友人のドラマーTPOGalaxyのドラムソロ公演を観に行った。椅子やお菓子が載ったテーブルや、この映像自体の構成らしきものを紙に手書きしている様子などを撮影した動画に、詩をたしなむという彼の母親の朗読をのせた映像がプロジェクションされるところから始まり、それがけっこう長く、その長さになぜか元気をもらった。朗読音声を4回も繰り返していて、これは俺にはできない、当たり前だけど観客が飽きないかなどで映像を編集するのではなく、まず自分がこうしたいというところから構成していくべきであるという態度が。観てよかった。

かもめマシーン『俺が代』を観てきた。ぽたぽたと水が滴り続ける、雨漏りしているような舞台。雨漏りって不安になるし、どこが漏れてるか見つけにくくて嫌だよな、たしかに雨漏りの時代かもな、と思った。アフタートークで永井玲衣さんが、人と人の対話を外から見ることについて、この人大丈夫かなとか、私はこう思わないなとか、そういう仕方で参加させられてしまう、身体が一緒にそこにいることで、実際に話をしていなくても関係させられてしまうところが好きだと言っていたことに関連し、かもめマシーンの萩原さんが、今回の演目も開演前に70〜75分です、と言ったと思うんですけど、5分くらいはブレがあるんですよ、なぜなら間の取り方とか、お客さんの反応を見て変えたりするから、それがリアルで見ることの面白さだし、対話に参加させられていることに似ているかもしれないと言っていて面白かったのだが、たとえばこの演目が商業的なものになっていき、舞台の規模が大きくなって観客との距離が遠くなっていくと、上演時間のブレはどんどん小さくなっていき、作品は良くも悪くも一つのパッケージとして完成されていくんだろうなと思う。どこでやっても、いつやっても同じ時間で終わる、みたいな。だとしたら、この、客と役者の対話、人と人との対話、ひいては憲法との対話も、規模の「小ささ」が大事なのかもしれない。哲学対話も、500人とかでは成り立たないだろう。その規模はどのくらいの人数で破綻してしまうのか。人と人が舞台上で話しているのを見て、この人たち大丈夫か、と思えてしまう観客席のキャパはどのくらいまで大きくできるのか。

針葉樹合板を買いにホームセンターへ来たはいいものの、一枚2500円という価格の高騰に驚愕し、代わりの方法を考えることにして購入を諦め、そういえば油性マジックが買いたいのだったと思い出して店内を歩いていると、腰袋コーナーが目に入り、あったら便利なんだろうなと思いつつずっと買ってないな、この機会に買っちゃうかと、そのあたりをうろうろしていたら、腰袋コーナーの後ろにある工具箱コーナーに意識が移り、工具箱があとひとつあったら手持ちの工具が全部入るんだよなと思って物色しはじめてしまい、最終的にめちゃくちゃ大きな工具箱とウエストポーチと、マジックを買ってホームセンターを出た。なんだか人生もこんなふうにやってきた気がする。

ふりかけは小学校のときに合法で持ち込めるおやつだった/11月26日

11月16日。魚べいという寿司屋に来た。
出てくる寿司のしゃりは毎回、きっちり同じ形、同じ大きさをしている。型抜きされたものらしい。つまり握る作業は、ロボットがやっているということだ。だがテーブルの片付けは、さっきから人間がやっている。
これは、人々の思う「ロボットが人間から奪う職業」のイメージとは逆のことが起きているのではないか?
真っ白な内装の、ディストピアSFみたいな店内で、壁のスピーカーが「セーフティ・タイムです。ホールの従業員は手指のアルコール消毒をしてください。それでは、今後も丁寧で清潔な作業を心がけましょう」と指示する。ホールのスタッフたちはそれに従う。システムが人間に命令している。
この光景を見ていると、先ほどから流れている「ゲンキズシ♪グループ♪」という店内の音楽が「デンキズシグループ」に聞こえる。

手についたぬかの匂いはまったく気にならないどころかむしろ好きだけど、手がべたつくのは嫌なのでよく洗っている。僕は匂いよりも触覚の快適さを重視しているかもしれない。服の肌触りとか、汗をかいたり庭仕事をしたあとはまず顔を洗いたくなったりとか。

広島平和記念資料館で感じた、上空から見る「地図」の恐ろしさ。人、家、生活がデータと数字になることのこわさ。これはものを見えなくさせる技術であり、上から見下ろす視点がもつ「重力」という名の暴力と、花火や折り鶴や噴水や慰霊塔など、戦争に反対するものが持つ「上昇」の力、重力に抗する視点。見上げる力と見下げる重力の対比。

数年ぶりに平和資料館へ行き、ふたたび食らってきた。全人類が五年に一度は見た方がいいと思える。展示は以前よりも綺麗な印象にまとめられていたけれど、それでもまだ強い「怒り」を感じるものになっていた。人間ならば、ヒトならば、この展示を見れば、核兵器を存在させてはならないと、皆が思うはずだと感じた。

恐ろしい怨念がこもった小銭があり、正確に二人で分けなければなにか悪いことが起こるかもしれないという状況で、僕を含めた人間三人で計算をしているのだが(くわえて、霊らしきものも2体ほどそこにいる)400÷2がどうしてもできない。135になったり275になったりして、筆算してみても間違えてしまうし、携帯で計算しようとすると携帯が固まったり、どうしても操作ミスをしてしまう怖い夢。6時に目が覚めてしまった。

今日実家近くの店で買い物をしたとき、レジで店員が、客の年代を打ち込むボタンで僕のことを20代と押していて、無性に嬉しくなってしまった。

さくらいさんが言っていた「人前で、"ここに来た目的"について話すときに、ひとつかふたつしか言えない。本当は三つも四つも五つもあるのに、人に話すときはそれが絞られてしまう」という話は、歴史を語るときにこぼれ落ちるものと似ている。
たとえば今つくられている芸術が数十年後に誰かにまとめられたとして、きっとそれはいま僕が見ている景色とはだいぶ違った、単純化されたものになっている。
「このマックっていつからあったっけ?」という質問に、「まずビッグバンていうのがあって…」とは説明しないこととも、なにか通じるものがあるかもしれない。

《村上勉強堂》計画の資金調達のため、過去に制作した作品をオンラインで販売することにしました。《移住を生活する》※のなかで描いたものになります。日本各地の家のドローイングや、地図の作品もあります。価格帯は8,000〜280,000円です。

下記リンクから、なにとぞよろしくお願いします。

https://satoshimurakami.stores.jp/

※《移住を生活する》については下の動画をご参照ください

いつもは自転車で向かうアトリエへの道を、今日から始まる「ぜったいに『学び』のないゼミをやる」のアイデアを練るために歩いていたら、反対側の歩道で、茶髪でロン毛のにーちゃんが犬を抱きかかえていて、道路脇の、通常の犬の目線では見えない高さの畑を見せながら、すごいねえ野菜いっぱいなってるねえ、と話しかけていて笑っちゃった。すこし気持ちが楽になって、ゼミで積み木でもやりながら話したらいいかなとおもいついて、百均で積み木を探すためにいつもとは違うところで角を曲がったらハナミズキの葉っぱが歩道に落ちていて、それがとても綺麗で、何かのチケットみたいだった。綺麗なものを7枚くらい拾って歩いているうちに、百均には寄らなくていいなという気持ちになった。この葉っぱをみんなに配ればいいなとおもったのだ。大きな白い布を持っているから、それを広げて葉っぱを置いて、みんなに見せればいいとおもった。そうしたら甲州街道を曲がったところで、男の子とお父さんが手を繋いでいて、男の子が道端にたまっているケヤキの落ち葉の山を、両方のくつでしゃこしゃこ蹴りながら歩いていて、お父さんが笑いながら、はっぱそんなふうにするの?と聞いて、そしたら男の子は、だって葉っぱが好きだから、と答えていた。今日はすごくいい日になりそうだな。

コンビニで売ってる、ホイップクリーム的なものがサンドされた細長い系のパンの包装ビニールの中に、なぜかもう一層あるビニールの膜に、われわれの病が現れている

まさか自分が遠い場所から美しいものとして眺められているとは思いもせずに、ただそれ自体の存在による光を発しているという点で、星と夜景は似ている。ということは夜、部屋に明かりを灯して仕事をしたり、キッチンで料理や洗い物をしたり、寝室で本を読んでいるとき、わたしは星に似ているといえる。

近所の自動車屋でハロウィンイベントをやっていて、店内からカオナシのコスプレをした子供が親と一緒に出てきた。そこへ別の親子連れが通りかかり、その子供が「カオナシがいる」と言ったのを聞いて、ぼくも確かに「カオナシだ」と思ったのだが、一人で歩いていたので口には出さなかったなと、考えこんでしまった。
子供の頃は、こういうことが起こったとき、人と一緒なら自然と口に出すことを、私は一人のときも言うべきであると思い込んでいたこと、そうじゃないと自分に対して不誠実なのだと、悶々と悩んでいたことを思い出した。一人のときも、誰かと一緒の時も、同じように口から言葉が発するのが真っ当な態度だと思っていた。

なにかを想像する力も、考える力も、それを表現する力も、すでにあなたの中にある。あなたはすでに持っている。それはあなたの中で始まり、あなたの中で完結している。たとえばあなたの中で満ちる海があり、高いところから低いところへ流れている川があり、草木の生い茂る森があるような、あなたは場所だ。

それを解き放ってほしい。中途半端ではいけない。あなたにはできる。それを自分で信じてほしい。この社会は、学校は、ときどき点数をつけたりして、あなたにはできないとか、あなたよりもできる人はたくさんいるとか、あなたの方法は間違っているとささやいてくる。そういうのは全部、全て嘘です。人と人を比べたほうが、人は不平等だと思ったほうが楽なので、みんな、自分よりもできない人がいるはずだとか、自分よりもできる人がいると思って、なまけているだけだ。人と比べずに、ただあなたのなかにあるものを解き放つことだけを考えてほしい。そこだけは、力を抜かないでほしい。

わたしはあなたに、あなたの考えを説明してくださいと頼んだだけだ。あなたは自分が考えるべきことを自分で発見し、そのことについて調べ、アイデアを出した。あなたはさらに、自分のだしたアイデアや調べたことを、別のことに関連付けることもできるはず。そうやって、あなたの中にあるものが解き放たれたと感じられたことを繰り返してほしい。

駅までの道の途中、「生まれたての子鹿」を忠実に再現したような足取りの薄毛で白髪のおじいさんと、その前には、なんという名称なのかわからないが介護用の車輪がついたあの椅子を押しているおばあさんが歩いていた。おじいさんはおばあさんに急かされながら信号を渡り、それから何かをおばあさんに言った。すると
「ちょっと待ってください」
とおばあさんが言い、信号からすこし離れたところまでおじいさんを歩かせて、道端に立ち止まり、自分が引いていた椅子におじいさんを座らせていた。歩いている僕は遠ざかりながら振り向き、それを見ていた。おじいさんは「よっこら」といった様子で腰掛け、休んでいる。おばあさんはその椅子の後ろに立ち、二人ともいま渡ったばかりの信号の方を見ている。おばあさんは口を動かしているように見えるが、何を話しているのかはわからない。何も話していないかもしれない。僕は二人が気になり、何度も振り返った。
年老いた二人でなんとか、歩くだけでもたいへんな状態だがなんとか生きている。きっと朝起きてから夜眠るまでずっと二人三脚をしているような感じだろう。どちらかが先に死んでしまったら、残された方はどうやって生きていけばいいのかと、そんなことを思った。おばあさんは、「ちょっと待ってください」と、敬語で話していた。長く連れ立っている夫婦だろうに、敬語だった。とてもよかった。

ビョーンさんという、日本に滞在中のスウェーデンのアーティストがアトリエに来たので、四人で長々と「フィーカタイム」を過ごしているとき、「行けない日が続くこともあるアトリエを、なぜ借り続けるのか」という話のなかで彼が、「イマジナリー・ストレージ」と言った。とてもいい。イマジナリー・ストレージ、いつも持っていたい。

にちようび。家の隣に銭湯があるおかげか、空気が温かい。人の声と、銭湯の煙の熱。

作品(に限らず、もろもろの制作活動)の一貫性のなさを、自分は気にしているかもしれないという話を人にしていて、何故そうなのかと思案して、
「人生をかけてひとつの大きな建物を建てるように制作するべき、といった考え方をしているかもしれない」
と言った後で、これを村上春樹ふうに言いかえるなら、
「人生をかけてひとつの大きな建物を『解体』するように制作するべき」
になるだろうな、そしてそちらのほうが実感には近いかもしれない、解体のほうが、一貫性のなさに説明がつきやすい。と考える夢をみた。

昔やっていたあるゲームをなにがなんでもやりたくなってしまい、MacBookProでどうにかWindows7を駆動できないかと、集中して頑張っていたら、「すいません」と門から男の声がした。
「いま近くで工事してたんですけどお、屋根の瓦が外れてるのが見えたんでえ、伝えに来たんですけどお」
男の目はぎょろぎょろしていて、「ちょっとやべえ話し方の人きたなあ」と思ったが、親切でいいなとも思ったので話を聞くことにした。しかし「背中を向けたら刺される」という恐怖心があり、背中を向けられなかった。人に対してこんなことを感じたのは初めてだった。
「瓦が落ちたら落ちたらあぶないんでえ、明日もしいらっしゃれば登って直せるんですけどお」と男は言う。
「どこですか?」と僕が聞いたら、
「屋根の高いところ、棟っていうんですけどお、そこがはずれてるんでえ、落ちたら危ないんでえ」と、やはりちょっとやばい話し方である。
「どこですか?」
ともう一度聞いてもまた、
「上のところ…、落ちたらあぶないんでえ」
と、繰り返す。人間の感情を持たない、ロボットと話しているような気持ちに。
なんとなく、この人とは関わらない方がいいという直感が働いたのか、僕は「明日はいます。だけど屋根はいつも登ったりしてるんで、見てみます。ありがとうございます」と、気がつけば断っていた。
「じゃあ見てみてください。落ちたらあぶないんでえ、ソレを伝えるくらいがこちらのできることなんでえ」と言って、男は帰っていった。
「…でえ」のところが、上がり調子で、とにかく話し方がやばい。
あとでアトリエのメンバーにそのことを話したら
「おれの知り合いが同じような手法で、家に来られたことがあって、たぶん詐欺だね」
と言われた。ネットで調べてみたら、似たような事例の注意喚起ががたくさん出てきた。一般的には確かめにくい屋根の上の瓦が外れていると言い、屋根に登り、法外な値段を請求したり、「これは瓦を全部交換した方がいい」などと言って契約させようとしてくる手法らしい。住宅が商品化して、自分の手の届かないものになってしまった時代の象徴みたいな話だ。
こえーな。人間こえー。
どおりで男から受ける印象が、話されていることの「親切さ」からは遠かったわけだ。

「山品」でもりそばを食べた。格の違うものが、さらりと出てくるような店だった。
この蕎麦屋はたしかに、グーグルの口コミ評価も高い。とても高いが、それが一体なんだというのか。この奇跡のような蕎麦と、この口コミの星の数にいったいどのような関係があるというのか。
この目の前の、ほんとうに目から涙が出るほどおいしい蕎麦。この「恩」をどうやって返せばいい?と思えるほどの蕎麦。グーグルなどが世に現れるよりもずっと昔から、ここで作ってきたのだ。水もきのこも漬物も、ここらで採れたものを使い、何十年もこの場所で打ち続けたであろう、この蕎麦を思えば、インターネットに書かれた星の数に、いったいどんな意味があるというのか。
客がたくさんいる。美味しいものはやがて広まる。自分の腕を信じて、ものごとを続けること。継続すること。ちょっとやってみてうまくいかなかった程度で、うじうじする資格などないと言われているようだった。

遠藤一郎さんと再会した。もう十年以上の付き合いになるけれど、いまだに底がしれない。『芸術作品の根源』そのものみたいな人だ。
最近の彼が頻繁に言う「これは夢です」や「夢の方が本当だから」といったたぐいのせりふは、この現実とは別のところに軸をつくり、人々をそちらの方に引っ張ろうとする力である。目の前に広がっているこの世界は夢なのだと思うことは、一見現実逃避的でネガティブなようだけど、彼に言われると力が湧いてくるから不思議だ。まるで凧の糸を引くように、夢(叶えたいものとしての「夢」と、寝ている時に見る「夢」の二つの意味があるように思う)が現実のほうに引っ張ぱられて、二つが重なってしまう。
「これは夢だ」という感触は、確かにある。正確には「夢を見ているような感じ」は、特に最近、わかる気がする。
社会の変化が目まぐるしすぎて普段は認識できていないけれど、ふと冷静になって立ち止まると、まるでシュルレアリスムのような、とんでもなく支離滅裂な世界になっているじゃないかと思うし、僕自身にしても、結構な頻度で移動をして、知らない景色を見たり、新しい人に出会ったり、あるいは人と別れたりするこの日々は、ほんとうに夢を見ているようだ。過去と未来と現在がどろどろに溶けてしまって、ただただ「世界」が広がっているような感じというか。
「これは夢だ」という感触は、決して悪いものではない。創造的なアイデアと、それを実現する勇気を得る「場所」に行くための「世界認識の方法」のようなもの。
遠藤一郎が車にでかでかと描いている「未来へ」という言葉にも「これは夢です」と通じるものがある。というよりも、もう少し先に進めた概念かもしれない。
どんな状況の人間にとっても、「未来」には希望が存在しうる。そう考えると、どこか「死」すら感じさせるので、すこしこわくもあるけれど、息苦しいこの世界をさーっと抜けて、生と死も、時間の概念も全て飛び越えて、視界が開ける場所を目指すようなイメージが湧いてくる。
かつてシュルレアリストたちは現実を解体し、ある意味では夢と同化させようとしていた。そういう意味では遠藤一郎もシュルレアリストであり、僕も自分のシュルレアリスムを実践していきたい。時間も場所の概念も超えた景色を見たい。

さすらい姉妹『むすんでひらいて』を信濃大町の美麻遊学舎跡地で観た。観たというか、体験した。三つの焚き火と、開演前のそわそわした雰囲気、出演者がせりふを忘れていることに笑ったり、ぜんぜん何を言っているのか聞き取れないのになぜか泣けてきた公演本番、公演後の赤飯のおにぎりと豚汁、たくあん、でかい鍋のきのこ汁の炊き出し、「いっぱいあるから食べてくださいね〜!」と呼びかけるスタッフか客なのか曖昧な人たち、火の前で酔っ払ってアコギで歌う人、踊る人、すべてが渾然一体となり、世界に、こんな場所がまだ残っていたのか…涙…という、なぜか懐かしい気持ちに。
せりふを忘れていること自体が芸になるという現象、これはなんらかのアイデアのヒントになりそうだと思った。

「せりふをぜんぜんおぼえてねえやつはあっちいけ!」
「せりふ覚えられなくても、来年も出してちょうだい!」

公演後の炊き出し、その場にいる誰に対しても、「食べてくださいねー!いっぱいあるから!と声をかけていた。なにか、光りかがやくものが溢れていた。反プロフェッショナル、反資本主義を地でいくという態度が貫かれていた。本当の反資本主義は、資本主義社会のなかではそう簡単に浮び上がらないという、ごく当たり前のことを思いだした。

「もう忘れてしまったというのだろう」

という出演者の合唱が頭の中でまだ響いている。
彼らはあくまで「出演者」であって、ここで「役者」という言葉を使ったらなにか大事なものを取りこぼしてしまう。彼らは各々に仕事をしながらこの公演に出演している人たちであって、役者が本業ではないらしいから。プロの役者は一人もいないらしいから。
「地べた音楽祭」を観たあとでここに来れてよかった。それぞれに違う、このめちゃくちゃな現状に対してのアプローチはあるのだ。遠くにきたなとおもえる場所であり、親戚が集まるような場所でもあった。

昨日の酒がまだ残っている。起きて冷蔵庫にあるごぼうをどうにかしようと思いレシピを調べて甘辛ごぼう炒めをつくることにする。必要なものはごぼうと片栗粉と醤油と砂糖と酒のみ。からい要素がレシピに見当たらない、これで甘辛になるのかなあと不思議に思いつつ作ることにしたものの砂糖がないことに気がつく。スーパーにいくのか、面倒だなあ、でもまあ、いくか、としばし時間をかけてスーパーにいく決心をし、イヤフォンをつけて徒歩十分弱のスーパーへ向かう。音楽は昨日からずっとUlulUのアルバムを聞いている。スーパーでうろうろする。舞茸と牛乳とてんさい糖と卵と米とカニカマとねぎときゅうりと明治のミルクチョコレートとホワイトチョコレートを買う。昼に天津飯をつくろうと思いついたのだ。ここ一ヶ月天津飯にはまっている。家に帰り、昨日買ったUlulUの3曲入りCDをかけながら目玉焼きと甘辛ごぼう炒めをつくる。片栗粉がない。家にあるだろうと思っていた片栗粉がなかったのだ。小麦粉で代用してみた。冷凍しておいたパンにスライスチーズをのせてトースターで焼く。その間にたまっていた洗い物をする。洗ったばかりの大きめの皿を拭き、目玉焼きと、つくった甘辛ごぼう炒めの1/3ほどをのせ、焼き上がったパンに蜂蜜をかける。残りの甘辛ごぼう炒めはタッパーに入れて冷蔵庫へ。入れたタッパーにはまる蓋が見当たらず、近い大きさのもので無理矢理ふたをした。案外いけるもんだ。牛乳にMIROを溶かす。朝ごはん、と言っても食べ始めたときには十二時を過ぎていた。食べ終えて、冷蔵庫からぬか床を取り出し、さっき買ったきゅうりを二本漬ける。明後日には食べられるだろう。まとめて洗い物をして、歯を磨き、洗面台の前に軽く掃除機をかけて、たまごとカニカマとネギとチョコレートと、洗濯したタオルと一泊分の着替えを持ってバッグに詰め、自転車のカゴに入れてアトリエに出かける。途中、緑色のヘルメットをしてピンクの自転車に乗った小さな女の子を前方に捉える。その前には黒い自転車のお母さんらしき女性。二人を追い越す時、女の子がこういうのが聞こえた。

「自分が成長するんだよ?」

アトリエに着き、カニカマとたまごとネギとミルクチョコレートを冷蔵庫に入れるが、ホワイトチョコレートが見当たらない。どこかで落としたか、持って来るのを忘れたのだ。

・世界を一枚の紙の上に描きたいという「欲望」について考えること

・歩いていたら蛾が止まっていたり、公園があって喫煙所があったり、地図をもって本の中を歩いていくような本

・一万円拾ったときに警察署で言われた「一万円札の持ち主」という言葉。お金を所有するという言い方。HAPSのプロジェクトで食事をしているとき、食べているあいだは不思議なことに、食事を楽しむ消費活動というよりは、ほとんど労働をしているような感覚であったこと。
・かきなおしたかった地図
ロングのウインドライン、シチュアシオニストの地図、村上の地図、友人たちの地図、知人の地図
からだ
・土を口にしただけでお腹壊した話
・街は内臓であるという話
・気化熱の冷房
快適さとは何か
「暑いけど、この暑さは納得できる」ことの重要さ
体調(腸内細菌たちの複雑な運動。自分は「結果」しか意識できないこと)
食事(能動的にたべること。情報は食べられない)
時間
蛾の話
記憶(時間をランダムアクセスにとらえる。過去は現在にあること。現在を引き伸ばすこと)
お金
銭湯の脱衣所で硬貨を「汚い」と思うことと、コロナ下、お金を使う場所ではマスクを求められることが多いこと
言葉
21美ムン&チョン展フライヤーの「彼女たち」という主語の話、「彼ら」ではなく。隠れた差別意識
嫁、と言ったことで目覚めた何か
高松次郎の作品のこと
移動
移住を生活すること。
時間は線形ではない。現時点から360度広がっている。場所のようにたずねることができる。我々は思い出すというときに時系列順に遡って思い出すのではなく現在からある点へ、その点からまた別の点へとランダムにアクセスしている。そして思い出すとき、それはもはや過去のものではない。その過去は現在に持ってこられている。つまり現在からある場所へ行き、何かをここれ持ち帰るようにしながら我々は生きている。過去を思い返すことが苦しみとなるとき、その人はその喜びの過去も殺している(ヴェイユ)
・イメージと正体の調査報告(付録)
・年賀状が印刷物に成り下がった話
・メディア、媒介者としての貨幣。金を使う場でマスクをつけている自分に気がついたこと
・なぜ「自分の地図をかく」ではなく「かきなおす」なのか
・与えられた地図の暴力性と、自分の地図をつくることの暴力性
・「確かに”地図"は測量のために歩き回った人の生の痕跡を消すようになっています」(インゴルド)
・しかし地図論を書きたいわけではない

・「とほうもない時間のなかの点としての今の生活」みたいな
・アナキズムとしての実践
・日々の生活への応用篇
・「地図を燃やせ」
・「今からどこででも、どんなふうにでも生活を始めることができる」あべこうたさんの言葉

・タイトル

 思いがけない名刺と動詞の組み合わせ
「蛾とは約束ができない」「情報は食べられない」
お金を「払う」とは意地でも言わない。「交換する」と言う
デジタルとアナログ
貨幣とコロナとマスク
労働することは、体をデジタルに見ること
レシートと支払い
結婚式のご祝儀を電子マネーで払うこと。ご祝儀はお金のモノの側面を強調する
amazonギフト券を買うことと、アナログからデジタルへの変換
・松村圭一郎「くらしのアナキズム」に引用されているジェイムズ・スコットの「文字それ自体が距離を破壊するテクノロジー」という言葉。例えば「徴税」や「戸籍」のシステムに従うことが国からの管理に従うことであるというような視点を持つのは簡単だが、「文字」それ自体が支配のテクノロジーであるという視点は、さすが人類学というか、壮大なちゃぶ台返しを目の当たりにした気持ちになる。学校の歴史の授業なんかでは国の識字率が上がることは良いことだと習うけれど、それはある意味では奴隷根性の現れでもある。
・また稲作が国家にとって重要なのは税収の予測が立つからだという考え方、これもよく言われていることなんだろうけど、ここから、なんらかの予測を立てると言う営み自体が、奴隷根性の現れであると考えることはできるか。保険とか?保険という商品の考え方は、いわば国家の支配を後押しするものなのか。過去に日記で書いた、計画と無計画の話もつながるか。
・フィクションと嘘について。あるいは一人称でエッセイを書くことについて。五所純子さんの本
・広告収入を消化する
・「魂のある食べ物」について
・奥能登でやった「移住生活の交易場」で、店の裏で聞き耳を立てていたら客がみんな誤解して帰っていった話。特に二人組だと、二人で憶測を話し合うことによって思い込みを強化することがよくわかる。また買い方もバラバラで面白い。二三味でコーヒーとカフェオレとケーキ2個買ったレシートを見て、お代わりしたんだろうな、それがたまらないと言って買っていった人もいるし、誕生日だからと買っていった人もいるし、このきれいな桜貝なら数百円ならほしいと純粋に物で買う人もいるし、システムが面白いと買う人もいるし、こんなに安くていいんですかと、美術作品として買う人もいる。そして、こんなものによく値段つけられるなと言う人もいる。「俺もやろう」とか言う人もいる。ポロックの絵をみて「俺もかける」とかいうのと同じように。
・インゴルドの『ラインズ』。印刷技術のおかげで我々の「表面」に対する認識がかわったという話があって、手書きで書かれたテキストを声に出して読んでいた中世の頃、本を読むということは先人の「足跡」を探しながらたどるような感覚だったんだけど、印刷されたものを黙読する現在においては、あらかじめ全てが見渡せる地図を眺めるような感覚に近いと言っている。確かに「地図」は測量のために歩き回った人の生の痕跡を消すようになっています。熊本市から阿蘇山を通って大分県臼杵市に続いている57号線の道路を家と一緒に何度か往復して九州を東西に反復横飛びするように動いて同じ場所で違う出来事を引き出すようなことができるかなと思った。
・頭の中に地図がどんどんできてしまう。僕の無意識が、目的地への最短ルートとか、善悪の価値観とか、あるべきお金の使い方とか、年齢に相応しい年収とか、年齢に相応しい振る舞いとか、習慣とか常識とか思想とかを勝手に作ってしまう。「かきなおせ」ではぬるいかもしれない。
・「学び」とか「気づき」とかそういう、意味ありげなことについて。意味ありげなことを書く恥ずかしさに向き合うこと。「意味を問う」とは?授業中教科書に描く落書き。階段の手摺にお尻を載せて滑ること。道で石ころを蹴って歩くこと。踊ること。道の石ころを蹴るようなものを書きたい。ただ踊っているようなもの。
・スマホを家に置いて、方位磁針と歩数計を身につけ、バインダーを手に地図を描きにいく。

・地図は「亜空間」に現れる
・地図の定義。他の人がイメージできる要素がひとつでもあり、それが3点以上記されていれば、それは地図になる。たとえば「あ」という字だけを街の中であるきながら探すと地図ができる。
・「移住生活の交易場」も地図である。値段という共通要素によって。