2018年7月16日〜17日부산시해운대구우동の부산시립미술관

 

 

キムさんは、日本領事館が敷地を貸すことはできないと言われたとき「びっくりした」と、本当にびっくりした様子で話していた。仮にそれが市の事業でも、日本では役所に寝たりするのは無理だと思うといったら、理解できないと。昨今の公園のベンチなんかをみると日本では寝るというか人が公共の場で横になることに対する無意識でほとんど生理的な拒絶反応がある。

昨日釜山博物館をお昼過ぎに出て、2時間で8キロほど歩いて噂の「ヘウンデ」近くの釜山市立美術館に家を移動させた。美術館には広い庭があって、デニスオッペンハイムやアンソニーゴームリーのパブリックアート。また本館とは別に「李禹煥空間」という、リーウーファンの「関係項」シリーズや広い画面に幅の広い刷毛で一点だけペインティングするシリーズなどの作品が集中的に見られる二階建ての建物があって、僕の家はその建物の前、同じくリーウーファン先生の野外作品の近くに置かせてもらった。市立美術館の館長さんからは、アーティストの村上隆さんは毎年お正月にはリーウーファン先生の家を訪ねるらしく「村上なので一緒ですね」とのお話・・。また美術館のエントランスには川俣正さんの作品がぶちこまれていた。美術館は20年ほど前に建てられた、シルエットだけみると地図における工場を表す記号みたいな形をしていて、のっぺりとした大きな建物なので、そのエントランス部分につくられた、ひとつひとつは一人で持てるサイズの木材がたくさんビスでつなげて作られた川俣さんのゲートは、美術館の建物と対照的だった。川俣さんはスウェーデンで見たような広場などに独立してつくる作品よりもやっぱり建物に打ち込むようなスタイルの作品のほうがイカす。美術館には日本語が話せる学芸員が数名いて、そのうちのひとりパクさんという人がいてキムさんとも元同僚。パクさんは昔東村山に住んだことがあるらしく、武蔵野美術大学やその隣の朝鮮大学校のことも知っていた。夜はそのパクさんとキムさんと三人でサムギョプサル。

夜は湿度がそれほど高くなく、寝つきやすかった。また静かだった。この辺りはニュータウン。僕が家を置いて寝るには最高の環境だ。朝5時に爆音で音楽をかけながら集団でやってくるおばちゃんもいなかった。朝は起きてまずプギョンデ大学駅近くのコインランドリーに行って洗濯をし、(洗濯に行って帰ってきたら2時間半ほど経っていた)、リーウーファン先生の作品と美術館のなかの展示をさらっと見て、いま近くのA Twosome Placeというすこし高級な雰囲気を醸し出しているカフェにいる。かれこれ2時間はいる。お昼ご飯もここで長さ30cmくらいあるベーコンとバカみたいな量のスクランブルエッグにまみれたトーストのごはん(「カントリーブレックファスト」らしい)をたべた。アイスカフェラテと合わせて10000ウォン強。

おの件のわかめスープはミ(ビ)ヨクというらしい。

釜山は公園がすくなくて、街に余白がないような気がするといったけど、僕は普通に家賃を払って借りているアトリエや家にいるときは部屋の中で仕事をするんだかしないんだかはっきり行動に移せないままごろごろしたりしがちで、そういう時間も好きで、そういう時こそ、家にいるなあという気がするのだけど、街で敷地を借りて暮らそうとするとそういう余白的というか、茶の間あるいはリビング的な場所をみつけにくい。なぜなら現代でいう街は矢印でいうと矢の先にあたる部分なので、目的主義的というか、例えば僕はカフェはかなりリビングに近い使い方(ファミレスはもっとそうだけど韓国には存在しない)をしているけど、それでも最低限の「カフェにいる人がするべき振る舞い」は強いられている。何時間も居座ったりするのは気がひけるし、パソコンを開いてたり本を開いてたり、なにか描いてたりしないとダメだという気持ちになる。そういう意味では、街は人をなんらかの行動、アクションに駆り立てる役割を持っている。なので家にいてどうも元気が出ないとかやる気がないとか、消費してばっかりだと思うことになったらまず街に出掛けることが大事だ。僕も寝るとき以外は全然家にいない。また逆に矢印の元のような場所を街に見出していくというのも面白い。パソコンとコーヒーを持って道路でちょうど良い場所をさがしたり。

行きつけだった銭湯には浴槽が2種類あって、ヨルタン、オンタンとそれぞれ書いてあるのだけど。前者は熱い湯、後者はぬるい湯を意味している。ヨル、という字面が熱いを意味することをなんとなく僕は知っているような気がして、とても懐かしい気持ちになった。なぜだろう。なぜ僕はヨル、が熱いを意味することを知っているのだ?

自分は案外というか、計画的な人間だと思う。それが時々嫌になる。一昨日銭湯にいるときにそう思えた、というのも、何か行動をする際に、例えば銭湯に入る前から銭湯を出た後のことを考えて生きている。持ち歩く必要がありそうなものを事前に持って出かけたり。ただこれは今の敷地に門限があることも関係しているかもしれない・・。しかもそうやって事前に決めた予定がずれていくのが面白いと思っているので、事前の計画通りにはならないことがほとんど。一昨日はそんなことを思いながらいつもの沐浴湯(フロントには初登場のおばちゃんがいた)に行った後にそのすぐ隣にある食堂に入ってしまった。これも計画から逸れた。銭湯に入る前は、弁当屋で豚肉ビビンバ弁当を買うと決めていたはずだが銭湯をでた勢いで食堂に入った。そしてこれが正解だった。クルクッパというやつを頼んだのだけど、とても美味しかった。牡蠣がたくさん入ったクッパ。8000ウォンでこれだけお腹いっぱい美味しいものが食べられるとは・・。韓国、マジリスペクトはずれナシ。ただし公園などで寝泊まりする身としては、おばちゃんたちが賑やかすぎるのが玉に瑕だ。食堂から帰って、21時(土曜日は21時まで開館している)を過ぎて、誰もいない博物館の敷地のベンチに一人ですわるのは結構気分がよかった。夜は相変わらず寝苦しかったが。そういえば眠る前に家のドアをあけて荷物整理でゴソゴソやっていたら後ろから「村上さん」と声をかけられて、まさか夜に誰もいない博物館で日本語で話しかけられるとは思っていなかったので「はい!」と大声で返事してしまったのだけど、それはとても愛想の良い警備のおじさんで、「大丈夫ですか?お水、飲みますか?」と声をかけてくれた。日本語上手ですね。といったら「すこしだけね」と。こうやって日本語が少し話せる人が韓国には多い。カフェなんかにいてもなんとなくわかる。「気をつけて。えらい!」と言って警備のおじさんは去って行った。

翌朝、昨日の朝はいつも通り6時前に老人方のおしゃべりの声で目が覚めたけど、家にさわったりしてくる人はほとんどいなかったので助かった。ただし、爆音のクラシックが前日と同じく流れている。誰かが流しているのか、博物館が放送しているのかわからないけどすごく爆音で、良い音でクラシックが流れる。いつも通り老人たちが7時過ぎには過ぎ去り、静かになってからまた眠った。起きたら汗だくで10時近くになっていた。とにかく涼もうと思ってまず博物館に入ったのだけどそのまま展示を全部見てしまった。近代歴史館と同じく、この釜山博物館の常設展示をみても、釜山の歴史は日本との関係性の歴史でもあるということがよくわかる。日本だけでなく世界の情勢に翻弄されながらたくましく生きてきた釜山の人たちのようすが伝わってくる。5世紀ごろの陶質土器(と日本語のキャプションには書いてあった)がかっこよかった。918年に高麗王朝が建国されると首都が開京(現在の北朝鮮の開城市らしい)になり、釜山は中央政府から離れて辺境地域となったが高麗末期に倭寇(日本からの侵略)の出没が急増したことが地理的な重要性が見直される契機になり、拠点として注目され始めた。貿易やトンシンサ(通信使)を通じて日本と交流を続けてきた(朝鮮にたいして支配的な振る舞いをしてきた人物として豊臣秀吉の名前もでてきた)。「Painting of the Valiant Resistance at Dongnaeseong Fortress 」という絵には、日本と書かれた旗を持った軍隊に東莱府要塞というところが攻め落とされる様子が描かれていた。そして1876年間の日朝修好条規から日本は朝鮮、釜山に対して支配的な色を強め、1910年の韓国併合となり、近代歴史館で見た展示内容に話がつながっていく。

また朝鮮戦争の戦火を避けて多くの人が南へ避難し、釜山にたどり着いたという記述がある。釜山の避難民は最大で60万人に達したらしい。これがあの釜山風冷麺を生んだ。

夜はこの近所に住んでいるという社長さんとキムさんと一緒に牛肉の焼肉を食べに行った。毎日焼肉だ・・。しかも今回は高そうだった。社長さんには頭が上がらない。お風呂に入ったあと疲れているのを感じて釜山博物館に置いた家から徒歩5分程度のところにあるヴィンセントゲストハウスという宿にアポなしで訪ねて行ったがお快く受け入れてくれ、そこで外泊した。八人部屋のドミトリールームで25000ウォンで朝食(アメリカンブレックファストとのこと。目玉焼きとトーストと炒め物とシリアル)付き。僕のほかに部屋には誰もおらず最高にゆっくりできた。

昨日はその後、先日行ったプギョンデ大学駅の近くの沐浴湯に再び行った。あの時の大学生らしき人(黒縁メガネ)が同じくフロントにいた。お風呂から上がった後、タバコを吸いに彼が外に出てきたので「大学生ですか?」と英語で尋ねて見たら違うという。5年くらい前に卒業したらしい。ということは僕とそんなに年が変わらないはず。近くのプギョン大学でサイエンスだかメカニックだかを勉強して、いまはこの辺に住んでいるらしい。大学を出てから銭湯で働いているというところが、仲良くなれそうだ。釜山は好きですか?と聞いて見たら「so so..」と。海雲台とかが近くで便利だといってた。「ヘウンデビーチ。ビキニガールグッド」と言っていた。

お風呂から上がって晩御飯はサムギョプサルがいいなと思ってどの店なら食べられるかななどと考えながら歩いていたらいつの間にか20時になっており、結局門限は守れなかった。ハングルでサムギョプサルとわかりやすく書かれたお店に入り、再び一人焼肉を家族連れやカップルに囲まれながらかました。サムギョプサルは「三枚肉」みたいな意味らしく、二人前からしかできない。サムギョプサルと一緒に茶色くて薄っぺらい板のような見たこともないものがでてきて、何も考えずにそのまま一口食べてから一応調べてみようと持っていろいろ日本語でキーワード検索をかけてこの物体がなにかをしらべてみたら「コプテギ」と呼ばれる豚の皮で、焼いて食べるものだった。生で食べてしまった・・。大丈夫か?色々心配になって豚肉の食中毒などを調べてしまったけどそれを見ることで気分が悪くなってきたので諦めて普通に食事を続けた。何か症状がでてから考えればいいのだ・・。

ご飯のあと、家に帰ろうとしたら案の定博物館の敷地の門はしまっていたのだけど、門のそばの生垣がどうにか超えられそうだったのでそこを突破して入ることに成功した。暗くてよくわからなかったけど、たぶん蜘蛛の巣を2つこわした。しかし、門は20時で閉まるけど敷地内に眠ってもいいよなんていう公共施設が日本にあるだろうか。韓国は公に資する精神が素晴らしい。家に着いたはいいのだけど大変に蒸し暑くて寝苦しい夜で、うとうとしていたら朝5時過ぎになったという感じで眠れた気がしない。

「ここは門の中の場所だから、早朝に起こされることはないだろう」と思っていたけど甘かった。釜山の老人パワーはこんなところでも健在だったのだ・・。例によって六時前に家をノックしたりドアを開けようとする老人たち(主におばちゃん)に起こされた。中から声をだしたら家のそばにいた人がびっくりして遠巻きに眺めていた老人たちが笑う。朝から元気な人たちだよほんとに。などと思いながらもう一回寝ようとしたけどおばちゃんがふたたび話しかけてきたのでドアを開けてイルボンだからハングルわからないと、たぶん相当に嫌そうな顔をしながら日本語で言ったはずなんだけど、おばちゃんはニコニコとしたり顔で「ははん。わかったわかった」みたいな表情をしている。パンフレットをわたしたらテンキューテンキューと笑顔で受け取る。タフな人たちだ、、。ドアの前にたくさん置いていたパンフレットは全てなくなっていた。たぶんこの老人たちではない。掃除の人が早朝に取ったのか?それか韓国では古紙をなんらかお金に変えることができて、それをしようとした人が取ったのか。いったい何が起こっているのか。

老人たちは小一時間賑わってから去って行った。ここでも、支庁や南区庁で起こったことが同じようにおこったということだ。つまり、朝6時くらいにどこからともなくおばちゃんたちがやってきて、ひとしきり賑わってから去っていく。(体操をしたりもする。ここでは体操はしていなかったと思う)去った後は嘘みたいに静かになる。僕はおばちゃんたちが去ってから2時間くらいは眠ることができた。

そして今日は朝コンビニでハンバーガーとピザパンのようなものをかってイートインコーナーで温めて食べて、今は昨日行ったTOM N TOMS COFFEEの向かいにあるEDIYA COFFEEにいる。今日も暑い。どうやら釜山も日本と同じく梅雨明けしたらしい。今夜サッカーW杯の三位決定戦。見たい・・。

2018年7月13日〜15日부산시남구유엔평화로の부산박물관の軒下

そういえば釜山現代美術館の学芸員室のスタッフが女性ばっかり(印象としては20人くらいの女性に対して男性が2,3人という感じだった)だったのでキムさんに聞いてみたら「最近若い男の人はなんかやる気がない。女性の方がやる気がある。」と言っていた・・。「もっと男性を採用したい」と、どこかに掛け合ったことがあるらしいけど「試験で落ちてしまうからどうしようもない」と。美術全体でもそうだと言っていた。美術学校なんかは女性が多い。そういえば日本でもそうだった。なぜだ。

それとは関係ないが(もしかしたらあるかもしれないが)安倍首相は韓国では人気がないらしい。なぜかははっきりしている。

釜山は全体的に街がかつかつしていて空間はすべて利用しながら街がつくられている感じだ。公園も少ない。公園は公共施設や博物館などと一緒にあって、公園の作りも道路かベンチかという感じだ。余白がない感じ。すこし息がつまる。それと路上駐車が普通に行われているので、家で歩く時は邪魔になる。

洗濯物はホテルで乾燥機にかけたけど乾ききる前にチェックアウト時刻の12時になってしまい、南区庁に置いてある家に戻ってそばにある手すりにまだ乾いてないTシャツと靴下を干した。キムさんと2日ぶりに合流(家の引っ越し日にはキムさんがくる、という日々になりつつある)して、先日の国際新聞の記事が昨日出たというので見せてもらった。紙面の半分くらい使って紹介されていた。すこし窓を直してから、南区庁から1.6キロほど離れた釜山博物館に家を移動させた。20分くらい。今日も暑い。iPhoneの天気アプリによると31度あるらしい。集団で見学に来ていた高校生くらいの学生の注目を浴びながら博物館に突入し、館内のカフェのそばに家を落ち着けた。近くにある木を囲んでいる丸いベンチにおじさんたちが集まっており、なにやら怒鳴りながら将棋をしている。市庁舎と同じような光景だ。だいたい明るい時間帯はいつ行ってもおじさんがいる。

博物館は「AFRICA」という企画展と、旧石器時代から人が住んでいたという釜山の歴史が土器や石器とともに説明されている常設展が無料で見られる。常設展を流し見してきたけど、釜山の歴史は古くから日本と共にあるということがよくわかった。昔は東莱地区が釜山の中心地だったらしい。明日またゆっくり見る。博物館は9~18時までなので館内のトイレはその時間なら使える。外にも公衆トイレがある。ここは何時まで使えるかはわからない。ここは今までと違い、博物館の敷地全体の門が20時で閉まってしまうので20時までに家に帰らないといけない。まさしく門限。それも面白い。ただし過ぎてもどこかから入れそうではある。

家を落ち着けたあとキムさんと一緒に近所に昼ご飯を食べに行った。綺麗で広い料理屋で、不思議な味(とても美味しい)のスープ(大量にわかめが入っている)とご飯(色々混ぜてビビンバにする)といくつかの漬物と秋刀魚のような白身魚を焼いたものを食した。このわかめスープ(ハングルではなんというか忘れてしまった)は、キムさんによると誕生日や出産した後などに食べる韓国では伝統的な料理らしい。誕生日に食べるというのは、出産後の母親が食べることから転じたらしい。とにかく大量のわかめを食した。そして今はそこからほど近いTOM N TOMS COFFEEというカフェにきている。これからすこし作業をして、沐浴湯を探して汗を流してから晩御飯を食べて門限までに家に帰らなければ・・。

2018年7月11日〜12日부산광역시남구대연の부산남구청

昨日はカフェをめぐる予定(1つの店に3時間も4時間もいるのは気がひける・・)でEDIYA COFFEEを出たのだけど外に出て5分くらい歩いたところで眠気を感じて「どこかで時間を気にせず絵を描いたり寝たりしたい」と思ってしまったので路上の日陰でブッキングドットコムアプリを立ち上げて近所のホテルを探して地下鉄で2駅のところに1night2days Hotelという安くて良さそうな宿があったのでそこで昨夜は外泊をしていまはその翌日の午前11時38分でまだホテルの部屋にいる。ネット上で調べた時はわからなかったけどここは日本でいうラブホテルだ。フロントの窓がとても小さくて、部屋の照明が暗めで、お風呂とベッドが広い。これで40000ウォンは安い。ベッドの他に二人がけの派手な緑色の小ぶりなソファと小さなテーブルがあり、そのテーブルには日本のラブホテルよろしく灰皿とライターが乗っている。室内でタバコを吸ってはいけないはずではなかったかと思って掃除のおばちゃんに「タンベ、OK?」と聞いてみたら「ノーノー」と勢いよく言われた。ではなぜ灰皿とライターがあるのか・・。昔吸えた頃の名残が残っているのか。吸えなくなったけど灰皿とライターは交換したりしているのか。だとしたら面白い。

なので昨日は宿に来て絵を描いたり電話をしたり歩いたルートをまとめたりごろごろしたりして、夜は近くにあるパスタ屋さんで激辛のシーフードパスタを食べた。メニューに唐辛子マークはついていて、シーフードパスタで辛いとはどんなもんかと思って頼んでみたけど本当に激辛だった。辛いパスタなんて初めて食べた。まさか韓国に来て最初に食べる辛いもんがパスタになるとは思っていなかった。店員の一人が福岡にいたことがあるらしく、日本語が話せる人だった。

-「辛くなかった?」

「辛かった!」

-「辛いでしょう?なんで?」

「辛いの好きなんですよ」

-「あ、好きなんだ。」

というやり取りをしたが、辛いの好きなんだというのは今考えるとただの強がりだ。別に好きではないしこんなに辛いと知っていたら絶対に頼んではいなかっただろう。

このホテルの2階にランドリールームがあることに気がつかず、昨夜浴槽と手持ちの洗剤をつかって3日分の服を洗い、階段のところで見つけたダンボールに入った大量のハンガーを見つけたのでそれを使って間接照明の凹み部分などをどうにか利用して洗濯物を部屋に干して一晩置いてみたのだけど朝起きても全く乾いておらず、宿をチェックアウトして地下鉄に乗ってコインランドリーまで行くかと思って荷物をまとめてエレベーターに乗ったら、2Fのところに「Laundry Room(Free use)」と書いてあるのを見つけて慌てて2階のボタンを押してランドリールームを見つけ、どうやら500ウォンで30分、1000ウォンで60分使える乾燥機があったので1階のフロントで10000ウォン札を1000ウォン札に両替してもらって乾燥機にかけ、いまはそれを待ちながらこの日記を書いている。そろそろ30分たつので乾いたと思う。

韓国経済の70だか80%はサムスンとLGと現代で占められているらしい多すぎる。

一昨日の日記を書いた後EDIYA COFFEEから戻ったら家のドアが破壊されていた。僕の家のドアは二つの小さな蝶番で留めてあるのだけど、上の蝶番が壊されていて、ドアが家の中に向かって倒れかかるように壊れていた。公園には乱暴な人がいるもんだ・・。いつもどこかから喧嘩する声が聞こえる。ドアはその後、近くにある万屋(ここが面白かった。小さいけど韓国で必要な生活用品がそろう。落としぶたのようなモノの種類が豊富だった)で緑色のガムテープのようなものを買って直した。ちなみに今では窓もガムテープでとめられている。

お昼ご飯に冷麺(冷麺はもともと現在の北朝鮮発祥の食べ物が朝鮮戦争のときに持ち込まれ、正規の材料が釜山では取れなかったので代わりの材料をアメリカ軍から仕入れ、それで作ったオリジナルの冷麺とは少し違うものが、今では釜山の名物になっているらしい)を食べたあと、キムさんの紹介で写真家のLee Dong Keunさんに家を撮影してもらった。彼はキムさん曰く有名な写真家らしく、どんな写真を撮っているのかきいたら「マイノリティを撮っている」と説明してくれた。現在韓国には、北朝鮮から亡命した人たちが32000人くらい住んでいるらしく、Leeさんは彼らを撮影したり、中国側から北朝鮮の景色を撮影したりしている。北朝鮮の人々が民族衣装をまとって彼らの踊りを踊っている様子を8mmで撮影した映像も見せてもらった。そんな彼が僕の家を撮ってくれた。

昨日は僕が釜山に来て一番暑い日でLeeさんも「こんな暑くて大丈夫か」と心配してくれたけど市庁舎前の公園から南区庁(ナングチョン)に家を移動させた。6キロすこし、歩いて1時間半くらい。日本のラジオをインターネットで聞きながら歩いたのだけど、例の水害に関して脱水症状に注意してという話を専門家がしていたけど、僕も歩きながら大量に汗をかいていたので脱水症状で倒れる自分を想像せずにはいられなかった。韓国の119番通報は何番か調べておけばよかった。と思った。とにかくそのくらい暑く、その上市庁から南区庁までは山を迂回しながらの道だったのでとても起伏がはげしく急な坂ばかりで、距離としては6キロだけど歴史博物館から市庁までの11キロよりもしんどい道のり。途中高校(らしきもの)と小学校(らしきもの)を通って、ちょうと下校時間の子供達とぶつかったので何かいろいろ話しかけられたけど僕は暑くてそれどころではなかったのでアニョハセヨとだけ言ってどんどん歩いた。途中、LOTTE CASTLEという巨大なマンション群があってなんてストレートなネーミングだと思ったのだけど、このくらいど直球の方が韓国では自然なのかもしれない。釜山はすごく高いマンションがたくさんある。景色から浮いて不自然に見える。そのマンションに囲まれた小さな公園で、おばちゃんたちが元気よくお喋りに興じていたりする。

5時半ごろに南区庁に到着。ここもキムさんが交渉してくれた土地。公共施設を渡り歩いている。何度も言うが日本では考えられなかったことだ・・。晩御飯はちょっと日本風のカウンター席の丼屋さんでステーキ丼を食べた。月桂冠があった。汗だくだったのでご飯を食べたあとすぐGoogleで沐浴湯と検索し銭湯を探す旅へ。これが思いもよらない長旅になってしまった。1軒目に見つけた煙突がある古い銭湯は潰れてレストランになっていた。2軒目のチムジルバンはフロントの女性に手で×つくりながら「チムジルバン、ノー」と言われた。今はやってないらしい。3軒目に見つけたのがビルで、3階と表記があったのでエレベーターに乗って三階につき、扉が開いたらそこは廃墟だった。ぞっとした。真っ暗な広い空間が広がっていて、椅子とか机とかが散乱していてついていないテレビがフロントデスク(だった場所)の上にのっていた。写真を撮ろうかと思ったけど何か写ってしまったら嫌なのでやめた。4軒目、マンションに建て替えられていた。5軒目の沐浴湯(「コプッタン」。亀湯という意味らしい。韓国でも日本の銭湯と同じようなネーミングをするようだ)の1階にフロントがあり、2階が女湯で3階が男湯になっていた。中には入れたけどフロントに人がいない。3階まで上がってみたら脱衣所は電気がついていてテレビもついている。人は誰もいない。客も、一人も見当たらない。浴室ものぞいてみたけど誰もいないけど入れそうだったが、お金をどこに払えばいいかわからず、勝手に入ってなにかややこしいことになったら嫌だなと思ってもう一度1階に戻ってフロントに張り出されているハングルで書かれた紙をGoogle翻訳で読み解いてみたら8時までらしい。すでに7時55分で、今から入ってややこしいことになったら嫌だと思い仕方なく諦めた。この諦めは辛かった・・。が、ようやく次にみつけた6軒目の銭湯があたりだった。そのあたりは「キョンソンデ・プギョンデ大学駅」という駅の近くで、学生街になっている。フロントにいたのも大学生らしき男性だった。彼は僕が日本から来た旅行者だとわかると、英語も交えて一生懸命銭湯について説明してくれた。「スリーピング、ノー。オンリーシャワー」など。タオルも1枚おまけで貸してくれた。ハングルで「ミョッシッカジ?」と聞いたらジェスチャーも交えて12時までだと教えてくれた。とにかくようやくお風呂にありつけた。

お風呂のあと、再び暑いなかしばらく歩き回って南区庁の近くにEDIYA COFFEEを見つけた。女性が一人で働いていた。23時までやってるらしい。そこで充電をしながら休憩。僕はいまバッテリー二つと、ポケットWiFiとiPhoneとMacBookと、充電する必要のあるものを5つも持っている。南区庁の中のトイレの個室にも電源があった。使っていいかどうかはわからないが・・。でも日本では公衆トイレの電源なんか使っちゃダメそうだけど韓国では大丈夫そうな気がする。夜は暑かった。足を出す窓を開けて、郵便受け口(小さいけど)を開けておくと家の中に風が通り、だいぶ眠りやすくなる。

例によって朝5時ごろにおばちゃんたちによって起こされた。支庁の公園と同じく、ここも朝の体操の会場になっているらしい。こっちの体操は日本のラジオ体操とは全然違う。とてもテンポの速いポップスに合わせて老人たちが体操をしている。かなり異様な光景だ・・。これを自然とやっているとは・・。当たり前のものほど変にみえる。おばちゃんたちがさった後は静かになり、9時ごろまで眠れた。お昼前に近所の定食屋でヤチェビビンパ(野菜ビビンバ)を5000ウォンで食べて、今は昨日と同じEDIYA COFFEEにきている。いつも店員が一人しかいない・・。今日は男性だ。市庁舎前の店も一人だった。さっきからずっとおなじ男の人が一人で一生懸命注文を受けてはドリンクをつくっている。6人くらいの団体で来た女性たちは、注文してからドリンクをもらうまでに10分はかかっている。一人で回して大変そうだ・・。隣に座っている小さな子供を連れたお母さんはスマートフォンで「イヤイヤヨー」のハングルバージョンの歌の映像を子供に見せている。

今日もとても暑い。外で絵を描く気にはなれないので写真を撮ってカフェを渡り歩きながら絵を書いていく旅をこれからやろうと思う。ご飯もちゃんと食べたし。

公園で許可を取って寝るという経験は日本では無かったので単純に比べられないけど、釜山市庁舎前の公園で寝ているとみんなこぞって家を触ってくる。なぜかドアを開けようとしてくる。これは日本でも同じだけど。今朝は8時ごろにおじさんがなにか機嫌が悪いらしく悪態をつきながら蹴っ飛ばしてきた。釜山の人は気性が荒い・・。うとうとしていたのでびっくりして何もできなかったが今になって腹が立ってきた。あそこで僕が出ていったらあのおじさんは自分が蹴っ飛ばした箱から人が出てきたということを受け入れるのに戸惑っただろう。それを想像するだけでとりあえずよしとする。釜山の公園の朝は早くて、彼らは6時すぎくらいに集団で体操を始める。ラジオ体操みたいなもんだとおもうけど運の悪いことにその体操場所が家を置いてあるすぐ隣で、体操にきた人がみんな家を触ってくるのでどうしても起きてしまう。その体操がおわると、いったん静かになる。9時くらいまで眠れる。東浩紀がiPhoneで写真を見せてくれる夢を見た。

公園で眠るということは、町で一番遅くまで起きている人が公園に来なくなるころに眠り、一番早起きの人が公園に来る頃に起きるということだ・・。過酷だ。でも公共の場に身を置くということはこういうことなのかもしれない。でももう公園は嫌だな・・。昨夜たくさん入れておいたアクリルケースの中のパンフレットも全部無くなっていたし。そんな馬鹿な。

昨日は晩御飯どうしようか1時間以上歩き回った挙句ベトナム料理屋さんに入った。「金太郎」という「日本式正当居酒屋」も気になったけど一人で入る勇気はでなかった。そして公園で1時すぎに眠り、いま公園前のEDIYA COFFEEにきている。ここはAngels in us Coffeeに比べて安い。アイスティーとクリームとチョコがサンドされたパンとアイスティーで4000ウォンだった大丈夫か?あの愛想の良い女の子が700円で働かされているかもしれないと思うと心苦しい。それと昨日もAngels~でアイスティーを頼んだのだけど、どちらもシロップが初めから入っていてものすごく甘い。シロップ抜いてくださいという韓国語を覚えた方がいい。

2018年7月9日〜10日부산시연제구연산동の부산시청공원の中

今は釜山市庁舎の公園の目の前にある「Angels in us Coffee」(洒落た名前だ)というカフェの3回の席で通りを見下ろしながらクーラーの効いた席でパソコンとバッテリーを充電しながら店のWiFiも繋いでこの日記を書いている。このカフェの3階には野外になっている部屋があってそこが喫煙所になっている。どうやら韓国では飲食店なんかの屋内ではタバコを吸うことが法律で規制されているらしい。カフェが充電と日記を書く拠点になるのだけど、この店に電源席があるかどうかは入ってすぐに店員に確かめる必要があった。そこでGoogle翻訳で電源はありますか?という日本語を韓国語に翻訳して店に入ってすぐに「ジュンウォンイッスブニカ?」と帽子を被ったとてもおしゃれな若い男性の店員に聞いたら笑って頷いて韓国語で何かを言っていた。どうやらあるらしい。伝わったのが嬉しい。そこでアイスティーのレギュラーサイズ(4500ウォン)を頼んで3回のテーブルにかれこれ1時間半くらい居座っている。他に客は2組。うち一人は僕と同じようにアイスコーヒーを脇に置いてパソコンを見ている。韓国のコンビニや飲食店やカフェの店員はみんな結構頻繁に携帯を見ながら接客をしていて(場合によって電話も)、昨夜23時過ぎにトイレのために市庁舎の中に入った(なんとトイレは24時間利用できるらしい)のだけどそこの警備員の人も電話していた。ヨーロッパの店でもみんな携帯をみながら接客していて、日本は仕事中に携帯とかをみることを禁止する空気があるけど窮屈だなと思った。なんか旅行ブログみたいなことを書いてしまった。釜山は電源があるカフェが東京以上にたくさんあって充電にはあまり困らない。たいていの店にはWiFiも飛んでいる。さすがサムスンがある先進国だ・・。

この辺りにはこの他にもカフェが山ほどあってEDIYA COFFEEというのもすぐ裏にあるのだけどこれは釜山でよく見る。まだ行ったことはない。あとロッテリアもマクドナルドもある。今日は雨の予報だったらしいけど晴れてとても暑い。昨日の夜は湿度が91%あったけどいまは73パーセント。日差しがきついほどの天気。日本では広島のあたりが豪雨で大変なことになっているようだ。100人以上の死者が出ているらしい。昨日の夜行ったチムジルバンの脱衣所のテレビでも豪雨のニュースが流れていて、自衛隊が救助活動を行う映像を見ることができた。幸い雨は落ち着いたようだけどまだ行方不明者がたくさんいるらしい。一人でも多くの人が助かることを祈る。

昨日は朝起きて(清掃員の人が家の屋根にも箒をかけてくれたらしく箒の繊維のようなものが屋根にたくさんついていた)、沐浴湯には入らずにスターバックスで一昨日の日記を書いて、そのあと国際新聞(クグチェシンブン)の記者の取材を受けた。家と一緒に撮影されたあと、キムさんとミリさんと記者と僕の四人でカフェに入って1時間半くらい話した。昨夜は市庁舎前の公園に家を置いて寝たし、一昨日までは市立の歴史博物館の敷地で寝ていた。こうやって役場の土地を借りて眠るようなことは日本では許されたことがない。みんな断られた。「日本では役所の土地を借りたことがない。断られてばかりだ。」と言った記者の人が目を丸くして驚いていた。キムさんは「韓国は逆だ」と言ってた。公共というものの考え方が違うのかもしれない。儒教の精神のおかげなのか、何かしら大陸由来のセンスがあるのか・・?

「侵略の象徴」である歴史博物館の建物敷地を借りて日本人の僕が寝ていたら石を投げられたということが、何かとても面白い気がするという話を記者にするのを忘れた。

取材を受けたあとそのままみんなでご飯を食べた。巨大な(といってもいいと思う)鍋の中に真っ赤(本当に真っ赤だった)な出汁とキムチと麺が入ったもの(「キムチ鍋」と呼んでいた。)と、なんかキムチと一緒になった豚肉の炒め物のようなものとご飯を食べた。鍋は本当に真っ赤だったので、いよいよ辛くて食べられないものが来たかと思ったけど食べて見ると程よい辛さで美味しくてあっという間に食してしまった。見かけによらない。しかしこっちに来てこんな色の食べ物ばかり食べている。食べ物がだいたい赤か茶色だ。僕は先日買ったばかりの服にキムチの出汁を飛ばして汚してしまったけどみんな白い服を汚さずに綺麗に食べているから不思議だ・・。夜に路地などを歩くとキムチの匂いがしてくる国。

赤い食べ物でパワーチャージして2時ごろから歴史博物館を出発して歩き始めた。11キロほど歩いた市庁舎へ向かった。3時間くらい。1、2度おじさんとおばさんに韓国語で何か話しかけられたようだけど何と言っているのかもわからなかったので日本と同じようにスルーして歩いた。一度すれ違いざまに男の人が、僕から見えるように「グッ」と力強く親指を立てて応援してくれた。僕も返した。顔は見えなかったけど。これがとても嬉しかった。

5時ごろに市庁舎前の公園に到着。釜山広域市全体の市庁舎なのでものすごく大きい。なんとなく丹下健三の都庁を思い出させるファサードの30階建てくらいのビル。すぐ隣に市議会と、警視庁がある。公園内には将棋らしきもの(日本の将棋と少し違うようだった。駒が丸い。)をベンチでうっているおじさんたちや、テントがたくさんでていてそこで靴や服や食べ物を売ってる人や、ランニングやウォーキングをする人や、4,5人でおしゃべりしているおばちゃんたちがいて賑やかで緑もたくさんある良い公園だった。さすがにWiFiは飛んでいないけど自動販売機も公衆トイレもゴミ箱もある。特にゴミ箱が助かる。子供のための遊具エリアもある。さらにキムさんの紹介で、市役所の「東アジア文化都市」の担当者の人たちが挨拶にきてくれて、彼らが「チムジルバン」もすぐ近くにあることを教えてくれた。(彼らはなんと僕に釜山の記念品まで贈呈してくれた。丁寧な包装がなされた二つの箱で、一つには綺麗なキーホルダーともう一つはスカーフ。「寒いかと思って」と言っていた。釜山の公務員優しい。)韓国のスーパー銭湯みたいなもので、昨夜入ってみたのだけど(フロントで韓国語で色々話されたが全くわからなかったけどなんとか入浴できた)24時間営業で仮眠室もサウナもあって(他の階にはもっといろいろあるような説明っぷりだったけど行っていない)、10000ウォンだった。公園は22時でなんか放送があって街灯が消され、それから公衆トイレは入れなくなっていたけど市庁舎のトイレがあるしお風呂も24時間入れるので今回は大変良い間取りだ。このカフェもあるし。

昨夜のご飯はキムさんと二人でチキンの店に入って「チメ」をやった。チキンとメッチュ(ビール)のことらしく、チメをしながらサッカー中継なんかを見るということらしい。キムさんと2時間以上チメった。彼は美術館に勤める前は作家だったらしい。大学で非常勤で教えたりしながら制作活動をやっていたとのこと。日本の作家とおなじような働き方だ。韓国の現代美術はどんな感じなのかと聞いて見たら「レベルはとても高いのだけど、みんな同じようなテーマを扱ってしまっている」と言っていた。なんで韓国の男性はみんな髪が短いのか、とも聞いたら、「私の考えでは」と前置きして軍隊に入るという経験があるからじゃないかと言っていた。力強く男らしくあれ、という価値観が強いらしく、髪が長いのは女性の役割だ、という考え方。また「軍隊に入るという経験は人生の中でとても大事な成長を与えてくれる。私の場合はそうだった」と言った後で、入隊前はみんな入りたくないと思うのが一般的なんじゃないか、と言っていた。学生だったり、なんらかの理由があれば入隊は先に伸ばすことができるらしいけど、先に伸ばしすぎると後で入隊した時にまわりが若い人ばかりということになり苦労するだろうと言っていて、僕は自分の免許合宿のことを思い出した。釜山の人は日本でいうと大阪人のようなもので「釜山の男」というアイデンティティーがあるらしく、声が大きくて男らしさを大事にする。釜山の人からしたらソウルの男は優しすぎるイメージがあるという。ソウルと釜山にはなにか対立感情のようなものがあるのか、とは聞けなかった。

日曜日の朝は街が静かった。いつもより遅く起きているだろう家の中の雰囲気がつたわってくる。昨日は結局歴史博物館から家は動かさなかった。沐浴湯の人がいつものおばちゃんじゃなくて男性だったので怯んでしまった。朝9時ごろに沐浴湯に行き、家に戻ってきてから歴史博物館の展示をゆっくりと見て回った。

展示によるとこの歴史博物館の建物は、そもそも日本が朝鮮経済を支配する目的で設立された東洋拓殖株式会社の釜山支店として1929年に建てられたものらしい。終戦後は、アメリカ軍の駐屯地として使われたのち、アメリカ国務部傘下の広報機関として「釜山アメリカ文化院(アメリカンセンター)」とされた。さらに朝鮮戦争中にはアメリカ大使館の機能を果たし、60~70年代には何やら図書を貸し出したり、語学研修やアメリカ留学に関する情報を提供する場所となっていた。84年には2階がアメリカ領事館になった。が、82年には韓国の一方的に依存の対象となっていたアメリカへの反感から、数人の大学生らがこの建物に火をつけるという事件が発生している。95年に米軍基地返還運動の市民団体が連合し対策委員会を組織するなかで96年にアメリカ政府によってアメリカ文化院の閉鎖が決定、99年4月にこの建物は韓国に返還された。釜山市は侵略の象徴であったこの建物を、教育の場として活用するために歴史博物館として開館させたという。そして今となっては、その建物の前に家とともに日本から来た僕が敷地を借りて寝泊まりしている。

展示室の冒頭、1870年から始まる近現代年表の一番最初の項目は「18755月 日本の軍艦の雲揚号が釜山港に入港」という項目から始まる。釜山の近代史は悲しいことに日本の侵略の歴史と一致してしまっているらしい。この土地で徴兵制を敷いた日本が60万人の朝鮮人を戦場に引っ張りだし、12万人がなくなったとされるが詳しい数は分かっていないこと、若い朝鮮の女性を日本や満州に連行したこと。そうやって慰安婦にされた女性のインタビューの映像。農業、水産業、工業において日本の経済侵略が朝鮮の伝統的な商圏や市場を破壊した話。釜山港の埋め立ては日本人の居留領域拡大という性格が強かったこと。などなどがパネル、映像、写真、模型や当時の記録文書などで語られている。例えば日帝強占期は、朝鮮米と日本の工業製品の交換が主な貿易内容だったらしいが、それに関しては

「日帝強占期の朝鮮と日本の貿易の骨格は朝鮮米と日本の工業製品との交換であった。日帝は日本人産業資本家の利潤確保のため、安い朝鮮米を日本に持ち去り、日本で生産された工業品を朝鮮へ持ち込んだ。日本に流入した朝鮮米は日本の労働者の賃金を引き下げ安い日本の工業製品は朝鮮の家内手工業を破壊した。1930年代以降、戦時経済体制を支援するために金、重石、鉄などの鉱産物を日本に持ち去り、朝鮮には軍需物資を生産できる基盤施設を造成した。

 朝鮮と日本との貿易において、主な港となった釜山港には、貿易を補助する市場が発達した。輸出用穀物と水産物が集まる市場だけでなく、輸入品を消費するための常設市場や百貨店が登場した。常設市場の拡大は、朝鮮の伝統的な5日市場や朝鮮の商人の商圏の衰退を招くことになった。」

と記述されている。ここにくる前に敷地として借りていたペクサン記念館の土地に以前あった、ペクサン商会もおそらく東洋拓殖株式会社と対立的なやりとりを当時していたかもしれない。ペクサン商会に関する記述もあって、朝鮮の抗日独立運動を資金で支援するために作られたが、それに気づいた日本の警察が弾圧、1927年に廃業となってしまったらしい。

いまではペクサン商会跡地も、東洋拓殖株式会社跡地もどちらも「観光施設」になっているのが興味深い。歴史博物館の方は特に、日本人観光客の観光スポットとしての役割が大きいらしく、一昨日も昨日も日本人がいて展示を見ながら話をしていた。日本語の音声で映像をきいている若い男性もいた。彼も日本人だろう。

僕はペクサン商会跡地も東洋拓殖株式会社跡地も、敷地として借りて寝泊まりできている。観光という考え方は便利なもんだ。

展示を見たあと、しばらく絵を描き、お昼過ぎにいよいよ替えの服がなくなっていたので洗濯物をもって地下鉄に乗った。韓国で初めての電車に洗濯物と一緒に乗ることになるとは。歴史博物館の最寄り駅の「中央駅」から「西面駅」で乗り換えて「慶星大・釜慶大駅」でおりて10分くらいあるいたところにあるCoin Washというコインランドリーに行って来た。近所を歩いても見当たらなかったし、ネットで可能な限り調べてもここが一番最寄りのコインランドリーだった。家から洗濯機まで30分以上かかる間取りということだ。。コインランドリーにはフリーWiFiも飛んでいた。

釜山の地下鉄は切符を買うか、2000ウォンでチャージ式のカードを買ってそれにチャージするかで乗車できた。日本と同じ。せっかくなのでカードを買ってチャージしてみた。帰ってきて洗濯物をおいて、例のお茶カフェに行ってみた。めちゃめちゃ愛想の良い若いおばちゃん(言い方に困る、ご婦人?)が一人でやっているらしい喫茶店で、静かで良い店だった。韓国緑茶をいただいた。お猪口で飲むスタイルらしい。夜はまともに食べていない・・。スターバックスで日記を書きながら食べたベーグルと、歴史博物館の真向かいのコンビニでCASSという飲み口の爽やかな韓国ナンバーワンシェアを誇るビールと、スナック菓子くらいだ。あと何味かわからないおにぎりも買った。それはこれから朝ごはんとして食べる。ゴミの捨て場に困る。ナンポドンは、夜になると渋谷みたいに通りに店から出たゴミが溢れかえるのでそこに捨てればなんとなく回収されるんだろうけどなんだか気がひける。地下鉄にゴミ箱はあった。映画ミュージアム前の喫煙所にもあった。あとコンビニか。

昨日今日とかけて歴史博物館の絵を描いていたわけだけど、車のクラクションが多いのが気になった。彼らはわりとすぐにクラクションを鳴らす性格らしい。

毎日晩御飯に何を食べようか困るのだけど、昨夜は歩いていて見つけたナンポドンのあたりにある「味松松(アジソンソン)」というご飯屋さんへ行った。なんとなく日本の牛丼屋を彷彿とさせる店で、キムさんは「韓国には一人で定食を食べるような店がない」と言っていて、たしかにそういうことが普通にできそうな店はなかなか見ないのだけど、そこには珍しく一人のカウンター席があったのだった。席にIHヒーターがあって、そこに運ばれて来たキムチ鍋を置いて沸騰させて自分で火を通してから食べるというスタイル。卵やふりかけのようなものがのったご飯もついてきて、鍋を食べたあとはその中にご飯を入れてクッパみたいにして食べる。食べ方が壁に張り出されていて、韓国語の他に英語と日本語で書かれていた。

食べ終わったあとその店のお手洗いでそのまま歯磨きをすませてしまってから(夜歯を磨くところがないので)店をでて家に戻って日記などを書いていた。そうしたら夜9時ごろに、外から複数名の若い男性の声が近づいてきた。あきらかにこちらに向かってきている。こういうときは緊張する。
声は家のすぐそばまで来た。そして突然家が揺れた。彼らが手で揺すったのだと思う。なにか話しながら(韓国語なのでわからない)家を揺すったり叩いたりしている。「きたな・・」と思いつつ、無視していたのだけど、ゆすり方がだんだんエスカレートしてきてすこし攻撃的になってきたので「なに?」と日本語で少し大きく声をだしたら「ウワー」と行って声の主たちは逃げて行った。僕は日記にもどったのだけど、1分もしないうちにまた戻ってきて、また揺すってくる。今度の相手は厄介そうだなと思った。「出るか?」と。こういう時はこっちから出て行って話をしてしまったほうが手っ取り早い。相手にもよるだろうけど。ますます攻撃的にゆすってくるので今度は「なに」と言いながらドアを開けた。彼らは声を出しながらまた逃げていく。二人組だった。後ろ姿はかなり若そうだ。
またドアを閉めて様子を伺っていたら、今度は壁にぺちぺち何かが当たる音が始まった。どうやら石を投げられているらしい。ちょっと止んでいなくなった?と思ったら、まだいる。という感じが繰り返され、めんどうなので思い切って出て行った。また逃げていく。そのまま家を出て、通りの方まで歩いて行った。そしたら二人組はなんかバラバラになって歩道にたって携帯を見たりしている。自分が投げたと僕にバレていないと思っているらしい。そのうちの一人のメガネの少年に英語で「石を投げたのは君か」と話してみたら、ちょっと驚いて「Can you speak to me?」とか言ってきたので、僕は英語で僕は日本から来たアーティストで、これは釜山現代美術館とのプロジェクトであると言った。そしたら「あいつは僕の友達なんだけど、彼が石を投げたんだ。ソーリー、知らなかったんです。あの家が『ダークハウス』(多分そう言っていた。ないか違法なものという意味なのか)に見えたから。」と言う。どっちが石を投げたのかはどうでもいいけど「ソーリー」という彼は結構真面目そうな少年で、年を聞いたら17歳の高校生だという。そしてもう一人の少年の方へ去っていった。結局石を投げた方の奴からは謝られていない。

こんなに象徴的なこと日本でもなかった・・。彼らは僕が何か違法というか悪いことをしていると判断して、いたずらしようと思ったのか懲らしめてやろうと思ったんだろうと思う。これがいわゆる私刑ってやつだ。そんな彼らに謝らせた。何か意義深いことをした気がする。ただ仮に僕がただ私的に博物館から許可をもらってやってるだけで、釜山現代美術館のプロジェクトじゃなかったら彼らの態度は変わっただろうか。こうやって石を投げられたり、場合によっては暴力をうけたり殺されたりしてしまう路上生活者もいる。怖いだろうと思う。

昨日は朝ホテルのお風呂に入ってそこで歯を磨いて、そのあとどこかで髪を切ろうとあちこちうろうろした。日本と同じく赤と青と白のくるくるが床屋の目印なのだけど、注意して歩いてみるとたくさんある。なぜかみんな建物の奥に入ったところや二階とか地下とか、奥まったところにある。どこもちゃんと営業しているようだった。安いところは5000ウォン。安すぎる。多分昔からこういう床屋文化があって、それがまだ生きている。髪を切るということへの敷居が低いのかもしれない。あとカフェも多い。話すのが好きなんだろうと思う。これは大阪と似ている。僕が入ったところは「미용실(美容院)」と書かれていたけど日本の床屋のような店で、10000ウォンだった。








 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

アニョハセヨー、と入ったらおじさんがイエ、アニョハセヨー。と明るく返してくれた。他に客はいない。ヘアカット、オルマ?みたいに聞いたら指を一本立てて「一万」と。お願いします、と日本語で言って椅子に座ったらおじさんが韓国語で「~~~イルボン~~。~ジャパン~」と言ってニコニコ話しかけてきたので。「イエ、イルボン」と自分を指差して答えたら、イルボンイルボンとニコニコいいながら手で「いいね!」とやってきた。日本が好きらしい。「ハングクスタイル」とだけ言って髪を切ってもらった。なかなかかわいいショートヘアになった。髪を切った後シャンプー台に連れられて、そのあとはタオルを渡されて自分で拭くようにジェスチャーをされた。僕が切ってもらっている間に客がもう一人入って来ていて、おじさんはそっちの相手をしはじめた。僕が髪を一通り吹いたらドライヤーを渡されたので僕は自分でドライヤーをして、お金を払って店をでた。

そしてなぜか髪を切った途端に、街でチラシを配っている人に声をかけられるようになった。すこし韓国人ぽくなったらしいぞ・・。徴兵制があるからかもしれないけど、男子はみんなショートヘアだ。カットする前の僕よりも長い髪の若い人は一人も見ていない。

今敷地にしている歴史博物館が決まる前、映画ミュージアムでキムさんと社長さんが学芸員相手に交渉をしてくれたのだけど言葉の壁で僕が入る余地が全くなかった。自分の手を離れて稼働することの嬉しさ、面白さは良いのだけど(そうすることでプロジェクトの性格が変わってくる。スウェーデンでは民間発の小さな町のビエンナーレだったので、スタッフは知人や友人などの庭や民間の商業ビルの敷地などを敷地に紹介してくれた。今回は釜山という大都市で私立美術館のアテンドなのでいまのところ公共施設が多い)、主体的にやってみたいという気持ちもあるので、自分で交渉することも挟んでやっていきたい・・。

映画ミュージアムとの交渉の間僕はiPhoneのGoogle音声翻訳で彼らのやり取りを聞いていた。それをペーストしておく。

・・・・・

それしていただけることができますか私たちだけで、直接ああそうはいはいところで今ここに私いいえに先生がなく、その上に人が今何をそこないおら自分が今決定を見ないておらだろようですよ

実際には、麟蹄私達が見に行く前に中継地として草梁程度がいいようで、日本領事館しようとしたが、これは許しがあるのは今ちょっと難しいし、その近くには知るために何一脈文化財団やれやれ上で今は少し大変でも今の作家は一11km程度歩くことができるとしてはいはいはい無条件今歩いがよ

はいはいまたはではないと、後で漢城ここそちらも一度ご連絡をこここちらに定できないならあなたのはいはいはいはいはいはいはいはいはいはいはいはいそうですそのような部分がある場合がありますあなたの寧々ここでは、実際には体験博物館偉大なのに電話番号が大丈夫です大丈夫スマートあるという事実は、ほとんどである道の隣なので、40の階段くれ生活文化センターそちらにそっちもう一度そちらに

担当者が電話を一度していただくんですよところで、その方待っている状況でもあって

駐車場戻る入る駐車場があればされる

雨や雪が降って長くはいて私たちは、冬には同社あわないか心配して観覧客たちももうちょっとない入って来て持って私たちが今いくつかのこのような状況ばかりになりましたところで、私の他の形態のホームレス

ボイスフィッシング大伊作時にどのようにご希望のメインに出てくるように見えるところあればところで建物内でもまし眠っ私必要である私たちも駐車場の中に飼育場あり、私今の建物降り来るのではなく外にないだから、必ずしもそうではないのに

私持っている人なのか何をこんななぜそうのよう共有することでしょう私たちの立場では、提供差し上げようとするとは、実際に観客は少し昨日そこは実際には独立有功者記念ないでしょう部分でありするかされるように敏感に電話ならないとしましたねだから今はこれはプロジェクト自体は、任意の政治的、歴史的な関係なく試合はどう思ったさっきの芸術的な初めてのようなものするんだから

説得をして目立たないところに置くに向かって

条件がない場合でも、自分だっては自分がコスモス記録することも私入っているので、

ここ聞いただ、安全性の問題で見れば、私たちの期間が周辺ではモーテルでも少し遅れ歴史的に誰もがそのようなそのような所は向こうの向こう側40階段上がりますし

トイレは、その近くにトイレあります公衆トイレの隣にすぐ隣に風呂あったその私たちは今の話を支給するのが今風呂に入っているわけでもないまあ一応昼間は近くに鶏通っスケッチもして買った最高記録、またしてそうその次にまたこれでもう時間が残されているのレストランをするもガムチュォジはかけるちょっと

はいはいはいはいはいはいそうですはいはいはいはいはいはい話に先生もそうおっしゃってて私たちが何を訳もなく不便リンてより違うちょっと見つけてみるべきよいようですはいはいはいはいはい適合龍山かという最近ホームレスがあまりにも多く持ってはいはいはい

正しいその車を持ってきたわけでもなくというよりは

昨日

私たちは今配信いく

私たちも軍隊ブラシのに

それはそこ203買って公務員なって一緒に来て、ここときに試験行われて持ってました

宿題をする

今回、釜山現代美術館は小冊子をつくってくれただけではなく、プレスリリースもしてくれたようで、朝鮮日報にも僕の釜山での"展示"の様子が報じられていた。これまでニュースで取り上げられた中でも一番嬉しい。「家を持ち歩く美術家」としての僕が朝鮮日報の日本語版にのったことが。今回は、スウェーデンでやったようにあたらしい家をその場で作ってしまうのではなくて、僕が普段日本で使っている家を船に積んで朝鮮まで運ぶことが大事だった。僕は(ハングルの読み方を覚えようとはしてるけど)こちら韓国で、店の店員や街を行く人はもちろん、土地を貸してくれている人たちの話す言葉を全く理解できないけど、もう三年も使っている馴染みの家に住んでいるという不思議な状況だ。これはいったいどう考えればいいのか。

http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2018/07/02/0200000000AJP20180702000800882.HTML?input=rss

今日、閉館間際に歴史博物館を少し覗いてみたけどかなり見ごたえがありそうだ。嬉しいことに日本語の解説もしっかりある。釜山が日本の占領政策(経済占領という言葉がよく使われていた)にどう翻弄されて来たかが詳しく解説されている。明日しっかり見てみようと思う。前回のペクサン記念館や、「40階段」(日本の占領時代に象徴的な場所だった階段が、遺構として街中にしっかり保存されていて、名所になっている)のような場所や、この近代歴史館(もちろん全て入場無料)のような施設が街中あちこちに点在している。韓国はこういった歴史教育をかなりしっかりやっている印象。

そしていま、日本人の僕がディアスポラみたいな状態で釜山の近代歴史博物館の前庭に転がり込み、家と共に寝泊まりしているという、とてもおかしな状況になっている。日本人の僕が釜山で発泡スチロールの家を持ち、敷地を求めて歩き回るという状況はとても自虐的な政治ジョークのようにも見える。この国に家とともにいると、自分がかつて韓国を占領していた国の人であることを嫌でも意識してしまう。もっと学ばなければと思わされる。

昨日の日記を書かないまま釜山三日目の今日。まだ三日目とは・・。

昨日の昼はグーグルで、今の敷地から近いところに電源とWiFiの使えるosullocというお茶カフェを見つけたので行ってみたのだけど、なぜか閉まっていたのでどうしたものかと思って、やっぱりアレしかないか、と思ってstarbucksと検索したらそのお茶カフェから歩いてすぐのところにあった。恐るべき遍在性だ・・。

昨日はずっと雨が降ったり止んだりの天気。一昨日の夜からずっとそうだった。寒いくらいだったのでお茶カフェを探しに行く途中ナンポドンで「1000ウォン」と大きく看板を出している服屋をみつけたのでそこで合成素材でできた白黒カラー七分袖の服を1000ウォンで買った。同じ値段で「You only live once」と書かれた青い長袖の服もあったのでそっちと迷ったのだけどこの大きめサイズの服の方が韓国スタイルっぽいなと思ったのが決め手となった。

一昨日の夜は湿度と蚊に大変悩まされた。お風呂に入れなかったのでコンビニで買ったウエットティッシュで体を拭いて蚊と格闘しながら少し眠ったと思ったら床に違和感を感じて起きたら寝袋の下がなぜかびしょびしょに濡れていた。結露かと思ってタオルで拭いてまた寝ようと試み、何度かうとうとしながら床を拭いたり蚊がいなくなるスプレーを散布したりしているうちに外が明るくなってしまった。こんな結露するなんて初めてだと思ってiPhoneで見たら湿度88パーセント。蚊もわくはずだ。釜山の蚊は攻撃力が弱いとか書いたが嘘だった。非常にしぶとい上に時々とても強い毒を持ってるやつもいるらしく、左手の肘のあたりに刺された後はブヨに刺されたみたいに腫れてしまった。すぐにおさまったけど。

敷地の隣の沐浴湯

もう起きてしまおうと思って起きて寝袋を家の中に干して外に出て時計を見たら朝の5時だった。近所を少し散歩した。コインランドリーをハングルで検索して行ってみたけどそこはコインランドリーじゃない上にシャッターが閉まっていた。敷地の隣の銭湯(沐浴湯、モクヨクタン)は朝5時半にシャッターが開いた、開くと同時におばちゃん二人とおじちゃん一人が入っていった。銭湯文化は普通にあるらしい。ただし朝風呂派のようだ。韓国人は朝が早い。沐浴湯は日本の銭湯とほとんど同じようなつくり。最初にお金を払い(5000ウォン)、脱衣所で服を抜いで中に入る。体を洗うためのアカスリタオルが山のように積まれている中から一枚取り(アカスリタオルと体を拭くためのタオルは韓国の銭湯においては基本的に貸し出してくれるらしい)、中に入って洗い場で体をあらってから湯船に。温度は日本の一般的な銭湯よりもぬるめかもしれない。そして上がって体を拭いて外に出たら、まだ七時前なのに既に通りが賑わいだしている。そのまま近くのコンビニ(25という看板が出された店)で牛乳(ウユ)とカップ麺を買って朝ごはん。イートインコーナーがあって、日本のコンビニみたいにお湯もレンジもある。七時半ごろ一旦家にもどる。モンベルは優秀で、こんな湿度でもそれなりに乾いてくれている。眠くなる。この時電源のあるカフェを調べ、と近くに電源もWi-Fiもあるお茶カフェがあることがわかり安心する。しかしそこがあいてなかった。そしてこれを書いている今日も行ってみたがあいていなかった。行く時間が悪いのか?そういえば釜山にはホームレスがいない。1,2人お金を乞うているおじさんは見たけど。でも金さん曰く、すこしいるらしい。彼らはどこで寝泊まりしているんだろう。

そのままうとうとして9時過ぎごろに起き上がり、絵を描き始める。途中、サムギョプサルをご馳走してくれた社長さんが訪ねて来た。しばらく書いてたけど、寒い上に雨が降ったりやんだりなので断念し、お茶カフェをさがしにいった。充電もしなければいけなかった。

この文章の冒頭の通り、遍在するスターバックスで3時間くらい日記を書いたり絵を描いたりして過ごし、家の方に戻っている最中に金さんから電話がかかって来る。近くのカフェにいるからそこにきてくれと言われ、金さんと社長さん(社長さんはとても協力的でいつも一緒に行動してくれている。彼も楽しいのかもしれない)と合流する。なんと金さんは今日の敷地として、日本領事館に交渉してくれていたらしいのだけど、そこがどうもダメらしい。領事館の敷地に泊まれたら相当面白かった。それにしても金さんは市立美術館の職員だからなのか、色々と公共施設を交渉してくれている。月曜からは市役所の公園と区役所の敷地に許可を取り付けてくれた。いまのところ全部金さんがやってくれている。助かるけど、僕としては隙あらばどこかで自分で許可を取り付けて寝てみたいと思っている。そういう動きも挟みつつ、金さんたちに協力してもらいつつ、やっていくのが良さそうだ。釜山では。今の僕の狙いとしてはあの沐浴湯の敷地だ。でも今日は土曜日だからなのか沐浴湯がやってなかった。なのでお風呂は釜山ホテルというホテルの日帰りサウナを利用した。こちらは6000ウォン。

とにかく領事館は、保安関係で夜まで人がいることがだめだと言われたが、キムさんの知り合いの領事館の人が、なんといま他に敷地を探してくれているらしい。日本領事館が僕の家の敷地を探しているのは不思議だ。どう考えれたらいいのだ?釜山の街は基本的にきつきつに建物が建っていて敷地に余裕がない。広場や公園もないのでここらで敷地を探すのはたしかに困難そう。困難そう、とか他人事みたいに書いてしまった・・。僕が寝る場所を何人もの大人の人たちが探してくれている・・。

金さんたちに「釜山の蚊には日本から持ってきたスプレーが効かない」と言ったら笑われた。釜山の蚊は強い。体に塗るタイプの虫除けと、結露防止のための何かが欲しいと言ったら「国際市場」(秋葉原と大阪とかっぱ橋と日暮里繊維街が全部混ざったような楽しいエリア)のほうへ買い物に付き合ってくれた。薬局で店員に勧められたモギウユ(蚊ミルク)と、透明な薄いビニールを手に入れた。国際市場では200円くらいで買える服が並んでいたりする。釜山の最低賃金は、最近法律が変わって7400ウォンくらいらしいが、ムン大統領が頑張っていてもうすぐ10000ウォンになるらしい。その後、釜山の「映画ミュージアム」というところに交渉にいくも責任者不在でうまくいかず、どうしたもんかと思っていたら(金さんは「これでダメだったらどうする?」と言っていた。完全に僕の身になって考えてくれている・・)「釜山近代歴史博物館」で敷地を貸せるという許可を得られた。助かった。

金さんと話していても思うのは、他の人でもそうだけど徒歩の移動感覚が違う。僕は釜山に来たばかりでかつ徒歩移動には慣れているほうだと思うので、街の捉え方が大雑把だ。北に3キロ進んでから南に6キロ進むことになっても構わないし、通りと通りの違いなどもよくわからない。でも釜山に長く住んでいる彼は、僕よりもこの街を大きく細かく捉えているので、向かっている方位からすこし外れた場所で敷地を借りようとするのを無意識に避けようとしている。

2018年7月6日〜8日부산시중구대청동の부산근대역사관の前

とにかく歴史館の許可が下りたので、ペクサン記念館から家を動かす準備をしているときに、夜床が濡れたのは結露なんかじゃなくて銀マットの表面がところどころ破れているので床下の水が上にしみて来てしまっているせいだと気が付いた。これはまた国際市場にいってヨガマットか何かをかってこなければ、と思った。そして歴史館に家を移動。10分弱くらいで着いてしまった。そこで金さんたちと別れて一人で国際市場に言ってヨガマットを20000ウォンで購入。

晩御飯は散々歩き回った挙句、一昨日の店と同じところに入って一人で焼肉を食べてしまった。日本でもやったことのない一人焼肉を、一人でご飯を食べたりする文化がないので「友達いないのかな」と思われてしまうという韓国でやってしまった。その最中は、もう恥も何もないと思えたので僕の態度はでかいもんだった。そうして昨日の夜は釜山近代歴史感前の小さな広場のようなスペースを敷地にして寝ることができた。

次の問題は洗濯だ。近所ではネットで探しても歩いてもコインランドリーがない。リミットはあと2日。2日以内にどうにか洗濯する方法を考えなければ。そして今日の朝、工事の音で目が覚めた。朝7時から9時みたいなノリで工事現場の人が仕事をしている。

2018年7月5日부산광역시중구동광동の백산기념관

 

ミリさん撮影

いま釜山の中央駅という駅の近くのペクサン記念館というところの敷地内に家を置いて中でパソコンを開いている。ペクサン(白山)記念館というのは、日本が朝鮮総督府を置いて朝鮮半島を占領していた時代に抗日独立運動の義士として活躍したPeaksan Ahn Hee Je氏を記念して建てられた資料館らしい。まだ中には入っていない。釜山現代美術館の金さんが僕が寝る場所として交渉してくれて、明日までここに家を置いていいことになっている。建物は通りからセットバックして建てられており、その部分は公園のような場所になっているのだけどそこに家は置かずに、すこし奥まった人目につかない場所に置くようにと言われた。なにせ抗日の義士の記念館なので、日本人の僕がいくら「アート」といってもそんな場所に訳のわからない家を置いて寝泊まりすることを許すなんて如何なものかという意見を見越して、人目につかないところで、かつ1日だけなら大丈夫ということになった。金さんがこの記念館のスタッフと電話でやりとりしている時も、「それは政治的な主張のための作品ではないか?」ということを聞かれたらしく、金さんは「そんな主張は全くない」と言って許可を得てくれた。釜山にきて1日目にしていきなりハードな場所で敷地を借りることになった。明日は中も見てみようと思う。

大阪からのフェリーは今日の朝10時ごろに予定通り釜山国際フェリーターミナルに到着し(釜山は梅雨の時期で、雨が降っていた)、僕は到着ロビーで僕のネームカードを掲げて待っていてくれた釜山現代美術館の金さんとミリさんに迎えられた。Pantstar Cruiseのトラックに預けられた家を受け取る場所がわからず少し手間取った(というのも釜山国際フェリーターミナルは最近建てられたばかりらしく、空港みたいな巨大な建物で、到着して矢印に従って歩いてたら家を受け取れないまま出口まできてしまった)けど金さんが税関の事務所を訪ねて家の居場所を突き止めてくれたおかげで、どうにか家を回収した。行きのフェリーのなかで基本的なハングルの母音と子音を急いで頭にいれて(でもまだ覚えきれていない)釜山に到着したけど、金さんは過去に三年ほど日本に留学していたことがあるらしく、かなり堪能に日本語を話せる上に、ミリさんも英語がペラペラだったのでこの二人の前ではハングルを使う必要はなさそうだけど、でも多少は覚えたい。

家の中に蚊がいる。蚊がいなくなるスプレーを持ってきておいてよかった。刺されたけどそんなに攻撃力が高い蚊ではない。

フェリーを降りたあと家はいったん空港、じゃなくてフェリーターミナルだ。空港と勘違いしてしまう。フェリーターミナルの手荷物預かり所に預けて(といっても預かり所のドアから中に入らないのでドアの前の柱のそばに置いた)金さんミリさんと共に顔合わせとミーティングのために車で現代美術館に連れていってもらった。港から美術館までは車で30分ほどかかる。美術館は今年6月に開館したばかりの市立美術館で、釜山の西側(金さんいわく「昔はただの田舎だった場所」)の三角州になっている島にある。ミリさんも「ここは田舎。うちから通勤に1時間半かかる」と言っていた。日本語で。彼女は日本語も結構話せる。金さんたち美術館のスタッフは僕の今回の滞在を、かなり主体的に考えてくれていて、なんと4ページのカラーの小さな冊子も作ってくれていた。「家の動詞形」というタイトルの特別展を開催するということになっていて、僕が釜山を家と共に移動生活するあいだ「観客」は僕が家を運ぶところを路上で目撃したり、借りた敷地に置かれた家を見たりすることができる、ということになっている。画期的な考え方だ・・。僕はいままで自分が移動生活しているあいだ「展示」をしているとは考えたことがなかった。展示にしてしまえばいいのか。金さんの考えでは(金さんは「私の考えでは、」という切り出し方をよく使う)家を敷地に置いたらその家の前にアクリルボックスを設置し、そこにこの小冊子をおいて興味を持った人が持って帰れるようにするというものだった。そのため小冊子はダンボール5箱分くらい印刷されていた。やはり韓国は文化予算が日本より潤沢なのか?など考えてしまった・・。それらを全て持ち歩くのは重いので、金さんが、僕がいる場所に都度もってきてくれるという。その連絡を取るためのポケットWiFiの契約も全て行ってくれた。なのでいま僕はインターネットが使える。さっきまで使えなかったインターネットがいざ使えるようになったら、自分が非常に強くなったような気持ちになる。この活動においてはインターネットが非常に役に立つ。外国では翻訳もできるし銭湯や薬局やコンビニも調べられる。まあネットがないならないでなんとかやるのかもしれないけど。しかしインターネットがあってもここには電源がないのでバッテリーが切れたら一巻の終わりだ。しかもまだこの国で電源を充電する方法を見つけられていない。電源があるカフェを探すのが手っ取り早いだろう。多分あるはずだ・・。

蚊がいなくなるスプレーの効果が切れたらしくまた蚊がいる。本当は一晩有効なスプレーのはずなんだけど、足を出すための穴を開けているので風の通りが良すぎて効き目がすぐになくなってしまうらしい。でもこれを閉めると暑い。どうしたものか・・。とりあえずまたスプレーする。

美術館について艦長やチーフキュレーターと顔合わせをしたあと、金さんたちにいま開催中の展覧会を案内してもらって(金さんもオススメのJeon Joonhoという作家が面白かった)、お昼ご飯を一緒に食べた。現代美術館よりもさらに西にあるニュータウン(豊洲みたいなマンション群が並ぶ景色の街)でサムゲタンを。注文したらすぐに漬物の小皿が10皿くらいでてきて驚いた。漬物はお代わりし放題らしい。辛くて食べられないものもあったけど基本的に全て美味しい・・。ちなみに夜ご飯にはサムギョプサルをご馳走になったのだけどここでも出てくる皿全て、肉はもちろん豆腐もサラダも美味しかった。

お昼ご飯のあと美術館に戻ってすこし綿密な打ち合わせを金さんと行う。釜山は海雲台(ヘウンデ)と呼ばれる東側の地区のあたりが最近は人気のエリアらしく、若者の人口が増えているらしい。釜山中央駅があるこのあたりは「若い人はあまりいない」と言っていた。そこでおおまかな移動ルートを決めて、中央駅付近を下見しつつフェリーターミナルに戻った。

フェリーターミナルで家を回収し、金さんたちと別れてそこからこのペクサン記念館まで歩いてきた。1時間ほど家を持って歩いたわけだけど、船内で「これは韓国ではものすごくひとに話しかけらえるかもな」と思ってたけど実際はほとんど全く誰にも話しかけられなかった。一人だけアニョハセヨと声をかけてきた人がいたのでアニョハセヨと返したけど本当に僕に話しかけたのかどうかはわからない。写真を撮ってくる人は普通にいた。話しかけられることを想定して一応金さんが作ってくれた小冊子を持ち歩いたけど出番はなかった。ペクサン記念館のそばには銭湯(金さんは「銭湯は釜山にもたくさんある」と言っていた。助かった。)というかお風呂もやっているモーテルのような施設があって下見の時には「お風呂が隣で便利じゃないか!」とみんなで盛り上がったのだけど、夜19時ごろに着いたときにはしまっていた。夜にはしまってしまうらしい。銭湯はあるけど夜に行くという習慣はないということなのか?こっちでは朝に入ることが多いのか?

なので歩いた時に汗をかいたけど洗い流せないので近くのコンビニにいってウエットタオルらしきものを見つけてレジに並んで「これタオルですか?」と日本語で聞いたら「ウエットティッシュ」と答えが返って来たのでそれを買って体を拭いて今に至る。でも家の中でパソコンを売っているうちにまた汗をかいてきた。あしたの朝銭湯に入れることを祈る。ちなみに公衆トイレもこの建物の裏側にあったけど今は入れない。コンビニにもトイレはなかった。簡易トイレ戦法でなんとかやるしかない。

小冊子をデザインしてくれた会社の社長さんと金さんと三人でペクサン記念館の近くにあるサムギョプサルの店に行ってご飯をたべた。そのとき金さんが「韓国ではご飯を食べたりお酒を飲むために一人でお店に入ることはあまりない。最近はすこしずつそういうこともできるようになってきたけど、一人で店でお酒を飲んだりすることは、すこし変なことだと思われている。そういう人を見ると基本的に友達いないのかな、とかいじめがあるのかな、と考える」と教えてくれた。あやうく一人でバーに入って酒を飲んだりするところだった。不思議だ。金さんは「日本みたいに一人で定食を食べられる店があったら便利なんだけど」と言っていた。この点に関してはすこし暮らしにくいかもしれない。カフェは一人でもいけるらしい。

韓国語については、ハングルの読み方さえ覚えられれば、その読みから漢字を連想して意味を類推できることが少なからずあることがわかってきた。「住民」のことを「ジュミン」と言ったり「薬局」のことを「ヤッグク」と言ったりする。日本語話者である僕は韓国語を勉強するにはかなり有利だ。しかも文法が一緒らしい。「私は日本から来ました」と言いたい時、「私」「は」「日本」「から」「来ました」を順番に韓国語でいえばいいということだ。今回の滞在では韓国語を勉強しながら移動生活をやってみようと思う。

釜山の中央駅付近は日本人観光客も多い(昔はもっと多くて「すごかった」らしい)場所らしく、ご飯を食べてたら日本語が二つのテーブルから聞こえてきた。店の看板も日本語が併記されてたりする。

サムギョプサルを食べながら金さんが「日本人のアーティストの知り合いもたくさんいるでしょう、ぜひ紹介してください。来年の企画でとか、色々考えられるので」と言ってくれた。こうやって僕みたいないち作家でも少しは国際文化交流の役に立てることがあるから海外に行くのは面白い・・。「面白い人たくさんいますよ。紹介します」と答えた。そういえばエミルも今年日本に来るらしい。

かれこれもう2時間近く日記を書いている。明日銭湯に入れることを願いながらそろそろ寝ることにする。


7月3日の敷地はPANSTARフェリーの船内の手荷物トラックの中。撮影不可。

大丈夫だ。なんとなくみんな陽気だ。おばちゃんが多いからかもしれないけど。フェリーにはなぜかコリアンのおばちゃんとおじちゃんが多くて、なんとなく距離が近い。距離が近いというのは、例えば朝ごはんのバイキング(夜も朝も、どの品も美味しくて最高だった。しかも安い。キムチだけはちょっと辛いだけというか、もうすこし出汁が効いていてくれると良いのだけど)に並んでいる時に前後の人がとても近くに並ぶ。それと彼らは朝が早い。鶴橋を歩いている時にも思ったけど、このフェリーの朝食の時間も「朝食は7時30分までとなっております」と、7時25分ごろにアナウンスがあって布団でごろごろしていたけど飛び起きてご飯を食べに行った。

と、思っていたがどうやらこのアナウンスが適当だったようでさっき「朝食は8時20分までとなっております」と言っていた。一人の人が韓国語、日本語、英語を全て話していて、かつそれが一人伝言ゲームみたいになっていて内容にばらつきがある・・。さっきも「部屋のルームキーを9時20分までにフロントにお返しください」と日本語で言ったあと英語では「部屋のルームキーをフロントに返してください」としか言っていない。

この船は9時50分には釜山に着くらしい。18時間も船旅をしていたとは思えない。一瞬だった。wifiもつながらないのでメールなどが見れないし(ので、僕を港まで迎えにきてくれる予定の釜山現代美術館の人と連絡が取れない)いまどこにいるのかわからないけど釜山についてしまうのでとりあえず行くしかないようだ。

この船内は綺麗で、あちこちで壁を磨いている清掃員すら見かけるくらいなのだけど働いている人たちに中東系が多いのがすこし気になるというか、興味深い・・。

8時15分から「パンスタークルーズのど自慢大会」があるらしい。申し込みを受け付けるアナウンスが流れている。いまもこうやって日記をロビーの机で書いていたら、僕が机の上にのせていた「はじめての韓国語」という本に反応して「韓国語、勉強?日本人か。わたしたち、日本語勉強、しています」と韓国人のおじさんが話しかけてきた。韓国人のメンタリティ、素敵だ。ちなみにパンスターフェリーには弦楽器演奏、マジックショーなんかもあるらしい。

かつてこの海を渡った杉原先生のようなボートピープルたちの胸の内は2018年29歳の僕なんかが想像できるものではないけど瀬戸内の海を眺めている。

例の刑務所のような免許合宿のおかげで自動車を運転する能力を手に入れたので、大阪でニコニコレンタカー(軽トラ)を借りておよそ半年にわたって家を預かってもらっていた上町荘に家を取りに行き(上町荘は例の大地震の大きな被害はなかったようだった)、大阪港国際フェリーターミナルまで家を積んで走ったのが一昨日。15時半発の釜山行きパンスターフェリーに乗る予定だったけどなんと台風の影響で欠航となったらしく、急遽大阪のゲストハウスに2日延泊してついに今日大阪港を出港できた。国際フェリーは初めて。家もこれまでさんふらわあやジャンボフェリーなんかの国内船には載せたことがあったけれど国際船となると関税とか携行品検査とかが面倒そうだと思っていたけれどやってみるとすんなりとクリアした。始めは手荷物として載せようとしてくれたけれど乗船口のエスカレーターがかなり狭いからこの家は通らないということになり、係員のおじさん(この人が結構語気が強めで怖い)に「手荷物として預けてください。トラックに載せるんで向こうで自分で取りに行ってください。わかりましたね。」と言われた。「これ何キロくらいあるかわかりますか?」と聞くので「8キロくらいです」と言ったら「100キロ!?100キロですか?」と聞き間違えられたので慌てて「いや、はちキロです」と言い直したらホッとしていた。手荷物手続きの係員はおじさん含めて二人(もう一人は警備員のような格好をした韓国人だった)いて、二人は「どうしよう?千円?千円か」と、僕の家の運搬にいくら手数料をもらうか相談していた(「お前の胸先三寸じゃねーか」と思った)。結局僕は1000円を支払って東南アジア系の二人組作業員が家をトラックに積み込むのを見届けてからフェリーに乗船した。そのおじさんの語気が強くなってしまうのも無理もなくて、乗船場には大きなダンボールを積んだ台車がたくさん並んでいて、各荷物には人(ほとんどというか多分全員韓国人だと思う)がついていて、彼らが釜山に運ぶ荷物の関税手続きをそのおじさんがほとんど一人で行っていた。おじさんと客たちは、ときどき言い合いのような形(おじさんが「えー!自転車あんの!?あかんやん!だめやんそういうのは。リストに自転車書いてある?骨董品?骨董品じゃないやろ!」と大きな声で言うのが聞こえた)になりつつ、大きな声でやり取り(「インボイス」という単語が頻繁に聞こえる)をしていてそれを数人の警察官が見守っているという光景。刺激的だ・・。それらは手荷物ということになっているけれど、おそらく小商いの人たちが日本で仕入れた商品をフェリーを使って運搬しているということだと思う。これを一人で捌くのは大変だ・・。タフネスが求められる。運ばれる荷物には漫画「ワンピース」のフィギュアのダンボールなどがあった。

そんな感じで1000円で家を積んで、フェリーに乗り込んだ。船内はとても綺麗。お土産も買えるコンビニや寿司バーとかアロマエステの店まである。スタバみたいなアイスココアが飲めるカフェもある。wifiは使えるということになっているけどすこし頼りない。僕が取った寝室は一番安い5人雑魚寝スタイルの2等客室で、僕の他に韓国人のおじさんがいるだけだった。おじさんは僕に英語で話しかけてくれて、布団を引くのを手伝ってくれた。僕が3週間韓国に滞在するといったらとても驚いていた。おじさんはこの船に乗り慣れているらしく、お風呂に入りに行く時には部屋に鍵をかけて鍵はカウンターに預けてくれ、など色々指南してくれた。

今回の釜山は金沢で開催される「東アジア文化都市」という展覧会の関係で行く。ずっと日本で使っていた家が国境を越えるのは初めて。最近、戸田郁子さんが書いた第二次大戦時に大日本帝国に駆り出されて中国に飛ばされたり、日本人と間違われてシベリア抑留されてしまった朝鮮人の本や、橋口譲二さんが書いた、日本兵として国外に派兵されたままその土地に住み着いた人々の本を読んでいた。また杉原先生(幼い頃から家族でお世話になっている)が5歳までは京城にいて(平壌に行く計画もあったらしい)、日本が敗戦してからボートピープルとして広島に帰ってきた(九州に行く予定だったらしいが広島に変更され、そのおかげで当時病気していた杉原先生は助かったと言っていた)話も最近聞いた。いまこのフェリーは瀬戸内海を走っているけど、たぶん杉原先生も瀬戸内海を通って朝鮮から日本に船で渡ってきた。そこをいま家と一緒に朝鮮に向かって移動している。釜山のあとは仁川へも行って戸田郁子さんの話も聞く予定。

万引き家族を見た。くらった。映画館を出た後の「くらった感じ」は、早稲田松竹でアメリカンスナイパーを見た時に似ている。スーパーでの万引きのシーンで始まる。スーパーでは万引きするが、そのあとに「親子」で立ち寄る肉屋でコロッケはお金を払って買う。なぜなら「親子で肉屋のおばちゃんからコロッケを買う」という経験は大切にしたいから。モノは盗めるが、経験は盗めない。そのあとリンちゃんを拾い、わざとらしいくらいに典型的な「家族の夕食」のシーンになる。にくい!

「家族はこうあるべき」という、僕たちの無責任な、ぼんやりとした共通の幻想とそれによって作られた制度によって「多少問題はありつつも実際楽しく暮らしている人たち」の「絆」が壊されてしまう。「本当の父親」「本当の母親」という言葉がとても意地悪く聞こえた。外野からの無責任なアドバイス。しかもそれはこの時代では「正しい」ことであるという歯がゆさ。

それと人の弱さの話でもあった。倫理感や制度によって人の心の方がつくられてしまうという弱さ。僕はあの最後の取り調べであの人たちに「楽しく暮らしてんだからいいじゃないですか。そのためにつくった制度でしょ」と言って欲しかった。自分に自信をもたないといけないと学んだ。反面教師的に。

最後の最後に突然「こっちを向くかのように」正面からカメラを向いて、演技をする役者たちのほとんど神がかった演技・・。安藤サクラ凄まじかった・・。カメラワークも憎い・・それまでずっとスクリーンの中で起こっていた物語の登場人物に、突然こっちを向かれて「で、君はどう?」と突然聞かれるような気分。

夜逃げのシーンは「マイティ・ソー」で故郷が破壊されるなかアスガルドの民衆が船で亡命する時に誰かが言ったセリフ「国とは民だ。土地ではない。」を思い出した。土地ではなく民の問題なんだ、というのはこの映画全体を通して言える。人を幸せにするための決まりごとが本末転倒して人の幸せを破壊していく構図は、土地へのこだわりが民が自滅させるような話に似ている。

本当にやられたと思ったし、よく作ってくれたとも思ったし、これに最高賞を与えることができ、かつ世俗的にも名前が通ったカンヌはすごい、賞としての役割を果たしていると思った。

見る前は何も情報を入れずに観て、ただ「あなたはこういう世界でいきているんですよ」と突きつけられた気持ちになり、ズシンとくらって自分の日々の振る舞いについて色々と考え込んでしまったけど、あとでちょっと調べたら、政治的に体制を批判する映画として観ている人が結構いると知り、是枝監督も記者会見で「どの政治家の顔を浮かべて作ったんですか?」と執拗に聞かれたらしいと知った。それだけじゃなくて、左翼の映画だとかいう人もいるらしい。これになんらかの政治的な主張を見てとる人々の気持ちが全く・・全くわからない・・。この映画が描いてるのは、まさにそういう主張をする人たちの中で働いてしまっている力だ。そうやって顔のある人々の物語を顔のない大きな話にまとめようとする力が(無意識のうちに)自分の中で大きく働いてしまうことの暴力だ。

例えば自分で机を作ろうとした時、ノートに設計図を書きながらどの材をどのくらい買うかなどを考えているときは、カント的。そのうち頭打ちになってしまう。

その後ホームセンターに行ってたくさんの材料を目の当たりにして他な物も買っちゃったり、売ってないものを代用する方法をどんどん考え出すとき、ニーチェ的。