どこかの学校。高校生くらいのようだが大学時代の友人の顔もある。三時間目の授業で抽象的なテストを受けている。隣の人は紙に言葉をびっしり書き込んで問に答えているが、私は主にカラフルな絵を使って答えている。それも、当初は答えのつもりで描いてなかった落書きのようなものだったのだけど、テスト終盤になって、その絵が割と良い感じになってきたので、これはこのまま回答として提出できるんじゃないか、と思いつき、そうしたことを覚えてる。ただし、私はそのテストの時間、何度も何度も派手にお腹を鳴らしてしまい、恥ずかしい思いをした。お腹がすいていた。授業が終わって短い休憩の時に何か食べ物はないかとあちこち探したが、ない。そうこうしてるうちにチャイムがなり、四時間目が始まる。私はあわてる。そして、コンビニで売ってる黒いバターロールみたいなやつを見つけた。急いで口に放り込み、四時間目が行われる教室を目指す。家庭科の授業だった。教室かわからず、がらんとした校内をうろうろしてる最中、乱暴熱血体育教師みたいな先生に「黒田か!?」と間違えられる。黒田ではありません、と答える。私は授業への参加をあきらめ、うろうろしている。すると、授業の一環で校内をリサーチしてるクラスメイトのグループに出くわす。家庭科の授業だが、校内で起こる心霊現象のリサーチをしているらしい。出くわすと言っても、話をしたわけではない。私ははじめ彼らについて行ってみたが、彼らはネットにも書いてある心霊スポットとされるところで、ネットに書かれた方法で霊とのコンタクトを試み始めた(ドアを◯回ノックするとか)ので、なんかやな雰囲気を感じ、その場にいるのをやめて校庭にでた。校内では、授業の一環でダンスの練習をしてる集団があったり、なんか色々な生徒がそこらじゅうにいる。ああ、さすが美大だなあ、というようなことを思った(しかし教室の雰囲気や「クラス」という概念があるところからすると、そこは高校のはずだ)。

校庭で、古びた短刀?を持ったおじいさんが学校の塀を乗り越えて入ってくるところに出くわす。おじいさんは私を見るなり短刀を抜こうとする。が、わたしのすぐ隣には知らない女子生徒がいて、おじいさんはその生徒と親しげに話している。私は、この老人とは以前会ったことがある、と思った。外でシートを広げての大人数での宴会で、同席した覚えがある。私は老人に、その旨を伝えた。短刀だと思っていたものは、抜いてみると紙かなにかでできたハリボテだった。が、呪物のようなオーラを放っている。

私は老人のもとを去り、どこかでテレビを見はじめる。というか、テレビの画面が私の視界に同期している。私が見ているのは私の景色でもあるようでいて、それがテレビ番組である、ということもわかっている、という状態。野球中継のような番組だった。ライトかセンターあたりのポジションで、野茂英雄(84歳)がフライボールをキャッチしているところがアップで映されている。解説者は「野茂はもう84歳ですが、この先もプレーを続けるんでしょうかね」と言ってた。という夢

キックボードで移動していて、路上で男二人に荷物をひったくられる。ちかくに信号待ちのパトカーがいたので、そこまで歩き、いまひったくりにあったと訴えたらパトカーは二人のところへ行ってくれた。捕まえてくれるかと思いきや証拠不十分てきな理由で二人は無罪となり、パトカーはさっさとどこかへ行ってしまった。二人が僕に対して、ぶっころしてやるみたいなことを言ってきたので、僕も怒ってキックボードで二人をぶっ叩いて逃げる、という夢。あと味が非常に悪い

ファミレス。左隣に座っている一人客のおじさんの、唐揚げの口への運び方、味噌汁の飲み方、その他挙動の全てが気にさわる。人間の動き方ではない。ただ速いだけでなく、スピード感にまるで節操がない。こんなに、人の食べ方が「無理だ」と思ったのは初めてだ。ものすごく急いでるんだろうか。箸で食べ物をつまむ瞬間まではよいとして、それを口に運ぶときに、なぜか「ビュン」と加速する。箸を口に突き刺すつもりなのか? というくらいの勢いで、文字通り「ビュン」と加速し、次々と食物をぶち込んでいる。なんなんだ、その加速は。なぜ、そこで加速する必要があるのだ。軍隊かなにかに入っていたのかもしれない。少しでも早く食事を終えるために、年月を費やして進化した食事法。

食べ物を口に入れてから、次の食べ物を入れるまでの時間も、ものすごく短い(ほとんど噛んでないんじゃないか)こともまあ気になるっちゃ気になるけど、なによりもスピードが謎だ。食器を掴み、またテーブルに戻す挙動にも、いちいち癪に触るほど速い。手の動きを加速させないと気が済まない人生を何年も送ってきたような動き。

この人と一緒に住むのは無理だと思った。顔がものすごく好みで性格も優しくて気遣いができて、真面目に働いてコツコツ貯金もできて、なのにときどき冒険的で新鮮な一面も見せてくれる素晴らしいパートナーだとしても、食べ方ひとつで離婚の理由になりうると思った。そのくらいの、本能的なレベルでの嫌悪感を覚えた。

ラーニング・ラーニングvol.6 道具を作る『道具』 七沢智樹

・文明が崩壊して百年後の瀬戸にワープしてどうやって生活していくかというワークをあとでやる

技術哲学とは

・技術は目的のための手段ではない。「テクノロジーは、単なる道具(目的のための手段ではない)。社会や人間のありようをも形成する。」

・テクノロジーが生活を変えるという「とんでもなさ」を考えるための哲学

・技術と人間は不可分で、一体であるという前提。なので技術だけを切り捨てることはできない

・テクノロジーは、社会を価値とか基準を一元化していく。より速く、効率よく。

・近代の呪い(都市・時間・システム)の起源はメソポタミアに遡る。メソポタミアは、城壁を作り、川を灌漑し、自然を支配していた

(・ハプログループ「C」(アボリジニなど)の神話の特徴。「世界は初めからある。時間という概念がない」)

・気候風土によって、一神教だったり一神教じゃなくなったりする。西側/乾燥したところでは一神教になり、東側(アジア)ではそうはならなかった

・自然世界と人工世界の境界。防護壁型と縁側(庭)型に分けて考えられる。日本は縁側型。西欧は防護壁型。→上で書いたように気候が乾燥しているか、自然が厳しいか、によってなんとなく決定されている

・テクノロジーの相対化からの「再未来化」。足元にテクノロジー以外の技術があることを発見する

現在(隠された現在)→予測される未来(新たに予測された未来)

○例えば「火」が発見されなかったら、落ち葉の発酵熱の暖房がもっと広まって、いまよりも堆肥化した世界が広がっていたのではないか

秋岡芳夫。デザイナー/技術哲学

久々に勉強堂作業。朝から。まずは草刈り。予想してはいたがものすごく繁茂している。成長スピードが半端ない。しかし屋根の上の草は思ったほど生えてない。でも、ちょっとずつひょこひょこ草が顔を出してはいる。草刈りだけで1時間くらいかかってしまった。

ランドロームに行って、フライドチキンとカットフルーツ盛り合わせみたいなパックと飲むヨーグルトと佐野ラーメンのカップ麺を買ってイートインコーナー。ジャージみたいな室内着着用のおじさんやおばさんが数人、暇そうにテーブルに座っている。みっつのカゴいっぱいいっぱいの、大量の食材を買い込んでいるひょろっとしたおばさんが、買った食材を、「新聞紙回収用」と書かれた大きめのビニール袋にひたすら移し替えている姿が、なかなかに衝撃的な光景だった。ビニール袋は何度も使いまわしているらしく、ビニール袋なのにシワが目立つ。でも丈夫そうだ。

チキンとカットフルーツを食べて飲むヨーグルト飲んだら、佐野ラーメンを入れる余裕が胃袋からなくなってしまった。代わりに、車に積んであった「ポケモンヌードル」を持ってきて、お湯を入れて食べた。おまけのシールは「メガリザードンX」だった。このポケモンヌードルを一緒に買った友達と、シールの中身がわかったら教える約束をしていたので、写真をラインで送った。「わたしもメガでした!メガリザードンXです!」

食後コメリに寄って、ドアに使えそうな滑車とレールを物色したが、夜にお風呂行くついでにカインズに寄ったほうがいいのがありそうだと判断して、結局何も買わずに勉強堂に戻り、本堂の中でキャンプチェアに座ってるうちにうとうとしてしまった。外はそれなりに暑いが、本堂の中は体を動かさない限り昼寝できるくらいには涼しい。これはすごいことではないか?

昼寝後、一気にドアを作った。ニトの展示で使ったベニヤ板2枚と、垂木で。さっき物色した滑車とアルミアングルでなんとかなりそうだったのでまたコメリに行った。耐候性の油性ニスも買う。

そこから17時半ごろまでに、一気にドアを作り、ほぼ完成させた。引き戸。いい感じ。次来た時に、隙間をどうにかして埋めたらドア完成。

 

あいちでの版築作業のため、道具を一式車に積んで帰る。日帰りだ。

 

次来るまでに、壁の内側に水を撒くシステムを考えて部品を購入しておきたい。前回晴れている時に、外壁にジョウロで水を撒いて放置して、壁の冷えが内側まで伝わるかを何日か観察してみたけど、ほとんど伝わってこなかった。室内を冷やすには結局内壁に水を撒く必要がありそうだった。それをやってみたい。かつ、風が当たったほうが水は蒸発するので、扇風機をあててみたい。

それと、東京のアトリエの倉庫に保管してある、スポンサーロゴの入ったタイルも持ってきて床に敷きたい。あとコットを持ってきて本堂の中で寝れるようにしたい。

企画したトークイベントの書き起こしをやってみてみる。以前どこかの日記に、夢日記を書く時に感じる言葉の固定作用について買いたことがあるけれど、会話の書き起こしでも、それに近いものを感じる。たとえば「私もやってみよ」と「私もやってみよう」のどちらを採用するかについて考える。書かれた文字から受ける印象は、両者ではだいぶ違うけど、会話している時はどちらのニュアンスも含まれているような感じがあったりする。「あ」とか「なんか」とか「ん」とか、会話のなかでは人はいろいろ口に出しているが、それを忠実に書きすぎると意味がわからない文章になってしまうし、書かなすぎると雰囲気が損なわれる。書き言葉は、意味やニュアンスを固定してしまう。会話を聞いている時は固定されていなかったものが、書かれた途端に凍りついたように動かなくなってしまう。

常念岳に友人6人で登った。標高2750メートル。その登山終盤に、涼ちゃんが不思議な体験をした。登り始めて早々からかなり疲れていたようだったが、中盤から後半にかかってその疲れはピークに達し、口数も少なくなり、みんなが大丈夫かなと心配していた。重たい足を一歩一歩どうにか持ち上げ、文字通り引きずるように、後ろからついてきていた。

終盤、難関と言われている「胸突八丁」という急な勾配の登山道にさしかかったあたりで、涼ちゃんは急に目からポロポロと涙を流し始めた。「木の気がすごい」と言った。しばらく涙を流しながら歩いていて、時々「人みたいな木がいる」とか「木に手を触れた時に手を握り返される感じがある」とか、「とにかく優しい感じがする」と言っていた。無事山小屋に到着して、落ち着いたころに話を聞いてみると、疲れに負けないように気をしっかり持たなきゃと思って、一生懸命登っていた涼ちゃんだったけど、すでに体は限界に足していて、もう登りたくない、もう帰りたいと思っていた。それでも気を強く保たなければ森に負けてしまうと思い、気張っていた。そしたらある瞬間、ふと木と何かが通じあった感じがしたという。木の根っこが地面から複雑に突き出ていて、登山客を段差の上へ登らせる階段のようになっているところがあって、そこに足をかけた時、この木はたくさんの登山客を見てきたんだと思ったら、急に森が包み込んでくれたような感じがしたという。君のような客はたくさん見てきた、と優しく言われているような気がしたという。それが励みになり、体の疲れが取れたわけではなかったけど、もう登りたくないという気持ちはなくなったという。完全に消えてなくなったらしい。それから、生まれ変わったらこの木になりたいとか色々と考え始め、怖くなっていったという。

薬師の湯の露天風呂。20羽ちかくもの燕の若鳥が、頭のすぐ上からはるか上空までの範囲をびゅんびゅんと飛んでいる。飛行の練習をしているように見える。360度三次元の舞台で上演されている、ダンス公演を鑑賞しているような気分。視界の上から高速で黒い影が飛び込んできて、急旋回して視界の右に消えていく。そんな動きを何羽もの燕たちが同時にやっている。もちろん、鳴き声もセットで。ぜんぜん見飽きない。いつまでも見ていられる。燕たちは建物の軒下にいくつもの巣を作っていて、そこから飛び立っては巣に戻り、またすぐに飛び立つ。空には筆でひいたような雲と青空と、もくもくの入道雲。ところによっては夕焼けで真っ赤になっている。すべてが美しかった。頭を洗ってもう一度露天風呂に戻ると、燕はいなくなっていた。さっきまで空を覆い尽くさんばかりの黒い影たちは、すべてどこかへ行ってしまっていた。巣も不在だった。みんなして、どこにでかけたんだろう。燕はこんなにも統率のとれた集団行動をするのかと驚いた。

雰囲気から察するに、大昔の中国の地方都市のような、赤色が目立つ競技場風の建物の中にいる。長さ5メートルくらいのよくしなる棒をそれぞれが1本ずつ持ち、その上部のでっぱりに足を乗せ、棒のしなりを利用しながらバランスをとって自立し、飛ぶように移動して相手を攻撃するという競技の参加者として、そこにいる。なんとなく竹馬に似ている。私はその棒の扱いがとてもうまくて、腕に自信をもっている。攻撃は、棒の下のほうに毒蛇をとりつけ、それを相手にむけてしならせて飛ばすという方法で行われる。私は棒の扱いには慣れているが、毒蛇に慣れておらず、危なっかしい手つきで、そいつ(頭はとても小さいが、猛毒を持っている)の首元を掴んで棒にとりつけようとしているのだけど、手が滑って毒蛇の頭を解放してしまい、右手に噛みつかれる、という夢

部屋に、私を含めて三人の人間がいる。私はノートPCを開いてかたかたと作業をしていて、他の二人は本を読んでいる。ひとりは私の隣のテーブルで椅子に腰掛けて。もうひとりは畳にじかに座っているのだろうが、私からはテーブルの陰になっていて、その姿は見えない。外から梢が揺れる音や、ときどき車の音が聞こえるくらいで、とても静か。わたしたちは二日前に会ったばかりである。二人は読書をするために遠方からやってきて、ここに滞在している。私はそのイベントの企画者である。図書館の自習室に似た、不思議な時間が流れている。ほどよい緊張感が私の仕事を捗らせているし、二人が本に集中することを助けてもいるだろう。おなじ部屋にいるけど、お互いに干渉はしない。コワーキングスペースもこういう雰囲気なんだろうか。とはいえ私たちはお互いの名前を知っているし、一昨日は食卓を囲んでお酒も飲んだ。話そうと思えば、きっと楽しくお話できる。話しかけたい気持ちもあるかもしれない。でも読書の邪魔をしては悪いので、そうしない。

勉強堂に向かう途中の総武本線。ある駅で電車が止まったとき、ちょうど自分の左の窓の外、目線よりも高いところに、白黒と猫が座っていた。猫はマンションの窓のふちの、カーテンと窓のあいだにいた。廊下の採光のためにとったあるような小さな窓。猫はじっとしている。たまに下を見たり、正面を見たりしているけど、基本的に、窓の外の景色を楽しんでいるような感じ。いつもそうしているのかもしれない。落ち着きがある。猫と自分のあいだにはふたつの窓があり、その窓と窓の間には外気がある。電車が止まっている1分余りの間、じっと視線を送ってみたけど、猫とは目は合わなかった。人間と人間も、こんな感じなんじゃないかと思った。誰もがそれぞれの家に住んでいて、窓越しに話をしたり、物をおくりあったりしている。他の人からは、その人の家は、窓から見える部分しか見えない。なにかをすぐに出てきてほしいと、人にお願いしたとする。その人はわかった!と言ってからばたばたと家の中に引っ込んでしまう。しばらくまっても、その人は出てこない。なにをそんなに準備することがあるのか、こちらからはわからない。その人の家のなかのことは、その人しかわからない。例えばすぐにでかけようと思ってたけど、反対の窓から、隣の人に話しかけられてしまって、時間をとられているのかもしれない。家の中にはたくさんのものがあり、窓から見える部分は綺麗に掃除され、ほこりひとつ浮いてない家でも、人の目が届かない窓のない部屋のなかは、ゴミと荷物でぐちゃぐちゃだったりする。いくら声をかけても窓を開けてくれないこともある。いつも開いている、めっちゃでかい窓がある家に住んでる人もいるし、廊下に小窓が一つあるだけ、みたいな人もいるかもしれない。私たちは外気で隔絶されている。こちらの窓があいてるときで、かつ向こうのまどもあいているときでないと、話もできない。家と家がすごく近くて、窓ごしにりんごが手渡せるような関係の人もいるし、双眼鏡でやっと見えるような遠くの家もある。

その家はいつもカーテンがしまっている。あかりはついてるから、いることはわかっているのだけど、窓があいているところは見たことがない。

長い文章はそれだけで素晴らしい。特に友人知人が書いたそれは、長いだけでうれしくなってしまう。日高屋のポスターには「冷麺」としか書かれていない。

車を運転していて、左右ではなく上下からの合流がある変なトンネルの出口で激しく追突される夢。自分はいつの間にか運転席から抜け出している。自分の車に近寄ってみると、窓越しに、運転席で頭から血を流して目をつぶっている自分が見える。息はしてるっぽい。なかなかきつい光景だった。僕はこの事故になんらかの意図を感じ、時間を巻き戻して検証してみた。自分は時間が操作できることを知っていた。ある程度時間を巻き戻して、もう一度再生すると同じ事故は起こらなかった。ただし、別の車が別の車に衝突した。何回か繰り返しても、事故は起こるのだが、衝突する車が別だ。そこから、ここで事故が起こることは決まっているのだが、その対象になる車はランダムである、ということがわかった。運命について、これはひとつの発見だなと思ったところで目がさめた。

『ニムロッド』という小説がきっかけで、ビットコインの仕組みを初めて知り、そのスマートさとラディカルさに衝撃を受けた。コイン自体はどこにも存在せず、帳簿だけが所有者のあいだで共有されていることや、自分が持っている帳簿に世界中のコインのやりとりを書き込むことでコインがもらえる仕組み(既存の通貨のように銀行が帳簿を管理するのではなく、みんなで帳簿に書き込むことで、中央集権的ではない通貨を実現している)など、お金というものの本質を考えたくなる、実によくできた仕組みだ。

コットを持ってくればよかった。あれがあれば、本堂の中で横になって休めた。

昨日のよる友人宅で急遽カードゲームをすることになり5人で楽しく深夜1時まで遊んだ結果勉強堂に戻ってきたのが3時前で、朝8時にはもう車内が暑くて目がさめた。曇りだったらもっと寝ていられたがあいにくの快晴で、ごろごろしているうちに刻一刻と車内の温度は上がっていく。ほんとうに秒刻みで上がっていく感覚。後部座席の、網戸にした窓を締めて(窓開けたまま車を走らせると風で網が剥がれてしまう)、ぱっと運転席に移り、エンジンかけてコンビニへ。顔を洗って、朝ごはんのマフィンを買って車に戻りつつ、どうしようかと考える。寝不足なので、鼻の調子が悪い。このまま作業を始めたら大変なことになる。もうすこしやすんだほうがいい。本堂はまだ工事中だけど版築の壁のおかげが、外気温より3度くらい低くて、わりと快適である。休みたいところだけど、床は木くずだらけで物が散乱している。コットを持ってくればよかった。
車に乗るけど、暑くて一分もじっとしていられない。日陰が必要だ。太陽光が、あらゆるところに降り注いでいることを恨めしく思う。まんべんなくあたりすぎだ。車で横になりたいけど、どこもかしこも太陽光が降り注いでいる。文字通り、どこもかしこもだ。安息の場所はない。ただし、車ごと日陰に入れるところが、ひとつだけある。さんぶのもりこうえんの駐車場。何台か、木陰になる駐車スペースがある。行ったらさいわいひとつ木陰スペースがあいてた。車をとめて横になる
太陽光があたるところとあたらないところで、その場に存在することの経験がぜんぜん違う。別の国、別の季節にいるみたいだ。太陽光から逃げられる場所はないかと車を走らせるのは、小説三体で、死の太陽から生き延びる道を探す文明みたいだ。

1時間くらい昼寝できた。今日の作業はもっと陽が傾いてからにしようと決めて、図書館に涼みにいった。空調が効いていて、頑張ってなにかを食べたり飲んだりしなくても居てよい場所というものが、図書館のほかにない。しかし図書館は寒いかった。寒すぎる。人はほとんどにいない。日曜日なのに。クールシェアという言葉を最近よく考える。ぜったいに、空調が効いた部屋は何人かでシェアした方がいいに決まっている。地球のためにも、エネルギー節約のためにも。空調が効いた、テーブルと椅子とソファがあるだけの空間をシェアすればいいだけなのに、そんな簡単なことを、なぜ私たちは実現できないのだろう。共同体が失われたから? なにか食べるか飲むか読むかしないと、空調の効いた部屋にいることは許されない。図書館は何かを読んでないと、居心地が悪い気がしてしまう。なので、横山光輝三国志の2巻を読んだ。劉備たちが地方の警察署長に任命されるあたりのところ。三国志はどうしてこんなに面白いんだろう。それは、登場人物がみんな愛すべきアホばかりだからだ。みんな思い込みが激しくて、どうしようもないところがあって、読んでいると虫籠の昆虫を観察しているような気持ちになる。あっちで喧嘩してるとか、こっちは元気ないな、とか。

ランドロームでお寿司食べて、アーリウスでマンゴーラッシーだけ頼んで机を借りた。アーリウスに初めてパソコンを持ち込んだ。
インド人シェフの青年が「社長、ライトいる?」を天井を指して聞いてくれる。「ああ、いらないいらない」と断ったけど、その言い方が、なんか社長っぽく響いてしまってちょっと後悔した。ビリヤニ頼んでないのに、今日もサラダを「サービス」と言って持ってきてくれた。生野菜食べてないからありがたいような、とはいえ量が多すぎて余計なような・・・
しかし暑い。梅雨はどこにいったんだと思ってたら、梅雨前線は消えてしまったらしい。天気アプリによると32度ある。作業を始めてしまえば気にならなくなるのに、始めるまでが遠い。PC作業をやる。
アーリウスまたしても社長におごってもらってしまった。「だめだよ〜」と言ったのだけどいいからいいからまたお願いしますと、お金を受け取ってもらえなかった。

太陽光すごすぎる。陽が沈むとホッとする。魔神が襲来するみたいに、陽がのぼると一気に地上の気温が上がり、車内の温度は上がり、私はその場所にいられなくなる。もちろん壁もそうなんだが、「屋根」の偉大さを毎秒感じる。人間が、この大地で生きるにあたってその体を死なないようにしておくために立ち上げる、最も根源的なシェルター。

痩せて骸骨みたいになったジャイアンが、月みたいに空から私達をみおろしている。状況はとても深刻そうに見えるが交わされている会話やその場の雰囲気はコミカルで笑いのあるものだった。

時々夢に出てくるバス停がある。ロータリーになってて、左側に高い擁壁がそびえている。それとバス停の間から、次々とバスが道路に出てくる。バス停の後ろにはいつも次のバスが待機している。

朝から昼まで二時間半のオンラインミーティング。ほとんど発言していないのだけど、なんだか疲れた。いつも疲れてしまう。オンライン会議において、自分は発言のハードルをとても高く設定してしまっているらしい。たくさんの議題があるので、普通に思ったことを話してしまうと、議題が消化できなくなるという恐怖がある。話すことで会議が長引くのが面倒だ、と思ってしまっている。オンラインは発話のタイミングが難しい。人の息遣いとかが感じられないから、別の人とバッティングしてしまうことも多い。会議はたくさんあるし、いつもながくなる。なんでこんなにたくさんの会議をしているんだろうと思う。なぞだ。なにかが進んでいるという感じもあんまりない。同じことを昔話したような気がするんだけど…というパターンもある。終わった頃にはぐったりしてしまった。ほとんど発言してないのに。
午後、涼ちゃんと一緒に本郷さんの田んぼの補植の手伝い。捕食というのは、苗の束を携えて田んぼに入り、田植え機が植え損ねたところ(「欠株/けっかぶ」と呼ぶ)に手作業で苗を挿していく作業。歯抜けみたいに抜けているところがたまにあり、まれに10本くらい植えられていない「連続欠株」もある。最初長靴で入った瞬間、ズボッと深くまで入ってしまって焦った。でも、それが普通の状態であることがすぐにわかる。田んぼの柔らかさにびっくりした。足を取られて転ばないように注意しながら、ゆっくり進む。とにかくズボズボ足が入っていく。足がズボッと入り、苗を植え、ズボッと引き抜いて次の一歩を踏み出し、またズボッと入り、またズボッと引き抜いて……の繰り返し。楽しい。作業はとても単調なのだけど、水が張られた田んぼのなかを歩くのは、一歩一歩がまるで違う。私がいま植えた苗は食べ物になる、確実に、この作業には意義があるということがわかっているので、オンライン会議とはまるで違うやりがいがある。やらないほうがいいんじゃないかとか、やったほうがいいかわからないことのほうが多い日常のなかで、これは数少ない、やったほうがいいと断言できる作業である。そのことが元気をくれる。一枚終えて、休憩。ピクニックシートを広げておいしい草餅と、ふきと瓜の漬物を食べてお茶を飲んで、2枚目へ。2枚目の方が大きい。今度は長靴を脱いで、みんな裸足になった。裸足で田んぼに入る。水口(みなくち/田んぼに水を入れるポイントのこと)のあたりは冷たいけど、基本的に田んぼの水は暖かくて気持ちがいい。足がズボッと田んぼの中に沈み、やがて石っぽいところを足裏が感知して、沈み込まなくなる。そこに体重を預けて、2歩目を踏み出す。一歩目の足裏が、ちょっと痛い。この痛さがきもちいい。足裏が、ものすごく敏感になる。触れている石の硬さや大きさ、とんがり具合がよくわかる。自分の足って、こんなにいろいろわかるんだ、ということが新鮮。泥の表面は暖かいけど、沈み込んだところはちょっと冷たい。裸足だと、自然に歩き方がわかる。長靴ではわからなかった。つま先から着地することが、自然にできる。田んぼにはアメンボ、おたまじゃくし、おたまじゃくしの卵、ヤゴなどいろんな生き物がいて、苗を植えるたびにそれが目に入る。細くて小さくて赤茶色のヒルがくねくね泳いでるのも見かけた。僕は(たぶん)噛まれなかったけど、たまに噛まれるという。「ぜんぜん痛くないんだけどね、気持ち悪いよね」と本郷さんが言ってた。風が水面に波を作り、そこから緑色の苗が産毛みたいに整然と生えている。目を上げれば木崎湖と、山がある。遠くには、別の田んぼで同じ作業をしている山本さんたちがいる。なんて、ぜいたくな時間なんだと思う。転ばないように必死になって歩き、体は疲れているはずなのに、心がどんどん元気になっていく。サラリーマンを辞めて田んぼを始めるひとの気持ちがわかったような気がした。夕方には2枚目を終えて、またピクニックシートで休憩して、僕たちは家に帰った。温泉に行った。高瀬館。何度も来ているけど、この温泉のすごさを僕は知らなかった、と思った。露天風呂から出たくない、と思った。いつも、どんな温泉にいっても割と早く出てしまうので、こんなことは初めてだった。世の中のほとんどの人は、「温泉」を知らないとさえ思った。あなたが温泉だと思っているものは、温泉ではないかもしれない。さっきまで田植えをしていたから、源泉掛け流しの温泉につかる体験と、田んぼでの体験が重なる。どちらも、水が循環し続ける川に体を浸している感覚。何本もあるパイプからどぼどぼ温泉が出てきて、水面で鳴らす音の、なんと心地よいことか。りょうちゃんが帰りの車で、人間は海から陸に進出したけど、そのときに体の中に海をたくわえたんじゃないか、と言っていた。人間の7割は水分だとかいうけど、それは海から出てくる時に体のなかに残した海なんじゃないかと。だから、水に浸かるのは気持ちがよいのだ。特に、溜まっている水ではなく、流れ続けているそれに。大崎清夏さんの『湖まで』を思い出した。体のなかみ湖がある、という話。その湖は海であり、温泉であり、本郷さんの田んぼだった。

私たちは未来のことをすでに知っているかもしれない。たとえば「直感」は未来のことを知っているからやってくるのかもしれない。こっちのほうにいけばいい結果になるということを知っているから、曲がり角を曲がることができるのかもしれない。わたしたちはすでに過去のことを思い出すのと同じように、未来のことを思い出しているのかもしれない。ただ、そうと知らないだけで。思い出せるの過去のことだけだということは知っていて、未来のことは見えないと知っているから、思い出す内容は全て過去のことだと思いこんでいるのかもしれない。

この数日で、自分なりの文章の書き方というものの尻尾が見えた気がする。
最初は雑多なアイデアの書き散らしでいい。関係なさそうなことでも一緒に書いてしまっていい。
そこからちょっと気を取り直して、書き進めてみる、やっているうちに潜っていける。これが第二段階。ここまでは、まえからやっていた。ただし雑多なアイデアを無理やりつなげようとしていたところがある。
つかみかけてきたのは、思い切って削ること、書いたものを手放す勇気を持つこと。他人みたいに、自分の文を読むこと。ドライになること。
うまくいけば、ぐっと視界がひらける。思いがけない言い回しが出てきたりする。

友人の展覧会を見に、お花茶屋公園のバス停から京成バスに乗り込んだ。整理券をとり、亀有に向かった。バスの中で知らないおばあちゃんに「ここに行き先を書いてね」と紙を渡されたが、僕は大丈夫です、と断った。

バスは亀有に着いた。降りようとドアに向かっていったら、どうも精算機が壊れているらしく、乗客がもっている整理券を運転手が自分の手で集めていた。僕は整理券を渡し、運賃はいくらか聞いた。運転手は他のお客さんの対応で忙しく、僕の質問には気が付かない様子だった。僕が渡した整理券は、運転手の手の中で他の人の整理券に混ざり、わからなくなっていった、ところが見えた。

やがて乗客は全員降りた。僕の運賃はわからないままだった。運転手に聞いてもはぐらかされてしまい、バスは車庫に入れられてしまった。僕は運賃を支払いたい一心で運転手について事務所まで行き、「いくら払えばいいのですか? お花茶屋から亀有です」という質問を浴びせかけた。運転手はようやく観念した様子で計算をはじめたので、僕は外で待っていた。待っていたら、バス会社の別の人が二人近づいてきて、僕の話を聞き、なぜか同情してくれた。いくら待っても運転手が出てこないので、僕は事務所に入っていった。運転手は奥の部屋で机に向かっていた。奥の部屋から別の人が出てきて、

「料金が出ました! 19500円です」

と言われた。僕は困惑してしまった。

「え? そんなにかかるんですか? お花茶屋から亀有ですよ」

その人は「はあ……」という感じで引っ込んでいった。どうも、僕がどこでバスに乗ったのかわからなくなっているらしい。

奥の部屋で話を聞いてみると、あなたは1万5000年前にバスに乗車したので、そこからきちんと計算して、19500円という数字を出したのだ、と言われた。

いや、自分はついさっきお花茶屋公園から乗ったので、せいぜい200円とか300円だと思いますけど、と説明したのだが、どうも信じてもらえない。整理券をなくされたせいで、ものすごく面倒なことになっている。

不毛な問答を繰り返しているうちに、時間はどんどん過ぎていった。たぶん、バスを降りてからもう2時間は経っている。僕は必死で訴え続けたが、しかし社員たちからは、どうも僕の意見をちゃんと汲み取り、対応しようという意志が感じられない。内心は、なんかめんどくさい人だなあ、くらいの心境なんだろうなということが透けて見える。「お金なんていらないから、さっさと出ていってくれ」と思っているであろうことが、手に取るようにわかる。試しに

「なんですか? 僕、お金払わなくてもいいですか?」

と言ってみたら、近くにいた人が待ってましたと言わんばかりにうなずき、「場合によっては、それでもかまわないのです」と苦笑した。

壁の時計が16時を回ったころ、後ろから管理職っぽいおじさんが

「いま路線図を見てるんですけど、小田原というバス停はありません。いったいどうやって乗ってきたんですか?」

と聞いてきた。「いや、小田原じゃなくてお花茶屋です。すぐそこです。そこに実家があるんです」と答えたら「ああ、なるほど」と納得していた。

「なんかめんどくさい客みたいになってますけど、僕はね、ただちゃんとお金を払いたいだけなんですよ。500円なのか1000円なのか知らないけど・・・」

と僕が訴えると、おじさんは路線図を見ながら

「お花茶屋から、なぜ逆方向にきたんですか? つまり、都心方面ではなくて、こちらのほうに。……逃げたんですか?」

と、失礼なことを言ってきた。僕のことを犯罪者かなにかではないかと疑っている。僕は呆れてしまって、友人の展覧会に行こうとしていたことや、他にも用事があったことを、イライラしながら説明した。いつのまにか友人のさっちゃんが隣にいて、にこにこしながら「そうなんです! そうなんです」と僕の話に相槌を打ってくれていた。

おじさんはうなずき、「これは私が払っておきます」と言って、おもむろに財布から紙幣を何枚か取り出した。さっちゃんが「村上さんのお金も多少入ってたほうがいいから」と、僕の手元の500円玉をおじさんに渡した。

おじさんはその500円も一緒に、運転手にお金を渡した。運転手は嬉しそうに1000円札の枚数を数えていき、5000円札が現れたときは「ウホッ」と声を漏らしていた。全部で9000円くらいはあった。

運転手は「ありがとうございます、これは、納得せざるを得ませんねえ」と、さっきまではお金なんてどうでもいいからはやく出ていってくれという態度をとっていた人間とは思えないようなセリフを吐いた。僕は納得できなかったが、これ以上騒いだらおじさんやさっちゃんのメンツを潰すことになるし、なによりもううんざりしていたので、出て行った、という夢。

車中泊をしていたら雨の音で目が覚めて、リュックから耳栓を取り出し、耳にはめて、また眠る、という夢。雨の音で目が覚めて、耳栓をしてなくて混乱した。夢と同じように耳栓をして、また横になった。

大学のような施設の廊下で、色々な人にとってもおいしいぶどうのゼリーをあげている。最後くどうれいんさんにあげようとしたら、「ぶどうの絵がないね」と言われた。紙にぶどうの絵を描いてたら小学生くらいの男の子がいたずらっぽく話しかけてきて邪魔だった、という夢。

原田裕規さんとAokidと知らない女性2人と僕で、誰かの家に泊まっている。広い畳の部屋でみんなで寝るということになり、おうちの人が3組の布団(一人用の布団が二組、二人用と思しき、人形の凹みがふたつついている不思議な布団が一組)を準備してくれていたのだけど、なぜかその隣に新しく4組の布団を敷くことになった。普通の敷布団が見当たらず、長座布団みたいな小さな布団を4つ並べていた。部屋はめっちゃ広いのに、布団はぴったりくっつけて並べられており、僕はそれがちょっと嫌だった。また長座布団は1枚だと厚みが足りないと判断されたのか、すべて2枚重ねになっていて、寝にくそうだった。Aokidが、「こんな感じでいいかな」と僕に聞いてきた、という夢。

例えば作りすぎて食べきれなかった料理を隣の人にわけたい時に使う「食べてもらえますか」という言葉を「食べて」と「もらう」にわけたとして、料理を差し出すのは私(こちら側)なのに、なぜ「もらう」という、受け取ることを意味する動詞がくっついてくるのか、という疑問が浮かぶ。「もらう」だけじゃなくて「食べていただく」も「食べてくれ」も同じように、受け取り手と渡し手が逆転している。一文の中に往復運動が含まれている。もしかしてこれは、「受け取る」ということがギフトであるというニュアンスが、原理的に含まれているのではないか? なんて素敵なんだろう! と熱くなったけど、これらの言葉は「食べてほしい」の変化系だということに気がついてから、そんなに熱い現象ではないことがわかってしまった。要するに「(食べることを)して"ほしい"」という要望がいろいろな言葉に置き換わっているだけだった。