車を運転していて、左右ではなく上下からの合流がある変なトンネルの出口で激しく追突される夢。自分はいつの間にか運転席から抜け出している。自分の車に近寄ってみると、窓越しに、運転席で頭から血を流して目をつぶっている自分が見える。息はしてるっぽい。なかなかきつい光景だった。僕はこの事故になんらかの意図を感じ、時間を巻き戻して検証してみた。自分は時間が操作できることを知っていた。ある程度時間を巻き戻して、もう一度再生すると同じ事故は起こらなかった。ただし、別の車が別の車に衝突した。何回か繰り返しても、事故は起こるのだが、衝突する車が別だ。そこから、ここで事故が起こることは決まっているのだが、その対象になる車はランダムである、ということがわかった。運命について、これはひとつの発見だなと思ったところで目がさめた。

『ニムロッド』という小説がきっかけで、ビットコインの仕組みを初めて知り、そのスマートさとラディカルさに衝撃を受けた。コイン自体はどこにも存在せず、帳簿だけが所有者のあいだで共有されていることや、自分が持っている帳簿に世界中のコインのやりとりを書き込むことでコインがもらえる仕組み(既存の通貨のように銀行が帳簿を管理するのではなく、みんなで帳簿に書き込むことで、中央集権的ではない通貨を実現している)など、お金というものの本質を考えたくなる、実によくできた仕組みだ。

コットを持ってくればよかった。あれがあれば、本堂の中で横になって休めた。

昨日のよる友人宅で急遽カードゲームをすることになり5人で楽しく深夜1時まで遊んだ結果勉強堂に戻ってきたのが3時前で、朝8時にはもう車内が暑くて目がさめた。曇りだったらもっと寝ていられたがあいにくの快晴で、ごろごろしているうちに刻一刻と車内の温度は上がっていく。ほんとうに秒刻みで上がっていく感覚。後部座席の、網戸にした窓を締めて(窓開けたまま車を走らせると風で網が剥がれてしまう)、ぱっと運転席に移り、エンジンかけてコンビニへ。顔を洗って、朝ごはんのマフィンを買って車に戻りつつ、どうしようかと考える。寝不足なので、鼻の調子が悪い。このまま作業を始めたら大変なことになる。もうすこしやすんだほうがいい。本堂はまだ工事中だけど版築の壁のおかげが、外気温より3度くらい低くて、わりと快適である。休みたいところだけど、床は木くずだらけで物が散乱している。コットを持ってくればよかった。
車に乗るけど、暑くて一分もじっとしていられない。日陰が必要だ。太陽光が、あらゆるところに降り注いでいることを恨めしく思う。まんべんなくあたりすぎだ。車で横になりたいけど、どこもかしこも太陽光が降り注いでいる。文字通り、どこもかしこもだ。安息の場所はない。ただし、車ごと日陰に入れるところが、ひとつだけある。さんぶのもりこうえんの駐車場。何台か、木陰になる駐車スペースがある。行ったらさいわいひとつ木陰スペースがあいてた。車をとめて横になる
太陽光があたるところとあたらないところで、その場に存在することの経験がぜんぜん違う。別の国、別の季節にいるみたいだ。太陽光から逃げられる場所はないかと車を走らせるのは、小説三体で、死の太陽から生き延びる道を探す文明みたいだ。

1時間くらい昼寝できた。今日の作業はもっと陽が傾いてからにしようと決めて、図書館に涼みにいった。空調が効いていて、頑張ってなにかを食べたり飲んだりしなくても居てよい場所というものが、図書館のほかにない。しかし図書館は寒いかった。寒すぎる。人はほとんどにいない。日曜日なのに。クールシェアという言葉を最近よく考える。ぜったいに、空調が効いた部屋は何人かでシェアした方がいいに決まっている。地球のためにも、エネルギー節約のためにも。空調が効いた、テーブルと椅子とソファがあるだけの空間をシェアすればいいだけなのに、そんな簡単なことを、なぜ私たちは実現できないのだろう。共同体が失われたから? なにか食べるか飲むか読むかしないと、空調の効いた部屋にいることは許されない。図書館は何かを読んでないと、居心地が悪い気がしてしまう。なので、横山光輝三国志の2巻を読んだ。劉備たちが地方の警察署長に任命されるあたりのところ。三国志はどうしてこんなに面白いんだろう。それは、登場人物がみんな愛すべきアホばかりだからだ。みんな思い込みが激しくて、どうしようもないところがあって、読んでいると虫籠の昆虫を観察しているような気持ちになる。あっちで喧嘩してるとか、こっちは元気ないな、とか。

ランドロームでお寿司食べて、アーリウスでマンゴーラッシーだけ頼んで机を借りた。アーリウスに初めてパソコンを持ち込んだ。
インド人シェフの青年が「社長、ライトいる?」を天井を指して聞いてくれる。「ああ、いらないいらない」と断ったけど、その言い方が、なんか社長っぽく響いてしまってちょっと後悔した。ビリヤニ頼んでないのに、今日もサラダを「サービス」と言って持ってきてくれた。生野菜食べてないからありがたいような、とはいえ量が多すぎて余計なような・・・
しかし暑い。梅雨はどこにいったんだと思ってたら、梅雨前線は消えてしまったらしい。天気アプリによると32度ある。作業を始めてしまえば気にならなくなるのに、始めるまでが遠い。PC作業をやる。
アーリウスまたしても社長におごってもらってしまった。「だめだよ〜」と言ったのだけどいいからいいからまたお願いしますと、お金を受け取ってもらえなかった。

太陽光すごすぎる。陽が沈むとホッとする。魔神が襲来するみたいに、陽がのぼると一気に地上の気温が上がり、車内の温度は上がり、私はその場所にいられなくなる。もちろん壁もそうなんだが、「屋根」の偉大さを毎秒感じる。人間が、この大地で生きるにあたってその体を死なないようにしておくために立ち上げる、最も根源的なシェルター。

痩せて骸骨みたいになったジャイアンが、月みたいに空から私達をみおろしている。状況はとても深刻そうに見えるが交わされている会話やその場の雰囲気はコミカルで笑いのあるものだった。

時々夢に出てくるバス停がある。ロータリーになってて、左側に高い擁壁がそびえている。それとバス停の間から、次々とバスが道路に出てくる。バス停の後ろにはいつも次のバスが待機している。

朝から昼まで二時間半のオンラインミーティング。ほとんど発言していないのだけど、なんだか疲れた。いつも疲れてしまう。オンライン会議において、自分は発言のハードルをとても高く設定してしまっているらしい。たくさんの議題があるので、普通に思ったことを話してしまうと、議題が消化できなくなるという恐怖がある。話すことで会議が長引くのが面倒だ、と思ってしまっている。オンラインは発話のタイミングが難しい。人の息遣いとかが感じられないから、別の人とバッティングしてしまうことも多い。会議はたくさんあるし、いつもながくなる。なんでこんなにたくさんの会議をしているんだろうと思う。なぞだ。なにかが進んでいるという感じもあんまりない。同じことを昔話したような気がするんだけど…というパターンもある。終わった頃にはぐったりしてしまった。ほとんど発言してないのに。
午後、涼ちゃんと一緒に本郷さんの田んぼの補植の手伝い。捕食というのは、苗の束を携えて田んぼに入り、田植え機が植え損ねたところ(「欠株/けっかぶ」と呼ぶ)に手作業で苗を挿していく作業。歯抜けみたいに抜けているところがたまにあり、まれに10本くらい植えられていない「連続欠株」もある。最初長靴で入った瞬間、ズボッと深くまで入ってしまって焦った。でも、それが普通の状態であることがすぐにわかる。田んぼの柔らかさにびっくりした。足を取られて転ばないように注意しながら、ゆっくり進む。とにかくズボズボ足が入っていく。足がズボッと入り、苗を植え、ズボッと引き抜いて次の一歩を踏み出し、またズボッと入り、またズボッと引き抜いて……の繰り返し。楽しい。作業はとても単調なのだけど、水が張られた田んぼのなかを歩くのは、一歩一歩がまるで違う。私がいま植えた苗は食べ物になる、確実に、この作業には意義があるということがわかっているので、オンライン会議とはまるで違うやりがいがある。やらないほうがいいんじゃないかとか、やったほうがいいかわからないことのほうが多い日常のなかで、これは数少ない、やったほうがいいと断言できる作業である。そのことが元気をくれる。一枚終えて、休憩。ピクニックシートを広げておいしい草餅と、ふきと瓜の漬物を食べてお茶を飲んで、2枚目へ。2枚目の方が大きい。今度は長靴を脱いで、みんな裸足になった。裸足で田んぼに入る。水口(みなくち/田んぼに水を入れるポイントのこと)のあたりは冷たいけど、基本的に田んぼの水は暖かくて気持ちがいい。足がズボッと田んぼの中に沈み、やがて石っぽいところを足裏が感知して、沈み込まなくなる。そこに体重を預けて、2歩目を踏み出す。一歩目の足裏が、ちょっと痛い。この痛さがきもちいい。足裏が、ものすごく敏感になる。触れている石の硬さや大きさ、とんがり具合がよくわかる。自分の足って、こんなにいろいろわかるんだ、ということが新鮮。泥の表面は暖かいけど、沈み込んだところはちょっと冷たい。裸足だと、自然に歩き方がわかる。長靴ではわからなかった。つま先から着地することが、自然にできる。田んぼにはアメンボ、おたまじゃくし、おたまじゃくしの卵、ヤゴなどいろんな生き物がいて、苗を植えるたびにそれが目に入る。細くて小さくて赤茶色のヒルがくねくね泳いでるのも見かけた。僕は(たぶん)噛まれなかったけど、たまに噛まれるという。「ぜんぜん痛くないんだけどね、気持ち悪いよね」と本郷さんが言ってた。風が水面に波を作り、そこから緑色の苗が産毛みたいに整然と生えている。目を上げれば木崎湖と、山がある。遠くには、別の田んぼで同じ作業をしている山本さんたちがいる。なんて、ぜいたくな時間なんだと思う。転ばないように必死になって歩き、体は疲れているはずなのに、心がどんどん元気になっていく。サラリーマンを辞めて田んぼを始めるひとの気持ちがわかったような気がした。夕方には2枚目を終えて、またピクニックシートで休憩して、僕たちは家に帰った。温泉に行った。高瀬館。何度も来ているけど、この温泉のすごさを僕は知らなかった、と思った。露天風呂から出たくない、と思った。いつも、どんな温泉にいっても割と早く出てしまうので、こんなことは初めてだった。世の中のほとんどの人は、「温泉」を知らないとさえ思った。あなたが温泉だと思っているものは、温泉ではないかもしれない。さっきまで田植えをしていたから、源泉掛け流しの温泉につかる体験と、田んぼでの体験が重なる。どちらも、水が循環し続ける川に体を浸している感覚。何本もあるパイプからどぼどぼ温泉が出てきて、水面で鳴らす音の、なんと心地よいことか。りょうちゃんが帰りの車で、人間は海から陸に進出したけど、そのときに体の中に海をたくわえたんじゃないか、と言っていた。人間の7割は水分だとかいうけど、それは海から出てくる時に体のなかに残した海なんじゃないかと。だから、水に浸かるのは気持ちがよいのだ。特に、溜まっている水ではなく、流れ続けているそれに。大崎清夏さんの『湖まで』を思い出した。体のなかみ湖がある、という話。その湖は海であり、温泉であり、本郷さんの田んぼだった。

私たちは未来のことをすでに知っているかもしれない。たとえば「直感」は未来のことを知っているからやってくるのかもしれない。こっちのほうにいけばいい結果になるということを知っているから、曲がり角を曲がることができるのかもしれない。わたしたちはすでに過去のことを思い出すのと同じように、未来のことを思い出しているのかもしれない。ただ、そうと知らないだけで。思い出せるの過去のことだけだということは知っていて、未来のことは見えないと知っているから、思い出す内容は全て過去のことだと思いこんでいるのかもしれない。

この数日で、自分なりの文章の書き方というものの尻尾が見えた気がする。
最初は雑多なアイデアの書き散らしでいい。関係なさそうなことでも一緒に書いてしまっていい。
そこからちょっと気を取り直して、書き進めてみる、やっているうちに潜っていける。これが第二段階。ここまでは、まえからやっていた。ただし雑多なアイデアを無理やりつなげようとしていたところがある。
つかみかけてきたのは、思い切って削ること、書いたものを手放す勇気を持つこと。他人みたいに、自分の文を読むこと。ドライになること。
うまくいけば、ぐっと視界がひらける。思いがけない言い回しが出てきたりする。

友人の展覧会を見に、お花茶屋公園のバス停から京成バスに乗り込んだ。整理券をとり、亀有に向かった。バスの中で知らないおばあちゃんに「ここに行き先を書いてね」と紙を渡されたが、僕は大丈夫です、と断った。

バスは亀有に着いた。降りようとドアに向かっていったら、どうも精算機が壊れているらしく、乗客がもっている整理券を運転手が自分の手で集めていた。僕は整理券を渡し、運賃はいくらか聞いた。運転手は他のお客さんの対応で忙しく、僕の質問には気が付かない様子だった。僕が渡した整理券は、運転手の手の中で他の人の整理券に混ざり、わからなくなっていった、ところが見えた。

やがて乗客は全員降りた。僕の運賃はわからないままだった。運転手に聞いてもはぐらかされてしまい、バスは車庫に入れられてしまった。僕は運賃を支払いたい一心で運転手について事務所まで行き、「いくら払えばいいのですか? お花茶屋から亀有です」という質問を浴びせかけた。運転手はようやく観念した様子で計算をはじめたので、僕は外で待っていた。待っていたら、バス会社の別の人が二人近づいてきて、僕の話を聞き、なぜか同情してくれた。いくら待っても運転手が出てこないので、僕は事務所に入っていった。運転手は奥の部屋で机に向かっていた。奥の部屋から別の人が出てきて、

「料金が出ました! 19500円です」

と言われた。僕は困惑してしまった。

「え? そんなにかかるんですか? お花茶屋から亀有ですよ」

その人は「はあ……」という感じで引っ込んでいった。どうも、僕がどこでバスに乗ったのかわからなくなっているらしい。

奥の部屋で話を聞いてみると、あなたは1万5000年前にバスに乗車したので、そこからきちんと計算して、19500円という数字を出したのだ、と言われた。

いや、自分はついさっきお花茶屋公園から乗ったので、せいぜい200円とか300円だと思いますけど、と説明したのだが、どうも信じてもらえない。整理券をなくされたせいで、ものすごく面倒なことになっている。

不毛な問答を繰り返しているうちに、時間はどんどん過ぎていった。たぶん、バスを降りてからもう2時間は経っている。僕は必死で訴え続けたが、しかし社員たちからは、どうも僕の意見をちゃんと汲み取り、対応しようという意志が感じられない。内心は、なんかめんどくさい人だなあ、くらいの心境なんだろうなということが透けて見える。「お金なんていらないから、さっさと出ていってくれ」と思っているであろうことが、手に取るようにわかる。試しに

「なんですか? 僕、お金払わなくてもいいですか?」

と言ってみたら、近くにいた人が待ってましたと言わんばかりにうなずき、「場合によっては、それでもかまわないのです」と苦笑した。

壁の時計が16時を回ったころ、後ろから管理職っぽいおじさんが

「いま路線図を見てるんですけど、小田原というバス停はありません。いったいどうやって乗ってきたんですか?」

と聞いてきた。「いや、小田原じゃなくてお花茶屋です。すぐそこです。そこに実家があるんです」と答えたら「ああ、なるほど」と納得していた。

「なんかめんどくさい客みたいになってますけど、僕はね、ただちゃんとお金を払いたいだけなんですよ。500円なのか1000円なのか知らないけど・・・」

と僕が訴えると、おじさんは路線図を見ながら

「お花茶屋から、なぜ逆方向にきたんですか? つまり、都心方面ではなくて、こちらのほうに。……逃げたんですか?」

と、失礼なことを言ってきた。僕のことを犯罪者かなにかではないかと疑っている。僕は呆れてしまって、友人の展覧会に行こうとしていたことや、他にも用事があったことを、イライラしながら説明した。いつのまにか友人のさっちゃんが隣にいて、にこにこしながら「そうなんです! そうなんです」と僕の話に相槌を打ってくれていた。

おじさんはうなずき、「これは私が払っておきます」と言って、おもむろに財布から紙幣を何枚か取り出した。さっちゃんが「村上さんのお金も多少入ってたほうがいいから」と、僕の手元の500円玉をおじさんに渡した。

おじさんはその500円も一緒に、運転手にお金を渡した。運転手は嬉しそうに1000円札の枚数を数えていき、5000円札が現れたときは「ウホッ」と声を漏らしていた。全部で9000円くらいはあった。

運転手は「ありがとうございます、これは、納得せざるを得ませんねえ」と、さっきまではお金なんてどうでもいいからはやく出ていってくれという態度をとっていた人間とは思えないようなセリフを吐いた。僕は納得できなかったが、これ以上騒いだらおじさんやさっちゃんのメンツを潰すことになるし、なによりもううんざりしていたので、出て行った、という夢。

車中泊をしていたら雨の音で目が覚めて、リュックから耳栓を取り出し、耳にはめて、また眠る、という夢。雨の音で目が覚めて、耳栓をしてなくて混乱した。夢と同じように耳栓をして、また横になった。

大学のような施設の廊下で、色々な人にとってもおいしいぶどうのゼリーをあげている。最後くどうれいんさんにあげようとしたら、「ぶどうの絵がないね」と言われた。紙にぶどうの絵を描いてたら小学生くらいの男の子がいたずらっぽく話しかけてきて邪魔だった、という夢。

原田裕規さんとAokidと知らない女性2人と僕で、誰かの家に泊まっている。広い畳の部屋でみんなで寝るということになり、おうちの人が3組の布団(一人用の布団が二組、二人用と思しき、人形の凹みがふたつついている不思議な布団が一組)を準備してくれていたのだけど、なぜかその隣に新しく4組の布団を敷くことになった。普通の敷布団が見当たらず、長座布団みたいな小さな布団を4つ並べていた。部屋はめっちゃ広いのに、布団はぴったりくっつけて並べられており、僕はそれがちょっと嫌だった。また長座布団は1枚だと厚みが足りないと判断されたのか、すべて2枚重ねになっていて、寝にくそうだった。Aokidが、「こんな感じでいいかな」と僕に聞いてきた、という夢。

例えば作りすぎて食べきれなかった料理を隣の人にわけたい時に使う「食べてもらえますか」という言葉を「食べて」と「もらう」にわけたとして、料理を差し出すのは私(こちら側)なのに、なぜ「もらう」という、受け取ることを意味する動詞がくっついてくるのか、という疑問が浮かぶ。「もらう」だけじゃなくて「食べていただく」も「食べてくれ」も同じように、受け取り手と渡し手が逆転している。一文の中に往復運動が含まれている。もしかしてこれは、「受け取る」ということがギフトであるというニュアンスが、原理的に含まれているのではないか? なんて素敵なんだろう! と熱くなったけど、これらの言葉は「食べてほしい」の変化系だということに気がついてから、そんなに熱い現象ではないことがわかってしまった。要するに「(食べることを)して"ほしい"」という要望がいろいろな言葉に置き換わっているだけだった。

ベルリンを旅行していた。涼ちゃんが調べた店?で店主と話をしたあと、私が「魚住さん、どっかにいないかなあ」と、ベルリン在住の共通の友人のことを話題にしたらすぐに涼ちゃんがなにかに気づいた様子で前方を指さした。見ると、背中に大きな字で
UO
ZU
MI
と書かれたTシャツを着ている人がいる。行って声をかけたら、まさしく魚住さんだった、という夢。

夜遅い時間の都内のスーパー銭湯、ものすごい数の大学生たち。露天風呂での会話、揃いも揃って同じ学校の女性についての話をしているが、話の底が浅い。上滑りし続ける話題。誰がかわいいとか、声かけられて好きになっちゃったとか。猛烈な恋愛をしている人がいて、その相談をしているわけでもなさそう。適度に当たり障りのない会話を延々と5〜6人で繰り広げている。何が楽しいのかと思ってしまう。
脱衣所ではドライヤー待ちの人が大勢いるなか、イヤホンつけてスマホでsnsのリール動画をスクロールしながら片手でドライヤーを髪にあてている人が同時に二人いて、怖くなった。全員、同じ行動をして同じ事を考えている(あるいは、何も考えていない)。まわりが見えてないのか、見えてないふりをしているのか、見えてるけど気にならないのか。こんなホモソーシャルなノリの会話をずっと続けていたら、何も考えずにスマホ見ながらドライヤーする大人になるのも無理はない。わたしはめぐまれていた。

Sagosaidが突如パスワード付きのひみつのウェブサイトを立ち上げていて、それがとてもよい。匿名であなたの音楽が好きですとメッセージを送ってみたら、まさかのリプライをくれてとても嬉しかった。インターネットの楽しいところ、中学生のころ、匿名のチャットサービスで年齢も住んでいるところも性別も知らない人たちと毎日のようにたわいもない話をしていた、あのインターネットがもっとも輝いていたころのことを思い出した。

カレンダーに「北森さんニト来る」と書いたつもりが、「北さニトん来る」になっている。何か得体の知れないものが来そう。

大人数のチーム対抗で体を張って競っている。ふたつめの競技の内容が、右腕に採血用の針を指して血を抜かれながら、熱湯に体を浸して何かに耐えるというのもので、私は針を刺されるのが嫌で、「注射が苦手で、血液検査でも気分悪くなるくらいなんですよ」と主催者のAokidに、自分を競技から外すように訴えるがなにか理屈のようなものをこねられ却下された。たまらず自分を夢から覚ました、という夢。

ボードリヤール『消費社会の神話と構造』より

あらゆる伝統的芸術において象徴的・装飾的かつ二次的な役割を演じたモノは、二〇世紀に入ると道徳的・心理的価値の変動に応じて変化することをやめてしまった。人間の傍らで代理としての役割に甘んじるのではなく、空間分析(キュビスムなど)の自律的要素として非常に大きな意味をもちはじめたのである。そのために、モノは粉々に砕け散って、(色やかたちなどの)抽象的概念にまで解体された。ダダとシュルレアリスムにおいてパロディ的復活に成功したものの、抽象絵画の出現によって破壊され消え失せたかにみえたこれらのモノは、新形象派やポップ・アートにおいて、ふたたび自己のイメージと一致することになったようである。モノの現代的地位という問題が提起されるのはこの段階においてであり、しかも、この問いが否応なくわれわれにつきつけられるのは、モノが突如として芸術的形象の頂点にのし上がったためでもある。
(中略)
ポップ以前の全芸術は「奥底にひそむ」世界を見抜こうという態度の上に成り立っていたが、ポップは記号の内在的秩序に同化しようとしている。つまり、記号の產業的大量生產、環境全体の人為的で人工的な性格、モノの新しい秩序の膨張しきった飽和状態、 ならびにその教養化された抽象作用に同化しようとしているといってもよいだろう
ポップはモノのこの全面的世俗化の「実現」に成功しているだろうか。過去のあらゆる絵画の魅力であった「内面の輝き」が少しも残らないほど徹底した外在性を特徴とする新しい環境の「実現」に成功しているだろうか。(中略)
ポップが意味するものは、遠近法とイメージによる喚起作用の終焉、証言としての芸術の終焉、創造的行為の終焉、そして重要なことだが、芸術による世界の転覆と呪いの終焉なのだ。ポップは「文明」世界に含まれるだけでなく、この世界に全面的に組みこまれることをめざしている。文化全体から華やかさ(そして文化の基盤さえも)を追放しようという、超越的で気違いじみた野望がそこには存在している。
(中略)
それゆえ、彼らはこれらのモノが伝達する頭文字やマークや宣伝文句を好んで描くのだし、極端にいえば、それらだけを描けばいいのだ(ロバート・インディアナ)。これは遊びでも「リアリズム」 でもなく、消費社会の誰の目にも明らかな現実を承認すること、すなわちモノと製品の真の姿はそれらにつけられたマークだということにほかならない。

伊藤計劃の「ハーモニー」にでてくる「ウオッチミー」という装置。心拍数や体温、睡眠時間などを計測することで健康を管理できるという意味で、アップルウォッチに似ている。だとすると、アップルウォッチのウォッチという言葉には、君の体を監視する、という意味にとれる

おい、あんた俺の財布しらないか?
え?
俺の財布。このカゴに入ってた財布がなくなってんだけど、しらない?
いや、しりませんけど
はあ? あんたが盗ったんだろ? 他に誰がいるんだよ
いや、盗ってませんけど
とぼけんなよ。俺が入ったとき、ここにはあんたしかいなかった。俺が風呂に入ってから出るまで、あんたの他に人はいなかった。ならあんたしかんだよ。さっさと出せよ
はあ。でも私はとってないんですよ。たしかに私とあなたしかいなかったですけど。そのへんに落ちてないんですか?
いいから、ちょっとカバンの中見せてみろって
どうぞ

サイフなんか入ってないでしょ?
どっかに隠したんだな
いい加減にしてくださいよ
(店の人来る)
私だってねえ、盗ったって言っちゃいたいですの!家に帰って熱帯魚に餌をあげなきゃいけないのに、こんなことに巻き込まれるならねえ!私はさっさと解放されたいから、私がやりましたって言いたいですよ!でもね、やってないもんはやってないんだから、しょうがないじゃないですか!嘘をつく人間にだけはなるなってね、おばあちゃんに言われたんですよ!おばあちゃんのことを裏切りわけにはいかないでしょう? 人の気も知らないでね、嘘つき呼ばわりしないでもらいたいもんですよ!私はサイフをとってない。そして、私は嘘をついてない。つまり、私はサイフをとってないということです。わかりましたね

『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(三宅香帆)をオーディオブックで読んだ。労働と読書の関係について歴史を遡って調べていて、とっても面白かった。自己啓発本やビジネス書はこれまであまり手にとらなかったけど、読んでみようと思った

・「自己啓発本」的な、修養や教養を立身出世の条件とする思想は明治時代からあった
・現代の自己啓発本はノイズを除去する。学生運動が流行った昭和のころといまとでは時代の空気がちがう。社会は変えることができない、という認識があたりまえになった。では、そんなアンコントローラブルなことは一旦脇においておこう、というのが自己啓発本に共通する姿勢である。
つまり、自己啓発本には社会を遠ざける傾向がある。たいして、「読書」は「ノイズ」を日常に持ってきてしまう。つまり自分の力では変えることができない社会のさまざまな問題を運んできてしまう。みんな働いているだけで精一杯なので、そういうものがノイズになってしまう。

働いていて、本が読めなくてもインターネットができるのは、自分の今求めていない情報が出てきづらいからである。求めている情報だけを、ノイズが除去された状態で読むことができる。それがインターネット的情報である。

・「国際能力主義」と「個性浪費」の二兎を追う社会
<競争しなければならないのに、個性を生かさなければならない>
このジレンマは90年代後半に作られた。『13歳のハローワーク』のベストセラー化などはその影響である。また、ゆとり教育にはこの思想が取り入れられてしまっている。
(岩木 秀夫 『ゆとり教育から個性浪費社会へ』)

(自己啓発本とインターネット的情報の共通点)
自分でコントロールできる「行動」に注力する、そのための情報を得る。それはバブル崩壊後、景気後退局面に入り、リーマンショックを経ながらも、社会の働き方として、自己実現が叫ばれていた時代に人々が適合しようとした結果だった。

サービスエリア。フードコートの券売機の前で固まってる家族連れ四人の後ろを、商品棚にぶつからないやうに小さくなって通り過ぎたとき、父親らしき男に舌打ちされたような気がする。ぶつかってはいない。上着がこすれてそれか気に触ったのか? ただの空耳、思い過ごし方か?

飛行機とバスに乗り遅れて、チケット購入済だったDA PUMPのライブに行きそびれる、という夢。会場は何故か徳島県の方だった

今年の元旦から追いかけ始めた『虎に翼』の最後の5話を先ほど涼ちゃんと一緒に見て、無事完走した。全130話。のべ26時間くらい。こんなに長い映像を最初から最後まで見たのは何年ぶりだろう。見れた。見てよかった。最終回の、エンディングのラスト10秒の演出がとっても粋でチャーミングで、いいドラマをありがとうございます、と感無量、感謝の気持ちが湧いてくる。米津玄師の主題歌「さよーならまたいつか」という曲名が、とてもこのドラマにぴったりだなと最初から感じていて、その理由が最後の最後ではっきりわかった気がする。
つまり、(たった)80年前の寅子たちの前にあった差別や不平等は、多少形は変わったかもしれないけど、今も続いているし、80年後の未来にもまだあるだろう。不条理は永遠になくならないかもしれない。それでもこのドラマのように寅子が戦った事実は消えないし、寅子という水の一滴が岩を叩き続けていた、その音を私たちは聞いてしまった。きっと、私たちの中にいる次の寅子が、再び同じ音を響かせるだろう。

あなたはこれから死に、また生まれ、また死んでいく。この先あなたは、まったく同じ人生を永遠にくり返すことになる。それでも人生をふたたび始めるのか?
もちろん、喜んで!

これはニーチェの永劫回帰だけど、虎に翼というドラマを通して感じられる、繰り返しのイメージの源泉はこれかもしれない。同じようなことを何度も何度も繰り返しているのに、世界は全然良くならないように見える。
「それでも繰り返すんだよ」と、この作品は背中を押す。
いくつもいくつも生を超えて、何度繰り返しても、「そのとき」が到来することは永遠にないかもしれない。でも繰り返すことをやめちゃだめだ。では、さよーならまたいつか
と喝を入れてくる