もう残り1日になってしまいましたが東京都台東区で行われている「吉原芸術大サービス」に参加しています。
「移住を生活するからだ」というタイトルで展示しています。コーヒーをだしたりもしています。よろしくお願いします。

2015年第3回「吉原芸術大サービス G.W.〜ゲイジュツ・ワッショイ〜」
会期:2015年5月4日(祝月)~6日(祝水) 3日間
会場:東京都台東区千束3・4丁目周辺

http://yoshiwaraart.iiyudana.net

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吉原芸術大サービスの岸井大輔さんの「吉原の起源」という作品。地味に見えるけど、実はすごく狂ったことをやっていて、それでいてど真ん中ストレートなことをやっている。吉原神社のなかで「吉原御免状」という本をひたすら回し読みして奉納するというもの。観客はみんな奉納する側になって、神様が客になる。蛇の死体問題に通じる。蛇の死体を見つけた時に、「大いなるもの」に報告しないといけない気がするという問題。大いなるものを積極的に設定しないとまずいという気持ち。

北川貴好さんに誘われて参加した「みっけるフェス2012in台東区」で発表した「雷門」という映像作品をアップロードしました。個展と一緒に観ると面白いと思います。

雷門 from satoshi on Vimeo.

展示物としてのからだがそこにあって、そのからだから話をきく場所。そのからだに自分の話をするという場所。

大事なことに気がついたので、個展のタイトルを変えます!

とにかくそわそわしていた。そわそわで気が狂いそうになった。そわそわの原因を考えていくと、自分の生活そのものに対する目を新鮮に持ち続けないといけないという必要性に迫られた。そのために生活そのものを制作しようと思った。なぜなら原発事故によって、僕たちがつくりだした放射能というものがどういうものなのかがすこし分かったから。彼らは10万年を生きる。僕たちはせいぜい100年程度しか生きられないし、とても飽きっぽくて、現状に慣れるようにできていて、昔の事をすぐに忘れてしまう。そんな僕たちよりも遥かに長い時間を生きる敵をつくりだしてしまっている。そして制御できなかった。原発事故によって、放射能という生き物との永遠に近い戦いが、すでに始まっていたということに気づかされた。彼らにどう対抗しうるか。このような事態にあっても可能なことは何かを考えたとき、自分の生活を制作するという態度しかなかった。
それによって、自分の日々のあらゆる振る舞いは「これは作られた生活である」という、上空からの視点を獲得する。だらしなくのびていくアメーバのような僕たちの生活に輪郭ができる。

「歴史の動脈」を通ってない表現たちは低音が鳴ってない音楽みたい。ヘッドホンからの音漏れみたい。そんなへぼいシャカシャカ音で、皆が楽しそうに踊ってるように見える。非常に不気味。低音が鳴ってないと僕は踊れない。

京成線に乗ったら、行商のおばちゃんが一般の客と混ざって何人か乗っていた。行商のおばちゃんは、専用車に乗るイメージがあるので、不思議に思って調べたら、京成電鉄の行商専用車は去年廃止されていた。利用者が減ったかららしい。
関東大震災による物資不足や不況よる家計圧迫など、それぞれに色々理由はあったんだろうけど、千葉でとれた新鮮な野菜を、その収穫者が直接都心に売りに行くっていう戦前からの素敵なムーブメントだった。
野菜などが入ったたくさんの荷物を車輪のついた道具等を一切使わずに、全てその身に抱えて徒歩で移動し、一般の電車に乗る。生産と流通と販売をすべて一人でやっているたくましい人たち。農家のおばちゃんが自分の野菜をトラックに積んで、都心のスーパーに搬入して、そのスーパーのレジもやるようなもの。かなりロックンロールだと思う。

展示用に過去の写真を整理しながら日記をちらちら読み返していた。どうも内省的なことを書かないとダメだと強く思い込んでいたのがわかる。今度はもっと、行った先々で聞いた会話を採集するような気持ちでまわってみたい。それを素直な風景の描写と一緒に記録していきたい。どんどんたいらになっていくこの世界の中でも、まだまだ情報や知恵は、各地の村や町に、まだらになってある。あるいは津波でなんもなくなってしまった町もあって、各々の土地に住む人が知恵や工夫を絞りながら、複雑な人間関係のなかで生活している。それをもっと聞いていきたい。市井の知性を聞き取りながら、自らも生活を営んでいきたい。常一と折口を飼う。

昨日の夜、京都から東京の実家へ家を動かした。軽トラックを借りて、奈保子がずっと運転してくれた。

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今日からとうぶんは、展示の準備や、本の出版のために手や足を動かしたりという日々にする。出版社が全然みつからない。なんだか焦っている。はやく形にしたい。

 
京都での滞在がきっかけになって、すこし意識が変わった。僕は宮本常一をもっと具体的に自分の中に召還する必要がある。PARASOPHIA的なモノを自分の中に飼い、それをもっと押し進める。この世界にバラバラに点在している市井の知性や、交わらない問題意識をなに1つとりこぼさないように統一して、なに1つ取りこぼさないように自分の身体に内面化して、語ること。人からの話を、自分の経験として語る。そのためには民族学的な視点の持ち方が重要になると思う。原広司のような態度も。より具体的な問題意識をもち、なるべく「例え」で語ること。それらを実践するためには外への目が必要になるけど、それは「内への目の反転」としてのものでないといけない。内への目を反転して外への目にする。内省を反転して社会へのアクションにする。

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今日までのこと。3月1日、神戸にいる僕と家を京都に運ぶため、椿昇さんが直々にトラックをだしてくれた。そのトラックのなかで椿さんと1時間半くらい話した。椿さんはISのことや、ロシアの政治家が暗殺されたことなどの問題を、ごく自然に自分のことのように話題にまぜて話をする。ぼくはそれがなかなかできない。試しに
「椿さんは国際的な問題を自分に引き寄せて考えてるじゃないですか。それってどうやってるんですか」
って聞いてみたら
「それは、昔から世界史オタクだったからやな。あと時代がそういう時代やったからな。いまの若い人が興味をもつものと同じように、赤軍派とかにいれこんでたからな」
というような事を言ってた。椿さんいわく、まず世代の違いがあるということらしい。椿さんの若いころは全共闘の時代で、まわりはみんな毛沢東を読みまくっていたような空気だったらしい。
京都に着いてからは、経済人の八木さんという人が全面的に協力してくれて、彼がオーナーのマンションの駐車場に家を置かせてもらい、僕はマンションの空き部屋に泊まらせてもらっている。
1日から4日までの間、八木さんやアルトテックの柳生さんに連れられて京都の経済人や文化人の方々と顔を合わせて絵を描く仕事をもらったり、「体調が悪い」ということを心配されてご飯を食べさせてもらったり、初めて見るような栄養ドリンクを70本くらいもらったり、良い鍼灸院の先生のところに連れていってもらったり、その先生からはお灸を180回分くらいもらったりしていた。とにかく椿さんや彼が率いるアルトテックの柳生さんと、京都経済同友会の信頼関係がすばらしくて、そのおかげで僕も八木さんや京都の経済人たちと面識をもつことができて、栄養ドリンクを大量にもらったり部屋を貸してもらえたりできている。僕は僕の仕事をとにかく誠実にやること。それだけが課されている。

そのあいだ体調は現状維持を保っていたんだけど、4日の夜に突然、何かにアタったような猛烈な吐き気に襲われて目が覚めて、トイレに這っていって便器に顔を出したんだけど吐ける感じではなかったので、便器に座り込んでうんうんとうなっていた。この時は本当にしんどくて、救急車を呼ぼうかとも思った。でも座ってしばらくしたら水のような下痢がでてきてそれからすこしおさまった。そのあと寝たけどまた1時間半後に吐き気で目が覚めてまた便器に倒れ込んだ。そうして戦っているうちに、朝になって東京から奈保子がきてくれて、アクエリアスなどを買ってきてくれた。一人から二人になるだけで全然違う。そして病院に行くことをすすめられた。僕は5日の夕方から行われる経済同友会主催のパネルディスカッションのパネリストとして呼ばれていて、それまでずっと寝込んでた。ディスカッションにはどうにか出席できた。不思議なことに、こういう場に出ると精神が肉体を凌駕してくれる。まだ話足りないなあというところで時間切れになってしまって、僕はその後の懇親会には向かわず病院にいった。
感染性胃腸炎と診断されて、胃炎の薬と整腸剤をもらった。あと「アクアサポート」っていう電解質補給飲料をくれた。これがあとで効いた。

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6日にはパラソフィアのオープニングレセプションに潜入した。すごく盛大なレセプションで、美味しそうな料理とお酒がたくさん並んでいる。人もたくさんいた。レセプションでのスピーチを聞いていると、みんな「新しい京都をつくる」というようなワードを連発させている。「新しい〜をつくる」というのは目標にはならないような気がする。「かたち」は漠然と新しいものを目指していった結果ではなくて、目の前の問題への危機感から起こした行動によって生まれる。そしてその後に「らしさ」がついてくるのだと思う。
「イカれるのも難しいですよね。イカれようとしてイカれたら駄目なんですよね。普通にやっていっていつの間にかイカれてないと」
っていうような話を、1日のトラックのなかで椿さんにしたら大笑いして同意してくれた。そういうことと近い。

そんで今日はパラソフィア一般公開初日で、いくつかある会場のうち京都市美術館と鴨川デルタのスーザンフィリップスの作品を見てきた。体調はだいぶ良い。まだ胃腸は万全ではないけど、倦怠感はだいぶなくなった。胃腸炎になるまえよりも良いかもしれない。もしかしたら僕は1ヶ月近くずっと脱水症状気味だったのかもしれない。下痢したり吐いたり、汗をかいたりすると身体から水分のほかにいろんな大事なものが流れてしまって、それが倦怠感を生むらしい。それは水を飲むだけでは回復しない。
パラソフィアはJoost Conijnというオランダの作家がサイコーだった。

ウェブサイトもかわいい
http://www.joostconijn.org/

 

PARASOPHIA 京都国際現代芸術祭2015

会期:2015年3月7日(土)–5月10日(日)
休場日:月曜日(ただし、3/9、5/4は開場。京都府京都文化博物館のみ4/27は開場)
会場:京都市美術館、京都府京都文化博物館、京都芸術センター、堀川団地(上長者町棟)、鴨川デルタ(出町柳)、河原町塩小路周辺、大垣書店烏丸三条店
主催:京都国際現代芸術祭組織委員会、一般社団法人京都経済同友会、京都府、京都市
お問合せ:京都いつでもコール TEL: 075-661-3755(8:00−21:00)

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PARASOPHIAの各会場で無料で手に入るガイドブックの中に、僕が描いた「PARASOPHIA MAP」がのっています。

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◉日時:3月8日(日)
16:30〜18:00(16:00開場)>第1部=鼎談(無料)
18:30~21:30>第2部=ホームパーティー(要予約/有料)

◉概要
▶︎第1部=鼎談「とまらないひと」
・村上慧×内田洋平×荻野NAO之(モデレーター)
・費用:無料
・予約:不要

▶︎第2部=ホームパーティー「金曜サロン」・ノマド編
・費用:食材費分有料=1人2,000円
・予約:要(20名)

※ 共に普段非公開の寺院「多福院」で開催します

◉予約
メール→ tomaranaihito@gmail.com のみで受付ます。お名前、人数、明記の上メールをお送り下さい。
※ 金曜と銘打っていますが、実施は日曜日です、お間違いなく‼︎

◉内容
▶︎第1部
「移住を生活」するという移動生活を震災をきっかけとして、2014年4月7日からはじめた村上慧。
大学卒業後に客人(まれびと)ハウスというシェアハウスをはじめたのち、全国放浪の生活にはいった内田洋平。
この2人の20代の若者を迎え、メキシコ育ちで「モンゴロイド文化圏のくらし」と「妹(いも)の力」をテーマに写真家活動を続ける荻野NAO之がモデレーターとなり、現代に生きる「とまらないひと」の姿を鼎談の中に探ります。

▶︎第2部
普段荻野宅で非公開不定期に開催されているホームパーティー「金曜サロン」。
鼎談に合わせ、当日1日だけ自作の家を「多福院」に建てて移住している村上慧と共に、ホームパーティーを「多福院」へ移動し、開催します。
鼎談の3人も参加。
食事をしながら、話しながら、みなさんゆっくりとお過ごし下さい。

※ 村上慧の自作発泡スチロール製の家もご覧いただける予定です。

◉会場
▶︎多福院
※ 文明14年(1482年)、鉄船宗煕を開祖とする非公開の寺院
▶︎アクセス
・住所:京都市右京区龍安寺衣笠下町2
・MAP→ http://goo.gl/maps/NSMtl
・京都駅より
JRバス高雄京北線・周山行き「竜安寺前」下車2分
・三条・四条方面より
京都市バス・59番系統「竜安寺前」下車2分
・電話 075-461-0467
※ 申込は tomaranaihito@gmail.com のみで受付ます。
※ 駐車場はございません。

企画:アルトテック(柳生顕代)、荻野NAO之
協力:多福院

フェイスブックイベントページ
https://www.facebook.com/events/1622230764678043

いったい何と戦っているのか全然分からないけど、実家で休んでいる。実家にいると運良くカニが食べられたりする。昨日は1000円引き券の期限が今日までだからという父親のモチベーションで焼き肉を食べにいった。いろんな人に自分の症状を話して、アドバイスを聞いて、ひとつひとつ実行していっている。田谷さんの言う通り、寝る前にプロテインを飲んだりビタミン剤を飲んだり野菜酵素をとったら、今日はすこし調子が良い。田谷さんからは、ここからもっとダークサイドに落ちるか、持ち直すかの瀬戸際にいると言われた。お父さんは軽くお祓いをしてくれた。お父さんはもう還暦なので今年度いっぱいで退職するのでなにかプレゼントを考えたりしている。インターネットによると、還暦といえば赤いちゃんちゃんこらしい。あと家族みんなを大江戸温泉に連れて行くのはどうだろうと思った。あそこはとても楽しい。お風呂上がりの一杯が良い。水上さんのことを思い出した。そんで明日から京都。六甲にある家と一緒に軽トラに乗せてもらって京都までいく。できれば明日京都造形大の卒制をみたい。トラやんを卒制にしようとしてた下野さんのやつを見たい。あと5日に経済同友会の人たちを対象にしたパネルディスカッションに参加する。6日にはPARASOPHIAのオープニングに合わせて清掃員村上3を勝手にやる。8日には「とまらないひとをめぐる鼎談とホームパーティー」というトークイベントに参加する。あいまに絵の仕事をやる。そんで9日になおこと一緒に軽トラを借りて家ごと東京に戻る。今はあまり先のことは考えすぎないようにする。いまは横井正一さんの「無事がいちばん」という本と、宮城音弥さんという人の「精神分析入門」という本と、小さい頃通ってた塾の先生だった大竹稽さんの「ニーチェの悦び」という本を読んでいる。横井正一さんの話はヤバい。グアム島で、終戦に気づかず、みえない敵から30年近く逃げ続けていた人。足跡を消して歩いてた話とか、カタツムリと毒カエルとネズミがタンパク源だったはなしとか。「不況になっても大丈夫」っていうセリフの説得力もやばい。

昨日の夕方、一ノ瀬さんのところから宮崎港へ向かった。フェリーで神戸へ。いったん家を神戸に置いて東京に戻る。病院と整体にいく。僕は寝ているとき、寝返りをほとんどうってない気がする。たぶん、家がせまいから身体が寝返りをうたないように日々変化していってて、しかもこの冬は重い布団で結構ねることもあったりしたからだと思う。そしてこれは直感なんだけど、この異常な倦怠感とふらつきは、寝返りをうたないことと無関係ではない気がする。身体の軸が歪んだままで、それがそのまま気持ちと身体の不調に繋がっている気がする。寝返りを打つように努力しよう。次つくる家は寝返りをちゃんとうてるようにして、ちゃんと寝返りがうてる寝袋で寝よう。誰に教わったわけでもないけど、寝返りはとても大事だっていうことくらいわかる。希望をもちつつ、力をぬく。自分のことばかり考えない。人の役に立つ方に考える。ボランティアをする。悪い方には考えない。愚放塾の戸田さんには「力が抜けてて良い」って言われた。
一ノ瀬家を出る前にみんなで誕生日占いをやった。一ノ瀬夫婦の誕生日が、お互いに運命の人と書かれていて盛りあがったりした。その感じはとても良かった。新之助くんが前日から泊まりで出かけていて、出発のとき挨拶できなかったのがこころ残りだけど、まあまた会うだろうし大丈夫。だけど、僕が感じる1年と、彼が感じる1年の長さは全然違うんだろうと思う。フェリーには割とすんなり乗れた。荷物料も取られなかった。最初は他の一般客と同じ通路をぎりぎり通って乗船したけど、船員さんが「神戸の通路は宮崎のよりもせまいから、下船できないかもしれない」と心配してくれて、車両用の大きな入り口から乗船しなおした。家が船に乗ってる写真を撮り忘れた。
そんで今朝神戸に着いて、まずは六甲のカフェいろはに行ってゆりさんに会って、そんで僕が東京に行ってるあいだ1週間ほど家を置かせてもらう交渉をしに、いろはの目の前にある大きな神社に行った。宮司さんから「なんでこういうことをやってるのか。テントじゃだめだったのか」と色々と話を聞かれて、色々と話をしていたら。
「本来は絶対にそういうものを預かるなんていうことはしないんだけど、あなたは何故やっているのかという話をしてくれたので、預かりましょう」
と言ってくれて、シャッター付きの月極駐車場のあいてるところを貸してくれた。「3月1日までに取りにこず、連絡もつかなくなった場合、この家を処分してもかまいません」という誓約書を書いて預けた。

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絵を1枚完成させたら疲れた。時々発作的に「なんか知らないけどめっちゃ死にそうなんですけど状態」になって、もう笑わないとやってられない。何かの病気だと思いたい。いよいよ志布志までいくのをやめて、宮崎からフェリーに乗って神戸に行く事にした。取材もキャンセルさせてもらおう。いろはに行って長坂さんに会おう。そんで一旦東京で休んだり病院に行ったりしよう。それから3月の京都にのぞみたい。今日は鹿児島の橋口さんが今日ワークショップの手伝いで宮崎に来るので、かなり迷ったけど橋口さんには会ったら元気をもらえそうな気がしたので行ってみた。戸田さんという人のワークショップの手伝いで、戸田さんは小豆島で愚放塾という場所を開いてるめちゃかっこいいおっちゃん。ワークショップには間に合わなかったので、その後の飲み会に混ざった。戸田さんは、会った瞬間から緊張がなかった。「この人の前では何も構えなくて大丈夫だ」っていうのが初見でわかった。ぼくが「寒い夜がくると分かっていたとき、新聞紙が断熱材として目にうつった」という話や「コンビニは何かを買う場所というよりトイレとWi-Fiがある場所だと思っている」っていう話をしたら、そうやって世界を再編していくことが生きることだ。普通の人からしたら世界はとまっている。と、ハイデガーが言ってると教えられた。橋口さんは宮本常一が好きで、僕の活動を「各地を歩いて、各地の家の絵を描いて回ってる人」っていう民族学的な見方もできる。って言ってた。これは嬉しい言葉。

お昼に湯浅家から宮崎港の方へ移動。風はあまりない。3ヶ月くらい前から僕にメールで「宮崎に来た際はうちへ来てください」っていう連絡をしてくれてた一ノ瀬さんっていう人が、宮崎港の近くに住んでる。そこへ行く。湯浅家から1時間ちょっと歩いたところ。歩いてる途中、車からクラクションを鳴らされた。久々にやられた。腹が立った。車から歩行者にクラクションを鳴らすのはなんか強いものが弱いものを一方的にやっつけるみたいで、やったらだめだと思う。僕は車に対してクラクションを鳴らしたいと思ったけど、そういうクラクションはない。考えてみたらおかしな話だとおもう。遅いものが速いものに対して鳴らすクラクションがない。そこをどけ!っていう意味でのクラクションはあるのに、危ないだろ!っていう意味で鳴らすクラクションがない。必要だと思う。歩行者用の、対自動車クラクションをつくろう。可能な限り大きな音が鳴ったらいい。
吉村町のあたりは新しく開発された土地らしく、真新しい家とか大きなパチンコ店とかドラッグストアが並んでる。一ノ瀬さんと合流して、駐車場に家を置かせてもらった。4人+ワンコが2匹の家。一ノ瀬家のお父さんが、僕に会いにきたらしい他の人や家族の人たちに
「たのむから"どこから来たんですかー"とか、いままで村上さんが歩いてきて何百回もされたであろう質問はすんなよ。いままで一回もされたことのない質問をしてみろ」
って繰り返し言ってて、僕のかわりに、僕の日記をかなり読み込んでるらしいお父さんがどんどんしゃべってくれて、僕はほとんど話さずにすんだのがとても新鮮で嬉しかったし、楽な気持ちでその場にいられた。
「日記に全部かいてあるから、それを全部読んでから、それでも何かあったら質問せえよ」
って言ってて、感激すらした。こういう言い方をしてもいいなと思った。自分で調べてから聞いてください。って言えばいいのだ。ぼくはたぶんいちいち丁寧に答えすぎている。

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歩行者は、車からクラクションを鳴らされっぱなしで、逆のことができない。歩行者が車に対して鳴らすクラクションが必要だ。遅いものが速いものに対して鳴らすクラクションがない。

宮崎県宮崎市 橘通3丁目交差点

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今日も快晴。お昼頃、僕は家を置いて、湯浅家から宮崎駅のほうまで歩いてふらふらと出かけてみることにした。宮崎市内に漫画喫茶はあるかという問題に対して、湯浅さんのお父さんがタウンページを開いていたのをみて、小さい頃を思い出した。確か僕が小さい頃は、タウンページには土地の事が何でも書いてあるという感じで何かと開いていたな。歩いてる途中、大淀川という大きな川をまたぐ橋を渡るときに強い風が吹いてた。散歩したりスタバに入って本を読んだり絵の仕事をしたりする。ツイッターで宮崎在住の人から「村上さんに会いたい」という連絡が来て、スタバで会ったら地元のラジオ局のレポーターだった。次の火曜日の生放送のネタを探しているとのことで、もし火曜にまだ宮崎県内にいたら取材に来るらしい。夜、ファミレスに入ってご飯を食べてたら橋口さんから電話がくる。橋口さんは大学時代に知り合った「竹で大きなものを作るのが好きな人」。いま鹿児島に住んでる。今週末に宮崎大学に何かワークショップをするために来るらしい。そこで会う約束をした。ファミレスのテーブルで本を読んでいたら、不意に闇がきた。急いでファミレスを出て、大きな音で音楽を聞きながら歩いた。そうしたらすこし回復した。22時半頃、湯浅家の庭に置いてある自分の家に戻ってきた。湯浅さんのお父さんが厚手の寝袋を譲ってくれた。数十年前に買って、あまり使わずにしまわれていたものらしい。最高のタイミングで出会った。

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湯浅さんの家に「夜と霧」があったので、読んでいる。初めて読んだけど、このタイミングで出会えて良かったと思う。
強制収容所での生活のなかのユーモア、芸術、自然、愛のことを書いた部分がある。「ユーモア」は、周辺と距離をとり自分の魂を保つための力。「芸術」(ここでは演劇のことを言っていた)は収容所生活を送る上で、何かをいっとき忘れるために極めて有用だったこと。極限状態で見る夕焼けは美しく、ただ日が沈むのを見逃すまいとするためだけに、疲れた身体をひきずって外にでたこと。また疲労困憊してぼろぼろの体を引きずりながら、労働現場に向かって歩くとき、強い想像力で愛する人を出現させることができたこと、その愛を感じる上で、その人がそばにいるかどうか、あるいは生きているか死んでいるかどうかなど、全く問題ではなかった。ということ。フランクルは繰り返し書いている。
「妻が生きているか死んでいるかなど、その時は全く問題ではなかった」
人間は目の前の苦しみから逃れるために、心をどこまでも遠くへ飛ばすことができる。やっぱり芸術は本質的にはテクネーと呼ばれた技術のことを指すのだと思う。夜と霧を読んでいて強く思った。狂った環境のなかで、自分の魂を正気に保つために行われる工夫が文化活動なのだと思う。血液検査をしたときのことが重なってくる。このからだに満ちている「生きたい」っていう意志は強くて無自覚で、狂気じみている。とにかく思うのは「健康」とかを過度に考えすぎるのは身体の可能性を潰すことになるということ。僕は芸術のテクネーとしての側面をちゃんと継承していきたいと思う。そういえば2008年の「新建築」何月号かに、磯崎新さんのインタビューがのってて
「"商品としてのアート"という言葉を使ったら、国内のキュレーターからバッシングをくらった。自分は国際的な美術の状況をみて、常識を言っただけだ」
というようなことを言ってた。