。そのままスタジオに行って収録してきた。話してたら予定の30分をあっとい う間に超えた。いまならいくらでも話せるような気さえする。夜はそのままほほえむスクエアに家を置いて、友人の家に泊まる。

一つ年下で、めちゃ良いキャラをした共同通信社記者の女の子に出会ってどきどきした。あんな感じで
「共同通信のものです」
って言われたらどきっとするわ。

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「受け取る」ということは能動的なアクションだと思っているから、作品から受け取った内容は即ち その作品が「言いたかったこと」になると思っているのだけど、どうも自分には少なからず「こう見 られたい」「すごいと思われたい」みたいな気持ちがあることに気がつく。でもそういう気持ちを持 ってたら疲れるだけだってことがよくわかってきた。疲れるから、頭が自然にそういうことを考えな くなりつつあるのがわかる。どう思われても構わないから自分のことは聞かれないと答えないし、少 し話して相手にどんな誤解があっても「もういいやー」って感じになりつつある。

今日こそ吉浜を発つ。2キロ以上ある長いトンネルがあるからって、お父さんが軽トラで途中まで送 ってくれた。助かった。2キロのトンネルは歩いてたらとてもきつかっただろうな。トンネルの中は 音が反響するから、後ろからくるトラックがいまどのくらい近いのかとか、この音はもう僕を追い抜 いたトラックの音なのか、それとも後ろからまだトラックが来ているのかとか、そういうのが全然わ からない恐ろしいところだ。
吉浜では結局3泊した。超オープンマインドな家族で、赤の他人の僕 でもトイレを使ったりお風呂に入ったりするのがあまりにも普通のことのような気がするので可笑し くなった。心に裏表が全くない感じ。

すぐに釡石市に入った。ここも海抜が低い土地に家やら店やら工場やらがたくさん建っていたのでか なり被害が大きかったみたい。瓦礫を集めた山もまだあった。釡石の市街地に入ったあたりで女性二 人に呼び止められる。僕が東京から出発したことを知ったら
「私たちも横浜から越してきたばかりなんですよー」
と言う。なんか面白そうな人たちだと思って
「二人はどういう関係なんですか?」
って聞いたら
「幼なじみです」
という。面白そうな二人。もっと話を聞きたいから今日は釡石に泊まろうと思い、一晩家を置かせて もらえそうなところはないか相談したら、青葉公園というところにある仮設の商店街なら大丈夫かも と教えてくれた。1時間後にそこで待ち合わせることに。
商店街のラーメン屋で釡石ラーメンなるものを食べながら二人と話す。二人は部屋をシェアしながら 暮らしていて、震災前にも関西で一緒に住んでいたことがあるらしい。3年ぐらいで住んでる土地に 飽きちゃうらしく、僕の活動をみて「私が望む究極の暮らし方だ」って言ってた。 神奈川に住んでいたとき、岩手に引っ越すから仕事を辞めたいと職場に相談したら 「結婚するの?」と聞かれたという。そりゃそうだ。僕も香川県に引っ越す時に何人かに聞かれた。
「そこに仕事があるから引っ越す」とか「お嫁に行くから引っ越す」とかは、皆ストンと納得するん だけれど「そこに住んでみたいから引っ越す」とか「ここが嫌だから引っ越す」というのはどうも納 得しにくいらしく、職場のみんなに心配されたという。
「その年で生活を移すということにどれだけ リスクがあるかわかってるのか」とか「子供をつくれる年齢は限られてるんだぞ」とか。みんなこわ いんだ。いまやらせてもらっている仕事を手放すことになったり、自分が積み重ねた人との信頼関係 が壊れてしまうんじゃないかって思うんだろう。そんなレールから落ちないようにするために自分の 命を使うように仕向けることによってこの経済は大きくなってきたんだろう。積み重ねたキャリアや らのぼりつめたポストやらを手放したら1から出直すことになるんじゃないか、そうしたら自分は何 者でもなくなるんじゃないか。それがこわいっていうのもあるかもしれない。だからみんな心配する し、自分がそうならないようにするためだけに人生を使う。
でもこの二人は、一見とっても軽いノリで「ここに住みたいと思ったんですよ」って言う。思いだしたら、もういてもたってもいられなくなるんだろう。狩猟採集民族の血が流れてるんだろうな。 農耕民族ではなく。まだ引っ越して1ヶ月ちょっとで、このあたりのことは全然わかってないし仕事 も始めたばかりで「これからどうなるんだろうね」って顔を見合わせていた。毎夜二人で「私たち、この方向性でいいよね」という話し合いをするらしい。お笑いコンビみたいだな。この態度は強い な。どこででも生きられるだろうなと思った。
別れ際に「個展見に行きます」って言ってくれた。また会いたいな。変な言い方だけど、同じ種に属 する生物に出会ったような気がした。同志だな。

夜買い物に出かけて帰ってきたら、釡石の高校生二人に話しかけられた。美術の道に進みたいらしく、歩く家の目撃情報を聞きつけて1時間くらい僕をさがしていたという。がんばってほしい。

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吉浜は人口が増えなかったせいもあり、海の近くには家がなかったため、津波で巻き込まれた家はなかったらしい。海抜が低いところには家が一軒もない。ほとんど田畑になっている。田んぼは当然被害を受けたらしく、まだ赤茶色の土をしたつくったばかりのようだったけど、もうしっかり田植えされていた。家が流されたりしてないか復旧が早いんだろうな。昔からある家はやっぱりどれも海から離れたところに建っている。ただ今回の津波で一人だけ犠牲になったという。昭和の津波の時に、流されたまちのみんなの舟を津波が来るなか泳いで回収してきた伝説の人がいて、そのひとが今回の地震で海の近くの小屋を見に行ったときに津波にやられてしまったそう。

今日ここを出発する予定だったけれど「明日までいたらウニが食えるぞ」って言われてもう1日いることに。朝家族でウニをとってくるという。贅沢だなあ。家族でとるのは気楽だけど、専業で漁業をやってる人は生活がかかってるからウニをとるときとかも何秒で何個取るみたいな意識でとるという。そりゃそうなるな。〜秒でこのペースなら〜万円、みたいな感じなんだろう。パチプロみたいだ。もうひとつ面白い話をきいた。三毛猫は遺伝子の関係でほとんどメスしかいないのだけど、ごくごく稀にオスがいる。そして三毛猫のオスは大漁を呼ぶという伝えがあって。人によっては200万円くらい出してでも買いたがるらしい。

舟の上で暮らすことに少し憧れる。舟は海の上を浮かんでいて住宅みたいに基礎で固定されてない。そして僕の曾曾おじいちゃんは淡路島で船大工だった。船大工と聞いてなんとなくピンとくるものがある。今の自分と無関係とは思えない。

集団的自衛権の解釈変更が閣議決定で成されたらしい。で、今日も昨日に引き続いて首相官邸前で抗議活動があったよう。震災以降デモが身近になっている気がするけど、今回ははじめて「震災とは直接関係無い話題」に対する抗議活動が盛り上がった気がして、もうデモは誰もが参加できるような感じになったのだなと、思ったけどこう書くとこれは第三者目線で偉そうな感じがして嫌だな。お前はどの立場からそんなことを言ってるのだ、出来るのだってことがあまりにも多くて麻痺してしまいがち。

今日は家は動かさずに、吉浜の家の絵を描いたり近くを散歩したりしてた。夜に友達と電話などする。その人も2日連続でデモに参加していて、帰り道に強い無力感を味わって悲しくなったらしい。デモに初めて参加したけれどそのさなかに「こんなことやって何になるのか」っていう気持ちはずっとあったと。でも何かできるときにやっておかないとって思って参加していたらしいけれど、それによってなにか現状が変わるわけでもなく、悲しい気持ちになったらしい。で、僕は陸前高田の佐藤たね屋さんと、越喜来のわいちさんの話をした。佐藤たね屋にも、わいちさんの潮目にも希望しかなかった。

「男なら見とけ、アルミ缶のふたがジョイントの金具になるんだ。そしてこれは、震度7でも壊れない」

今思い出しても泣きそうになる。砂埃が舞いダンプカーやらショベルカーやらの大型重機の音で騒々しいなか、佐藤さんは大きな声で話してくれた。その一言一言の切実さはまるで言霊が飛んでくるみたいだった。その時感じた希望は、そのまわりの景色に乱されることが無かった。彼のその短い言葉と、かれが瓦礫でつくった小さなビニールハウスは、復興のために土地をかさ上げするべくたくさんの重機が動いて何百何千トンっていう土が盛られていく景色よりもはるかに強くて純粋な希望を感じた。

彼からしたら、なんともならない最悪の事態なんて存在しないんだろう。生きるための小さな工夫の積み重ねによって、あらゆる災害は克服できるって言ってるみたいだった。土を10メートルも盛る必要は無いし、海が見えなくなるまで堤防を高くする必要もない。ただアルミ缶のふたをジョイントの金具に転用して、水道がとまれば土を5メートル掘ればいいって言ってるみたいだった。その小さな工夫だ。

みんなが家をあるいは店を流されて、これからどうしようって呆然としているとき、彼は流された店の基礎の上にプレハブ小屋を建てて一人で営業を再開したのだ。

「俺はこれで生計がたてられてるから大丈夫なんだ」

って言ってた。

潮目のわいちさんは、自分を勘定にいれることをしない人だった。例えば「落ち込む」ためには、自分を勘定にいれる必要がある。目の前の悲惨な状況の中にいる一人として、自分を数に数える必要がある。そうしないと落ち込むことはできない。でもまるで彼は、その状況の中に自分はいないかのように、まるで世界には「他者しかいない」かのように考え、行動しているみたいだった。人のための人だった。そんなこと可能なのか。こんな人が本当にいたのだ。すごい人に会ったと思った。潮目は、そんなわいちさんが子供を始めとした町のみんなのためにつくった遊具兼資料館。遊具と資料館を兼ねた建物なんて聞いたことない。その造形のひとつひとつや遊ぶにあたっての注意書きがいちいち心に刺さった。

例えばブランコは、瓦礫だった長い柱に、同じく瓦礫だった船をぶらさげてつくってある。わいちさんは「船酔いするから気つけろ」って言ってた。そうか船だからそれは船酔いになるのか。すごい。ただのゴミになってしまった船がもう一回生まれ変わったみたいだ。

例えば注意書きは「自分ができることを他の人みんなができると思うな。無理に誘うな」とか「後輩と女の子には特にやさしくしろ」とか。そういうことが書いてある。やさしい。

 

そんな希望しかない二人のおじちゃんの話をしたら、電話先の友達も泣きそうになったらしい。ありがとうっていってくれた。あんな希望を見せつけられてしまったら人に伝える義務があるな。伝えなくちゃな。

 

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今日は天気が良い。昨日雨で諦めた夏虫山と呼ばれているところに連れて行ってもらう。ここも素晴らしいところだった。もとは牛の放牧場だったらしいのだけど、原発事故以来、牧草の線量の問題で放牧することができなくなって、いまはただの草原みたいになっている。とっても見晴らしがいい。大きな岬が3本きれいに見える。岩手県の海岸沿いがうねうねしたリアス式だってことがよくわかる。ここからみると越喜来のまちも小さい。

2時頃いよいよ越喜来を出る。4泊した。これでお別れ。また別れだ。でもまた会うだろう。わいちさん夫婦と潮目の前で別れたあと、京子さんが来た時と同じように車でしばらく追っかけてくれた。この人はこの4日間でいったい何枚写真を撮ったのだろう。自分でパパラッチだって言ってた。そういう役回りなのだ。いいな。

今日はここから7キロくらい北上したの吉浜というところに向かう。そこに大船渡の知り合いの妹さん一家が住んでいて、紹介してもらった。でかい家だった。犬が1匹、猫が6匹、フェレットが1匹、亀が1匹いる。そしてまわりに家がない。そばに川が流れている。水道は井戸水らしい。賑やかな家族で、ご飯を食べるとき僕はほとんど話さずとも、みんなの会話を聞いてるだけで参加したような気分になった。特に二人いる娘さんは両方とも、自分の会話の出だしから終わりまでをあらかじめ決めているかのように、理路整然としてはっきりと大きな声で話してて、聞いてて気持ち良い。

夜、インターネットで集団的自衛権の解釈変更に対する首相官邸前抗議が盛り上がってる様子の映像をみていた。僕は自分がそこに行けないことが悔しくて、せめて見守ろうと思ってみていたのだけど、そこにたまたま、イースタンユースの吉野寿さんが映り込んでいた。彼も他の人たちと同じようにメガホンをもって「アベはやめろ」っていうコールをしていた。その絵はけっこう衝撃的で、ふだんyoutubeでみているイースタンユースのライブ映像の、あの叫び狂う吉野さんではなく、純粋に1市民としての吉野さんだった。そうだ。デモに参加するっていうことは一粒の砂になることなのだな。また友達のシンガーソングライターが自分のツイッターの(半ば宣伝用の)アカウントで今回のデモがあることを拡散していて、それに対してファンから「そういう呼びかけをするあなたにはがっかりです」と言われていた。そういう政治的なことと、普段の音楽活動とは分けて考えてくれとでも言うかのように。例えば投票した候補者が中の良い友達と違ったら、あるいは好きなアーティストと政治思想が違ったら。その友達にがっかりしてしまったり、そのアーティストの作品が嫌いになるのか。音楽家は音楽だけやってればいいのか。そう考えてしまうってのは、あたかも「日常」が存在するかのように思っているからだろう。自分たちのこの日常は、他と切り離された確固たるものとしてあるっていう幻想に取り憑かれているからだろうな。それは普遍のものとして今まで永久に存在しつづけてきて、これからも存在しつづけるって無自覚に思っているからだろうな。選挙で投票する候補者を友達や家族と議論するっていう育ち方をしてこなかった。他の人がどうだったのかわからないけれど僕のまわりの様子を思い出すと、選挙が近づくと「選挙には行きなさい」とは言われるけれども、誰に投票するかっていうのは、さも絶対に口外してはいけない爆弾みたいな話題として扱われていたイメージがある。それがその人と違ったら、関係がこじれてしまうんじゃないかとか、そういう不安があったのだと思う。それは、日常を絶対視していたんだと思う。でも震災以降それはどうもおかしいというかそのころの呑気のせいでこんなことになってしまったのだって思って、友達とも不慣れながら選挙の話をしたり政治の話をしたりするようになった。だからその友達のミュージシャンがデモのことを拡散していたのを知った時はとっても嬉しかった。ファンに「がっかりです」なんて余計なことを言われなくとも、拡散することに対する葛藤はあったんじゃないかと思う。久しぶりに会いたい。

土地独特の古い家を描いてるとか、どこにも務めないで放浪するためにやってるとか、そんなこと一言も言ってない。人間は本当に自分の想像力の範囲でしかものごとを理解できないし、自分が聞きたいと思えることしか聞かないな。その他は聞いてるふりしてるだけだな。こんなことで怒ってる場合じゃない。大竹伸朗さんが宇和島に暮らしはじめた覚悟を考えるとまだまだ。いとうせいこうさんも同じようなことで嘆いていた記憶がある。プライドを捨てるのだ。なにを言われてもいいって最初に決めたはずだ。最初からわかっていたはずだ。こんな一人一人が言う内容は問題ではない。問題はもっと大きなところにある。そいつしか相手にしちゃいけないんだ。ニーチェも言ってた。自分の剣は大きな敵のためにとっておけって。小さな敵に使って錆びさせるなって。一人になるであろうことはわかっていた。移動を常態化するということは。少なからず放浪だとか、旅だとか、自分探しだとか、そういう未成熟な状態と結びつけられることははじめから予想がついたはずだ。めんどくさい。あーめんどくさい。

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今日ツイッターで
「近くをお立ち寄りの際は敷地内をお使いください」
と僕に声をかけてくれた人がいた。いいな。良い挨拶だな。この挨拶がもっと一般化しろ。敷地を人に貸すことが普通になってネットとかでそういう仕組みができたらいろいろ面白いことが起こりそうだ。人の敷地を借りて移動する家の仕組みとか面白そうだな。革命がおこりそうだ。べつに毎日移動しなくてもいいのだ1ヶ月とか1年とか契約期間をもうけて人んちの庭とか駐車場に自分の家をつくってすむ。家は敷地と箱と基礎でできてる。わけて考えれば楽しいことがおこりそう。

今日は日曜日で、天気がよかったら越喜来のみんなが夏虫山というところに連れて行ってくれるという話だったけれどあいにく1日中ひどい雨が降り続いて外なんか出れたもんじゃなかった。それでもわいちさんの妹さんの京子さんが、滝に連れて行ってくれたり、津波で流されて新しい場所に建設中のとまり地区の公民館をみせてくれたりした。そこで知り合った人が越喜来でほぼ自給自足の生活をしていた河内山亨さんという画家の画集を見せてくれた。完全に独学で絵を描いていたらしい。「牛を彫る百姓」という絵があって、これがとても良かった。河内山さんもいわば百姓だ。そんな人が、同じ村の百姓が牛を彫っているところを絵に描いている。そこでは絵も彫刻も土に根ざして自然に制作されているように感じられてとても良かった。

そういえば滝に行った時に支援活動で来ている大学生グループも一緒に行ったのだけど(というか彼らが「滝に行く」というので案内を兼ねて行ったのだけど)、彼らは車からおりたところから眺めようとするだけで、沢のしたまでおりて行こうとしなかった。道路から5メートルくらい山の傾斜を降りないと滝はちゃんとみえない。確かにすこし急な斜面でおりるのにテクニックというか、少し勇気はいるのかもしれない。でも全然降りれない場所ではない。たぶん汚れるのを嫌ったのだろうと思う。すこし雨も降っていたから地面は湿っていて泥っぽかった。でも彼らはここらの地区の「まちづくり会議」なるものに参加するためにわざわざ訪ねて来ているはずの大学生たちなのだ。公民館の工事を手伝ったりもしたらしい。そんな"まちづくり"のために来た人たちが「滝が奇麗だからぜひ見て行ってほしい」って地元の人が案内してくれているのに降りてこようとしない。いや別にいいんだけど。

降りてみたら滝はとても奇麗だった。超でかくて凄いっていうわけじゃないけれど、地元の人が「俺はあそこ

好きなんだ」って言うのも頷ける。それなりに大きくて奇麗な形をしていて、滝のすぐ近くまで行ける。気持ちが良いところだった。ただ、ゴミがたくさん落ちていた。みんな道路から落とすんだろう。発泡スチロールの箱やら空き缶やらタイヤやらテレビやらがごちゃごちゃと落ちていた。僕らはそれをそれぞれ持てる分だけ持って引き返した。そのゴミを学生たちに見せつけてやろうかと思ったけど道路にあがったらもう彼らはいなかった。まじか。まちづくりってこういうところから始まるんじゃないのか。まして外部からきた人が町づくりをかんがえるんだったらなおさらだろ。地元の人が「よいとこだよ」って言ってたところをみてまわるとか、それこそゴミ拾いとか。そういえばわいちさんは「滝に行きやすいように遊歩道をつくったらいいと思うんだけどなあ」って言ってた。こういうところからまちづくりって考えるべきなんじゃないのか。こういうところから考えないから「復興」なんて大それた名前のもとに、とんでもない規模の工事がはじまっちゃったりするんじゃないのか。かなしい。だからあんな海が見えないくらい高い堤防を建てることになっちゃったりするんじゃないか。ていうか海が見えなくなったら津波が来るのも見えなくなるだろ。高い堤防に安心して逃げない人もいそうだ。

そんなこと考えながら家に帰る。そしたらわいちさんが、ぐさりとつきささることをさらっと言う。

「行政とか観光協会の側(←このへんうろ覚え)が『ダンプが通るから気をつけて歩くように』って歩行者や子供に注意を促すのは少しおかしい。車のほうで注意させて走らせるべきだ。柵をかけるとか、先に人の安全を考えてから車をはしらせるべきだ。そういうこと考えてないんだなあ。」

という。うわ。そうだその通りじゃないか。だって誰のための工事なんだ。そういえば津波の被災地に入ってから、工事車両のせいで死亡事故がおきているという話をよく聞くようになっている。なんでこんなことになるんだ。復興工事をやっているせいで人が事故にあうなんて。

また

「学校行事で子供にゴミ拾いさせるのはおかしい。捨てるのは大人なんだ。それを子供に拾わせるなんて。子供と一緒に大人と拾うとか、町会で主催して子供にも参加してもらう形をとるとか。そうしないといけないのになあ」という。

また

「この町の人が、山に行けば山菜がとれて海に行けば魚がとれるっていう暮らしは、とても贅沢なものだっていうことに気がつかなくちゃいけない」

という。なんて切実な言葉だろう。こんな台詞が、まさにその町に住んでる人の口からでてきた。

今夜はわいちさん一家の、物置として使っている部屋に寝かせてもらう。

ずっとわいちさんの名前をだしているけれど、その奥さんもすごい。わいちさんを支えている。かっこいい人。本当にかっこいいとしか言いようがない夫婦だな。こうやって思い出しながら書くだけで泣きそうになる。最近泣きそうになってばっかりだ。

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ここらは越喜来の南区というところで、わいちさんは越喜来南区の区長らしい。すごい区長だな。こんな区長ならどこまでもついていきたい。ここらも復興という名目でやたら大げさな工事が行われている。陸前高田と同じだ。堤防が高くなって海が見えなくなる。まちの人たちは一人一人の声が届かないことにうんざりしている。わいちさんは「ここ1年で一気に景色が変わりはじめたなあ」って言ってた。

今日は、津波にさらわれた跡地に花壇をつくり羊を放牧する「リグリーン」という試みで作られた花壇を別のところに植え替えるという作業を手伝った。なんでもこの花壇のあるところがかさ上げ用の土砂置き場になるためやむなくうつさなくてはいけないらしい。なんか陸前高田でもこんな話を聞いたような。。で、高校生が40人くらいボランティアで来ていて僕もそこに混ざった。みんなえらい。友達と話したりしながらも、ちゃんと土をさわって作業をしている。女の子が多いなあと思って聞いてみたら、そもそも女子の方が多い高校らしい。そんな女子高生二人とすこし話をした。その二人は高校にあるJRCという部活のメンバーで、普段から老人ホームのお手伝いなんかのボランティア活動を部活動としてやっているらしい。岩手県はそれがとても多いらしい。そんな部活があるのか。偉すぎるな。

お昼休みのとき、高校生達が誰に言われるでもなく潮目に集まって遊びはじめたのがすごく良かった。「ここから登れる」とか「そこ滑るから気をつけて」なんて声があちこちから聞こえた。すごい。潮目は、公園にあるアスレチックとかジャングルジムみたいな洗練された安全な遊具ではないのだ。釘も飛び出してるし、床も抜ける可能性がある。木登りしてるみたいに、あるいは山の雑木林を降りるみたいに遊ばないといけない。そこが楽しいんだ。注意しないと下手したら釘が頭に刺さったりもする。それで破傷風とかになって死んじゃうかもしれない。でもそこが楽しい。ここをこう通るとか、ここには登れないとか登れるとかっていうものが設定されていない。基本的に「自己責任で遊んでください」っていうもの。だから「そこ滑るよ」とか「こっから登れるよ」とかっていう会話が自然と生まれる。すばらしいな。わいちさんもごく自然にその中にとけこんでいって「そっから入れるべ」とか「これが滑り台になっててな…」なんて言って笑っている。良いなあ。

あまりにもみんなが集まっているから、そのまま集合写真を撮ろうと先生や大人達がカメラを構えて「こっち向いてー」とか「こっち集まって」とかって声をかける。うん。すごくその気持ちはわかる。写真に残してあとで見返すのも楽しいと思うし、それは活動の報告としても必要なんだろう。でもその写真をとるためにわいちさんや高校生たちが笑いながら話したり遊んだりするのをちょっとでも中断するのはすこし悲しい。「こっちむいてー」なんて言わずに、遊んでる姿を撮るだけじゃいけないのか。ていうか記録写真てそういうために撮るんじゃないのかな。写真を撮るために、そのときの行為を一旦中断してこっちを向かせるってどうなんだろう。そのままあえて写真には残さずに遊ぶだけ遊んで、記憶だけに刻み付けておいてほしいという気持ちもある。まあでもこれはすごく個人的な考えなんだろうな。写真とるのも楽しいしな。どっちでもいいな。

夜は南区公民館で寝かせてもらう。越喜来のとまり地区というところを手伝いにきてる東海大学の学生たちも一緒。でもほとんど全く会話をしなかった。こういうとき「何しにきてるのー?」とかって話が自然にできればいいのだろうな。