廊下に水道がある家
なんだかなつかしい
廊下に水道がある家
なんだかなつかしい
8月29日、北小松のキャンプ場から金沢まで軽トラックで移動した。レンタカーの乗り捨てサービスで。出発する際、荷物の預かり賃として1000円払った。キャンプ場のおばちゃんに
「こんな仕事してるけど、お父さんお母さんは、反対してないの?」
と聞かれた。僕は応援してもらっています、と言って
「変な仕事ですけどね。」
と言ったら
「そんなことないわ。」
と言われた。それが無性に嬉しかった。
「気いつけて帰ってね。」
ちなみにこのキャンプ場、トイレだけは大津市のやつらしいがキャンプ場の運営は北小松がやっているらしい。おばちゃんは働いて四年目。昨日もフランスかどこかの兄ちゃんが来たと言っていた。
金沢に着いて21世紀美術館が準備してくれたレジデンス施設で1日休憩し、31日に敷地の交渉をしてまわった。映像作家のジョンに撮影してもらいながら。金沢は寺町というエリアがあり、そこにはたくさんお寺がある。しかし6軒交渉して回ったが全てだめだった。
1件目は
和尚が不在で、おばちゃんが「うるさい人やから。いまは寝とるんかなあ。」という感じでダメだったが、クリームパンと野菜ジュースをくれた。
2軒目は
この辺は住宅が多いから色々言われるから無理やわ。もっと上の方行ったら様子も違ってくるかと。とここが一番丁寧に断られた。
3軒目は不在
4軒目は
この辺は防火地区だからとか景観地区だからといろいろ言われ、変なものおけんから、うちも家直すのもいろいろ言われて大変なんや。だから無理やわ。と。この辺は全部そういう地区だから無理やわ。警察に捕まりたくないやろ?などと言われた。一晩でも厳しいんですか?ときいたらそうだと。
5軒目は
保育園と併設されていたお寺だったが、住職らしきおじさんに「うちはお断りします」とバッサリ言われた。
6軒目は
「もっと左のお寺がいいと思うわ」と言われ
「そっちからずっと無理だと言われてきたんですけど」
と言ったら
「うちも無理やわ」
と笑って言われた。
結局敷地交渉は諦め、9月15日からの展示会場に家を移動させた。
-すいません
-ちょっとお伺いしたいんですが
-こういうちっちゃな家を
-あそこにちょっと置かせてもらってるですけど
-背負って歩いて絵を描きながら
-絵描きなんですけど
-絵を描きながら移動しながら生活っていうのをやっていて
そうですか
-いろんな所に家を置かせてもらって
-そこで寝泊りをしながら
この中で?
-はいはい
-寝袋で寝るんですけど
-それで今この辺で家を一晩置かせてもらって寝る場所を探してまして
この辺で?
-ここお寺ですよね?
うん
-一晩境内のどこか
あそこに家あるね
-そうそう
あれか
-あの白い家なんですけど
私だけなんやけどうちの和尚さん何言うかなと思って
-ああ、和尚さんが
-今いらっしゃらないですか?和尚さん
いないみたい
-ああ、そうか
-すいません
はい
-ちょっとお伺いしたいんですけど
-このお寺の方ですか?
はいそうですよ
-駄目だって
-民家があるから
-周りの人が言うとうるさいからっていう
(チャイムの音)
はーい
-すいません
なんでしょう
-ちょっと通りすがりのものなんですけど
はい
-ちょっとお聞きしたいことがあって
なんでしょうか
-あのですね、あそこに家を置かせてもらってるの見えると思うんですけど
何を?
-あの白い、家みたいなやつ
はい
-あれ僕こうやって背負ってですね
はい
-発泡スチロールで作ってあるんですけど
はい
-歩いてまわりながら絵を描いてまわってて
-日本のいろんなところを
はい
-で、あの家の中で寝泊りしながら移動生活してるんですけど
ここらへんは無理やわ
環境保全ほいくやったっけか
ここなんとかほいくになっとって
物おいたりできん
伝統環境保存地区になっとるから
やたらあんな・・
なんか家を背負って歩いて寝泊りしてるんですって
で、ここらへんは無理やわ
寺多いここは
-あ、そうですか
ずっと上の方までアレされてるんもんで
建物の色とかそんなもんも全部制限されてるので
無理ですわ
はい
-無理
ここ寺町地域のお寺多いところはそういうことになってるので
-なるほど
はい
-一晩でも厳しいですか?
うーん
置けない
だってうちでさえ直したりするのも制限されてるんですよ
木一本切るのも制限されるんですよこの辺は
伝統の地区だから
-わかりました
寺町はちょっと無理
もうちょっと上の方行くか、川を渡るかどっちか行かないと
ここら辺は無理ですわ
-なるほど
準防火地区で、伝統環境保存地区になってるから
だからそういうの置けない
お巡りさんもうるさいし
県とか市とかもうるさいですよ
-なるほど。わかりました
変に捕まったら困るでしょ?
-そうですね
別のとこなら・・
-失礼します
-すいません
はい
-すいません、ちょっと通りすがりのものなんですけど
ええ
-お寺の方ですか?
そうです
-ちょっとお聞きしたいんですが
ええ
-こういうちっちゃい白い家をですね、背負って
ええ
-絵を描いて日本をまわりながら歩いてて
-移動生活みたいなことをしてるんですが
ええ
-で、土地を一晩とか借りながら自分のこのちっちゃい家の中で寝泊りしてるんですけど
-今このあたりで敷地を探してまして、一晩寝る
-このお寺の境内どこかひと隅貸していただけないかなっていう
いや、うちはお断りします
-あそうですか。わかりました
part6
<しみず花店 スタジオ・ムー>
まあ趣味としてジャズが好きで
自分も演奏してるんだけど
時々ジャムセッションで
– 楽器は?
今はクラリネットに落ち着いてるんですけども
最初はトランペットとかサックスもやってたんですけど
– ライブとかもここでされてたって聞きました
まあ2回ほどやったんですけど
– ここのスペースですか?
このスペースでやったんですけど
– だいぶぎゅうぎゅうな感じですか?
いやそうでもないです。特に宣伝はしてなかったんですけど
仲間で、今日は暇なので集まってみんなでやろうよってことでやりました
– バンドのメンバーというかその方は金沢の?
ほとんど金沢の人です
– 香りがすごく良いです
わたしたちわからないんです、慣れちゃって(笑)
でも学校通ってる子どもたちが
ここの前通ると「わーっ」て言って
家帰って、ここの前だけはいい匂いがするって
うどん屋さんの前はやっぱりお出汁のにおいがしたりとか、あるので
– においはいろいろ暮らしの中にありますよね
<石引Public>
『収容所のプルースト』が凄い面白いんですけど
収容所でみんな、もういつ死ぬかわかんないみたいな状況で1人、
プルーストの本もないんだけど
自分の覚えてる内容で講義をし始めるんですけど
– 収容所の中でですか?
中です
プルーストの話の内容は貴族たちのダンス会とか、別になんともない話もいっぱい出てくるんですけど
とにかく現実の生きるか死ぬかわかんないみたいな時に
そういう話を、毎晩毎晩続きがあるっていうのを期待して聞いていくことが
その人たちの生きる望みになっていって、続きはまた明日とか言って
その講義ノートを、生還した人が自分でつけてたやつを翻訳した本です
– このお店はいつからやってるんですか
このお店はそんなに歴史は無いんです
2016年の夏です
– 砂原さんは金沢の人ですか?
そうです。もともと金沢で、大学で東京に出て働いて
そしてこっちに戻って来たんですけど
それで本屋をやったるぞって思ったんですけど
ぜんぜん知らないんで、業界も。でもやりたいから
アルバイトで、でっかい本屋とかあるじゃないですか
ああいうところに面接行っても落ちたりとかして
もうどうしようもないから
街の書店みたいなところ
本屋さんを金沢で探したら
ほんと2、3店舗しかないんですよ、街の本屋で
でもそういうところで1軒だけやさしいおじさんがいて
お金いらないから働かせてくれって言ったら
そしたら「そんなの困る」って言われて。超良い人すぎて
それで、いろいろ教えてあげるよって言ってくれて
いろいろ教えてもらったんですけど
結局取次とか通せなくって。というのも、そういうのもトライして
東京とかにも小取次みたいな、
フランチャイズに入れば取次と契約できるというのがあって
それで一回契約して
店舗も別のところで借りて
もう店をやるってなった時に
日販さんが現場見に来て「これだめや」っていって
契約が破棄されてしまって
– ここですか?
ここじゃなくてまた別のところで。わたしが
それで、取り次ぎはやっぱ無理やなってことになって
方法をいろいろ考えたりとかいろんな人に聞いたりとかして
直取引っていうのがあるから
出版社で、ミシマ社とかタバブックスとか、夕書房さんもたぶん直取引やってると思うんですけど
<石引温泉 亀の湯>
20軒しかないんです、金沢
– 公衆浴場がですか?
はい。スーパー銭湯は多くなってきてますよね
これはやっぱり、結局建物の構造の規制があるのと
それから営業する時の規制もあるので
そういうことを考えると、まあどっちかっていうと衰退してます
実際にはレジャーの方のスーパー銭湯の方が多くなってます
– 銭湯は着替えるところと浴室の間あいだがガラスで仕切られてますよね
そうそう。あれは昔の基準です。昔は今みたいな監視カメラとか無いですよね
スーパー銭湯なんかは監視カメラついてるけど
我々のところは監視カメラついてないので、昔は全部中がみえるようにね
あいだはぜんぶガラス張りっていうルールになってるんです
それでそういう構造にしちゃうと、結局自由度ききませんよね、何も
昔は身体をきれいにするのが目的だったんですけど
今はどちらかというと家にみんなお風呂があるし、レジャーで来られるので
そうなるとお風呂入って例えば食事してっていうことになると、我々のところはそういうことができないので
やっぱりスーパー銭湯の方ってことになっちゃうんですね
基本的には、昔はあんまり塩素なんか入れなかったんですね
それで実際には温度でやってました
温度を上げていくと、細菌死んでしまいますので
だいたい42℃くらいの温度にしてます
塩素はできるだけ少なくしてる
スーパー銭湯はレジャー施設ですから
昔の我々が入ってたような温度にすると
お客さんは熱いって言うと思います
だからぬるくしてあるんですけど
ただスーパー銭湯くらいのぬるい温度にするとね
38℃とか39℃というのは
細菌培養してるようなもんですよね
だから我々のところは塩素少ないけど
毎日お湯を替えていると。全部掃除をして
part5
<平野屋>
–ご主人が始められたお店ですか?
いえいえ、私で3代目です
-この商店街、皆さん三代目とか..
そうだねえ。やっぱりお城の前で、この通りっちゅうもんは昔から豆腐屋さんやら向かいの薬屋さんやらは、江戸時代の寛永やら
うちらまだ明治やさけえ、ほんでも100年以上は経っとるけども
おまんじゅう屋さん、いま四十何軒しかおらんけども
わしら学校出て商売継いだ時は百二十軒から金沢にはおったね
昭和40年になるかならんかの時は百二十軒あった
いま3分の1やわね
ほんでもこんな忙しくならんということは、そんだけおまんじゅうとかお餅を食べんようになったちゅうことやわね
食べもんが変わったちゅうか、こんだけケーキ屋さんとか色んなもんがでてきて
昔はやっぱり餅っていうものは、今はお正月の餅しか注文ないけど
昔は今みたいな時でも毎日こうしてお米持ってきて
これひとつ。ひとつってのは二升やけども
これでお餅ついてくださいっちゅうて、そんなもんがいっぱいあったもんやけど
こんだけ平生からお餅を食べんようになったちゅうことやね。食生活が変わってしもうて
ちょうどそういうころ田植えしとったもんやさかい
機械なんかあんまりないさけえ、たくさんの人が田植えしとる
そういうときにおやつとかおまんじゅう持っていくんや。田んぼへ
それがだんだんお寿司に変わったり
今じゃ機械になったら、あんまりそういうことしとらんもんね。コンビニでなんでも買ってきて
昔は田んぼに配達に行ったもんや
で、田んぼって言ってもいっぱい田植えしとってどの田んぼかわからんだわね
<ひがし洋傘店>
ここで傘張っとった。おばあちゃんの実家が、傘の骨をつくっとったんや
ほんで、うちに女の子おるからどうやけえっちゅうてお嫁に来た
大正や。大正9年にうちのおばあちゃん生まれて
大正時代にもう傘張りをしてたのよ
傘張りだったんです
それが和傘がだんだん駄目になったので、洋傘に変わったんです
-ここで傘張ってたんですか?
張ってたんです。柿渋も作ったし
和傘張る糊も全部手作りで
わたし小さい時見てた。子供の頃やから
小さいときにここに養女に来とるから、見てるんやそれを
渋柿の青い小さいときに採って、それを潰して踏んで、それで柿渋を作って
穴蔵みたいなところに1年分柿渋入れて
糊はわらび粉でつくってたよ
わからないでしょう(笑)
糊をこうして炊いてつくってたんですよ
柿渋はお洋服につくと取れないでね、気いつけなさいよとかって言われてた
それでね、油引いて干すとこがないから
向かいの福光屋さんのうしろに空き地があったの
そこをお借りして、傘を干して
雨が降ると一家総出で傘片付けに行かんなんのよ
いま福光屋さんの蔵になってる、あすこなんですけど
-金沢雨が多いから
昔はねえ、和傘で
いつも私のいとこのうちが傘の骨作ってて
不思議やねえ、あんな傘の骨を作ってて
子供は9人、親とで11人食べていけたんやねえ言うて
<JO-HOUSE>
お店自体は1972年オープンなんですけど
この場所になったのは2004年です
もともとJO-HOUSEはうちの奥さんのお父さんがやってたんですよ
JO-HOUSE30周年の時に、僕と夫婦で代替わりして継ぎました
昔から美大生とか音楽好きな人のたまり場でした
Jazzが流れて、でフォークの人がライブしたりとか
-高田渡のポスターがありましたね
そう高田渡さんと、西岡恭蔵さん、あと加川良さん、友部さん、大塚まさじさんは
ルーティンでずっと毎年やってもらってて。ライブを
今は毎年やってるのは友部さんだけなんですけど
-友部さん毎年来てるんですか?
毎年2月か3月にやってますね。友部正人さん
part4
<千取寿し>
-このお店って、いつから始められたんですか?
ええとね、昭和28年。わたしは二代目です
こないだおったのは三代目です
– 先代の初代の方が始められた時はどういったきっかけで始められたんですか?
先代の28年の時はね
やっぱあの時はねもう戦後ですからね
いろいろとそんなに職業もかちっと決まって、これがいいというようなところではなくて
みなさんね大変な時ですから
まあ最初は鮨屋じゃなかったんですよ
料理兼、洋食兼というようなね
そういうような感じでやっとったんですけど
やっぱりね、だんだん
わたしは最近思うのは
本物をみなさん知らなくなった
鮪(マグロ)の旬の時に鮪をお出しすると
この鮪ちょっと酸味ありますねと、こう言われちゃう
鮪っちゅうもんは、本鮪は酸味があってちょっと脂が薄いんですよ
と、こう聞かしても
ちょっと理解に苦しむ人がものすごく多くなった
なぜかっちゅうとみなさんスーパーとかいろんなところで地域の養殖鮪を食べてるでしょ
だいたい80%はみんなそうですよ
だからそれに関連してこの地域の旬のものが
説明しても納得されない
やっぱりいつも食べてるものの方が鮪は美味しいとされてる
脂があったり
本当に好きな方には電話かけて今日入ってますから来て下さい、言うと
ああそっか入ったかやっと、待っとったよ、というようなお客さんが少ない
そうすると本物のほうが我々が何かみなさんにごまかして売っとるような感じになるんですよ
<片岡薬局>
これが石引びっきぃに載せた資料です
その時には1860年て書いてありますけど
明治頃にはもうやってたらしいです
– じゃあもう片岡家はずっとここでご商売されてる?
そうですそうです
まあ最初は本当のこのOTCっていって普通の薬しかやってなかったの
平成6年から薬局調剤っていう処方箋をやるようになった
だから平成6年って言った方がいいのかもしれない
それまではこういう薬ばっかり
あともっともっと前になると
薬局で風邪薬とかって調合してつくることができてたんですね
決まってるんです。決まった処方があって
それはつくってもいいですよという許可をもらって
そんなのを作って。そんなこともしてたんですけど
<吉野薬局>
実質ほんとうの薬局やったのは二代目ですけどね。医療関係は三代目です
– 初代の方は何をされてたんですか?
今じゃ大手に合併されたんですけども
大手の卸し。卸の、昔でいうと番頭さんなんですか
そういうのをやってたんですよね
わたしの父を薬剤師にして
金大(金沢大学付属病院)の前の前進の金沢医専ていうのが一番最初にできたんですけど
それがここにできるから、まあ薬剤師としてやったら
場所がいいだろうといってここでやらされた
やらされたって言ったら怒られますどね、父には
そういう話になってますね
昔はいい時があったみたいですけどね。まあ保険制度になって
それで今のように処方箋が出た時はいいですけど
今分業になって処方箋がどんどん出てるからいいんですけど
当時はそんなことはなかったですから
法律がかわって医薬分業になると言われたんですけど
なんていうんですかね、特別条項がついて
医師の管理のもとでは例えば看護師さんとか一般の方でも
一般て、(医師の)奥さんでも調剤してもいいという条件がついたために
日本は先進国の中でも最も遅れて分業になったところなんですよね
初代の金沢市の石川県の薬剤師会の会長に聞いたら
厚生省のまえで筵の旗を振ったという。本当かどうか知らないですけど
医薬分業を推進するべきだっていう運動を一所懸命やったっていうのは聞いたことありますね
このへん見たらわかると思うんですけど
当時13軒くらい薬局があって、今じゃまともに残ってるのは2軒です
わたしともう1軒片岡薬局さんていうその2軒だけで
もうあとは全部新しい薬局です。いっぱいできてますけど
全部調剤専門です
うちの父はそれから医薬分業にならなかったんで
実質法的にはしましょうって話になったんですけどね。形上だけだったんで
いわゆる一般のお化粧品とか家庭雑貨なんかも置くようにしてやったっていうのが本音みたいですよ
ネットの社会とか色々なことによって
自由化の解禁なんかによって
法律的には買えないものもありますけど
簡単に薬でもネットで買えるような時代が来てますから
結局かかりつけというか、地元に密着した薬局を目指していかないとだめだというふうに思っていますけどね
<SEED Graphic Space 시지스>
最初はお金を稼ぐためにこの会社を始めました。
デザインが世界を変えて、人々の認識を新たにしたく、誇りを持って始めました。
しかし、今は色んな事があり、うまくいかないこともあります。
昔は今より良かったのです。
最近は過当競争でクオリティーより価格で競争することになっている。
仕事としてはパンフレットやリーフレット、広告物をつくっています。
屋外広告や編集、グラフィックデザインも合わせて全部やっています。
part2
<小松屋>
昭和24年やったか26年やったか
なんかその頃です
– お母さんが(お店を)始められたんですか
いやいや
主人の父ですね
お爺さんですね
– じゃあ二代目?
主人は30年前に亡くなってるので
三代目になるのかな
ここで石引の市電が
ちょうどここで終わりで
ここから引き込んで
もうちょっと行ったところが
電車の乗るところだったんです
うちのお隣のところまでが道が広くて
あとは狭かったんです
ここが終点で
ここから山って言ったら悪いけど
ここから奥の人はここで電車降りて
こんど国鉄のバスに乗り換えて
行ってるんです
昔は
それでここへ
朝みんなお弁当にご飯とちょっとだけおかずを入れて
うちへ来て
金時豆やなんやらを詰めて
持って帰ったという
学校なり会社へ行かれたという話も
わたしは知らないんですよ
わたしは嫁に来た人間ですから
– じゃあそのご主人のお父さまがされてた時には、割とみなさんの台所みたいな
そう惣菜屋さんというかんじで
惣菜よりもギフト関係に力を入れだしたのが
まあ主人と父の後半ですね
そのあとから結局スーパーが出だしたでしょう
それでもうスーパーと対抗してやってもしょうがないから
もうギフト専門の方に
細かいものは全部切ってっていう感じ
これはふぐの粕漬けと、これはぬか漬け
福井なんかは鯖のへしこというぬか漬けありますでしょう
金沢はフグとニシンとイワシがぬか漬けで
粕漬けだけがフグがあるんです
<和洋酒たかはし>
四代か。三代か
足軽しとった人が八百屋したっちゅうんやろ
武士のあれを、無くなって
そんで八百屋をして、ね
– 足軽をしていた人が八百屋に…?
もう武士が無くなって
そうそう
– で八百屋になった
八百屋
それで前からもうずっと
その時代はお酒はどうかわからんけど
早い時代からお酒も一緒にしとったんやけど
八百屋が主たるもんね。果物とか
でもスーパーができ始めたもんで、お酒に切り替えて
姑がスーパーが嫌いって
言われて
スーパーに入るのは絶対いやっちゅうて
個人でって言ってずっとそのかんじでしてる
電車のあるときはねほんとに
大学のお見舞いのお客がすっごく
電車着くたびに盛り籠がパッと売れたけど
このごろほらいろいろと病院内に持ち込みダメとかね
あんなんなって
売れなくなったのもあるしね
– ここの病院が特に厳しいんですか
いや、どこでもです
国立でもやっぱ一緒ですね
42年に電車がなくなったから
そのときもうすでに
ないっちゅうことやね
前からなくなってると思う
先生にお礼にウィスキーとか、よくでたよ
<コウダ>
わたしで三代目やね
わたしのお爺ちゃんから
直してっていうのも割とあるね
寸法直してって
着物をつくりますって人はおらんけど
袖の丈を直してとか
振袖の袖を短くしてとか
お婆ちゃんの着物やけど
ここが短いもんで
昔の人小さいから
これをもっと出せるだけ出してみたいな
そんなんとかもあるし
– 着物のお直しができるってなかなか
普通の人できんからね
わたしができるわけじゃないけど
うちの母は簡単なことならできるけど
やっぱり袖ぜんぶ外して直してもらったりは
ほんとに仕立屋さんじゃないどできんし
昨日もひとつ振袖短くしてってやつ
納めてきたし
振袖つくってもらえたら一番いいんやけども
まあお直しでもって
–(振袖を) 作ってっていうお客さんは全然いないですか
いやいないことない
こないだもやっぱり
したいっていうお客さんおって
でも振袖は今年なかったね
つくるっていう人はない
うちは今ここに振袖っていうのは置いてないけど
お客さんの振袖欲しいわっていう人おったら
金沢に問屋団地ってあるやん
あそこの問屋さん行けば
呉服の問屋さん行けばいろんな振袖あるから
ちょっと貸してって借りてきて
お客さんに見せる
買い取ってしまうとそれが売れんかったらもう在庫に残ってしまうわけやから
うちらもう振袖みたいな特殊なもんは
もう見せて欲しいって言われたら
問屋さんから持ってきてお客さんに見せるみたいな
そんなんで
品物は置いてありません
<三花嶺>
お茶は嗜好品ですから自分なりに楽しみながら頂くのがいいと、私は思います。
ここは誰もが気軽に来てお茶を一杯飲んで帰れるところですね。
part1
<福光屋>
このお店がオープンしたのが2003年なので
21世紀美術館の1年前なんですけども
日本酒需要の低迷というものが何十年も続いていまして
だけどアミノ酸が豊富だし
旨味成分のおかげで
お料理とも非常に合うし、ワインとも同じような醸造酒で
日本が誇るべきお米のお酒ということで
女性をターゲットに切り替えてマーケティングをはじめて
その一環がこのお店なんですね
置いてあるものも少し女性を意識した作家さんの器だとか
ラベルにしてもちょっと女性が買っても違和感のないお洒落なものだったりとか
ということで、いまこのお店は観光客が多いんですけれども
お化粧品をつくったり
発酵技術ですね、お米と発酵のかけ算によって生まれたものをいろいろ
スイーツもいろいろつくっています
伝統というものは革新があるからこそ続いていく
福光屋も革新を続けているからこそ、その時代時代に合ったものをつくって
地元の方にも認められて393年続いているという
そういう家訓は大事にしながらやっていますね
<田矢靴店>
わたしで三代目
大正九年だから。こういう下駄からきたので
これがHush Puppiesの靴がメイン
あの竪町の店。Hush Puppiesの
あそこはうちでやってるんです
このワンちゃんね
<エレガンスフワ >
– このお店を一言で、どんなお店ですか?
普段着の店
-めっちゃおしゃれな普段着じゃないですか
お洒落な普段着?
主人が二代目で、わたし三代目になるのかな
主人亡くなったもんで。そのまんま継いでます
母が一代目で主人が二代目で、わたし三代目になるんだねやっぱりね
やめたいなぁって(笑)
– ご主人もこういうレディース専門店を
そうですね
まぁずっとそのまま継いできてるんじゃない?
商売好きなんやて二人とも
でもわたし嫌いや
あんまり好きじゃなかった
– ご主人のお母様が始められて
そうですね
– わりとレディース中心の?
あの時分は紳士物もありましたし子ども物もありました
わたし昭和42年に嫁に来たときには
子ども、紳士、婦人服と
生地もやってた。お仕立ても
だんだん削っていったんじゃないの
でも二人ともほんと商売大好きだったわ
– じゃあ最初からお洋服メインで
そうです洋服メインでしたね
– そしてだんだん鏡子さんのテイストが入って..
うーん。あんまり主張性無いから
– でもねスタッフさんも
そうねんて。ずっと30年以上居るんだよ二人。三人で35年ほどかな
ずーっと。だからうちの主人も亡くなる時に三人でやってくれって
せめて三年。だったけど
守ってやってる
お客様のおかげかもしれんね。そんな気がしますけどね
– 奥のあの写真がご主人ですか
そうそう。いい男やろ(笑)
ただ地域のこといろいろ知ってるからあの人は
消防をしてて
俳句の
ぜんぶ長までいって
することなくなったんよ。だから死んだんやわ(笑)
消防の金沢市の団長してて
それから石川県の俳文学協会の会長して
そんで亡くなった
地元で頑張った
石引のここも結構いろんなことしてきたよ
わたしは黙って店におったけど
好きやったんだね。いろいろ
死ぬのが残念やったかもしれんね
やりのこしたことあったかもしれない。わたしわからないけど
たぶんそうやったと思う
石引もっと良くしたかったんじゃないかな
– もう亡くなられてからだいぶ経つんですか
丸3年過ぎて4年目かな
愛想ないっちゃ愛想ないけど、まあまあ三人でやってますわ
喋りながらやかましく
– 仲良し三人組
そうやねみんな同じような歳やからね
やっていけると思います
まあどこまでやっていけるかやってみます
試してみます
<高砂屋>
金沢ね芸所ですし
美術的なものと
わたしはお菓子はやっぱ文化とつながらないと
お饅頭っていう総合的な
お餅とかお饅頭とかって総合的じゃなしに
ひとつの銘菓っていうのは銘があるから銘菓なんです
銘と一緒に楽しんで頂く
文化とともに楽しんで頂くっていう
それがわたしは金沢の文化の深さだと思います
今日送るんです
御煎餅なんです
御煎餅って、餅米の御煎餅で
上にお砂糖
要するに型染めですね友禅でいう
ですから型をね
たとえばこれですと一、二、三枚ね
これですと一、二、三、四枚
これと一緒ですね
これ一、二、三、
これはぼかしてますけどね
こういうふうにして型染めの型つくって、こうお砂糖すり込むんです
<中華食材 龍一>
– 買おう これ1個ください
ありがとうございます
150円です
– 温めれば食べられるんですか
はい。そのままでも大丈夫です
これスプーンがついてますので
– あ、これスプーンなんだ
自宅で…えーなんだろう
自宅で
本格中華を(笑)
つくってください
part 3
<niginigi>
niginigiは「おにぎりにぎにぎ」もあるんですけど
農耕の神様で瓊瓊杵尊っていう神様がいてそこからもちょこっと、かけてというか。
あと「にぎわう」のにぎにぎ
<chomsky>
はい。「ノームチョムスキー」からとりました
もともと僕がいたコーヒー屋さんが県庁の方にある
チャペックっていうコーヒー屋さんで
こっちのお店作るときに、人名シリーズでいこうかなと
人名シリーズで、Cの字
厳密にいうとチェコ語のシーなので、Cじゃないみたいなんですけど
Cの字ひと文字もらってもう少し新しい人物でっていうのでチョムスキー
の名前もらったというような経緯があります
<陶作家 平井悠一/陶工房つばめ>
陶芸は、自分はやり始めて8年目ぐらいになります
陶庵ってところで働き始めて
5年間そこで。陶芸教室なんですけど
そこで働いて、3年前辞めて
-今日午前中陶芸教室されてたって聞いて、何人ぐらいの方が
教室ががっつりメインでもないので
まだ、今のところ三人きてます
午前中1人ですね
<STRAWBERRY CONES>
-いつからこの仕事をされてるんですか?
この仕事自体は、たぶんもう20年経ってます
この店できてそんなに何年も経ってない頃からここで働いています
-このお店を一言で紹介すると
むずかしいなあ
一言っていうのはどの程度の一言ですか?
他みんなどんなこと言ってるんですか?
-「常連さんがくつろげるお店」だとか
-「履きやすい靴」とか
田矢さんですか?それ
-田矢さんです
むずかしいなあ
<荒間石油>
-この店はずっと2人でされてるんですか?
昔はもっと従業員おったんだけどね
暇になったらこんなようなもんです(笑)
やっぱ根本的に考え方変えていかなあかん
だから、オカダ・カズチカが強いんか
棚橋が強いんか
どっちがチャンピオンなんや
あ、オカダがチャンピオンなんや。いま
知らんか(笑)
いまおいくつなんですか?
-いま29です。今年30になります
でも30ならまだやりなおせる
やっぱね30前から大体筋トレしてれば絶対ね
新日本プロレスに入れる(笑)
美大生の方にはみんな言うねん僕
いくつ?って言ったら、十九とか二十歳とか
いまからでもやりなおせる
大丈夫や!
中邑を見よ
ニュージャージー州で頑張っとるがいね
<釜山現代美術館>
–この美術館が設立された経緯を教えてください
まず、釜山ビエンナーレを開催する会場が必要だという議論がありました。
今ある市立美術館以外の空間が必要だということにみなさんも同意して
海雲台(ヘウンデ)エリアではなく、他のエリアに美術館を建設しようということになりました。
新しい美術館は、釜山ビエンナーレの実施以外に美術館としての役割を果たすことを期待して、新たな釜山市立の美術館を建設することにしました。
この美術館は現代美術館なのですが、ここではビエンナーレの実施だけではなく、美術館の役割を果たすこと、これまでの美術館よりは同時代の美術や、実験的で新しい美術、未来に関する考察などを含めようとしました。
特に自然環境問題、またニューメディアとテクノロジー、科学の関係。
芸術と市民が出会って良い関係を構築できるような美術館にしたという考え方です。
これからは地域と世界をつなげ、海外とのネットワークをつくり、未来につながる環境問題、過去と現在の問題を芸術を通して反省し、将来どのように芸術として結びつけられるか。
新しい未来に向けた答えを芸術を通して、提示する準備をしています。
今、みなさんから多くの関心を示して頂いています。これからも新しい試みや実験的な試みを美術館という空間で市民と一緒にやっていきたいと思います。
<加賀友禅うえだ>
この赤い箱全部加賀友禅なんです
ある時は100枚から持ってた
でもやっぱり今じゃ制作してなくて、必要な時だけに
やっぱり何しとってもその時代性を汲み取っていかないと難しいかな
やっぱり心が通じるっちゅうことが大事かな
だから福井の振袖のお客さんなんかのときも
子供さんの七五三の時の着物作っていただいて
1枚欲しいって言われて、土曜日の午前中わたし
五、六千円ぐらいの帯揚げ一本持って
福井まで高速走って持っていってきたの
だから、商売っちゅうのは損得考えとったらできない
それが、後にこうしてつながっていくのよね
昔、僕の弟からひいおばあちゃんまで4世代で住んでいたころの実家は、祖母が民生員をやっていることもあり客が多かったのですが、茶の間と呼ばれていた部屋は親戚以外の客を入れることはほとんどなかったように思います。僕にとってそこは半ばおおやけの場所として記憶(僕が茶の間を思い出すとき、当時の身長よりもずっと高い位置から、みんなが掘りごたつに座っているのを見下ろすような形で思い出されるのですが、これは多分、のちにみた写真か何かの視点だと思います)されていて、家の中なのに心地よい緊張感があり、僕にとってそこは学校の教室とすこし似ている共同の場だったように思います。
地図は自分と世界の境界線上に現れる
車は早いけど、なにかを逃している。歩くことのなかには明らかに時速60キロメートルとは違う“はやさ“がある、
時間があいてしまった。今は8月27日12時16分。21日のお昼前に堅田教会を出発。さらに北を目指す。まだまだこの巨大な琵琶湖の半分もきていない。教会の敷地で眠った時は気候も良く、周りも静かでよく眠れたはずだけど、疲れが溜まっていることは薄々感じていた。結局竹内牧師には会えず、置き手紙を書いてドアのガラスに貼り付けて来た。
11時25分
琵琶湖大橋交差点の前で黒いTシャツの関西弁のおばちゃんに「コーヒー奢ろか、一杯」と言われる。「金沢今日中につくか?途中どっかとまらんの?」「いやあ、今日中は無理ですね。あと2週間以上かかるかもしれないです」というような会話をした。
12時40分ファミリーマート和邇南浜店で休憩。
14時14分志賀清林パーク沿いを歩いてる時、細かい雨が降っていることに気づく。
そして夕方17時過ぎに北小松の駅近くにあるセブンイレブンに到着。すぐ近くにキャンプ場があることがわかり、そこへいった。キャンプ場は琵琶湖の目の前でとても気持ちが良い。日中も木陰になりそうな松林で、地面は砂地。僕のほかに二つだけ小さなテントが貼られていた。白人の男性二人がそこに寝泊りしているようだった。キャンプ場の事務所は「巡回中。すぐ戻ります」という張り紙が貼ってあり無人だった。どこか勝手に置いて明日説明すればいいかと思って家を置くのに良い場所を探そうと思ったら、駐車場にシートを広げてなにか宴会をやっている三人組(30代くらいの男性一人と40代くらいの女性1人と30代くらいの女性1人)から声をかけられた。「なにそれ」と。僕は「事務所人いないんですかね」と言ったら男性が「5時でここの人帰っちゃうから、大丈夫だよ。明日も7時半までに出発すればお金払わずに泊まれるよ。奴らは8時ごろにくるから」といろいろ教えてくれた。「ありがとうございます」と言って立ち去ろうとしたら30代くらいの女性のほうが「お腹空いてない?いろいろあるよ。食べ物。おいで」とお誘いしてくれたので「ありがとうあとで行きます。」と返す。家を落ち着かせ、荷物を降ろして一通り回りの写真を撮ってその宴会に合流した。
もう数時間前から宴会をやっているらしく、いろいろ食べ物が出ていて女性2人(30代くらいの人の方は特に)は結構お酒が入っているようだった。
「ラオス料理って食べたことあります?」
「いやあ、ないかと思います」
「いまラオス料理の会やってるんですよ」
と男性が色々教えてくれたのだけど、彼は小松さんという人でこのイベントは不定期に開催している「小松亭」というものらしい。この三人は飲み屋で知り合った飲み友達で、こうして時々集まる。40代の女性の方はチエさん(ジャリンコチエで覚えてと言っていた)といい、もう1人の女性はのんこさんと自己紹介してくれた。小松さんは大学で淡水魚の研究をしているうちに内陸国であるラオスにたどり着き、魚の研究もしているのだけどラオス料理がとても美味しいということで、ラオス料理も勉強している(数日前までラオスにいたらしい)。ラオスでは必需品というお米を炊く道具や食べ物をすり潰しながら混ぜるための鉢のような道具をつかって、持って来た食材で色々作流だけでなく、琵琶湖でその場で捕まえたというフナや鮎も調理し、他に亀の爪や生キクラゲなどが並んでいる。彼はなんとも不思議な居心地の良いオーラを醸し出していて、しかも僕と同い年だった。
小松亭はラオス料理だけじゃなくて寿司のケータリングなどもやっているらしく「お店は出さないんですか?」と聞いたらチエさんが「ちょうどその話もしてたの」と言う。小松さんは「やってみたいんですけどね」と。彼は近々お店を出しそうな気がする。
小松さんは僕の家を見て
「網戸はないんですね」
-「ないんですよー。つけたいんですね。夏は特に」
「網戸大事ですよね。」
とか、「リュックが上にぶら下げられるようになってるのは居住スペースの確保のためですよね。」など色々と鋭い指摘をする。彼も色々経験してきているんだろう。
「寝るスペースが大事なので、寝るときは、全ての荷物が木のフレームにぶら下げられるようになってます。」と言ったら
「僕もぶら下げるの好きなんですよ。このへんにS字フック落ちてたと思うんですけど、これ好きなんですよ。日本の家ってぶら下げられるようにできてないじゃないですか」
ワタリガニをちぎって色々調味料を混ぜたものを出してくれたのだけどそれが韓国で食べたカンジャンケジャンに見た目がよく似ていてその話をしたら、「ラオス版ケジャンみたいなもので『ヤム ガプー マー』といいます。ワタリガニサラダというような意味です」とのこと。ビールも買って来てくれて、僕が来たということでもう一度乾杯してくれた。40代の女性のほうは(「わたしは小松くんやあんたと違って一般人だからさー」と言っていた)高校生の娘がいて、美大に入りたがっているという。「美大楽しいですよ」と言っておいた。30代の女性の方は大阪の美大のテキスタイル専攻を卒業していまはOLをやっていると言っていた。しかし彼女はとても酔っていて、そのうち車の助手席と運転席にまたがって倒れ込んで寝てしまった。年齢差もある3人組で不思議な距離感がありつつ親しそうにしている。僕も居心地が良かった。小松さんは最後に「握手をしてください」と言って握手をして、名刺を渡してくれた。彼らはすっかり暗くなったころに1台の車で帰っていった。別れ際はとても軽く、のんこさんとはろくに挨拶もしなかった。彼らはそれぞれ大津、大阪、京都に住んでいるらしい。後で何もなくなった駐車場を見ると少し寂しい気持ちになった。
小松さんが帰り際に、「ここシャワーありますよ」と、シャワーの場所を教えてくれた。僕はシャワー室があるのかなと思ってついていったがシャワー室ではなく、野外の砂地の上に立って浴びれるシャワーが2つ立っていた。完璧な野外なので、ここで浴びるのは勇気がいる・・。
「水道水がでるようになってるので、石鹸の一つでもあればかなり快適にシャワーが浴びれます」と小松さんは言う。「詳しいですね」と言ったら「僕ここめっちゃ来るんですよ」と。また「そこの錆びた階段の四段目に蜂の巣があるので気をつけてください」と。
湖は荒れている。海みたいだ。台風が近づいている影響かもしれない。4年前に来た時は嘘みたいに波がなかったのに。彼らと別れてから銭湯を探したが近くにはありそうもなく(ここらは湖と田んぼと山と少しの建物と道路、という景色だった。民家もさほど多くない。オフィスに使えそうな場所もなく、セブンイレブンだけがWiFiスポットとして存在している。この環境でキャンプ代2000円は高い)、意を決してあの野外シャワーを浴びることにした。こんなあからさまな野外で素っ裸になるのは初めての経験だったけど、まわりはかなり暗くて人通りもなく、なぜか水温もちょうどよくて気持ちが良かった。ただ途中、例の外国人二人組がすぐ近くを通りかかった時は緊張したが、彼らは何を気にする様子もなく過ぎ去っていった。
翌朝、小松さんの言った通り8時ごろにキャンプ場の事務所のおばちゃんが現れた。活動を説明したらおばちゃんは
「すごいな」と一通り感心したあと、「ここキャンプ場は7月から営業しててな、泊まるとお金かかってしまうねん。これ、まあタープみたいなもんやろ。タープ張って一泊二日は2000円かかってしまう。どうする?」と聞いてきた。どうすると聞かれても払うしかないのではと思い「払います」と言ってお金を支払った。「今日は1日ゆっくりしてな」と言ってくれた。ちなみにおばちゃんが来る前にあの白人二人のテントは跡形も無くなっていた。
小松さんもお酒を買ったし、僕も頻繁にキャンプ場とセブンイレブンを行き来したように、このキャンプ場の運営はあの近所のセブンイレブンにかなり支えられていると思う。またあのセブンイレブンにもキャンプ場からの客がきているはずだ。このキャンプ場とセブンイレブンの関係のように、家と街の関係を考えるのが自然だと思う。それがとてもよくわかる敷地だ。
松林にはベンチがない代わりに座るのにちょうど良い石がいくつか並んでいる。そこに座って湖を眺めていると、トンボの羽音、クマゼミとツクツクボウシ、ニイニイゼミと、雀の鳴き声。それと波の音が聞こえる。他には何も聞こえない。
気温があがってきて、またなぜか鼻水が止まらないという身体の不調をきたし、キャンプ場で絵を描いたり日記を書いたりするのがしんどくなって来たのでオフィスになりそうな場所を探したが近所にはなく、あのコメダ珈琲オフィスに行こうと電車に乗って堅田駅まで行った。洗濯機もあるのでついでに洗濯もできる。
洗濯を済ませ、その洗濯物をバッグに入れて抱えたままオフィスで仕事をし始めたのだけどなんだか体調が優れず、どこか快適な環境で仮眠を取る必要があると感じたので2時間ほどしてオフィスを出て、近くのラブホテルに行った。3300円ほど支払って3時間休憩できるラブホテルに1人で入り、お風呂を溜めて入ったあと眠った。ラブホテルなのでダブルベッド。
起きてもまだぐったりしてしまっていて、フロントで、「休憩のつもりで入ったのだけどこのまま泊まるといくらになるか」と聞いたら「17700円になります」と言われたので「チェックアウトしますわ」と言ってチェックアウト。近くの餃子の王将で餃子定食を食べてから北小松の家に戻った。帰って夕焼けを眺めながら湖沿いを音楽を聴きながら散歩。
19時10分。
三拍子の波の音。火星と月。真っ黒いシルエットになった松を風が揺らしている。
水面が月の光で光ってるように見えるけど水面のその場所が光っているわけではない。この水面が光っているのは僕がここに座っているからだ。僕が座っているここと、月のあいだにある水面が光っているのだ。他の場所に立っている人にはこの光る水面も暗く見えているのだ。とても不思議だ。この水面の月の光はわかりやすい。
光源から地面を伝って伸びてくるという意味では、影に似ている。でも影とは違う。影は、誰からみても同じ場所にある。でもこの光は何故僕にしか見えないんだろう。世界は僕がいる場所と光との間に立ち現れるものなんだろう。音も似たようなものなのか?ここできこえるこの音。波と風の音。と僕がここにいることとの関係性は?
と、こんなことを考えながら(当時のメモ)ぼーっとしていたらすこし元気を取り戻した。やはり必要なことばかりやっていると体によくない。
翌朝。
もしかしたら気圧のせいもあるのかもしれないけどとにかくからだがぐったりしてしまっている。バイクで人を二人後ろに乗せて家に向かうのだけど全然家にたどりつけず、後ろに載せていた2人がいなくなって代わりに箱が積まれており、その中に入っちゃったかと思って重さを確かめたりした。「現実とも思えないのだけど夢にしては長すぎる」と思い、もしかしたら俺はもう死んでしまったのか?とさえ思った。起きたら真っ赤な朝焼けの光が、家の中に差し込んでいた。僕は琵琶湖にいた。波の音がする。
これは限界だと感じ、キャンプ場の事務所の人が来るのを待って(あのおばちゃんの他に麦わら帽をかぶった清々しい若い男の人も来た)、家をここで1週間ほど預かってもらえないかという相談を持ちかけたら「じゃあ倉庫に入れよう」と即快諾してくれた。
8時4分
「一泊延泊したので、お金払います」と言ったらおばちゃんは
「このあとすぐ出るんやろ?延泊のお金はええんちゃう?」といってくれた。
「そんなん背負って、あんたあれやわ。感心するわ。はいどうぞ。きいつけてかえってください。」
男の人の方は「お名前と連絡先聞いといていいですか。何かあれば連絡しますし。はい。で、引き取り予定が、、28。で大丈夫ですか。か29日。ほな、預かっときます。きいつけてください。 」と笑顔で。救われた。
家を倉庫に入れ、一旦東京に行く。休む必要があるのと、これまで完成させていないドローイングが多すぎる。色々作業もたまっている・・。展覧会が近づいている・・。
北小松駅で駅員に京都方面は何時ですかと聞いたら、時間を教えてくれたあと「今日は台風の影響で15時以降運休になるかと思われますので早めのご帰宅をお願いします。」といわれた。6日間は帰宅しないです。と思ったが、わかりました。と言った。台風をギリギリで避けた形だ。
例のコインランドリーで出会った秋田の金足農業はなんと甲子園決勝進出したらしい。秋田勢としては100年以上ぶりの快挙らしい。彼らはさらに延泊していることだろう。
いまオフィスとしては最高のコメダ珈琲にいる。大津堅田店。ここは電源もWiFiもあり、朝7時から夜11時までやっている。朝はモーニングセットもあり、何時間いても大丈夫な雰囲気も良い。昨晩も夜8時前から11時まで居た。
昨日は朝11時ごろになぎさ公園を出発。「堅田教会」を目指して歩いた。途中、日焼けした兄ちゃんに「すいませんなにやってるんですか」と声をかけられたので「これを家にして生活してるんです」などと歩きながら適当に答えていたら
「アサラト下げてるじゃないすか。僕もアサラトやるんですよ。」と腰にぶら下がっているアサラトを見せてくれた。驚いた。アサラトについて食いついてきた人は彼が初めてだった。
「えー!本当ですか!これ広島で・・」と言ったら
「メンダーから買ったんですか」と、メンダーという名前にすぐにピンとこなくて
「買ったっていうかもらったんですよね。」
「だれからですか?」
「だれだったかなー。名前。広島の結構上手い人ひとで」
「メンダーって名前じゃないかな。」
「あ!メンダーさんです!知ってるんですか?」
「友達ですよ。めっちゃ友達。」
「えー!よろしく言っといてください。」
「写真撮って送っていいですか?」
「お願いします!」
「頑張ってください」
と言う会話。メンダーさんというは広島のギャラリーGで出会ったアサラトがめちゃくちゃ上手い人で僕にアサラトを教えてくれた。
14キロくらい歩いて堅田教会に到着。堅田教会は4年前僕がこのプロジェクトを始めて1年目に、金沢から京都になんかしている最中、原発事故で福島から大津に引っ越して来た夫婦に紹介してもらった竹内さんという牧師さんがいる教会。ウイリアムメレルヴォーリズという建築家が設計した小さいけどとても良い建築物でもある。竹内牧師は熱い人物で、ヘイトスピーチに対するカウンターデモをやったり、「歴史上最も人を殺した宗教はキリスト教だ」と、キリスト教を批判的に学ぶ勉強会を教会の中で開いたりしている。
教会に着いたのは16時ごろだったのだけど誰もいない。すぐとなりに公文式の教室があって、そこで女性に「牧師さんて今日教会に来られるかどうかわかりませんか?」と聞いたら「わからないけど、あなたの名前だけ聞いときましょうか」と言われたので名前を伝えて、4年前に来たことがある、と、僕の活動の話をしはじめたら「えー!」とかなり興味深そうに聞き始めてくれたのだがもう一人、つまらなそうなおばさんが教室からでてきて、早く帰ってくれと言わんばかりの雰囲気で「扉が開いてなければいません。夜も帰ってくるかもわからない。うちは(教会の一部の)場所を借りているだけで、全然教会とは関係ないので」と言われたので引っ込むしかなかった。教会の入り口に「もし教会に戻られたら下の電話番号までご連絡いただけますか」という旨の置き手紙をして、お風呂に行った。ここはお風呂場が遠い。バスを使って琵琶湖大橋を渡り、みずほの湯という温泉へ。お風呂場までの交通費だけで行き330円帰り320円。風呂台は600円。でも良い温泉だった。大展望露天風呂みたいな名前の浴室があるとのことなので行ってみたが4畳半くらいの大きの浴槽だったが。お風呂から帰って来ても竹内さんが教会に来た形跡はなく、このオフィスで仕事をしてから家に戻ってもまだ誰もおらず、僕はそのまま眠った。そしていま朝の10時半だけどまだ連絡はない。このまま会えず、なにか手紙を残していくしかないかもしれない。
A-Qusビル(あちこちの看板に「アーカスビル」という表示がありなんのことかと思ったがラウンドワンが入っているA-Qusのことだった)のロビーの椅子に座って日記を書いている。オフィス(ロッテリア)のオープン待ち。さっきまで琵琶湖浜大津港旅客ターミナルのオフィスでパソコン作業をしていて、なぎさ公園に置いてある家の様子を見に戻ったら「ここは駐車場ではありません。至急移動してください。大津港指定管理者 琵琶湖汽船株式会社」という張り紙が瓦に貼られていた。「すみません11:30までには移動します」と書き加えてきた。
昨日の敷地は琵琶湖畔なぎさ公園という公園。お昼の1時半ごろにnowakiをでて山科を通り琵琶湖方面へむかい、「湖の駅」という施設が地図に表示されていたのでそこに見当をつけて歩いてきたが、それはほぼROUND1 のビルだったので交渉する気になれず、このなぎさ公園がとても気持ちが良いので敷地にした。家の近くに水場の跡はあるが塞がれている。座る場所には困らない。トイレもA-Qusもしくは周遊船の港(琵琶湖浜大津港旅客ターミナル)のビルのトイレがある。お風呂場もオフィス(ふたつある)も近い。昨晩は気候も気持ちよかったのでよく眠れた。時々合唱するカエルの歌(カエルはなぜか合唱する)に囲まれながら。ただし公園なので明け方に散歩しているご老人に起こされたりする。5 時半ごろに話し声で起こされた。
一昨日も引き続きnowakiに泊まらせてもらったのだけど、二人が晩ご飯を作ってくれた。なにか返さなければと思ったので出発する前にnowakiを描いたドローイングをプレゼントした。僕はそのコピーをとった。一昨日のお風呂場は前日の孫橋湯ではなく柳湯。16:30-00:00。昨日の朝洗濯しにnowakiから10分くらい歩いたところにあるコインランドリー(洗濯300円。乾燥8分100円)に行ったのだけど中・高校生くらいの学生によって占拠されており、混み合っていて使えなかった。一旦nowakiに戻り、絵を描いてまたお昼前にいったら今度は東北訛りの男性二人組が使っていて2台しかない安い洗濯機が使えず、コインランドリー内のベンチで絵を描いて待った。男性たちが終わったので「洗濯機、使っていいですか?」と声をかけたら、「すみません」と言って、「甲子園に勝っちゃって帰れなくなったんですよ。ベスト4に残っちゃって」と言う。「え!おめでとうございます!どこですか?」と聞いたら秋田の高校らしい。のちに調べたら金足農業高校とわかった。言わずにはいられない、という感じが伝わったきてこっちも嬉しくなった。もしかして朝学生さんたちがたくさん使ってたのも、といったら、そうです。使えなかったでしょう。(すいません)と、みんなこの辺に泊まっているらしい。彼らは東北訛りで乾燥機と、自動洗濯乾燥機について話している。「結局1時間くれえかかるな」
(第二オフィスに入ってロッテリアハンバーガーセットを注文して席に着いた)
洗濯をすませ、nowakiに戻って出発。琵琶湖方面を目指した。14時52分にセブンイレブンで昼飯休憩。コンビニの前で腰の曲がったおばちゃんに、その時履いていたアルマーニエクスチェンジの植物柄の水着を「かわいいズボンですなあ。こんなんあるんですか、どこで買いはったんですか。」と突然褒められた。ズボンをひっぱりながら。大阪だったかなと言ったら、ああ、この辺じゃこんなのは買えませんなあ、と言って去っていった。衝撃の体験。あのおばちゃんはいろいろなところで人を笑顔にしながら生きているに違いない。セブンでそうめんを買って食べようとしたのだけど食べる椅子がない。近くのバス停の椅子しかない。バスがこないことを確認して座って食べる。
夕方になぎさ公園に到着。少し絵を描いてからお風呂場(湯~トピアきりしま)へ。晩御飯はA-Qusに入っているPダイニングというオムライスの種類が豊富で安いレストランで食べた。A-Qusの隣には琵琶湖ホテルがあるのだけど、その中にあるビュッフェレストランのGoogleマップ情報に「LGBTQフレンドリー」という表記が。
夜の琵琶湖畔の公園にいる。風もあってTシャツでは肌寒いくらいの気候。気持ち良い。秋の虫と時々カエルの大きな声と、控えめな水の音がする。琵琶湖ホテルという、オレンジ色の光がとても綺麗な窓がたくさん並んでいる琵琶湖ホテルというホテルを背に、琵琶湖を前にしてベンチにちょうど良い高さの石垣に座ってパソコンを開いてこれを書いている。
こんなに気持ちの良い街なのに、街中は人が少なくて、人は湖の前に建てられたラウンドワンに集まっている感じだ。(とはいってもラウンドワンにもそんなに大勢いるわけではなさそう)。食べ物も安くて、観光地化されていなくて良い。思えば十和田湖も諏訪子も似た雰囲気だった。
筋肉痛がきている。やっぱりしばらく歩かないとちゃんと筋肉痛になるらしい。全身が重い気がするけど、主に足にきている。HUB三条木屋町店で久々のギネスを飲みながらこれを書いている。
遡って16日から振り返らなくてはいけない。書かないと経験が終わらない・。のだけど、正直思い出すのにすこし苦労する。まだ2日前のことなのに。16日の朝にはたしか家は御茶屋御殿展望広場にあって、僕はGOENゲストハウスをチェックアウトした後、枚方における第二オフィスに行ってすこし仕事をしてから家に戻って12時前には出発した。もうすこし北にいったところに淀駅という駅があり、そのエリアには寺院がたくさんあったのでそのどこかで敷地を借りようと見当をつけて歩き始めた。
出発してすぐに雷鳴が聞こえたらしい。『11時47分雷鳴。パラパラと雨』とメモが書いてある。でもその後大振りにはならなかった。ここまで幸いにも、豪雨には見舞われておらず、靴がびしょ濡れになって不快な思いをするような羽目にはなっていない。
次のメモは『13時9分楠葉モールで休憩。椅子。曇っているが雨は降ってない。ゴルフ場には人がたくさん。モールにはWiFiあるが途切れて使えない。お湯があるのに椅子がないということはカップ麺は車で食べる人向けに売られているということになる。』と書いてある。樟葉モールには座れる椅子がたくさんあって助かった。が、休憩のときに欲しい食べ物や飲み物の店はなくて、服屋ばっかりだった。仕方がないのでモールを出て、近所のローソンにいった。ローソンには飲み物も食べ物も売っているが、椅子がない。なかなか良い条件というのは揃わないものだ。ローソンでカップラーメンを買ってお湯を入れて、店の外のなんかオレンジ色のL形の小さな車避けみたいな手すりに座って食べた。ごく最近、スーパーマーケットライフでも同じような姿勢でものを食べたような気がする。
次のメモは『14時35分国土交通省のなんか管理の人と少し話す。「淀川沿いの下の方歩いた方が安全やで。車もないしな。ここは、まあ広くはなってるけど車あるし。」と』というもの。これを言われるまで、僕は淀川沿いの車道(歩道がないので仕方がない)を歩いていた。淀川沿いはワンドという緑地が豊か(淀川資料館で学んだ)で、その緑地の中に車道の広さを持つ道路がある。ここは国土交通省の車(淀川河川事務所)のような関係車両は走れるけど一般車は走れない。河川事務所の人にこう言われてからそこを歩いた。ここは車も走っていないけど、お盆のこの時期、歩行者も自転車もほとんど通らず、ただひとりでもくもくと家を背負って緑地の中を歩いた。
店内にBlurのCountry Houseが流れはじめた。好きな曲。
多分14キロくらい歩いて、淀駅という駅のあるエリアにたどり着いた。家を長円寺というお寺の前の道路においてお寺にいこうとしたらすぐにそこの若い住職さんが車でお寺に帰ってきて、その場で交渉ができた。
「いまお盆の時期で、明日送り盆の行事があるのでうちは無理ですね」と言われた。「ちょうど年に一度の行事でして・・」と。
僕は「そうですよね。お盆はお忙しですよね。どのお寺もそうですかね」と聞くと「この地域のお寺は難しいかなと・・」というようなことを言われた。わかりました、と言って次のお寺にいこうとしたら「このどうろ、大きな車も通るので、このいえが置いてあるとどうだろう・・」というので、「一時的にでもおいてあったらまずいということですか?」と言ったら「そうですね、どうでしょう」というようなことを言うので、なんか回りくどい人だなと思いつつ「じゃあ下の緑地(淀緑地という公園のようなところ)に置きます」と言ったら「そうですね。そこなら、誰も何も言わないかと」と言われた。多分彼はここで眠るつもりだと思っている。
家をその緑地に移し、長円寺の隣にある東運寺というお寺に行った。チャイムを鳴らしたら若い住職さんが出てきた。自分の活動の説明をして、「寝る敷地を探している」と交渉するのだけど、その最中から明らかに隣の住職さんとは違う表情をしている。なんとなく、顔でわかる。前の住職さんは、説明の最中からあきらかに少し引いていた。こんどの住職さんは説明がおわったら「そうですね、どこがいいかな。ちょっと行ってみましょうか」と言って外に出てきてくれた。
本堂の目の前の、綺麗な石が敷き詰められた場所の前を「ここはちょっと、人の出入りがあるので」と言いながら通り過ぎ、すこし奥まった、お墓と淀緑地の間の砂利道に歩いて行って「この奥なら大丈夫です。すこし地面が斜めなんですけど・・」と。「どこでも大丈夫です!ありがとうございます」と言って、最終的に竹林とお墓の間の砂利道というか草地というか、そんな場所に決まった。家を持ってきてそこに置き、住職さんからすこしこのお寺の話をきいた。このお寺の前の道は戊辰戦争で幕府軍が逃げた道らしく、ここらのお寺は野戦病院のような機能を果たしたらしい。またこの寺院は江戸時代始め、350年くらい前に建立されたお寺で、現在の住職が18代目。また奥さんも出てきて「竹林のそばだから蚊がすごいでしょ」と言って火をつけた蚊取り線香をくれた。また今日は送り火(あの有名な大文字焼き)の日だということも教わった。宇治川からは見えないみたいだけど、桂川の土手からは、ほんの少しだけ見えるかもしれないと言われた。この町はふたつの川に挟まれている。
近所にお風呂場がなかったので淀駅まで行って京阪電車にのって一駅の中書島に行った。ここは坂本龍馬が襲撃された寺田屋がある街ということで、駅前には坂本龍馬の大きなパネルが飾ってあった。龍馬はここで襲撃された後、妻と一緒に三十石船にのって大阪湾に下ったらしい。淀川資料館で勉強した知識が早速生かされた。お風呂場は430円。新地湯。お風呂に入っているあいだ、突然の大雨があったらしい。脱衣所で番頭さんと客が話していた。僕がでたころにはもう外は暗くなっていて、雨もあがっていた。淀駅に戻って、駅近くの宮前橋という淀川にかかる橋に行って大文字焼を探した。20時になったらずっと北のほうの山にオレンジ色の火のラインがすこし浮き上がるのが見えた。文字には見えなかったけど橋には僕の他にも十五人くらいの人が立ち止まって、というかたぶん家から出てきてそのオレンジ色のほんのちょっとの線を眺めていた。オペラグラスの人もいた。
送り火を見た後、くるみという、ちょっと入りにくいけど非常に長い歴史を感じる小さな洋定食の店に行ってくるみ定食(カツとエビフライとちょっとしたサラダと味噌汁と漬物とご飯)を食べる。店の外観の印象とは全然違ってとても美味しくて盛り付けも丁寧でしかも550円と破格の値段だった。創業40年以来値段を変更していないらしい。とても良い店だったので「近所に欲しい!」と思ったが、すでに近所の店だった。家に戻って横になった。夕方が嘘みたいに蚊はいなくなっていた。彼らにも労働時間があるのだ。床下も草だし斜めだしちょっと厳しい敷地かなと思ったけど、横になって見たら快適で快適で、驚いた。というのも、気候がとても気持ちよかった。湿度もなく、気温も少し涼しいくらいで寝付くには最高の条件。敷地にとって一番大事なのは気候だ。気候さえよければ草地でも斜めでもあまり問題にならない。
例によって早朝に目が覚めた。「6時半、一羽の鳩の声が聞こえてくる。ホイッホホーホー」というメモがある。また寝て、8時ごろに置きた。
ここは近所にオフィスになる場所がない。起きてコンビニでご飯を買って食べ、帰ってきて本堂の前に立ってお寺の絵を描いていたけど原因不明の鼻水のせいで集中できず、結局完成できないまま10時ごろにお寺を出発。京都市内を目指す。前日のうちに、最近京都でお世話になっているnowakiのきくちさんと筒井さんに連絡したら「うちは大丈夫ですよーお布団用意しておきます」という嬉しい返事がきていた。nowakiを目指す。
もくもくと歩いたので特にメモも残していない。ただひとつ
「後ろあいてんで、とおばちゃんに言われる。17時17分。三条駅の近く」
というメモが。後ろのドアが開いていることに、歩いている僕は気がつきにくい。最近ドアノブの調子が悪いというかほとんど壊れてしまっている。直さないと今後も歩いてる最中にパカパカ開いてしまう。
東雲寺からまた15キロくらいあるいてnowakiに17時半ごろに到着。ちょうど昨日の今頃。二人と一匹(猫)が迎えてくれた。この猫はゆきちゃんと行って、看板猫として有名で、「ねこづめの夜」などの絵本作家の町田尚子さんが作ったLINEスタンプまであるうえにアーティストの池田剛介さんもゆきちゃんファンらしい。
nowakiの近くの孫橋湯というお風呂場でお風呂に入って髪もちゃんと乾かして、nowakiに来ていたお客さんとnowakiの二人と僕の4人で中華料理屋にいってご飯をたべ、帰って来て筒井さんと音楽の話などをしてから眠った。
そして今日、nowakiの二人と一緒に喫茶いのんという、花屋さんがやっている鴨川沿いのカフェでモーニングを食べて、僕は京都でオフィスといえばここしかない、という上島珈琲寺町店にいって歩いたルートを地図に起こす仕事をして、ここに場所を移してこの日記を書いている。もう頼んだギネス1pintが無くなりそう。これからnowakiに行って絵を描かねば。
誠光社の堀部さんに鯖街道を忠実に通ったら面白いんじゃないかといわれたが、鯖街道というのは若狭湾で取れた鯖を今日に運ぶルートで、いくつかルートがあるらしく、そのうちまっすぐ若狭にたどりつく若狭街道というルートは、ずっと山道で街もなく、僕には厳しそうだ。西近江路という鯖街道ルートを昔はとったらしく、今回もそれでいく。
枚方の第二オフィス(サンマルク)のテラス席にはキャラの濃そうな地元のおばちゃんとおじちゃんがたむろしている。
どうも気温というのは、夜中の1時くらいから明け方にかけて一番下がるみたいだ。0時くらいまでは昼の熱気が残っている。昨日は一昨日よりも湿度が低く、割と眠ることができた。5時ごろに一度起きて、いつもなら二度寝をするのだけど、5時45分ごろにラジオ体操のために集まってきた数人のご老人たちの話し声で眠ることができず、そのまま6時半には起き上がって家を出た。かつての将軍たちは、夏にここで眠れたのか?
イートインコーナーのあるファミリーマートで朝ごはんのハンバーガーを食べ、いまは枚方T-siteというスーパーお洒落ビル1Fに入っているスターバックスコーヒーでスターバックスラテを飲みながらこれを書いている。なんとこのビルは3階にもスターバックスがあり、ビルのなかどこへでも飲み物を持って歩いていいような雰囲気が醸し出しされている。なんというお洒落さだ。建物の外観だけ見るとコンテナの形をしたガラスの大きな長方形のキューブがいくつか折り重なってて木製のルーバーのようなものも付いているので藤本壮介と隈研吾という感じの見た目だけど竹中工務店だった。ティーサイトは座るところがある。ソファとか、CDの試聴機とか。座るところがあるのは本当に助かる。素晴らしいことだ。街には座るところがないのでいつも困っている。いつも座るところに困っているような気がする。
雨が降っている。ゲリラ豪雨とかではなく、パラパラと継続的に朝からずっと降っている。今日まで3日間連続で動いてきた。今日は動くのをやめて休もうかと思う。すぐ近くにGOENという名前の宿があり、そこで泊まろうと思った。ただ家の置き場所が問題だ。宿の人に相談する必要がある・・。
昨日はマクドナルドを出た後、どうにも眠くて歩く気力が湧かなかったのでどこかで仮眠できないかとおもって街を探したらコミックバスターというネットカフェを見つけた。仮眠室と呼ぶ。仮眠室は3時間1200円ですこし眠り、それから歩き始めた。とりあえず淀川資料館を目指した。
特に暑い日だった。日差しもあり、前日までと同じように自動販売機やコンビニで飲み物を補充しながら常に、1本は飲み物をもっているような状態で歩き続けた。スポーツドリンクか、水かお茶と梅干しの組み合わせ。ただ淀川の川沿いを歩いてる時、雷の音がきこえてきて、空を見たら、上は意識しないと見ないので気がつかなかったのだけど、厚みのありそうな雲が右から、つまり南東の方から近づいていた。そのうち稲光も。昼に見る稲光は久々に見たような気がする。そして気温が下がってきた。道路は日陰になったり日向になったりしていたが、だんだん日陰ばかりになってくる。何故か車や自転車の行き来も減ってくるような気がする。
しかしラッキーなことに雨には至らず(あとで公園のおばちゃんの話を聞いたら大阪市の方はすごい雨だったらしい)、14時50分の時点で雨雲だったエリアは大方抜けた。ほっとした。ローソン摂津鳥飼中二丁目店でおやつ休憩を挟んだ。はちみつパンと梅干しとお茶。15時20分には日がさしてきた。
17時くらいに資料館に着いたのだけど資料館は16時まで閉まっていて、隣の淀川河川事務所に行って受付の女性に
「淀川資料館て閉まっちゃいましたか?」
「そうですねえ。3時45分入場締め切りですね」
「明日はやってますか?」
「はい。やっております。是非」
「じゃあ明日伺います。それでひとつお聞きしたいのですが、僕こういう自作の家を背負って、絵を描きながら歩いて回っているんですけど」
「はあ。はい」
「このあたりで今日この家を置いて寝る場所を探してまして」
「はい」
「この事務所の敷地の駐輪場とかお借りできないかなという相談なんですが」
「はいはい。はあ。ちょっとお待ちくださいね。総務のものを呼びます。」
と、総務の人に電話してくれ、しばらくしたら総務部のおじさんが女性を一人引き連れてやってきた。
僕は同じ説明をしたが
「はい。申し訳ないんですが、ここは国の土地なので、寝泊りということはできないんです。」
「はあ。そうなんですか」
「公共の場所ですので。はい」
「わかりました。なんとかします」
交渉失敗した。まあ完全に予想通りだった。「公共の場所だから」という決まり文句。釜山となんでこんなに違うんだと思ったけど、釜山は市立現代美術館の人が交渉してくれたので許可が出たのかもしれない、と思い、すぐに21世紀美術館の齋藤さんに電話して
「今月の最後の日あたり、金沢市役所の敷地に一晩村上が眠っても良いか許可をもらってくれませんか?」
とお願いした。これで許可が出るかどうかで金沢と釜山、ひいては日本と韓国の公共施設の考え方の違いが明らかになるはず。河川事務所がダメだったのでそこから300mくらい離れた万年地山と呼ばれる山の上にある神社に交渉しにいった。日本で本当に公共の場所なのは、役所や公園ではなくてお寺と神社だ。
神社のほうはインターホンを押したら女性が出てきて、事情を説明したら
「ああ、ちょっと待ってくださいね」
と引っ込んでいって、今度は神主さんらしき男性が出てきて
「神社の中はね、実際困るんですけど、この下に梅林がありまして、その向こう側のあたりがいいですよ。公園みたいな。水もあるし、屋根もある。」
「そうですかあ」
「境内で寝泊りはね、昔ちょっと問題があったんです。夜中マラソンしてる人とかがみて警察呼んだりもするかもしれないし・・」
と神主さんは笑っている。「とにかく一度場所を見てみてください」
「わかりました。ご親切にありがとうございます」
とのことで、昨日の敷地は御茶屋御殿展望広場という小さな公園だった。静かで、淀川の向こうの高槻市のほうまで見通せるくらい見晴らしが良くて綺麗な場所。かつて豊臣秀吉が建てた御茶屋御殿の跡地らしい。ここにお茶屋を建てる気持ちもわかる。かつては秀吉もここを訪れたであろうし、徳川2代将軍秀忠と3代将軍家光も滞在したと、看板に書いてある。他にお寺もあったのだけど、お盆で忙しそうな雰囲気だった上に僕はとても疲れていたので交渉する気力もなかった。
家とともに広場に入ると、東屋の下のベンチで女性二人が座って話していた。少し話した。「ちょうどノマドワーカーとして働き始めようかなという話をしてたところなんですよ!」と興奮していた。そのの二人が帰った後、おばちゃん三人とも立て続けに話した。ここらは近所の人が散歩(犬も)がてら来る場所らしい。「ここで寝ます。一晩お邪魔します」と、言ったら「ここ涼しいからいいですよ。淀川からの風がくるからね」といわれた。この言葉に救われた。この公園は大丈夫そうだ。上の神社が守ってくれますよ。とも言われた。「あとお風呂があればいいんだけどねえ、前はそこにあったんだけどこのあいだの地震で煙突が崩れちゃって、、、」とも。優しくて気が回るおばちゃんだ。「このあたりの人は穏やかだから大丈夫ですよ」。ちなみにそのおばちゃんは昔北千住に住んでいたことがあるらしい。「あの橋がつながる前ね」と。どの橋だろう。
そのとき、ここでは毎朝6時からラジオ体操があることを教えてもらった。「これは早起きを覚悟しなければ・・」と思った。「ラジオ体操ですか・・みんなびっくりしますね」といったら「いいじゃない」と。この公園は本当に大丈夫そうだ。こういう公園だったらこれからも敷地にしてみたい。ラジオ体操は嫌だけど。
ここまでの日記はスターバックスで朝書いた。いまはサイゼリヤで書いている。チェーン店を渡り歩いている。チェーン店はなにか文章を書いたりすこし時間をとって作業をするには適している。サイゼリヤはオフィスのつもりで入ったわけではないのだけど。パスタを食べたはいいのだけどサイゼリヤは厨房で火を使わないで料理を提供しているらしいのだけどこれがどうも今日は体に合わない・・。なんか個人がやっている店に入ればよかった・・。店員も機械的に客をさばいているだけだということを、今日は特に強く感じる。自分が人間なのかどうか怪しい気持ちになってくる・・。さっき昼寝して起きたばかり(昼寝と言ってももうすぐ21時になるのだけど)なこともあるのか。起きてすぐにサイゼリヤは精神によくない。気持ちが上向かない。
日記の続きを。御茶屋御殿展望広場に家を置いてまずお風呂に入りたかったので調べた。最寄駅の枚方市駅の近くに天の川温泉というお風呂場があると出てきたので行ってみた。敷地は高台にあるので「街に降りる」という感じがする。眺めの良い山手から、低俗と言ったら言い過ぎかもしれないけど大衆的な場所に降りる感じ。デ・ゼッサントのような気持ちだ。そう、敷地として淀川の河川敷もゲリラで使ってしまうことも考えたが、「住むなら山手の方がいい」と思った。駅近くにも公園はたくさんあるけど御茶屋御殿展望広場とは雰囲気が全然違う。下の公園は、人がすむようなところではない。
家から街に降りる途中にはちょこちょこ、洒落たパン屋や民家を改装したカフェなどがある。個人のお店。でもカフェはお盆休みなのか昨日も今日もやっていない。パン屋は昨日はやっていたような気がする明日やっていたら入ってみよう。
街に降りて、間取りをすこし確認してみた。というかトイレを探した。駅の当たりはかなり大衆的に栄えているので、トイレはたくさんあった。ここまでが10分弱かかるのだけど。
トイレ。家から近い順に
・ファミリーマートのトイレ おそらくここが一番近いトイレ。24時間。
・エル枚方という駅の高架下をつかった商業施設の公衆トイレ。ここも綺麗だった。おそらく10:30から23:00すぎまで使える。
・岡東中央公園という、茶髪のお若い方々が異常にたむろしていた公園にある公衆トイレ。汚いけどたぶん24時間。
・t-siteのトイレ。例のお洒落ビルの公衆トイレ。7時から23時まで。ここも綺麗だった。
トイレが4個もある。
そしてお風呂場に着いたのだけど、そこは駐車場になっていた。隣の宮之阪駅というところにもうひとつ、宮之阪温泉というお風呂場があるらしいので阪急電車に乗って宮之阪駅へ行った。お風呂のため家を残して体だけ電車に乗るときには若干の違和感を感じる・・。
お風呂は440円。めっちゃ人懐っこそうなおばちゃんが番台にすわっている。若い人もご老人も中学生くらいのグループもいる。活気のある街のお風呂場という感じ。風呂に入る前にプロテインを脱衣所で飲んでいるお兄さんにたいして番台からおばちゃんが「それ、飲むの??なにそれ。からだにいいの?」と聞いていてお兄さんは「いま運動してきたから」と答えていた。文字に起こすと噛み合っていないけどその場では会話は立派に成り立っていた。
お風呂に入った後t-siteの椅子(タダで座れる、この国では数少ない椅子のひとつだ)に座ってツタヤのCD貸出コーナーでCDをすこし視聴したりして夜の余暇を過ごした。本当はオフィスで仕事ができればよかったのだけど1日中なにか制作をするのは無理らしい・・。
閉館までそこにいて、家に戻って0時過ぎに就寝。冒頭にも書いたとおり、暑かったけど風があったので比較的眠れた。ラジオ体操でおばちゃんが5時45分ごろに集まってきたときに外から
「人が寝てはるんちゃうかな。でも公共の場所やから喋らせてもらいます。」
と声が聞こえた。またラジオ体操の前に
おばちゃん「今日も」
その他のご老人方-「今日も」
「良い天気」
-「良い天気」
「心は」
-「心は」
「晴れ晴れ」
-「晴れ晴れ」
と、みんなで掛け声?の復唱をしていた。。
おばちゃん「今日は8月15日。」
「敗戦の日」
とも。敗戦の日。だ今日は。
そして冒頭に戻る。スターバックスで途中までこの日記を書いたときに雨が降っているのを見て、今日は歩くのやめようと決め、また涼しいところで眠りたかったのでこれは休憩しようということでブッキングドットコムでそのスターバックスからすぐ近くにあるGOENというおしゃれなドミトリーの宿を予約した。普段は2000円を切るやすい宿らしいけどお盆価格で4300円。
その後淀川資料館にいった。とても面白かった。三十石船という江戸時代の客船にまつわる展示、昔から淀川水系は洪水に悩まされ続けてきており、その治水の歴史の展示、淀川に住む生き物たちについての展示など。
三十石船のセクションで、「淀川両岸一覧」という1862年ごろに発行された、淀川の景勝地を絵で紹介する観光案内の本が2ページだけ展示してあったのだけど、どちらのページも現代人の僕には「家と木と川があるところ」が描かれているとしか思えず、この二つの「景勝地」に違いを見出し、楽しんでいた昔の人々の感性が羨ましくなった。
また知らなかったのだけど、淀川は何度も治水のための大規模な工事が行われていて、特に明治18年の水害がきっかけではじめられた工事は、新しい淀川をつくるという大工事だった。淀川はいまでこそ割とまっすぐ大阪湾まで流れ込んでいるけどもともとはかなりくねくねと曲がりくねった川で、しかも400以上の水路が流れ込む琵琶湖から、たったひとつ瀬田川という川しか流れ出ていないらしくその瀬田川も淀川の上流にあたるので淀川にはとにかく氾濫が多かったらしい。大正6年の水害を堰き止めた過程を説明する文章が秀逸だった。
『決壊復旧工事は減水を待ち、10月6日ごろから始められました。水深が深いところでは30尺(約90m)もあったため、長さ13尺から30尺の大杭を打ち、杭の周りに土俵や粗朶を積み込む予定でしたが暴風雨のため工事が中断。12日から工事を再開したものの、決壊口からの水の流れが早く難航しさらに24日からの暴風により工事中の締め切り箇所押し流されてしまいました。
こうして2回目の堰止工事では、決壊箇所よりも住居側に下がったところで杭を打ち堰止することとなりましたが、水の流れが速く一気に塞き止める必要がありました。10月28日から粗朶や土俵などの準備を整え、何千人もの人手による決死的な作業が行われ11月7日、ついに堰止に成功。堤防が決壊してから実に38日ぶりのことでした。』
淀川資料館をみたあと、家にもどり荷物を取り「16日の12時までに動かします。この家については「家をせおって歩く」で検索」と書いて電話番号を添えた紙を屋根に貼り付けてGOENにチェックイン。そこでシャワーを浴びて洗濯をすませて、仮眠して、今に至る。
08152131
今はまだ6寺半なのだけど起きてからもう1時間は経っていて、阪急上新庄駅近くのマクドナルドにいる。暑さで寝苦しくて早朝に目が覚めてしまい、暑い家にいるのも辛いので起きてしまった。昨晩、このマクドナルドが24時間営業で電源があることを確認していた。エッグマックマフィンを食べたら眠くなってきた。多分入ったばかりであろう初心者マークをつけさせられた女の子の店員が付きっ切りで、熟練の雰囲気を醸し出している男性の店員からレジでの接客の指導を受けていて、男性が一人で作業をし始めると所在なさげにレジ前に立って画面をじっと見つめている様子をちらちらと見ながらこの日記を書いている。
昨日は朝9時ごろには起きて、絵(この事務所の建物)の続きを描いた。途中で下の作業場のシャッターが開く音がして、誰から木工の作業をする音が聞こえてきた。絵を完成させ、近くのローソンでその絵のコピーを取り、朝ごはんのおにぎりを買って事務所に帰ってきたら昨日は会わなかった男性が二人きていたので挨拶した。一人はドットの職員で、もう一人は東北からインターンにきているらしい。彼らから「夏休みの自由研究的な制作(大工が自分のために作ったような、小ぶりな踏み台を図面に起こしてレプリカを作ろうとしていた。大工のような技術はない自分たちが、彼らの仕事を真似した時に生まれるものを検証したいらしい。他にも座卓と囲碁盤を作るという)」の話を聞きながら買ってきたおにぎりを食べ、11時半ごろに出発。さらに北を目指す。
とにかく毎日暑いので、敷地は銭湯のそばが良いと思って北に適当な距離歩いたところにある「満月」という銭湯を調べ、とりあえずそこに見当(とりあえず歩き始めるために、目的地の見当をつけることにしている)をつけて歩いた。その銭湯の敷地を借りられたら一番いいが、もし無理でも近所に行くつかお寺もありそうだった。2,3時間くらい歩いたところで、自転車をひいて歩きながら中学生くらいの少年が、MARVELの派手なカバーをつけたiPhoneのカメラをこちらに向けて録画しながら「なにやってるんですか仕事ですか?」と聞いてきた。僕は一瞬「仕事」とはなんだろうと考え、僕の思う「仕事」と少年の思う「仕事」の定義が一致してなければこの質問には答えても意味がないな、と思ったがすぐにめんどくさくなって「仕事です。マーベル好きなんですか」と聞いたら好きです、と言うのでなにが好きですか、と聞いたらスパイダーマンですというので、ああスパイダーマンかと思って、僕はアイアンマンが好きですといった。かっこいいですよねと言われた。本当はガーディアンズのロケットが好きだがスパイダーマンという少年の言葉を聞いて、何故かそう言う気力が萎えてしまって適当にアイアンマンとか言ってしまった。「どっからきたんですか」というので「南から」と言ったが「みなみ?おおさかですか?」というので「もう四年くらいやってるからどっからきたかとかじゃないんですよ」と、また真面目に答えてしまった。「釜山から来た」といえばよかった。「テレビとかでたことありますか?」と、また非常に難しいことを聞いてきて「これも少年が考えるテレビと僕が考えるテレビの番組の種類が一致してないと答えても意味がないのでは」と一瞬考えたが、ものを考えると疲れるからずっとラジオを聞きながら歩いていたくらいなので、考えるのがすぐに面倒になって「何回かはあります」とまた真面目に答えてしまった。
しかし、自分の胸のあたりにこうiPhoneをかまえてカメラをこちらに向けながら話しかけてくるひとは本当に嫌な気持ちになる。俺も彼を撮ればよかった。
途中、お昼ご飯のためにライフというスーパーマーケットによっておにぎりと唐揚げを買い、食べようと思ったのだけど座るところがない。この国は本当に座るところがない。スーパーの店内に申し訳程度にベンチが4つくらいあったのだけど「飲食禁止」と目立つように書いてあった。スーパーで買ったおにぎりを食べるベンチ一つない。仕方がないので駐輪場を仕切る柵に腰掛けて食べた。傍目には食べ物をおく台になるものもないなか、とても器用におにぎりと唐揚げを食べていたと思う。
大阪駅近くで作家の森村誠さんに偶然会った。驚いた。ワイシャツ姿だった。「お久しぶりです!今大阪?それじゃあ、気をつけて。暑いから」と声をかけてくれた。とても元気をもらった。
18キロくらい歩いて満月についた。珍しく駅前にあるスーパー銭湯のような施設。ここで建物になっている場所以外の敷地は駐車場が駐輪場でうまっており、人通りも多いのでここで敷地を借りるのは断念し、そこから400mくらい離れたところにある瑞光寺というお寺で敷地の交渉をした。久々の敷地交渉だ。かつて僕は「敷地を貸していただく」という謙虚な気持ちでこの生活をやっていたけどなんだか今は「土地はみんなで共有するもんだろ」というような図々しい意識に変わっている。なのでドアの前に立ってからインターホンを押すまでのためらいの時間がほとんどなかった。インターホンからはなんだか気の強そうな女性の声が聞こえてきて、「どのようなご用ですか」と、ドアまで出てきてはくれなさそうだったのでその場で「寝る場所を探している」と伝えたら、「ちょっとお待ちください」と言って引っ込み、すぐにでてきて「和尚に聞いたんですけどお寺の境内は困るから前の公園はどうですか?」と言われた。お寺に入る前に気がついていたのだけどこのお寺の目の前には「瑞光寺公園」というお寺がある。「じゃあそうします」と言って家を公園内の、なんらかの公園管理者の作業エリアらしいフェンスで囲われたそのフェンスの門の前に置いた。僕としては、公園なんだから使わせてくれ。許可なんかいらないでしょう。だって公園なんだから。という意識になっている。ジャックする感覚というか。しかも「瑞光寺公園」という名前で、その瑞光寺の和尚さんからの提案なのだしOKだろう。ここまでは入ってこられたくないが、ここならいいんじゃない?という場所。公園というのはそういうスポットであるべきなのかもしれない。いまのところは。ただこの公園はすこし変な雰囲気があって、というのも自転車を止めて一人でスマートフォンをじっと見ている人や、スマートフォンを見ながら突っ立っているカップルなど奇妙な人がたくさんいる。不思議に思っていたのだけど、彼らの指の動きでそれがポケモンGOであることがわかった。この公園はポケモンGOのなんらかのスポットらしい・・。あるいは何か珍しいポケモンが出現したのか・・。ポケストップでないことを祈る・・。
家を置いてすぐに温泉「満月」へ。着ていた「無理してない人」Tシャツは汗だくで泥みたいになっていた。満月に入ってびっくりしたのだけどここにはミニオフィスがある。机と椅子と60分無料のWiFiと、電源もある。思うに電源があるかどうかが、オフィスと呼べるかどうかのラインだ。しかしこのオフィスはテーブルも椅子も小さく、廊下にあるので人の行き来もあって長時間作業には不向き。しかも今は充電するケーブル等をもっていない・・。残念だがオフィスとして利用するのは諦めるしかない。
お風呂のあと真のオフィスを探してiPhoneで近所にガストを見つける。本当はチェーン店ではなく、地元の夜までやってるカフェなんかを見つけたいのだけど小雨も降っていたので断念。ただこのエリア、良さそうな居酒屋や飲食店がたくさんある。そしてどの居酒屋にも子連れがたくさん入っていた。お盆だからか?「満月」の壁には近所の「うまいもんマップ」があった。
ガストでチーズダッカルビとご飯と味噌汁と漬物とがんもどきのようなものを食べて、パソコン作業をした。絵も少し描いた。隣に若い男女二人の客がいて、ワインを飲みながらポテトやミックスグリルを食べている。カップルかと思って気にしていなかったが女の方が「旦那がさあ、・・・・。お弁当なくてもいいよって言われてさあ」と話していて、カップルじゃないことが判明してから興味が湧いたがどんな関係かは分からず帰ってしまった。
オフィスを出たあとは洗濯機に行って洗濯した。幸いにも洗濯機が、今の敷地のすぐ目の前にあった。そしてなんとそこにもミニオフィスがあった。そこでも少し絵を描き、洗濯乾燥が終わるのを待って洗濯物をバックーパックの中に取り込み、家に戻って眠りについた。たぶん1時前ごろ。なかなか寝付けなかったが朝起きた時よりは湿気もなくてマシだった。
さて今日はどうしようか・・。淀川資料館という施設が枚方の淀川沿いにあるのを見つけたので、次の見当にする。淀川は砂をとる船があり、そのおかげで水深が保たれている。その砂を販売する会社も昔塀越しに見たことがある。その辺の資料が見られたら面白そうなのでいってみたいのだけどいま猛暑の中の二日連続の移動と寝不足ですこし疲れている。次に移動する先はゲストハウスか何かをあらかじめ予約して、そこに行ってしまって家は駐車場かなにかに置かせてもらって自分はベッドなどで寝た方がいいのではないかとも思っている・・。
もう8時になってしまった。日記を書くのに1時間半かかった。いや、まだ8時か・・。
タケルくんの家はいつもとても早起きらしく、僕が泊まっている部屋にも6時半ごろに朝ごはん(ナスやベーコンなどの炒め物とご飯、バナナ、ヨーグルトなど)が運ばれてきた。でも僕はまた寝てしまい、7時半ごろに起きてそれを食べさせていただく。お母さんは二人の子供も相手にしながら同時になんかいろいろやっている。偉大だ・・。
タケルくんのお母さんは「僕が食べるものがご当地かどうか、観光しているかどうか」をしきりに気にしていたのだけど、そんなお母さんが「これはご当地なので」と言っていた、自転車のイラストや、だんじり祭りの山車のイラストが描かれたクッキーなどが入ったお菓子詰め合わせの小袋をもらってタケル家を8時15分には出発。車でにじのとしょかんまでおくってもらう。にじのとしょかんで、釜山の滞在中に完成させられなかった絵を一枚完成させ、11時半ごろに家とともににじのとしょかんを出発、職員の方が二人見送ってくれた。
とりあえず北の方を目指して30号線を歩く。東京は涼しい日だったらしいけど大阪は先日と変わらず暑く、コンビニや自動販売機で麦茶を買いながら(たぶん2,3リットル飲んだ)歩く。ここから金沢まで到達しなければいけない。8月中には。間に合うのか?あんまりのんびり進んでられないので1日最低でも15キロは進めようと思う。久々の長距離で、疲れるけれど釜山で言葉が通じない人々の間を歩いて3週間過ごしたのは経験としてやはり大きく、日本で家を背負って歩くことに対する抵抗というか恥じらいというかそういうものはほとんど感じなかった。
途中のイトーヨーカドー津久野店で昼飯。昔イトーヨーカドーの駐輪場に家を置いてご飯を買って帰ってきたら警備の人に「ここはこのような建築物を置くところではないので」と言われたことがあったのを思い出し、家は歩道に置いて店内に入った。スーパーできゅうりの浅漬けと野菜ジュースとチャーハン餃子弁当。ここはテーブルや椅子が店内に散りばめられていて助かる。7スポットWiFiもある。
ご飯を食べて、すこしルートを西にそらせて北加賀屋の工場地帯にあるdot architectsの事務所を目指して歩き始めた。むかし大阪のトークイベントでdotの家成さんとお話したあと泊まる場所がなくて家成さんがここを紹介してくれて一泊させてもらったことがある。駐車場があった覚えがある。家成さんならダメとは言わないだろう。。家成さんに電話を入れてみたけど繋がらず、とりあえず突入することにする。最悪、誰もいなくて後から誰かきてもあそこなら大丈夫な気がする。
にじのとしょかんからdotの事務所まで16キロを歩いて、夕方5時前に到着。事務所には人がたくさんいた。お盆の日曜なのにやはり彼らは違う・・。家成さんもいて、泊まることを快諾してくれた。dotの土井さんが「口の中の水分が全て持っていかれるマフィン」をくれた。口の中の水分は全て持っていかれた。dot事務所はおそらく工場だった建物を使って1回を作業場、2回の仕切られた部屋を事務所としており、家成さんはその事務所の部屋使ってもいいと言ってくれ、鍵の開け方などを教えてくれ、僕は今日のオフィスを確保できた。そのオフィスでこの日記を書いている。パソコンはWiFiに繋がっているので金沢の展示のための地図をつくる作業もできる。
家成さんは、そのとき打ち合わせのために来ていたお客さんに僕のことを紹介してくれたのだけど、家の説明のすぐ後に「村上さんのドローイングも良いんですよ」と付け加えてくれたのが嬉しかった。さらに家についても「マジックでこの黒い輪郭線を描いてるのがとてもいいなと思ったんですよ」と言っていた。そのさりげないけど嬉しい言葉の付け加えに、彼の人柄とキャリアを強く感じた。建築事務所をやり、作品をつくっている人という感じ。
この事務所と同じ敷地にある建物には人が住んでいるらしく、土井さんがその人たちにも伝えておきます、びっくりしないように、と言ってくれたのだけど、僕の「(その人たちは)”一般人”ですか?」という問いに対して土井さんが「いや、リテラシーは高いです」と返してくれ、僕と彼の間で何かが通じ合ったような気がした。
夕方6時前にはdotの人たちが事務所をさり、僕はすこし絵を描いてからお風呂へ。すぐ近くに「くつろぎの湯 湯楽」というスーパー銭湯温泉がある。休日料金で770円。お盆なこともあってか、大変混み合っていた。夏場でもお風呂に入るのは大切だ。疲れの取れ方が違う。体の中身が温まる。
お風呂から上がった後、近くのローソンで、先日掛川自動車学校を紹介した特典でもらったクオカードをつかってサッポロ黒ラベルの缶ビールを買ってふらふらした。完全に車のために作られたバイパスの、車向けに作られた大きな中古車買取の看板の下で、缶ビールをのみながら次々走り去っていく車をぼーっとながめる。他に歩いている人はいない。自転車は少しいるけど、通り過ぎていくだけだ。”通り道”としての場所に留まっている。時速50キロで一瞬だけ視界に入れられることの多い看板を、立ち止まってじっくり眺めたりする。
晩御飯は「杵屋麦丸」で牛ぶっかけうどんを食べた。
この敷地は自販機がすぐそばにあり、水分補給には便利だ。向かいの公園には「セアカゴケグモに注意」の看板があった。
そして季節柄かわからないけど道路上に大きめのゴキブリをたくさん見かけ、嫌だなと思ってたけど家で寝袋をひろげて眠る準備をして、事務所のトイレで歯を磨いたあと、ついに僕の家から50センチくらいのところでゴキブリが動いているのを見つけてしまい、寝袋とマットを家から引きずり出して2階の事務所まで行き、鍵を開けて入り、床にマットと寝袋を敷いて眠った。こっそりとタイマー付きでエアコンのスイッチも入れた。
2018年8月11日20時36分
色々あって現在、大阪府和泉市のかなり南の方、山の中のとても綺麗で立派な一軒家の客間にいる。客間は8畳がふた部屋あって、広々としているうえ、書院造り風で床の間と違い棚もある。エアコンはないけど山の中なので涼しい。ここまで日々を「経験」としてちゃんと処理するためにも、整理する必要がある。日記を書くことは、家に帰ることと少し似ている。日々をちゃんと経験として経験するために家があるし、日記を書く。まず過去に殴り書きしたメモをここにコピペしていく。
2018年7月30日23時54分
釜山現代美術館について、警備のおじさんに日本語で「ここに動かします、ここに寝ます」と言って、シャワー行って歯磨いて眠る準備まで一瞬でやった。体感10分くらい。実際でも20分くらい。この時期シャワーを浴びると生まれ変わったくらいの気持ちになる。
これがまだ10日前とは思えない・・。ソウルから釜山にKTXで帰ってきて、家が置いてある現代美術館に着いた時はもう夜11時過ぎていた。美術館の中なのでクーラーも聞いていて快適だったのを覚えている。
2018年8月1日10時31分
「壊れると思っとったわ、行く時から。」と大阪港を出る時にもいたおじさんに言われた。
この日は災難だった。釜山港で3万ウォン支払って家をパンスターフェリーに積んで優雅な船旅を経て大阪南港について家を受け取ってみたら、家が大きく破壊されていた。原型は留めていたけど、ドアの上と下の木のフレームが2本ともボキッと折られていて、ドアの左右にある縦方向のフレームとそれに直行する上側のフレーム(つまり家の長辺を支えるフレーム)のジョイントも破壊されて木が宙ぶらりんになっていた。ドアも縦方向に半分に割れていて、屋根も一部壊れて家から分離してしまっており、それとなく家のそばに置かれていた。これまでこんなに大胆に家が壊れたことはなかった。太さ19mmの角材が2本折れるほどの衝撃なので船に揺られる中でなにか荷崩れをおこしたのか、かなり適当に粗雑に扱われたのか(大量のダンボールの中に上下左右関係なく投げ込まれて、その上さらにダンボールが投げ入れられたり)わからないけどまあ壊れてしまったものは仕方がないので直すしかない。と思ったのだけどフレームが折れてしまっているので一人で背負えず、通関するのに台車を使う必要があった。そこで言われたのが上の一言。大阪から釜山に行くときにも釜山から帰ってきたときにも(白髪の髭の)おじさんが大阪南港のフェリーターミナルにいた。
僕は8月4日に大阪府和泉市にある「にじのとしょかん」という図書館でイベントをやる予定があり、そこに家を置かせてもらう三段になっていたので、僕は家をターミナルに一時的に置かせてもらい、市内のレンタカーで軽トラ(マニュアル)を借りてきて、どうにか家を軽トラに積んで20キロほど走ってにじのとしょかんに搬入した。それから東京にもどった。
そして今日。ふたたび大阪に戻ってきてにじのとしょかんで家の修繕を施した。折れたフレームは同じ太さの木をホームセンターで買ってきて副木のような形で木をあてて固定した。他はボンドとガムテープでどうにかこうにか修理した。家の壁のほうはもう築三年以上になるのでかなりガタがきている・・。修繕が終わったのが午後4時前で、今日眠る敷地をどうしようと思って「にじのとしょかんの敷地で夜を過ごすことはできませんか」と聞いてみたら、「いま管理してる責任者がお盆でいないからなんとも・・」とのことで、一応センターの事務の人(この施設は人権センターという公共施設の一部。ここらはもともと同和地区だったらしい。)に聞いてみてくれたらしいが「村上さんのことはテレビで見たことある。ここに泊まるのはダメ」と言われたらしい。やっぱりこの国は公共施設の敷居が高い・・。
そのやりとりを聞いていたにじのとしょかんの職員の方(4日にここで行ったワークショップイベントでほぼ僕のアシスタントとして大活躍してくれて、別れ際に僕の本を「買うわ。絶対買う。」と言ってくれた(あの言い方は嬉しかった)タケルくんのお母さんでもある。)が、「うちの庭広いですよ!ちょっと遠いですけど主人がトラックを運転してくれれば!また明日は大阪市内にいくようなのでロスも取り戻せるかと!」と言ってくれて、さらに僕が進む予定の北方面で敷地を貸してくれる友人がいないか色々聞いてくれ、最終的に家はにじのとしょかんに預けたまま、僕だけその家族の家に泊まらせてもらうという「外泊」に落ち着いた。
和歌山県の県境にある山の中の小さな町にある一軒家で、近くには阿弥陀堂という安産祈願で有名な綺麗でかわいらしいお寺があり、泳げそうな綺麗な川が流れている。山の緑もとても綺麗。蝉が鳴いている。アブラゼミが多いけど、ミンミンゼミと、クマゼミもいる。WiFiも。
この家には二人の子供、中2年生と小学6年生がいて、僕が着いた時二人とも宿題をやっていた。宿題を見せてもらって驚いた。量が。すごい量だ。
国語は漢字学習ノートと読書感想文とドリル、数学英語もドリル(丸つけ、やり直しまでやって提出らしい)、英語はドリルが2種類ある。理科は問題集と自由研究、社会も問題集。美術もある。料理をつくる、という宿題もある。さらに職場体験も、レシピコンテストやらも、作文も2種類。出し過ぎだ。大阪は特に多いらしいのだけど、これはちょっとひどいので「先生に、出し過ぎですよって言ったほうがいいよ」と言った。ちなみに作文のテーマの一つは「人権作文」だった。こんな宿題出されたら遊ぶ暇ないだろうに・・。かわいそうだ。川も寺もブランコもあるのに。ブランコというのは、着いてすぐ、タケルくんに近所を案内してもらったときに教わった。地元の小学生の案内で、近くの川へ降りる曲がった小道を通ったりお寺にいって「ここにはよく子供遊びにくる。ブランコあるからな」と教えてもらったりするのはとても贅沢で楽しい時間だった。
夕方車で和歌山県に入ったところにあるかつらぎ温泉に連れて言ってもらったのだけど、小ぶりな山がぼこぼことたくさんあって、かなり独特な景観だった。和歌山県は初めて足を踏み入れたけど、ここは地形を調べたら面白そう。
タケルくんが露天風呂に入ってしばらくたったあと隣にいた僕に
「けっこうのぼせやすいほうやからな」
と言ってきた。こいつは面白い男だ。
「のぼせやすいの?」
と聞き返したら
「うん」
というので
「出ていいんだよ」
と言ったら
「のぼせやすいな」
と関西なまりで話しながら露天風呂から立ち去っていった。その背中をみて僕は一人で笑ってしまった。この交流そのものに価値があるのだ。未来はここでは出る幕はなくて、この瞬間そのものが愛おしい。彼に会えてよかった。この先また会えるかどうかとかはすごくどうでもいい。とりあえずいま、とても良かった。そんな気分だった。
もしかしたら、僕は辛くない方法を無意識に探しているかもしれない。この移住を生活する、はそれ以前の生活のパターンが辛くてたまらなくなり、もう一つ作ろうと思って始めたのはいいが、これは生活の過程で人の「世話になってしまう」ということが時々あって、僕は旅行文学みたいに本に出して完了というわけではなく、過程そのものも作品化したいので、人の世話になるということ(何をやっても世話にはなるのだけど、ある種の世話のされ方)はできれば避けたい・・。つまりやっぱりお金のことをプロジェクトとして考えないといけない。一緒に考えてくれる人や企業を見つけたい。しかし今はとりあえず全部その出来事のままで受け入れながらも、能動的に前に進め。これしかない。
この家は「まちライブラリー」という個人の図書館のようなプロジェクトのメンバーらしく、全国にたくさんあるらしいので「まちライブラリー」で検索すると敷地が見つかりやすいかも、と言われた。さっそく今回の金沢への移動で試してみたい。
さっきタケルくんに僕の描きかけの絵を見せたら
「すごいなあ。建築家はそれぐらいやらんとなあ」
と言っていた。
こんにちは。村上慧と申します。1988年、昭和63年東京都生まれです。この「家をせおって歩く」の話をしに来ました。
まずこの本を読んだ人はどれくらいいるのか?
僕はこれを作品としてやっているんですが、すこし噛み砕いて説明すると「もう一つの「住み方」を身に付けている」と言えるかもしれません。いま僕は東京で借りている家と、この発泡スチロールの家の2種類の「住み方」を持っていると思ってください。ちなみにいま3種類目を準備中なんですが。それの性質上、協力してくれるスポンサーが必要で、いまそれを探すのに手こずっています。もし詳しく聞いてみたいという方がいたらあとで声をかけてください。
(本の説明)
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大阪に初めて来たとき、奈良県から暗峠という、ものすごく急な坂道を通って大阪府に入ったんですが、へとへとで東大阪市に入って、子供から木の棒を投げられました。それで大阪の子供はやっぱり違うなーと思いましたね。
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僕は東京のアトリエから新幹線でここまで来ました。新幹線は時々乗ると、そのスピードにびっくりします。驚くべきスピードです。2時間半で着いちゃいます。この家は新幹線に載せることはできません。この家があるかぎり、僕は歩いて移動しないといけません。ちなみに、さっき調べたんですが東京の僕のアトリエからここまで、途中フェリーを使ってちょうど498キロあります。この移動にはたぶん、歩くと40日間くらいかかります。なのでもし僕が東京から家を持ってきて今日ここで話すためには、今から思えば、涼しかった頃の6月下旬に東京を出発し、7月の半ばごろに浜松でうなぎを食べて今日ようやくここに到着したという感じになるでしょう。そしてここから東京に歩いて戻るとして、今月の終わり頃に富士山の麓を通って9月半ばごろに東京に着くと思います。すると、ここで1日話したりするために僕はきたわけですが、ここにくるための移動に80日間くらい使うことになります。すると、何が起こるかというと、ここで1日話すために歩きはじめたはずが、途中から、歩く最中に起こるいろいろなことに巻き込まれて、そちらのほうが面白くなってきてしまいます。これはヘンリーデイビットソローという僕が好きなアメリカ人の作家の言葉ですが、
「誰にも出し抜かれない生き方がある。それはゆっくり歩くことだ。」
「さて、今から徒歩で移動すれば、夜までにはフィッチバーグに着くだろう。以前このペースで、1週間歩いて旅をしたことがある。君はその間働いて汽車賃を稼ぎ、明日、あるいは幸運にもかきいれ時ですぐ仕事が見つかれば今夜にも、そこへ着くだろう。フィッチバーグを目指して歩く代わりに、君は1日の大半をここで働いて過ごすわけだ。ということは、鉄道が世界を一周したとしても、僕は常に君より先を行っていることになる。さらに、その地方を見物し、いろんな体験ができることを考えると、とても君のやり方に付き合う気にはなれないね。」
これが意味するところ、皆さんも考えてみてください。
でも今回、この家は東京から来たのではなくて、韓国の釜山からきました。一ヶ月間くらい釜山にこの家を使って住んでいました。先日まで釜山にこの家と一緒に行っていました。そういえば釜山からフェリーで帰って来たとき、不思議な体験をしました。(夜景の話)こうやって、作家を思いもよらない考えに至らせたり、どこか場所に連れて行ってくれるもののことを僕は作品と呼んでいます。
きっかけ、という質問をよくされるのですが、僕はこのプロジェクト以外にもいろいろつくっていて、このプロジェクトは自分の「生活をつくる」という作品なだけであって、なぜこんなことをするのかと聞かれたら僕は作家だからとしか答えられないのですが、アイデアの種とかモチベーションは色々あって、もともと建築を勉強していたときに、なにかをブラインドされてやらされているという感覚が拭えず、住み方そのものをもう少し考えたいと思っていました。ブラインドというのは、なにかとてもおかしなことをすっとばして、当たりだというふうに思い込まされているという感覚です。例えば、別荘の課題がありました。別荘の空間を設計すればいいんですが、そもそも別荘をオーダーする人がどういう人で、なにを「別荘」に求めているのか、ばあいによっては別荘という解決策以外にもっといい方法があるんじゃないかとか、もっと個人的に思ったのは、都心に家を一つ持っているのに、山の木を切り倒してもう一つ家をつくるという以上、都心とは違う住み方をしなければいけないと考え、縁側と屋根と雨どいのようなものしかない、不思議な家を作ったんですが、おもしろけど施主としてはこんな家を設計する建築家には頼みたくないと教授に言われまして。そうやって色々言われたり普通に過ごしているうちにふつふつと社会に対する怒りのようなものが湧いてきて、なにか作らないと生きていけないと思って作品のアイデアを出すようになりました。体のつかいかたといってもいいんですけど、いまの社会、住み方がとても限定されているような気がしていて、この1パターン(家賃を払うか、家を買うか。でも家を買うってどういうこと?とも思うんですけど)しかないことが我慢ならないというか。被災地でダブルローンの人々をたくさんみました。これは何かおかしくないかとおもいました。家というのは、シェルターの機能と、社会に自分を登録するためのポイントになる機能があります。トレーラーハウスでは住民票が取れないといっていた石巻の女性がいました。ようするにうごかれては税金が取りにくかったり管理しにくかったりするわけで、その元で生きているわけです。住民票を持たないことはこの国では罪になります。罰はないようですが。でもこの住み方ゆえに怒っている色々な問題があるんじゃないかというか、住み方はおよそ全ての問題につながっているんじゃないかと思います。あと仮設住宅で辛そうな人もたくさんみて、なんというか、全然違う住み方をやってやろうと思いました。
いまPANSTAR CRUISE FERRYは下関の関門海峡を通過している。僕のiPhoneはとっくに日本の携帯電話会社の電波を拾って、メールの送受信を始めている。船のデッキには下関の夜景を見ている人たちがいる。僕もさっきまで夜景を見ていた。一番最初に目に入った日本語は「餃子の王将」だった。夜景は綺麗だ。釜山の夜景もソウルの夜景も、下関の夜景と全く同じ綺麗さだった。奇妙だ。僕は韓国で船に乗り、数時間経ったら日本の夜景を見ている。その夜景は釜山でみた綺麗さと同じだった。やっぱり飛行機という乗り物は他の乗り物と比べてすこし特殊なのだと思う。一度陸を離れてしまうことで、経験が切断されてしまう。それに比べて船は、ずっと地続きというか海続きなのでずーっと経験が持続している。この釜山と同じ夜景のもとで、人々は全く違う言語を話して違う法律のもとで生活していると思うと、とても奇妙だ。僕はついさっきまで釜山にいて、昼が夜になったら日本の夜景になっている。船旅はこの奇妙さは経験してみるまで知らなかった。
今僕は船内にあるカフェでビール(もうハッピーアワーじゃないので6000ウォン、円だと600円になっていた)を飲みながらこれを書いている。先ほど、ハッピーアワーの時はウォンで支払った(その後余った1000ウォン札で水を買った)。いまは同じビールを僕は円で買って飲んでいる。
WiFiのパスワードを教えてもらったが、繋がらない。