美術について、バイト先の人たちに説明したあとの、「はあ」みたいな顔をされたときの無力感が尋常じゃない。この感じ、久しぶりに味わった。「デザイン」と同義語だと思っている人もいた。まあそんなもんなんだろう。僕がいくら「いま美術家として個人事業主になっていて、4月までにお金がいるから、ここでお世話になっている。」という話をしても、基本的にみんな「将来は画家になる人」みたいな認識から逃れられない。彼らの言う「将来」は多分いつになってもこない。その人が何者なのか、を考えるときに「それだけで生活費を稼げるか否か」という基準を多分無意識に適用しちゃっていて、いま現に目の前に「作家」を自称している人がいるのに、「将来は~」という風になってしまう。その人がアーティストかどうかって、「それだけで食っているか否か」では、断じてなくて、その人が、自分は作家であるという自覚を持って社会と向き合っているかどうかで決まるものなのに。でもみんなに悪気があるわけでは全くない。こっちの人は、東京人と全然人柄が違って、みんなとってもピュアで、他人の心配事を、自分のことのように考えられる人ばっかりだ。すくなくとも僕が今のところ会ったひとたちはほとんどそうだった。例えば職場のある人が、新しく仕事をはじめようとしていて、そのために、まず先方にお金をいくらか(それも小額ではない)振り込まなきゃいけない、という話をききつけたみんなが「それは絶対に怪しい」と、心底心配そうにアドバイスしているのをみて、僕は最初「そりゃー痛い目みそうだなー」くらいに思っていたくらいだけど、なんだかみんなといるうちに「俺ももっと心配した方がいいのか」という気持ちになる。ということがあった。とにかく、みんな、東京の人々のようには毒されていないという感じがする。最近、佐々木中さんの「切りとれ、あの祈る手を」という本を読み始めたんだけど、それが、その冒頭あたりに


ジル•ドゥルーズの力強い言葉がありますね。「堕落した情報があるのではなく、情報それ自体が堕落なのだ」と。ハイデガーも、「情報」とは「命令」という意味だと言っている。そうです。皆、命令を聞き逃していないかという恐怖に突き動かされているのです。情報を集めるということは、命令を集めるということです。いつもいつも気を張りつめて、命令に耳を澄ましているということです。

そこで「命令など知らない」ということはできないのでしょうか。命令を拒絶することはもはや不可能になったのでしょうか。

目配りがいいということに価値を置かないし、知っているということにも価値を置かない、情報を遮断する。すると、端的に何をしていいのかわからなくなる。どこにいくのかもわからない。命令を聞かないんだから何に従っていればいいのかわからない。かといって自分の命令というのは聞けない。誰とも知らない他の誰かの情報に、すなわち命令に従っていれ楽なんです。何故なら、その命令は自分では変えられないから。自分からの命令というのは自分で変えられる。所詮自分ですからね。すると当然はっきりとした目標に向かって真っ直ぐに進むということができなくなる。地図なしで異国の森をよろめきながら彷徨っているようなものです。どこに行くのかもわからず、ぴしりと足下で鳴る小枝の音を心細く聞き、不意に茂みからけたたましい声とともに飛び立つ鳥たちの羽ばたきに狼狽するーみっともないし心許ないし情けない。どころか苦しいわけです。外部の基準が何もないということは、要するに他人から見ると何もしていないということになります。この時代に何もしないで呆然としているというのは、許されないことをしているのではないかという罪悪感にも似た何かに責められることになる。


とある。
読み始めた瞬間から、心底「いまこの本を読めて良かった」と思った。東京にいると、どんどん新しいものが入ってきて、それを見聞きするたびに、僕の中だけで育っていた何かが「軌道修正される」感じがあった。いろんなイベントや展覧会や飲み会やインターネット(いま住んでいる家にはインターネットを引いていない)や町に響く声や広告や景色あらゆるものが情報となって、「そっちじゃないよ。こっちだよ」という風に、僕に向かって「命令」してくる感覚が、確かにあった。自分以外の判断基準を失い、善も悪も右も左も分からなくなるくらい没入するためには、そういう命令、というか雑音を遮断しないとだめなのだと思う。このあたりのことは、ドゥルーズの思想にもヒントがあるっぽい。今度読んでみる。

12時近くまで寝てしまった。。明日からは8時までには行動開始するのを徹底しないと。。朝撮影に出かけることを体に染み込ませる。昨日はバイトだった。ちゃんと夕方から最後まで入るのは初めて。最初、みんな同じような顔に見えるのが、だんだん「その人の顔」というふうに頭が識別できるようになるのがよく分かる。雑然とした景色に秩序が与えられていくみたい。人が初めて木や花に名前をつけていった時のように。この店は、前にやっていたビアガーデンに比べていろいろと規律が徹底されている印象。覚えることが山ほどあるのが、今日一日でよくわかった。例えば、ビアガーデンの方では忙しくなってくるとドリンクの作り方が目分量になるのをよしとしていたけど、こっちは忙しくなってもみんなちゃんとはかってやっている様子。研修もやたらちゃんとしてる。一人、兄貴分の人を発見した。この人に二度ほど注意されたけど、終わってから「君のロッカー、僕の下かー」「はい。よろしくおねがいしまーす」「がんばってなー」というケアもちゃんとするみたいな。僕より背も高いし、帰りは別の人に車で送ってもらった。大学一年生らしいけど、親から譲ってもらった車を持っていた。キャンパスが遠いかららしいけど、こっちではやっぱりみんな車を持っているようす。

家の絵を描いていて、感情が高ぶって泣きそうになることがある。洗濯物や壁の汚れや、ベランダの植栽やらをひとつひとつ見ながら描いていくうちに、その家で寝泊まりして、仕事にでかけて帰ってくる人と、それを家で待ちながら洗濯物を干したりしている人と。望んで手に入れた暮らしなのに、それに取り囲まれて身動きがとれなくなっていて、しかもそれに気がついていない人。近所の人が誰も気がつかなくて一人で死んでしまったり留守番のしすぎで鬱になってしまったり、毎日通う学校でいじめられているけどどこかに移るわけにもいかなくて耐えきれなくなって自殺してしまったり休日何をすればいいかわからなくて仕事してしまったり。僕も今は高松の家で家賃を払って住んでいるけど、家賃をはらっているから遠くに長期間でかけようという気持ちがそがれやすい。生活が閉じる。すぐに行き詰まる。街に出てちょっと辺りを見回すと、もう滅亡が近づいているような気がしてくる。空き家や空き部屋ばかりが目について、人通りが少ない道路。変な気象。そんなときに目に付いた洗濯物は、命があるというしるし、旗のようなものに見える。
今日からバイトがはじまる。あれだけバイトしたのにもうなぜかお金がない。イタリア行ったり引っ越したりしたからなんだけど。バイトは本当に。魂の墓場だと思う。何日か前に、新しい環境にあわせて精神や身体が変態する時間が「生きている」時間だと書いたので、ぼくはこれから明らかに「生きている時間」に突入するから喜ぶべきところなのかもしれないけど、その対象がバイトというだけでもうげんなりする。これでなんとか最後にしたい。4月にむけて耐え忍ぶしかない。4月になったら楽になるというわけではないのだけど。
今のアイデアは、とても強力で、可能性を秘めているものだ。これをちゃんと取り扱うには、強靭な精神力が必要で。手に負えるのか不安だけれど、僕が生み出してしまったものなので、僕が手なずけられなければ、誰もやらない。圧倒的な強さで取り組まないといけない。それはもう完全に圧倒的な強さでもって取りかからなければいけない。狂わないと生き残れない。狂わないと死ぬ。狂い続けないと死ぬ。今突破する方法はこれしか思いつかない。悲しむ人もいるけれど、もうこれしかないのだ。向き合え。
この世界は真っ黒だけど、この真っ黒な世界を完全に直視するには、たぶん知性と忍耐が必要で。でも僕は、こんな真っ黒な世界とまともに向き合えてしまったら、気が狂ってしまうと思う。幸か不幸か僕にはこの真っ暗な世界に真っ向から向き合うだけの知性と忍耐力と集中力がない。だから気が狂ってない。幸せなことだなー。
いまメールがきた。4通来た。最近迷惑メールの受信数が半端じゃない。誰だアドレス漏らしてるの。多いときは5分に1通くらい来てる。しかも全部送信元のアドレスが違うからアドレス拒否しても全く効果がない。Amazonで買い物したら、Anazonというところからメールが来たしトマト運輸というところからもそっちゅうくる。Anazon。トマト運輸。あとは7000万円あげますとか2億円あげますとか300億円あげますとか本当に騙す気でやってるのか。まず信じるわけがないし、そんなお金突然もらっても使えるわけがない。本当だとしてもそんなわけのわからないお金はいらない。ありがとうございました

住所を変えてみる。住む地域を変える。模様替えをしてみる。着る服のテイストを変えてみる。近所付き合いの距離感を変えてみる。寝る部屋を変えてみる。習慣や趣味を変えてみる。
そのとき新しい環境に合わせて、身体や精神が変態するあいだの時間が「生きている」時間で。生き続けるために、ある状態とある状態の間の往復運動をする。自分のまわりの環境を俯瞰して捉える目を持つために。より「よく生きる」ためにはどうしたら良いか比較できるようにするために。思考を常に働かせておくために。ある状態に落ち着いたとしても、そこでなにか問題が発生した時逃げられるように。

色々と考えながら描いてみたけど、やっぱり家の絵が一番、対立するものとしてふさわしい気がする。看板の絵も「近い」けど、家の絵が一番シャープでストレートな気がする。ガードレールは「遠い」。街灯はまだよくわからない。歩道橋も描いて見たい。
で今日最初の材料を買ってきた。1820×910×30mmの発泡スチロール4枚。スタイロを使うか迷ったけれど、重さがあるのと、「発泡スチロール」っていう、誰もが想像できるものを使うことに面白さがあるような気がして、スタイロはやめた。これから、大きさを決めていく。
そしてバイト生活がまた始まる。。
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昨日、香川県庁舎に行ってきた。丹下健三が設計した建物で、写真では何度か見ていたけれど、実物は初めて見た。コンクリートを使って日本家屋とか神社を思い出させるよあな作り込みが細かく行われていて、めっちゃ力強くてかっこいい建物だった。まわりのまちなみから完全に独立して存在している感じがした。
で、この建物を描こうと思ってやり始めてみたら、なんだか全然気分が乗らなくて途中でやめてしまった。

なんでか考えてみると、僕にとって建物の絵を描くということは、その対象に対する、何か攻撃めいた感情(僕たちの生活は閉じ込められている元凶の、この不動産というものを紙に小さく描ききるという攻撃的な感情がある)とか、僕自身大学で建築を専攻していたときに抱いた建築や建築家への不信感とか、そこで生活•仕事をしている人たちや、この名もない建物を記憶に刻むための描く行為とか、いろんなものが入り交じっているので、香川県庁舎のような有名な建築は、わざわざ僕が描きとる必要はないし、その建物が発するオーラも筆を邪魔する感覚があったかもしれない。なんにしても、僕がやらなくてもいいんじゃないかという気持ちが働いて、やる気が起きなかったのかもしれない。

9月までの、鬼のようなバイト生活で貯めた貯金で、いま生活できている。でもそれも残り少なくなってきた。
4月からの動きのために、3月までにまたお金をためなくてはいけないのだけど、入金予定は展示のギャラだけで、何か別にお金になる仕事を探さなくちゃいけないかなーと思っていた。
で、昨日キキさんがやってる古本屋「なタ書」に遊びに行ってみたら、なんと百貨店か何かの3月までの緊急雇用で、フォトショップのイラストレーターが使える人をさがしているという情報を教えてもらった。キキさんさすがやー!と思って、早速紹介をお願いしたのだけど、今日1日待っても連絡が無いので、キキさん忘れたかな〜それかもう人がいるのかなあ〜なんて思って、やっぱり自分で探したほうがいいのかなあと思っている。でももう少し待ってみる。

あと、一昨日税務署に行って「美術家」で個人事業主申請をしてきた。大分で小鷹さんと話して、申請を決めた。あっけないくらいすんなりと終わった

「そうではない状態」をつくりだすことによって、この世界を「そうである状態」につくりかえることができる。