「サブジェクト」から「プロジェクト」への、物が線から点になった話。点になり、他と絶えず関係し続けるものになり、自我とか心とか精神とかそういうものは存在しない。あるのは「運動」「機能」「設計図」だけだという話は、お金そのものに価値を見出すことへの違和感と同じ。わかりやすくいうと、「リア充」とか「本当の自分」とかに代表される「確固たる自分」とか「自我」とか「精神」というものがあるという錯覚は、お金それ自体に価値があるという錯覚によく似ている。お金は本来何かと交換されるときにしか存在しない。お金という物が「確固たる存在として存在している」ことは錯覚だ。そういう意味で、お金という存在に関してだけは、僕たちは「ポストモダン」になれていない。

最近ガストや吉野家やワタミなどのチェーン店でご飯を食べたり酒を飲んだりしていると、なんかしらないけど死にそうになる現象が時々起こるようになった。「エサ」を与えられている感覚に我慢できないというか、何食ってんのかわからなくなるというか。思うにこういうチェーン店は広告によって集客を可能にしている。

これまでの思考を踏まえて、僕が立てる仮説は「広告は人の”知らなさ”につけこむ」ということだ。”顔のみえる経済圏”を持ち、そのなかで生きているうちは”広告的なもの”は効果を持たない。でも都市化が進むと”顔の見える経済圏”を持つことが困難になり、みんな何を食べたり買ったり、もっと言うとどう生きればいいのかすらわからなくなるので、そこに”広告”がつけこみ、色々な購買意欲を掻き立てたり、なにか(スポーツとか)に熱狂させたりする。ここには「主体的な消費者」は存在しない。

今朝、「広告看板の家」の敷地を貸してくれる予定の土地のオーナーに久々に会って話してきた。彼は不動産業を営んでおり、「お金を増やすだけのための土地のやりとり」ではない不動産屋像を考えてきた人。まさに先日も書いた「貨幣術」ではなく「家政術」としての「economy」の話のど真ん中をいく人だと思ったので、その話をしようと思って訪ねた。

「不動産屋での土地のやりとりは、お金や、まして食べ物をやりとりすることではなく、ただ書類をやりとりするだけでお金が右から左にながれていく。これはちょっとおかしいと思う」と言っていた。気違い沙汰だ。お金をうむための土地のやりとりなんて一番やってはいけないことだと思う。

「みんな”土地が食える”と思い込んでいる。”土地で耕すもの”が食えるだけなのに」

とも言っていた。これは面白い。

「広告収入で得たお金で買った野菜を、広告看板の中で売る」

ということもやってみてもいいかもしれない。

とにかく、全員でどんどんスピードが速くなるランニングマシーン乗っている状態で、そこから転んだり倒れたりした人は過労死として扱われるような状態だ。

でも「からだ」はとても強いものだと思う。例の広告代理店で人が過労で自殺してしまったのは痛ましい事件だったけど、その一人の「からだ」の露出が、あの広告代理店の「神話」を解体したと思う。件の代理店は、その後過労問題が次々に表面化し、すでに以前の威厳はなくなった。神話が崩壊した。「小さな一人のからだ」の力によって。法律上の「居住権」という考え方もそうだと思う。人が住んでしまっている以上、それが他人の土地であろうと立ち退きを迫るのはとても難しい。それだけ「一人のからだ」は強い。なぜなら、もともとはそのために設計された経済というシステムだったはずだから。

「100円で土地の貸し借りをしよう」という話も盛り上がった。僕は彼に100円を払って土地を使わせてもらう。分厚い、ガッチリした契約書を作り、「貨幣としては100円だが、それに付随するものが無数にある。ーと、ーと、ーと、、」という風にたくさん項目を書いた契約書を結ぶ。

僕が彼に”無料で”土地を借りるとなんか納得できないが、100円でもいいから貨幣のやりとりがあるとなんか納得できちゃう人達がいるらしい。

◯今回の二度目の訪問での世田谷線内の乗客数

・雨降りの10時9分発下高井戸方面行き。松陰神社到着時点で三十六人乗っていた。

・11時47分発の下高井戸行き。松陰神社前駅出発時点で53名乗っていた。

いま松本で住んでいる県営住宅の清掃当番が3ヶ月に1回まわってくるのだけど、それが今日の朝7時からだったのが昨日の遅くまでawai art centerでの成澤果穂展の打ち上げで遅くまで人と話していた+家に帰ってから奈保子とすこしでもゆっくり話そうとしたために寝るのが2時過ぎてしまい、これまでの疲れもあって今朝は全然起きれなかった。この県営住宅は掃除当番に参加できないと不足金3000円を払う決まりになっている。同じ建物に住んでいる人たちと時間をつくって交流する貴重な時間でもあるので僕もできれば行きたかったが今日はどうしても疲れていて起きれなかった。次はまた3ヶ月後だ。あちこち動き回りつつも、想像の根を土地におろしてちゃんと地に足をつけたいと思っているのだけどなかなか難しい。移動しながらブルーベリーを育てたり、農業を手伝いながら移動したり。少しずつ練習していきたい。さっきは家賃を振り込んできた。

一昨日松本に帰って来て、奈保子が1日遅れの誕生日パーティーを開いてくれた。僕の体も時間も有限だ。10月の誠光社出で行う展示物作りもやらないとなのだけど、最近日記も全然書けていない。こういう整理をしたり、掃除当番とか家賃の振込とか生活の呪縛から自分を解放して抽象的な思考ができるようになるために、旅行や旅つまり移動と滞在がどんな人にも必要なんだろう。だからソローは森と街を行き来したのだと思う。彼は森の中にすみつつ、洗濯物は街の人にお願いして生活していた。つまりソローは「家を営む」ものとしての経済活動を実践していた。

先日の今福龍太さんとのトークイベントはものすごく刺激的な時間だったのだけど、economyという言葉のルーツはギリシャ語の「オイコス」+「ノモス」であり、オイコスは「家政」つまり”家”を営むことで、ノモスは「規範」。つまり経済はもともと「家政術」をさしていて、「貨幣術」ではなかった。経済がお金だけを扱うものをさすようになってしまってから、お金をただ無限に増やすためだけのゲームははじまってしまった。「労働」でも「スポーツ」の分野でも。もっというとアリストテレスは経済を「家政術」と「貨幣術」に分けて考えており、後者のほうは「資本を無限に肥やし続けたい」という、終わりのない欲望にとってかわられてしまうので「貨幣術」としての「経済」を否定し、「オイコスノモス」つまり家政術としての経済こそが真の経済だと言っていた。2300年も前に。

ますます「広告看板の家」を実現させなくてはいけない。「移住を生活する」は生活を俯瞰するプロジェクトだが「広告看板の家」は資本主義の中に体ごと飛び込んでいき、力技で「貨幣術」を「家政術」に変換していくプロセスを見せるプロジェクトだ。

また「人と共同すること」についても色々な発見をした。最初から人を巻き込んでやろうとするのではなく、なんらかの真似したくなる動き(それは清掃員村上3のダンスのようなその場でのものでもいいし、プロジェクトでもいい)を動くことから始めるべきだ。清掃員村上3では、労働の喜びを体現することから、路上で子供が僕の動きを「真似」することが起こった。そしてそこから人を巻き込みながらの”運動”が始まる。スポーツのルーツもそういうものだったんじゃないか。

その他ホイジンガーの「ホモ・ルーデンス」の話、「電通(を代表とする広告代理店の使命)」は僕たちの分身(ある部分が極端に肥大化した分身だ)であるという話、ボードリヤールの「消費社会の神話と構造」の話、ジャック・アタリのサッカーの話、さらに面白かったのは「学校・病院・刑務所」は3者それぞれ違う役割を持っているが、構造は全く同じであり、そこで共通している最も重要なものは「食事」であるという話はすごく刺激的だ。そこで提供される食事は、「オイコス」としての食事とは真逆のものとして存在している。命を繋ぐためのエネルギー源として人の口に供給されるもの。「吉野家」とかで感じるあの感じだ。吉野家で感じるあの感じは、この一連の話のど真ん中のターゲットになると思う。

またこれはささやかな話だが「アレ」と「ソレ」という言葉についての発見もした。人との会話の中で何かを思い出しながら「アレ」という言葉をつかうとき、僕は過去に何らかの「画像」を見ていて、それを思い出しながら「アレ」と発話している可能性が高く、おなじく何かを思い出しながらも「ソレ」という言葉を使うときは、文字や言葉の情報だけで伝え聞いているものを漠然と想像しながら「ソレ」と発話している可能性が高い。たぶん「アレ」は画像的で「ソレ」は言語的なイメージ喚起力を持っている。

国立化学博物館の深海展に行ってきた。「もっと深く」というキャッチコピーが印刷された素敵なチラシに惹かれて行ったのだけど、とても良かった、というか感動した。3.11の震源域の海底の断層調査のことが展示されていると聞いたので、目的は深海生物というよりそっちだったのだけど、深海生物に関する展示も良かった。博物館的な、パネルと映像がメインの展示なので、モノを見るというよりも文字を追っていくという作業だったのだけど、普通に読み進みつつ、映像をもみつつ展示を進んでいくと、深海調査への人間のモチベーションを感じて、グッとこみあげてくるものがあった。(博物館はいつからああいうパネル展示のような形態になっていったのか、別の意味で気になるけどそれは置いとく)。

なんと地球の表面積の7割は深海にあたるらしい。表面積の7割が深海っていう言い方はよくわからないけど言いたいことはわかる。

最初にびっくりしたのは深海の発光生物について、そもそも発光に必要な物質をつくるためのセレンテラジンというモノを合成する生き物が深海で見つかっておらず、みんなどうやってセレンテラジンを手に入れてるのか謎だったが、近年カイアシ類と呼ばれる、ミジンコみたいな小さな生物がそれを合成できることがわかり、カイアシ類はオキアミなどと同じく食物連鎖の最も下の方にいる生物なのでそれを食べることによる連鎖のなかでセレンテレラジンが深海生物に広まったと考えられる、というくだり。命は他者でできているということを象徴するような事実だ。「食べる」「食べられる」という関係の境界線が溶ける。それは上下のものじゃなくて、生物全体で命をリレーしている。発行する理由も、ある種のクラゲは敵に襲われそうになった時に発光することによって「敵の敵(でかいサメとか)」を呼び寄せ、その敵を食べてもらうというために発光している可能性が高いとか、ホタルイカなどはカウンターイルミネーション(水面近くにいる自分の影を、海の中にいる敵から発見されないよう、光ることによって月明かりに溶け込む)として発光している。闇ではなく光に溶け込むことで身を守る。しかもそのカウンターイルミネーションを見破る特殊な目をもったデメニギスや、わずかな光を捉えるために巨大化した目を持ち、頭上をずっと伺っているアウルフィッシュという魚もいる。アウルフィッシュのあの切実そうな目。

3.11の地殻変動や断層の調査もすごい、震源近くの北米プレートが太平洋プレートとの境界である日本海溝近くで水平方向に最大50m、上下方向に最大10mも地盤が動いた。それによって発生した亀裂の映像や、JFASTと呼ばれる気の遠くなるようなプロジェクト(直径20センチくらいの細長いドリルパイプをつかって水深7000mまで地盤を堀り、地層を調査し、地震の断層の実物を採取し、地盤が滑ったことによって生まれたはずの摩擦熱を調査する。しかもこの摩擦熱が消える前に掘らないといけない。)も素晴らしかった。会場には大変な苦労の末、見つけられたその実物が展示されていた。それはなんとかタインという、「ファンデーションにも使われる、保湿性に優れた細かい粘土」でできている。あの巨大地震を引き起こした地層が「保湿性に優れている」という事実は、世界が歪むようだ。摩擦係数は約0.1だったらしい。ほかにもDeep NINJAという、海を定期的に浮き沈みして自動的に海洋データを送信するロボット(一人で広い海を浮き沈みしているロボット。ぐっとくる)や、海底の細かい揺れを検知してデータを送信し続ける仕組みなどは、いまこの瞬間もずっと動いている。また現在海の温暖化と酸性化が進んでおり、酸性化が進むと海のある種の生き物は骨阻喪症のような状態になり、それがどれほど生態系に影響を与えるかわかっていない。その他、その他。。

夕書房の高松さんとNHKの加藤さんと広告看板の家について話した際、NHKも福音館書店も広告を出していないことで共通しており、スポンサーがいるテレビ局がスポンサーに不利になるような番組がつくれないような事態は起こりにくいが、僕が広告料をもらって広告看板に住むということは、そのスポンサーに対して不利な言動などができなくなるんじゃないかという話になった。今までは気がつかなかった視点だ。しかしこのプロジェクトは要するに僕自身が広告主のメッセージとなって(有名なスポーツ選手が特定のメーカのユニフォームを着たり広告に出ることによってお金をもらっているように)生活するということにもなりうるので、僕が広告主に気を使う言動をしはじめることは十分に考えられる。広告を背負って生活するということが僕自身の思想や生活態度にどのような影響を与えるのか、僕自身では測りにくいところがありそうだ。この辺は誰か他人に見てもらわないといけない。

また、土地代はどうするのかという話にもなった。生活費は広告料で賄うが、土地は「厚意でお借りしている」と言ってしまってはなんかつまらないことを言われてしまいそうだと言われた。ならば例えば、土地の持ち主に毎月100円払って土地を借りる契約を結べばいいのか。それなら人は納得するのか。金額の大小に関わらず、「お金のやりとりをしている」という事実があればなにかが腑に落ちてしまうというところがある。不思議だ。この経済感覚は果たして正しいものなのか?

またアートイートでの個展「労働をつかむ」の会場で、エクリの須山さんとは土地の消防法などをどうクリアするかという話になった。これはまだリサーチが足りないけど、なんらかの抜け道はあると思う。土地の持ち主を交えて、その辺の事情が詳しい弁護士とかを見つけて相談したい。

岡田利規サンと池澤サンと小一時間飲んできた。岡田さんに会うの緊張した。彼は目が時々ヤバい。しかし清掃員のダンスの話ができてよかった。コンテンポラリーダンスを間近で見ていた経験から、舞台上で「体」を使う表現としての演劇を考え始めたという話は面白かった。しかし緊張した・・。

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ソーラーパネルが撤去され、僕が三週間ほど暮らした敷地はもとの更地に戻った。

今夜から4泊、東横インに泊まれる。美術館が手配してくれた。搬入日から、トークイベントがある9月1日までの宿泊費なら出せるということらしい。

最初にフロントで、これから4泊分それぞれについて部屋の清掃は必要か聞かれた。

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この敷地で滞在するのも今日まで。家にかけていた屋根とドローイング用の台を分解し、家は美術館に移動させた。ソーラーパネルはまた後日撤去される。

今回の熊本での「夏休みアトリエ菜園計画」はとても面白いプロジェクトになった。多分ソーラーパネルで電気を得たことがとても大きい。都市の中にありつつも、独立したインフラを持ちながらドローイングで街を観察したり、ブルーベリーを育てたりした。自分の家が独立したインフラをもって都市のなかにあるという状態はとても刺激的だ。

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ブルーベリー

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写真だと全くわからないが、小さなアリが増えてきた。家の中にも数匹侵入していた。僕の家にとってアリは大変厄介な生き物だ。今後も観察を続ける。

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庭の植物たち。

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今夜は無理だ。蒸し暑すぎる。眠れない。しかも明け方にものすごい雷雨が襲ってきた。激しい雨が降るとこの敷地は水たまりだらけになる。家を置いてあるところは水たまりができにくいけど、この雨だと水没も時間の問題かもしれない。雷もすごいのでたまらず家から商店街のアーケードに避難した。

いつの間にかシャワーは朝するのが日課になっている。夜の間に汗びっしょりになる。シャワーは美術館の給湯器が壊れて水しか出ないシャワーか、近くのPOPEYEというネットカフェか、これも近くにある大福湯という銭湯を使う。大福湯は良い銭湯だった。新顔でも萎縮せず入れるけどほどよいコミュニティ感もある。浴室にはサウナもあるし、薬湯もある。

敷地の目の前には地獄温泉という銭湯があって、今は経営していないけど併設されたコインランドリーは使える。便利な立地だ。

今日はドローイングの他に「敷地図」を書こうと思う。

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裏から見た隣のビルがとても良い感じだ。この愛おしさどこから来るのか。「ビル裏」という写真集として出版したい。

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ソーラーパネルと家の間に物干し竿もつけた。

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外は相変わらず容赦ない日差しと暑さだが、ブルーシートで三角屋根を作ったこの家の中は、それなりに過ごせるくらいの気温にはなっている。たぶん僕が熊本に来た時より湿度がさがってきている。秋が近づいている。防炎シートに描くドローイングに詰まっていたが、もう考えないようにする。なんだかんだ展示まで一週間、もうやるしかない。外は暑すぎるので、日中は無理に描かないようにしよう。美術館のキッズファクトリーという大きな部屋が使える25日まで待ち、それまでは手元でかける小さなドローイングを進めよう。こっちに来てから汽水社で本を8冊くらい買った。本をこうやって買えるのも、ながいあいだ家を置ける敷地があるからだ。

例のペーパークラフトが届き、150部のそれを商品にするために二つに折って透明なスリーブにひたすらいれていくという作業を池澤さんとやっていたときのこと。こういう内職系の頭を使わずにひたすらやる作業こそが「労働」なんじゃないかという話になった。

なぜこういう作業こそが「労働」だと思うのか。今福龍太さんの「スポーツの汀」という本のなかで、巨大な未知の海と、僕たちが住む陸地との間にある汀で体を使って行われるのが「サーフィン」であり、それを巨大な情報の海と、既知の世界との汀で行われる「ネットサーフィン」という言葉で表したのは見事だと書かれていた。

そこで思うに「労働」とは、巨大な海としての「資本主義社会」と、陸地としての僕たち一人一人の「生活」との汀で行われるサーフィンのようなものだ。資本主義社会は巨大で底の知れない海だけど、それに対する僕たちは、どうがんばっても一人分の大きさの体しかもっていない。なので、僕たちにできることは、その海と陸との汀で起こる「波」をひとつひとつ乗りこなしていくことしかできない。これは目の前にある印刷物を一つ一つ袋にしまっていく行為や、あるいはパチンコ台を一台ずつ掃除する清掃員の振る舞いのようなものだ。巨大さを目の前にしたときに、僕たちはちっぽけな存在でしかないことを認識すること。それが労働の本質ではないかと思う。巨大さを相手にする時の一個一個の地道な振る舞いは、ときに滑稽な動きになる。それはすばやく袋詰めする作業だったり、すこし異様な動作で素早くパチンコ台を拭いていくベテラン清掃員の動きだったり、あるいは自分の体よりも大きな大量の野菜や日用品を背負って電車に乗り込む行商の姿だったりする。

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DSC_0435(iphoneから転送8月20日18時37分撮影)

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