「リベラルファンタジー」という言葉をイスラーム映画祭の藤本さんのレクチャーで知った。『ムスリム女性に救援は必要か』という本で登場するらしい。「普遍的人権擁護」の美名のもとに、「ヒジャブは女性差別の産物だから脱いだ方がいい」などとムスリム女性に啓蒙することは「リベラルファンタジーの強制」なので、もっと「現実に即した公正さを提唱」する内容の本みたい。読みたい。
家父長制的で化石みたいな価値観の家庭環境で暮らしていて、ある視点から見ればとうてい許せないような扱いを受けている女性がいるとして、当人が「お母さん」「奥さん」としての振る舞いに幸せを感じているのであれば、「あなたの幸福は間違っている」とその人に言う権利は、誰にもない。とはいえ、これで何かを解決した気になることは、問題から目をそらしているとも言える…。

⚫︎複数人でひとつのプロジェクトに取り組むさいに、それを進めるなかで起こるひとつひとつの物事/出来事に対して、「できる・できない」だけでなく「やりたい・やりたくない」といった暗黙の判断基準を仲間内で共有できていること(もっと単純に言えば「バイブスがあうこと」)が、チームとして楽しく活動するためには重要だった。「いますぐやったほうがいい/やったほうがいいけど、後回しにしてよい/今必要ではないけどやりたい/必要だけどやりたくない」などの細かい選択肢をひとりひとりがリラックスした状態で選択できたほうが、創造的にプロジェクトを進められる。
「これができてないです」と人に指摘したり、「これができてなくてごめんなさい」と謝ったりするのは、プロジェクトを円滑に進めるためには仕方のないことかもしれないが、すべてをその基準にあてはめてしまうと、最終的には人間の価値は「できる」と「できない」だけで測れることになってしまう。すると「できない人」が発生してしまう。「できる人」「できない人」という二項対立ではない状態に持っていくこと。つまり「ありがとう」「ごめんなさい」だけではない関係を作れるかどうかが肝。
心がリラックスした状態のほうが、創造的な気持ちでいられる。この意味で、「反省」は時に毒になる。スターバックスで支払った100円がイスラエルでミサイルに代わっているかもしれない、ということを椿昇から10年ほど前に教わったとき、私は自分の無知に愕然としつつも、「そういったことを知るのはおもしろい」と感じられた。おもしろいと思えたから、この問題を自分ごととして考えられた。「反省しろ」と糾弾されていたら、私の心は萎縮してしまって、自分の問題として考えるのは難しかったと思う。飼い主の顔色を伺う犬みたいに、自分の言動に「間違い」がないかということばかりを気にしてしまい、ついにはぷっつんと切れてしまって、「うるせえ好きにやらせろ!」と怒り出していたかもしれない。反省ではなく、「発見」とみなしたほうが、主体的な(つまり創造的な)心持ちでいられる。なによりも、心が萎縮しないことが重要だった。そのほうがいろいろなことに気がつける。

⚫︎美術館や芸術祭における「ラーニング」の役割がひとつはっきりした。まず「集まることが重要だ」という暗黙の前提がある。そして人が集まる口実に芸術(作品)を「使う」のがラーニングである。あるいは、「作る」という営みを「作家」だけのものにしないための実践である、とも言える。
出自や年代、価値観の違う人どうしが集まるには、まず“共通の話題”が必要である。芸術作品はその役割を自然に担ってくれる。なぜなら芸術家は、私たちがふだん見過ごしている社会や人間の問題を、作品というかたちで「問い」として提示する専門家だから。そして、その問いには正解がない。なので、誰も間違えることがない。だからこそ、「ここが面白い」と話し合えたり、同じ手法で何かを作ってみたりするにはもってこいだった。
→その対話や体験は、社会の問題を自分の言葉で考え、自分ごととして捉えるための練習になる。小さな“自分の問題として考える”ことの積み重ねが、やがて自分が住む街の出来事を、他人事ではなく自分の延長として考える力につながっていく。芸術の力を民主的なものに解きほぐしていくイメージ。

⚫︎29日の「あいち」のイベントでの発見。グループディスカッションのような場でのファシリテーターの責任の大きさ。
共通のテーマがないまま、初対面同士でグループディスカッションを始めてしまうと、「自己開示」になりやすく、本人も実は望んでいないほどの自己開示を自分でやってしまうことにつながったりする。前段のレクチャーを受けての感想シェアという立て付けはよいが、最初に「なにについて話すか」をグループ内で決めておくべきだった。

オンライン会議、誰かが話している最中にカットインする気持ちで臨まないと、一度も発言できないまま終わる。気がつけば終わっている。他の参加者の発言に刺激されて、そのつどいろいろな考えが僕の脳内を駆けめぐり、「これは発言に足る内容だ」と思えるものもときどき頭をかすめるのだが、誰かが発言を終えるとすぐに(あるいは終わらないうちに)他の人が発言して会議はどんどん進んでいくので、「これはこの人の話が終わったら発言してみようかな」と思っていたトピックも、気がつくと過去のものになっており、僕自身も新たな話題に関する新たな発言にまた感化されて別のことを考え始めてしまい…という繰り返しがおこる。特に人数の多いミーティングでおこりやすい。まず人の息遣いや視線がわからないので発話のタイミングが掴みにくい。大縄跳びに飛び込む機会を伺っていたら他の人たちにあれよあれよと追い越されていき、気がつけば入れてないのは自分だけ、みたいな感じだ。こうなってしまう原因には、オンライン会議という場の性質のほかにもうひとつ考えられる。この2年間、ひとつの団体に属して、「半分組織人」のような形で長期間仕事をしてきたけど、自分は「他の人」や「組織」に対して、このイベントの進行はこうしたほうがよいとか、この文章はこういう方向性に修正したほうがよいとか、そういった意見を、つまり他の人間の行動や思考に影響を与える内容を、直接的に言葉にして出すことを極端にこわがっている。苦手だ。たぶん、すごく。僕が自分ひとりの責任で行なっていることを、他の人が見たり読んだりして影響を受けてくれるのはとても嬉しいし、自然に受け入れられるのだけど、「自分の実践」を経由せずに、他の人に対して言葉を使って直接意見を表明することにつよい抵抗感がある。小学校のときからそうだったかもしれない。一人でもくもくと工作をして、その出来栄えや作業の仕方を見せることを経由して、友人たちや先生に、自分が大事にしていることや思いを伝える、ということばかりやってきた。ようするに陰キャだったのである。人が作業しているところをみて、そのやり方が間違っているように感じられても、「こうしたほうがいい」と言うことはできなかった。この性癖は変えてみてもいいかもしれない。いわばこの「傾き」が私をここまで育ててくれたことは事実だし、よい面もあると思うけど、気がつけばもう37歳になっている今の僕には、果たすべき責任が、つまり多少他の人の言葉を遮ってでも、発言すべきことがあるのかもしれない。一にも二にも言葉によって他人に影響を与えることをこわがってしまうのは、その結果問題が起きたときの責任を回避したいという弱さもあるんだろう。よくないかも。このモヤモヤをずっと気にしているから、ここ数年のいちばんやりたいことが「フィクションを書くこと」になっているのかも。

あさ目が覚めてふと、横になっている自分は3次元の生物なので、右か左の2方向に寝返りをうつことができるけれど、4次元の生物が横になったとき、そこには「左右」という軸に直行する軸がもうひとつ存在しているから、寝返りは全部で4つの方向に打てるのだろうなと思った。コロコロと体が自然に回転する先が4つもあるというのはどんな気分だろう。そのベッドはどんな形をしているのだろう。反対に、2次元の生物は寝返りが打てない。体の中心を軸にして時計回りと反時計回りに点回転することはできるだろうけど、それは寝返りではないよなあ、と考えを進めているうちに気が付くと二度寝していた。

友達の話。むかし働いていた病院で健康診断を受けた時、大好きだったおばあちゃん先生に採血をしてもらった。先生はわざわざ「痛くするよ!」と宣言したうえで針を刺してきて、それはじっさいめちゃくちゃ痛かった(「人生で一番痛かった」)にもかかわらず、「あれはとてもよいコミュニケーション」で、「絆の証だった」という。衝撃だった。愛情があるなら「できるだけ痛くしない」のが普通なのではないか。はたから見たらパワハラ、というか「傷害」として認定されてしまいそうな話だけど、そのおばあちゃん先生と友達の関係においてはその基準が反転していたらしい。そういった、痛みを介したコミュニケーションが、独特なかたちで病院内のスタッフ同士の信頼関係をつくっているのかもしれない。

ハイブ・アースのクワメがラーニングチームとの初期のミーティングで放った伝説のひとこと「君たちがやりたいことをなんでも実現するよ!」という言葉は、一見奇妙に聞こえるけど、キュレーターがいてテーマがある芸術祭に呼ばれた作家の言葉としては、むしろ自然だったのではないか。
もともとハイブ・アースとラーニングチームとの協働は芸術監督のフールさんからの要望で始まった。私たちラーニングチームとしては協働するアーティストがどんなものをつくりたいのか、どんな制作スタイルなのかを話し合う必要があり、オンラインでキックオフミーティングをして、そのときにクワメがいった言葉がこれだった。
ハイブ・アースはあくまでも版築のエンジニアであり、自分たちではデザインはしない集団である、という未確定の情報があるにはあって、じっさいどうなのかを確認するという目的もあったのだけど、それがはっきりしたのがこのミーティングだった。正直私は「どうすんねん」と思った。パートナーになるアーティストから「つくりたいものを教えて欲しい」と言われても、こちらにもつくりたいものなど特にないのである。
結果的に建築家である辻さんと、版築の経験がある私でこの件を受け持つことになり、デザインやコンセプト、設置する場所を辻さんと二人で決めていき、途中から松村さんもマネジメントに加わり、さまざまな実験を繰り返し、その進捗をクワメに報告する、というかたちでプロジェクトは進んでいった。そして、「凸」と「凹」というふたつの物体が生まれた。クワメが来日したのは2024年に現地の下見と、2025年8月の実制作の時期の二回で、そのほかはすべてオンラインでのやりとりだった。
この作品に作者というものがいるのなら、それはいったい誰なのだろうとずっと考えていたのだけど、今日涼ちゃんと話していて、クワメの言葉はむしろ作家の態度としては自然だったのではないか、という仮説が生まれた。
誰かがテーマを決めて展覧会を企画し、作家に声をかけるというのが企画展の一般的な流れになってるけど、このとき作家は、展覧会のテーマに目配せをしつつ自分がやりたいことをやるというねじれた構造の中に取り込まれる。クワメの言葉は、「ハイブ・アースという看板を使って、展覧会を通して何かを見せたいのは君たちだろう? だったら、なにがやりたいのか君たちの方から教えてくれ」という意味にもとれる。ものすごくまっとうな問いかけである。テーマのある展覧会に呼んだのは芸術祭側なのに、作家に「やりたいことをやってくれ」とオーダーするのは、とても奇妙なことなのかもしれない。やりたいのことがあるのは、むしろ展覧会の側なのだから。主にレディ・メイド以降、ある種の物語を語る存在のことを作者と呼ぶようになっていることを考えると、「凸凹」の作者は芸術祭自体ということになる。

あいちの仕事のあと、韓国料理を食べながら黑田さんが教えてくれたー「移住を生活する」をやっていたとき、私は「弱者」だったのかもしれない。このプロジェクトの中で私は、誰かの土地に家を置かせてもらわないと安心して寝る場所もない状態で、敷地を貸してくれた人たちのコミュニティに入っていくことになる。とうぜん、あまり気乗りのしない空間に長時間いなくてはならなかったりもする。その経験がある種のタフネスを鍛えてくれたので感謝しているし、そもそもわけのわからない人間に寝る場所を提供してくれる奇特な人なのだから、こちらとしては失礼のないようにするべきだと思い、多少嫌な席でも飄々と過ごしていた。
黑田さんはこの状態のことを「睡眠を人質に取られていた」と表現した。この視点は考えたこともなかった。目の覚めたような気分だった。シングルマザーや、家庭内でさまざまな形の暴力を受けている人や、戦争のせいで故郷に住んでるだけで命の危険があるような人たちにも通じるような、弱者としての経験を積んできたのではないかと黑田さんは言ってくれた。

11月5日
浜松の「クリエイティブサポートレッツ」で井戸を掘ったりするプロジェクトがスタート。「ちまたパーク」と名付けられた、元コインパーキングの敷地で。
私有地を公園として開放する、自治されているけどちょっとアナーキーなプライベートパークのような、とても素敵な雰囲気。単管で組まれた櫓があったり、ビニール袋でできた皮膜にいろんなものが貼り付けられていて中にもいろんなもの(ドアとか謎の立体物とか)が中に入っているテントのような作品(柴田さんの作品)があったり、大きな壁には大勢で描いたであろう混沌とした絵があったり、ベンチには誰かのグラフィティがあったり。
昨日から車中泊。夜は静かで眠りやすい場所。井戸を掘るのは時間がかかるので、そのあいだ村上が泊まるための寝床作りからスタート。コインパーキング時代の看板の裏に、看板の骨組みを柱にして寝床を作ることにした。持ってきたものは麻紐とカッターのみ。ちまたパークに転がっている木材や透明なシート、たけし文化センターのパラソルや銀マットやスタイロフォームなどを、スタッフやアルス・ノヴァ(レッツが運営している、障害のある人のデイケアサービスの名前)の利用者の手を借りて運んできた資材だけで作ってみる。資材と資材は主に紐で結びつける。アキちゃん、ミヤマさん、ミズコシさんが担当としてあれこれサポートしてくれる。
朝ごはんは昨日人からもらったサンドイッチだった。まずは地面に転がっていたパラボラアンテナにアルス・ノヴァで拾ったパラソルを差して、いい感じの物体を作った。
昼ごはんに、Googleマップで見つけた定食屋を目指して歩いていたところ、商店街の路上で「ランチやってます」というチラシを持っているキャッチに声をかけられた。焼肉屋。980円で牛すじ煮込み定食が食べられるということで即決して入店。白米の量が多く、眠くなる。

昼ごはんのあと、猛烈な睡魔に昼寝をしようかと車に入ったところでぞろぞろとレッツの人たちがやってくる。ここから近所の「ちまた公民館」によく来るという親子も来た。私の絵本を読んでくれているらしく、サインをした。この親子と、カワセさんというアルス・ノヴァのメンバーが、木材を結ぶのを手伝ってくれた。

15時からレッツで打ち合わせ。12月11~13日と1月17~18日に井戸掘りをすることが決まる。井戸の位置と、井戸掘りイベントの日程(1月17日)も決まる。1時間くらい打ち合わせしてちまたパークに戻って洗濯物をふたつの袋にすべて詰め込んで徒歩6分のコインランドリーへ行く。もう暗い。18時半ごろ、乾燥が終わった洗濯物を乾燥機の中に残したままアキちゃんの家に行く。晩御飯に呼んでもらった。ミヤマさんとりっちゃんも合流。キムチ鍋。昨日の残りの出汁に、具材をたくさん足したもの。私はネギと木綿豆腐を切るのを手伝っただけだ。21時半くらいまでたのしくご飯を食べ、しゃべり、解散。ミヤマさんは耳が聞こえないが、それを感じさせない発言頻度。スマホでみんなの会話の書き起こしを音声認識アプリで常に表示させて何の話をしているのかを読み、なにかあれば話す。この文字起こしアプリの話を聞いたりした。ミヤマさんがいるとなんか安心する。なんとなく、動物に好かれそうな人だ。そのほか、私がりっちゃんとアキちゃんと出会ったMMMという、かつてあったアートイベントの思い出話をする。帰り道は途中までりっちゃんと一緒だった。無言館と鹿教湯温泉に行ってきたという話を聞く。コインランドリーによって、服を畳んでバッグに入れ、ちまたパークに戻ってお風呂セットを準備し、昨晩も行った徒歩5分のスパに行く。ザザという施設の中に入っている「かじまちの湯」という。徒歩5分のところに漫画が読める風呂場がある、とても便利な敷地だ。1時間600円。風呂上がりにチェンソーマン6巻を読む。ちまたパークに帰ってきたら0時。


 

11月6日
二日目。今日もファントム(車の名前)で目覚める。顔を洗うためにコンビニへ向かうが、いちばん近いふたつのコンビニはどちらもトイレの貸出をしておらず、3番目に近いセブンイレブンへ。しかし途中で気が変わりザザに入りそこの公衆トイレで顔を洗った。コンビニでサンドイッチを買ってちまたパークに戻り11時くらいから家づくりを再開。
木の板で大枠の壁をつくり、その隙間をプチプチで覆っていく建築法を思いつき、そうする。
CDショップの看板だったという、大きくて赤い「D」の文字が転がっていたのでそれも壁にする。「D」には電球がはまっていたとおぼしき穴が何個も空いていたので、その隙間を埋めるのにアルス・ノヴァでもらってきたCD-ROMを使う。13時くらいに「みかわや」のタケヤマさんとあさみさんと辻さんが訪ねてくる。久々に会えて嬉しい。13時20分ごろ、辻さんの車に乗ってみんなで「みかわや」へ。私と辻さんはみかわやのテーブルを使わせてもらって「あいち」のオンラインミーティング。ミーティング終了後、みかわやでハイネケンを買って飲みながら16時過ぎにちまたパークに戻る。眠くなってファントムで寝てしまった。

18時ごろから外が騒がしくなってくる。人が大勢集まっていて、ミュージシャンのマッスルNTTを中心に、なにかのパレードの練習をしているらしい。レッツのふきちゃんが「スナックありじごく」もやっていた。カンパ制で、数人でおでんをつつく。私はビールと酔鯨を飲む。秋田の「オルタナス」で出会った、タカナシさんというアーティストと再会する。アーツカウンシルしずおかのマイクロアートワーケーションで御前崎に滞在中らしい。おなじくワーケーションで滞在中の鈴木絢子さんというピアニストの方とも会う。鴨江アートセンターの稲垣さんという人にも会う。あさおさん(マッスルNTT)と、松本で会って以来数年ぶりの再会を喜ぶ。
イベント終了後、ふきちゃんと近所の店にちょっとだけ飲みに行く、というよりご飯を食べに行く。おでんをつまんだだけだったので空腹だった。ちまたパークに帰ってきたらファントムの隣で柴田さんがなにか制作をしている。木の構造物に餃子をたくさんぶら下げて、そこに透明な塗料のようなものを塗っている。本物の餃子なのか、餃子そっくりの彫刻なのかはわからなかったが、暗い中ぶらさがっている大量の餃子に筆でなにかを施している姿は非常に怪しい。ふきちゃんと解散し、昨日と同じく「かじまちの湯」へ。チェンソーマン5巻も読む。帰ってきても柴田さんは作業をしていた。ファントムに入って寝床を整え、後部座席の窓から柴田さんに「僕は寝ます。おやすみなさい」と挨拶して寝た。久々に日本酒を飲んでちょっと酔っていることが、横になってみてわかった。

11月7日
ファントムで目覚め、タバコが吸える喫茶店が近所にないか、Googleマップで探す。名古屋文化の影響なのか、浜松には全席喫煙可の喫茶店がまだまだ残っている印象。居酒屋もタバコが吸える店が東京に比べて多い気がする。歩いて5~6分のところにある「ルーム112」という喫茶店に行き、モーニングセットを食す。400円でおいしいコーヒー(おいしい)と厚切りバタートーストとゆで卵が付いてくる。バタートーストを食べてコーヒーを飲み、ゆで卵はあとに回してPCを開いて昨日の日記をつける。かたかたやってひと段落し、ゆで卵に着手したところで隣の席のおじさんが笑顔で「そんなに長い文章打って、最初に書いたことわすれちゃわない?」と話しかけてきた。この人は長い文章を書いていると、最初の方が頭から「飛んでしまう」らしい。「打つのも速いしさあ、すごいなあと思って」と、向かいに座ってる知人らしき人に説明していた。「うちの若い衆でさ、パソコン打つのが速いのがいるんだけど、口は一つしかないけど指は十本ある、って言ってたよ」と面白いことを言う。僕はおじさんの知人とふたりで「なるほど〜」と感心した。
ちまたパークに戻って寝床作り再開。まだ蚊が飛んでいるので、隙間という隙間を塞がなくてはならない。今日は主にプチプチシートとガムテープを活用して、昨日までに作り上げた木の板の壁の隙間を埋めていった。ちまたパークに転がっていた壊れたレコードプレイヤーを、「D」の字の真ん中の穴の部分に置いたらうまくはまった。その上には小さいドラえもんも乗せた。
水越さんやミヤマさんや利用者のメンバーなど、何人かがときどきやってきては去っていく。ちまたパークはアルス・ノヴァメンバーの散歩コースになっているらしい。
ミヤマさんが「役に立たない人たちを連れてきました」と言ってたのが面白くて大笑いしてしまった。たしかにみんな芝生に寝転がっていたり、まったく聞き取れないことを延々と呟いていたり、飛び跳ねていたりしているだけで「寝床づくり」の役にはたたなそうだなと思う。「役に立たない人」というのは通常悪口のはずだが、ここでは最大級の褒め言葉に聞こえる。アルス・ノヴァで働いているスタッフの口から、障害のあるメンバーを指して発せられたこの言葉は、すべての人間存在を全肯定するものとして響く。レッツにいると、こういった価値観の揺さぶりが本当におもしろい。
13時過ぎくらいにあきちゃんと久保田翠さんと水越さんが来て一緒にお昼を食べに行く。
ここでの久保田さん話も面白かった。久保田さんは、浜松の「マダム」を集めてみんなで料理をするというイベントを定期的にやっているらしいのだが、みんな料理が上手な人たちなので、手際がよくてパパッと作れちゃうんだけど、「楽しんでやる」ってのが意外と難しいのよ、と言っていた。みんな、出されたお題をさっさと作業分担して作ろうとしてしまうのだが、そうするとその場の人間は「できる人」と「できない人」にわかれてしまう。できないことが悪になってしまう。障害のある者たちと福祉施設を運営している久保田さんとしては、そういった人間の線引きは最も避けたいところなのだろうし、私が「ぜったいに学びのないゼミ」をやったときに考えていたことにもつながる。料理というゴールがあるイベントではそういう雰囲気になりがちだが、そこで、他人とはまったく違う軸で行動している人(アーティストも含む)がいてくれると、雰囲気をパーっと散らしてくれるので、助かるらしい。
一人一人の人間が、やりたいことやできることをすこしずつ、みんなで進めていく、という料理イベントにするためには、参加するひとりひとりが「料理」に対する向き合い方を変えなくてはいけないのだと思う。家で家族のためにパパッとおいしく作るのが料理である、という料理観を崩して、「場」を作る意識を持たなくてはうまくいかない。
久保田さんはまた、スムーズになんの障害もなく仕事ができるという状態はもっともよくない。できるだけ邪魔が入ってほしい、とも言っていた。ほんとうにすごいセリフだとおもう。「あいち」のラーニングチームとして仕事をしていても思う。「これができてないです」と人に指摘したり、「これができてなくてごめんなさい」と謝ったりするのは多少は仕方のないことかもしれないが、すべての人間関係をそういう基準で考えてしまうと、人間の価値は「できる」と「できない」だけで測れることになってしまう。なによりも「できる人」と「できない人」という二項対立ではない状態に持っていくこと。
ランチから戻ってきてから17時くらいまで(パークに遊びにきた親子連れやらちまた公民館の利用者やらに見守られたり、ちょっと手伝ってもらったり、逆に彼らの作業(櫓から伸びるヒモに手作りのタペストリーのようなものをくくりつけていた)を遠巻きに眺めたりしながら)黙々と作業を続け、暗くなってきた頃にいちおう「寝床」は完成した。今夜はここで寝れる。表札もつけた。
たけぶんに工具を返したり、マットや寝袋をファントムから「寝床」に移動させたりしてから、18時前にちまた公民館にいった。今日18時からご飯を食べに行こうとふきちゃんたちと約束していた。公民館にはスタッフのカヌイさんがいた。夕ご飯会は、いまふきちゃんが参加者を募ってるところらしい。カヌイさんは「猛者たちを召集しています」という言い方をしてた。
骨折で入院したメンバーのお見舞いに行きたいというカヌイさんを送り出し、ひとり公民館に残ってNintendo Switchをテレビに繋いでぷよぷよとスマブラをやっていたらふきちゃんがやってきて、二人で韓国料理屋へ向かう。途中、あさおさん(マッスルNTT)と道端で会って合流。三人で「ソウル屋」という、ふきちゃんの行きつけのお店で飲み始める。ふきちゃんはいろんなところで常連になっているようだ。カヌイさん、りっちゃん、ワクイさんも合流し、飲み会は非常に盛り上がった。あさおさんとふきちゃんがよくしゃべる。明日が朝5時起きだというあさおさんのために20時には解散しようと話していたのだが、結局21時すぎに店を出た。帰り道、ふきちゃんが送ってくれた。ふきちゃんの携帯に着信があり、アルス・ノヴァULTRA(重度の障害のある人たちが暮らしているヘルパー事業所。名前がかっこいい)のメンバーのマイさんからだった。どうも、水越さんに渡したいものがあるのだけど水越さんはどこにいるのか、的な問い合わせの電話だったのだけど、もう夜なので水越さんはいない。ふきちゃんはマイさんに根気強く「水越さんは電話でないよ」「明日の朝に会ってから聞いて」と何度も諭していた。しかしマイさんはなかなか折れない。そのやりとりを繰り返しながらふきちゃんが「なんか元気でてきたわ。マイちゃんはまっすぐに気持ちをつたえてくるから」と言っていた。私もそう思った。こんなにまっすぐに人から気持ちを伝えられることは、あまりない。
ちまたパークに戻り、お風呂に行ってチェンソーマンを読んで帰ってきて寝床に入る。寝床は、中で立てるほど天井が高いし、ひろい。畳二畳分ていどだけど、そのほぼすべてが寝床なのでベッドとしては大きい。そして地面が近い。
横になってすぐに寝てしまったが、夜中の2時くらいに人が歌う声で目が覚めた。若い男女のグループで、一人が大声で鼻歌を歌っていて、他の人たちは笑っている。とても平和で幸せな光景が浮かぶが、私の眠りは妨げられた。他にも何度かにぎやかな人の行き来があり、その度に目が覚めた。次は耳栓を用意しようと誓った。さいわい、ちまたパークの敷地に入って私の寝床を外から叩いたりドアを開けようとしてくる人はいなかった。「ラーニングセンターへたち」に夏帆が来て、「夏帆がきてる!」と野田さんに報告しに行くという夢を見た。翌朝7時ごろにむくりと起き上がり、寝床の荷物をファントムに引っ越して、浜松を発った。

大学の先輩の當眞さんからの知らせで長尾重武先生が亡くなったことを知り、お昼前に大町から車で東京へ向かい、途中涼ちゃんに運転を代わってもらって助手席でパソコンを開いてミーティングをしながらつつじが丘アトリエに夕方着。パスタを食べて大町から車に引っ掛けてきたスーツに着替えて高円寺の斎場へ。なんとなく、シラフでいるのが辛く、自意識が肥大しすぎてシラフのままで一人で斎場に入っていく勇気も出ず(勇気などいらないのに)、高円寺に着いてからコンビニで缶ビールを買ってしまった。酒を飲んでから通夜に行くのは明らかによくない気がするが、長尾先生なら許してくれるだろうか。たぶん笑って許してくれるだろう、などと勝手なことをぐるぐると考えながら街をうろうろ歩き半分ほど飲み干し、斎場の建物の裏の出っ張っているところにコンと飲みかけの缶ビールを置いて斎場へ入った。

長尾先生は、在学中よりもむしろ卒業後によく話した。神楽坂のプロジェクトに呼んでもらったり、八郷のプロジェクトでもお会いした記憶がある。特に移住を生活するを気に入っていたようで、長尾さんの著書『小さな家の思想』という本のなかで紹介してくれたり、本を送りたいから住所を教えてほしいといった理由で何度か電話をくれたりもした。ふだんあまり鳴らない電話が鳴るのでポケットから取り出したら着信通知画面に「長尾先生」と表示されている場面が網膜に焼き付いている。なんのお祝いだったかは忘れてしまったけど、普通郵便で(確か本に挟む形で)一万円札を贈ってくれたこともあり、慌てて電話でお礼をしたのだけど、そのあとに「普通郵便で現金を送るのって法律的にアウトじゃないのか」と気がついて笑ってしまった。長尾さんは笑顔の印象が強い。斎場に飾られていた白黒写真の中の少年期の長尾先生も、今と同じように笑っていた。「笑い方が一緒だね」と、私の後ろにいた人たちも話していた。お通夜では顔は見れなかったが、ひとまず行けてよかった。81歳。まだ若いように思う。
聖也と土屋先生にばったり会った。聖也とはコインパーキングですこしだけ立ち話をして別れ、さきほど置いた路上の缶ビールを取って続きを飲みながら駅へ向かっていると土屋先生が向こうからやってきた。土屋先生、と声をかけたら土屋さんは「どうも」と、完全な外向きの微笑をみせてくれたのだけど、続けて「村上です」と名前を明かしたら表情が崩れ、「なんか雰囲気変わったなあ」と驚いていた。そのまま中央線で新宿駅まで話しながら帰った。学生時代を含め、これほど長い時間2人で話したのは初めてなんじゃないか。土屋さんはしきりに私が「美術で食えているか」を気にかけていた。最後に「まあ、この世界に入った以上、選ばれた人間だから、頑張ってください」と言われ、「ある程度はそう思ってます」と返した。今度柏のアトリエに行ってもいいですか、と聞いたら思いがけず「いいよ」と言ってくれた。「基礎造形から僕の美術は始まりました」とお礼を伝えられてよかった。このことをちゃんと伝えられてないようが気がしていて、すこしもやもやしていた。長尾先生には、生前はきちんとお礼を伝えられた気がしないけど、今回霊前でしっかり頭を下げられてよかった。

高校教師の資格をとりおえた私は、上田先生(小学校の恩師)から教室で説明を聞いている。私は体育を担当することになっていて、書類を見ながら、体育が各学年で週に何コマ入っているかを確認している。

それから屋外に出た。上田先生は、芝生がまだらに生えた土手のような傾斜がある場所の低いところに立って何かを説明している。私たちは、土手の高いところに間隔を開けて1列に腰掛け、見下ろしながら説明を聞いている。先生の後ろにはフェンスがあり、その向こうには古い校舎がある。先生が私たちに尋ねる。

「休みの日には、どうするのがいいと思いますか?」

私たちは答えられない。すると先生が突然英語で叫び始めた。最初は聞き取れなかったが、何度も同じフレーズを繰り返しているのを聞いているうちに、こう叫んでいることがわかった。

「イーティング ビューティフルレイン!イーティング ビューティフルレイン!」

先生はステージ上から観客を鼓舞するロック歌手のように、何度も何度も叫び、それから最後に

「キングに敬意をこめて!みんな、ジャンピンッ!」

と私たちを煽ってきた。すると、どこからともなく忌野清志郎の「JUMP!」のイントロが流れてきて、私たちはジャンプして踊り、大声で歌い出す、という夢。

敷地も建物もものすごく広大にみえるのだけど、建物内の通路は異様に狭いスーパー銭湯みたいな娯楽施設にいる。そこに入っている飲食店のテーブル席と壁のあいだの通路を通ろうとするのだけど、とても狭く、椅子やらテーブルやらにぶつかりながらやっとやっと通りに抜けようとしたところで店員さんがいたので「すいません」と詫びを入れたら「大丈夫です」と言ってくれ、その店員は店のなかのほうへ向き直って「こんな狭いところだれもとおれねえよ!」と文句を言っていた、という夢。

北海道博物館で、松前藩が場所請負制度のさいに、和人の居住領域とアイヌの居住領域を一方的に定めてしまったことを知った。和人の居住領域には、多くのアイヌが住んでいるにも関わらず。これはずっとパレスチナで起きていることともつながる都思ったのだけど、なぜそんな一方的な通達がまかり通ってしまうのかという点がうまく想像できなかった。

建築討論のミヤシタパーク評でも書いたけど、私がこどもだったころに近所の公園に突如として「野球・サッカー禁止」と書かれた棒が出現したことがあった。でも、誰もその棒の言う事を聞かなかった。私たちはずっとその公園で遊んできて、いきなり訳もわからない棒の言う事を聞く義理はないと思ったからだった。大人たちも「いきなりこんなの立てて、バカじゃねえのか」と言ってくれた。

でもミヤシタパークではそういった注意書きの看板や掲示物がものすごく大きな力を持っているように見えた。みんながその言うことを聞いている。わたしも、ミヤシタパークでは看板の力には抗えないだろう。

アイヌは、「ここは私たちの土地だ」と考えてすらいなかった。でも、「ここは私たちの土地だ」と主張する和人が出し抜いてきて、いけしゃあしゃあと居住領域を設定し、アイヌに労働をさせた。

 

「ここは和人の居住領域です」という情報を知らされることと、「アイヌはここで居住しないでください」と命令されることは、同じ帰結をもたらすと思うけど、前者のほうが、反発心が生まれにくい。

「ここはサッカー禁止の場所です」という"情報"と、「ここでサッカーをするな」という"命令"の違いはなにか。ここでいう「情報」は「命令」と同じだ。ただし、それが命令であることは巧妙に隠されている。命令であることを相手に気が付かれないよう、「ここは〇〇です」と、さも最初からそこはそういう場所だったのだという既成事実をでっちあげるのが情報。

免許更新のために警察署に行き、手続きの最中に交通安全協会の勧誘チラシを渡されたのでじっくり見ていたら「〇〇円の入会金がかかりますね〜」と言われ、入会を希望されると仕事が増えるから正直断ってほしいという思いが伝わってきた。

新しい本が出ます!発売後すぐに売り切れてしまった『イメージと正体の調査報告』の増補版です。
「食べたい」とはなにか、という問いをきっかけに、「広告」や「消費」についての12,000字の論考を新たに書き下ろしました。
また、ライターの武田砂鉄さんから素敵な推薦コメントもいただきました。
予約は以下から
https://bonchiedit.theshop.jp/items/120512472
よろしくお願いします!

🙇‍♂️

国際芸術祭「あいち2025」でブラック・グレース(Black Grace)『Paradise Rumour(パラダイス・ルーモア)』を見た。時々流れてくるキャッチーな音楽がツボで何度か笑ってしまった。僕がこれまで触れてきたコンテンポラリーダンスとはすこしルールが違うというか、あまり見たことのないような体の使い方をしていた。腕や足の細かい動きを作り込むようなことはせず、体を大きく動かしてリズムを見せる感じ。動きのたびに汗が綺麗に光る。三人が同じ動きをしたり、ワンテンポずつずらしたり。ものすごく説明的な場面がいくつかあり、しかしむしろそれが新鮮だった。すごく素直な感じ。特にハンターハンターなどの少年アニメをミュージカルにした作品でやっていそうな走りのジェスチャーの素直さは突き抜けていて痛快ですらあった。

[少年おにいさんおじさん(しょうねんおにいさんおじさん)] 意味:少年の心を忘れずに持っていて、見た目的は「おにいさん」と呼びたいくらい若々しいおじさん

[少年病人おにいさん(しょうねんびょうにんおにいさん)] 意味:少年の心を忘れずに持っているが、病人みたいに顔色が悪いおにいさん

[こどもおじさんおじさん] 意味:こどもっぽくて、見た目も年齢もおじさんのひと

国際芸術祭「あいち2025」で、バゼル・アッバス & ルアン・アブ⹀ラーメ、バラリ、ハイカル、ジュルムッド(Basel Abbas and Ruanne Abou-Rahme with Baraari, Haykal and Julmud)のパフォーマンスを見た。パレスチナルーツのアーティストたちで、音楽と声と映像(最近のパレスチナで撮られたものらしい)のパフォーマンス、と言えばいいのか。会場が地下のクラブで、フロアは暗く、客は酒を片手に体を揺らしていて、バゼルたちも客席を煽るように腕を振っていたので、僕もいわゆる「クラブ」に来て楽しく踊るような需要の仕方をしていた。傍目にはクラブに遊びに来ているお客さんと舞台上のミュージシャンたちという構図。これが芸術祭のイベントだとは、事前情報がない人にはわからないかもしれない。でも、いわゆる「クラブイベント」ではなかった。

ステージ上には3人いた。1人は座って主にPCを操作しながらたまにマイクで声を乗せる。これがバゼル。もう1人は立って体を揺らしながらマイクで声を入れたりラップをしたり歌ったり、同時にときどき機材をいじって音も操っている。そして3人目は、2人のうしろで踊ったり、手を叩いたり、2人のパフォーマンスにマイクで応答したりと、賑やかしをしている。この3人目の存在がよかった。

むろんパレスチナはいま現在凄惨な状況で、そのバックグラウンドについて多少は頭に入れた上で僕はパフォーマンスを見ているので、いろいろなことを考えてしまうという影響もあるとは思うけど、ちょっと異様な体験だったので保存しておく。

序盤は僕も最前列で楽しく踊っていた。まわりのひとたちもときどき歓声をあげつつ、楽しそうに体をゆらしている。しかしだんだん「踊る」という需要の仕方が果たして正しいのかわからなくなっていった。バゼルたちは客席を楽しませているように見える。しかし同時に、フロアの盛り上がりなど自分たちには関係ないかのような、そんな態度も感じとれた。バゼルはときどき自分のスマホでパフォーマンスの様子を撮影していたけど、その対象は客席ではなく舞台上の自分たちだった、ように見えた。客席と舞台との距離は1、2メートル程度しか離れてないのに、じっさいに行こうとすると何十年もかかってしまいそうな、踊れば踊るほど、自分とバゼルたちとでは置かれている状況が全く違うということを思い知らされるような。それでも、これだけの距離で隔たれていても、舞台上で音が鳴れば客たちは踊り、楽しむことができるという、音楽という形式の懐の大きさへの感動もある。芸術はこのためにあるよなとも思った。遠さと近さが同時にあった。異様な時間だった。踊りながら、本当に踊っているのかどうかがわからなくなっていった。「世界」は、ひとりひとりそれぞれの方法でしか広がらないのだと思った。僕はあの異様さに打ちのめされることで、世界の「外側」に触れた気がする。たぶん。自分という湖に新しい水路が通じてしまって、山から降りてくるその冷たい水が流入部をすこしだけ冷やしてしまうような感じ。仮に20代前半とかで作品がめちゃくちゃに売れて世界中を飛び回るようなアーティストがいたとしても、そのひとにはそのひとの世界があり、その広さはそのひと固有のもので、現実の物理的な世界の大きさとはあまり関係がない。それぞれのひとに世界の狭さがあり、広さがある。大事なのは湖の大きさではなく、新しい水によって流入部がすこし冷やされること。世界の広さはそうやってしか感じられない。じっさいに身体が移動しているかどうかにかかわらないところで、世界は広がったり縮まったりしてしまう。ひとはみんな忙しく、それぞれの世界に身を置いて精一杯生きているので、その広さは他人と比較できない。さみしくなってしまった。いったんそうなってしまったら、芸術祭に来ているお客さんたちがあちこちで再会したり、新たな人との出会いのなかで楽しそうに話している会場内の光景がすべてさみしく感じられてしまい、いたたまれなくなった。

なにか心のなかにエモいものが立ち現れてきて、そのエネルギーを抱えたまま文章をとりあえず書きはじめるのが重要で、それが現れたその瞬間に、メモでもいいから短くてもいいから書きとめる時間をとれるかとれないかで決まる気がする。メモをしておけば、その瞬間の当時のエモさを保存しておくことができ、時間ができたときにそれは取り出すことができる。書きはじめることで解凍できる。メモによってエモさを保存すること。同時に、とりあえずなんでもいいから書きはじめることでエモさが降りてくることもある。その尻尾を掴んで離さないこと。話がずれていくのをこわがらないこと。

涼ちゃんの発見。約束を守らなければならないと考えている人ほど、約束することができない。なぜなら破ったときに自分が許せないから。あるいは、破ったときに人から責められる(と思っている)から。つまり約束というのは、破られるかもしれないという無意識の前提のもとで初めて機能する。約束という概念のなかには、破られるかもしれない、という前提が最初から含まれている。約束を大事にすればするほど、約束することができなくなる。「守らなければならない」という呪いにがんじがらめになり、身動きがとれない。
過剰なやさしさや気遣いが相手を縛り付けてしまうのと似ている。

最初の衝撃から七ヶ月。天竜川ナコンの「現実相談」第二話が更新された。「不幸になりたがる自分」の本質に迫る見事な言語化。そしてその語り口。音楽作品みてえだ。同じ言葉でも、イントネーションや発話速度、語と語の間合い、語尾の選択によって、こちらに伝わってくる鋭さが変わる。
この、他人がわかるかわからないかに関わらず、自分でこうしたほうがいいと信じて行う微調整の集積の果てに「表現」があるんだよなぁ!

「自分は褒められて当然だと感じている時に 褒められなかったら 違和感がある それは 普通のことだよなぁ
でも実は その逆で 自分は怒られて当然だと感じている人が褒められると それはそれで 自分の自分に対する評価が合っていなくて 違和感があるんだよなぁ!」

https://www.youtube.com/watch?v=e3Pjylz0g14

ボランティアの語源はラテン語の「ボランタス(Voluntas)」で、本来の意味は「自由意志」。

そしてカントは「自由があるかどうかは理論的には決定できない」と言っている。その行動が周囲から評価を得るために行われているのか、真の義務感から行っているのか—つまり自由な意志によるものなのかは決定不可能。

ただし「われわれは実践において自由を信じざるを得ない」とも言っているとのこと。

つまり「ボランティアは理論的には定義できない。しかし実践においてはボランティアを信じざるを得ない」ということだ。

人間/社会は、問題と問題解決だけでできているわけではないということをよくよく思い出さなければいけない…

仕事でなにかミスをしたり、公共の場所でルール違反をした人が目の前にいたとして、正義を振りかざして怒りをぶつける前に「きっと疲れてるんだ」「なにか事情があるんだ」と想像することができればいい。ミスをしたという噂を本人がいない場所で聞いた時も、それを責めるような陰口を言う前に、「きっと疲れてたんだよ」と言うことができればいい。その場を白けさせるかもしれないし、そのやさしさは本人には伝わらないけど、そのほうがいい。

だいぶ前に出会って、そのときは数日にわたって同じ建物の中でご飯を食べたり夜遅くまで話し込んだりして、とっても楽しい時間を過ごした人たちと、このあいだ路上でばったり出くわした。向こうから「村上さん!」と声をかけてくれて、振り返って顔をみた瞬間にその時の記憶が蘇ってテンションが一気に上がったのだが、しかしとっさに名前が思い出せなくて、相手の顔を指差して

「あー!なんだっけ!なんだっけ!」

と騒いでしまった。相手は笑って名乗ってくれて、お互いに再会を喜び、その場はいい感じで別れたが、名前が思い出せなかったことがずっと悔しい。今回はたぶん「なんだっけなんだっけ!」というハイテンションが功を奏して、「一緒に過ごした時間のことはしっかり覚えてるけど、名前だけがちょっと思い出せない!」という言外のメッセージが相手に伝わってくれたおかげで、おそらく嫌な印象はもたれなかった。しかし、ちょっとでも対応を間違えていたらと思うとぞっとする。

名前というものは、本来はその人を表している記号のひとつに過ぎないはずだ。名前がわからないからと言って、一緒に過ごしたかけがえのない時間まで忘れたわけではない。「名前を忘れている」という事態は、ただ単に名前だけを忘れているにすぎないのだが、無駄に関係を気まずくしたりする。不必要に後ろめたく思ってしまう。自分の心の動きが納得できない。「名前を覚えているかどうか」を、深刻に受け止めすぎている。最初から最後まで名乗らなかったけど、一生の思い出になっている出会いだって十分にありえる。名前がなにかを代表してしまっている。

しかし今回の一件から、わからないときは「なんだっけ!」と聞いてしまった方がよいと思った。今後はこれでやっていこうと思う。

8月13日から20日まで、愛知トリエンナーレの仕事で瀬戸に泊まり込んだ。尾張瀬戸駅前のホテルルートインに7泊。13日は版築の作品をつくるための下準備。14~16日、18~19日は版築作品の実制作。Hive Earthのクワメ、ラーニングの辻さん、松村さんと、陶磁美術館の岩渕さん、佐藤館長、澤井さんが主なメンバー。他に、毎日6人のバイトの大学生たちが来てくれた。クワメははるばるガーナから来ている版築のプロフェッショナル。土を見ただけで、触らずともそれが版築に向いているかどうかわかると言っていた。底抜けに明るくて体力も段違いで、きつい作業ではあったけど、彼の雰囲気に終始救われ、無事作品は完成した。版築はサスティナブルで、エコフレンドリーな技術であり、それをすこしでも多くの人に広めたいというまっすぐな信念がある。テレビの取材に対しても、「今後やってみたいことや夢はなんですか?」という質問に対して「人はみんな一つの種族だから仲良くやっていける世界になってほしい」と、一点の曇りもない瞳で答えていて、こんなにもまっすぐに、自分が正しいと思えることを目指しているのかと驚いたし、勇気をもらった。真夏に屋外で作業をするのはなかなかタフだったし、なれない英語をずっと聞いて、こちらからもたまに話して、という日々だったので疲れたが、なんか終わってみると清々しい気持ちになっている。

最終日の19日、用意していた土がふた山ほど余った。このまま作品の近くに置いておくわけにもいかないので、みんなで10メートルほど離れた場所に動かすことになった。それが、この合宿のなかでもっとも純粋な労働の時間になった。スコップでひたすらネコに土を入れ、10メートル運んだところにおろし、また戻って土を入れる。これの繰り返し。大人6人ほどで1時間くらいやっていたのではないか。ただでさえ汗だくだったのに、開始2分でさらに全身汗みどろ泥まみれになり、みんな眉間に皺を寄せてものすごい顔になりながら(クワメだけはわりと涼しい顔で黙々とこなしていた)、スコップでひたすら土を動かしていく。A地点からB地点へ、ひたすら移動させる。辻さんは何度もスコップにもたれかかってうめき声を挙げていたし、岩渕さんも今までに見たことないほど顔が歪んでいた。途中で辻さんが「フランシスアリスの作品で、こんな感じのやつあるよね」と言い出し、それは《信念が山を動かすとき》というタイトルだと私が言い、二人で「信念!」と口にだして大笑いした。「信念」ということばがなぜか無性に面白く感じられた。そこから私は頭の中でずっと「信念」「信念が動かす」「信念が山を動かす」と呪文のように唱えながら、スコップを動かし続けることになる。最初は、目の前の山の大きさに対して自分がスコップで救える土の量があまりにもすくなく、この山を移動させることなど可能なのか?と疑ってしまうくらいだったけど、やっているうちに確かに土は減っていった。「減ってるよ!」「さっきより減ってる!」とみんなで励まし合いながら、山にスコップをさしつづける時間。だんだんハイテンションになり、「やれば終わるから」「やってれば終わるんだから」と言って笑う。とてもきついけど楽しさもあった。そして山は動いた。さっきまでここにあった山が、あっちに移動している。信念が山を動かしたのである。それが美しく感じられるのは、決断によるものだと思う。私たちは「山を動かす」という決断を下した。いったいどのくらい時間がかかるのか、そもそも今日中に終わるのかもわからなかったが、それでも私たちは山を移動させることを決断した。そして、それは「山は動かすことができる」と信じる力(信念)によって成し遂げられた。

この合宿期間中、あらゆる場面で頻繁に記録写真や映像を撮っていたが、このときだけは、誰もその余裕がなくて、記録がいっさい残っていない。山を動かすあいだの、あのタフで豊かな時間を知っているのは、作業に参加した私たちだけである。何も知らない人がやってきて、土の山の存在に気がついたとしても、この山が別の場所から人間の手によって移動されたものであることは知りようがない。記録が残っていないということが、あの作業を美しいものにしている。

20日にはみんなで少年院に行き、4人の少年たちを相手に版築のワークショップを行い、30cm角くらいの版築ブロックを6つつくった。なかに「一生の思い出だから、これ(自分でつくったブロック)を持って帰りたい」と言った少年がいた。たった1時間あまりのワークだったが、これは一生の思い出であると。そのこともしみじみと心に残っている。少年のこれまでの人生や、今後の人生のこと、ひいては私自身の人生についても考えさせてくれるひとことだった。

帰りの車で、世界は広いなと思った。世界は広い。私が知っているよりも、私が、自分は知らないなと想像する範囲すらよりも、もっともっと広い。