2013年8月9日25時39分

 

先日シリアで大規模な爆発がおこったというニュースがツイッターで話題になった。まちの空におおきく立ち上ったキノコ雲はまるで核爆発のようで、みんながどきっとしたと思う。

およそこの世界に起こる出来事で、自分のせいにできないことは何も無いように思える。

年収200万円以下が人口の20%近くいるということが「マズイ」という刷り込み。それに寄ってか寄らずか自殺者は年間3万人近くにのぼり、もはや内戦状態。しりあの爆発でも数十人が亡くなったそうだけど、この国では一日で82人くらい自殺している計算になる。安倍さんや閣僚の人達は原発を再稼働させ、輸出させる事に全力をつくし、先日ジュネーブで開かれた核拡散防止条約の会議で出された核兵器不使用の共同声明に「アメリカの核の傘で守られている現実がある」という理由で、日本政府は署名せず、福島第一原発では事故が起こってから数億ベクレルの放射性物質が海に流れ、今でも一日300トンもの汚染された水が海に流出しているという。

「効率」と「成長」を正義としてきた資本主義が暴走し、そこに人がついていけなくなっている。

「あまりに巨大化した道具はもはや人びとに仕えるのではなく、逆に人々を道具に奉仕させる奴隷化作用を生む」(イヴァン・イリイチ)

という状態で、分りやすい敵は何処にもいない。八方塞がり。もうみんなで踊るしかないと思うけど、ダンスも法律で規制するという話もある。なんでこんなことになってしまったのか。国債と借入金をあわせたこの国の借金は、先月1000兆円を突破したらしい。今の衆議院は「違憲状態」であるという判決が裁判所で下されたにも関わらず、テレビでは初登院の議員達にインタビューしたりしてしまっている。

これをかいている僕は、いまバイトに向かう電車の中だ。毎日仕事から帰ってくるとへとへとで、この社会に対する大きな見通しなんて持てない。休みの日は家でぼーっとしていたい、という気持ちも、今とてもよくわかる。とりあえず生活を、日々の営みを続けるだけで精一杯だし、この「なんでこんなことになっちゃったの状態」がそもそも、この僕達の日々の営みによってますます悪くなっていく、しかし、その責任は誰にあるかといわれると、誰にもない。

いま「働きたくない」という言葉のリアリティがすごい。自覚しろ生活者達。

2013年7月23日11時58分

 

僕がバイトに行くときに払う運賃は、電力会社や鉄道関連の財界にもいくだろう。電力会社はそのお金で高速増殖炉を動かしたり原発を動かしたりするお金になっていくだろう。僕が通る道路は税金によって整備されているものだし僕が買う服、使うシャンプー、お菓子などなどには化学でつくられたものが当然入っていてそれらを生み出す為に空気が汚されているのだろう。僕はバイトにいくためにバイトをしている。ほとんどの人は仕事にいくために仕事をしているのだ。ひとりひとりが全部考える必要の無い、民主主義、資本主義、分業の進んだこのシステムに置いてけぼりにされてしまった思考能力達がたくさんいるのだ。毎晩仕事から帰ってくる父に、あるいは毎日暑い中段ボールをたたんだり廊下にモップをかけたり階段を掃いたりしているあの清掃員に、この社会の何が問題なのか、どうすれば持続可能な営みをつくれるのか、あなたは誰に投票したのか、なにを根拠にその人に投票したのか、なんてことを問いただすのは酷なことだ。原発だって、危ないものだってことはみんなわかっているはずなのに、大きなお金が動くから、そのお金によって生活を支えられている人たちがたくさんいるから、都市部が、田舎に発電所を押しやってしまったから、原発だけじゃなくて米軍基地とかもそうだろう。だから、あとにひけなくなってしまったのだ。分りやすい黒幕なんてどこにもいない。全て不可抗力で進んでしまった物事たち。誰も悪くないとも言えるし、全員が悪者だとも言える。この大きな輪廻をもっと鮮明に認識し、逃れるために。なんでこんなことになったのかもっと勉強が必要だ。経済の世界には「脱成長」という言葉があるらしい。これは要するに経済成長なしで持続可能な社会を志向することのようだ。ここで面白いのは「脱成長」という言葉が鏡のように、「成長経済」を無意識のうちに志向してきた自分たちをうつしてくれること。

2013年7月22日25時38分

 

安倍さんに「電力が足りているとは言えない」と言わせているのは、他の誰でもない、僕だった。

 

たぶんあなたは僕だ。彼女は僕だ。彼は僕だ。あそこで雑草むしりをしている鉄道作業員は、僕だ。テレビの中で原発を動かさないといけないと言っているのは僕だ。ドームを満員にしてコンサートをしているアイドルも、それをみて騒いでいるのも僕だ。僕の前で音楽を聞きながらiPadをいじっている青年は僕だ。

「わたしたちー!」と呼びかけたいぐらいに、彼らは僕なのだ。電車で十数キロ離れたバイト先に数百円で通う為に、バイトをしているのだ。すべてこの生活の為に、この生活はあるのだ。このあらがえない輪廻から解脱するには。

 

 

参議院議員選挙で、三宅洋平というミュージシャンが立候補した。「選挙フェス」というスローガンをかかげ、うたを歌うように街頭演説し、道行く人の足を止めていた。凄いのは「選挙は賢くなるチャンスだと思うんだよね。みんなで賢くなって、みんなで国会へ行こう。俺の事は応援するな。頑張れっていうな。おれもみんなを応援しているから。」という主張。「脱戦争経済と、環境問題の解決」をやりたいこととして、意見が違う相手とも、「チャランケ(アイヌの言葉で開戦前夜の話し合いの意らしい)して、言葉の粋を尽くして、ユーモア交えてとんちきかせて、思いを相手に伝える。で、相手の主張も、相手が何に乗っ取って、自分と違う主張をしているのかもちゃんと聞く。で、和をとって、お互いに納得できるようにすすめていく。誰も傷つかないようにする。」という主張もしていた。民主主義は、有権者がちゃんと勉強しないとうまく機能しないと思っていた。社会学者の宮台さんも「任せて文句言う社会から、引き受けて考える社会へ」ということをずっと言っていたけど、社会学者という立場を守りながら言っているだけだった。今回三宅さんは、立候補という手段を使って、ミュージシャンという職業はいったん置いといて「みんなで賢くなろう」と、本気で言っていた。わざわざ全国比例区から立候補して、全国をまわっていた。

結果的に落選したけど、17万票もの支持をあつめた。僕も彼に一票いれた。そして、もっと勉強しないと、と恥ずかしくなった。

彼の演説がたくさんyoutubeにのっているのだけど、そこに誹謗に近いような意見がたくさんあった。

彼は、意見が違う人達とこそ徹底的に話し合うべきだと言っているのに、そのステージに登ろうともしない人でたくさんいる。黒人を気取っているだけだ、とか、具体的に何がしたいのかわからないヤク中だとか、好き放題言っている人達がたくさんいる。(インターネットは、世界のみんなを繋いだんじゃなくて、インターネットという別の小さな世界をつくっただけなのかもしれないなと思う)。三宅さんがいう、人との対話「チャランケ」は、どうしようもないバカの壁、認識の壁、態度の壁によって、隔たれてしまっている。なぜそんなことが起こるのか。みんな自己批判の訓練を怠ってきたから。ひとが頑張っているのが気に入らない人たちがたくさんいるから。いろいろ理由はあると思う。

みんなが熱く議論できるほど、社会は単純にできていない、心のねじ曲がった奴もたくさんいる。

三宅さんは「理想主義者」なのかもしれない。と、思ったとき、三宅さんを「理想主義者」と言いたい僕の心の動きが、彼ら「対話をしようともしない人達」を生み出しているのかもしれないと思った。理想主義者は、自分のことを理想主義者とは言わない。

まあでもとにかく、あたらしい動きがでてくるのは面白いし、僕も勉強しなくちゃいけないなと思う。いまの30代でがんばっている人達についていき、追い抜けるように。

2013年7月21日04時44分

 

バイト生活、特に清掃のバイト。毎日同じ時間に同じ場所に通わなくちゃいけないことの精神的負担。

体の一部がおおきな歯車にもっていかれている感覚。人間の身体にあっていない歯車に。

そしてこの自体を招いているのは僕自身であることに気付く。この生活を維持するために経済がつくられ、そして経済を効率的に動かすためにこの生活もまたつくられていることに気付く。この生活をささえるため、毎日毎日同じ場所に通って仕事をしなくちゃいけない。コンビニを24時間うごかすために。ハンバーガーをひとつ100円で買うために働かなくちゃいけない。この生活を維持する為に原発も動かさなくちゃいけなくなっているし、原発をうごかすためにこの生活を続けなくちゃいけなくなっているということに気がつく。

2013年7月20日21時23分

 

あのバイト生活。逃げたいとしか思わなかった。わいて来る感情は吐き気のみの生活。楽しい仕事なんて無えよ、とチーフが言っていた。なにかに見切りを付けて生きている人達がたくさんいた。

福島の事故で放射能が拡散してから、移住についてずっと考えている。「移住」というのもなんか違う。もっと「生活のありかた」そのものについて。

どこどこに行く、というと仕事はどうするの?そこで何するの?と聞かれる。生活の重心が「移動」ではなく「定住」にあり、そのせいでどこかに逃げようというきも起こらないし、土地のしがらみに振り回されたり、そのはてに思考がとまってしまう。日々の時間を費やすこと、テレビを見るとか(テレビみないで、普段なにしてんの?と言っているバイト仲間の人もいた)車を洗うとか、「旅行」にいくとか、誰が嫌だとか、誰が好きだとか、そういうことに意識が向けられてしまうんじゃないかと思った。この社会では「同じ場所に長くいる」というだけでステータスになってしまう。同じ場所に長くいるだけで、どんな人間でもそこそこの信用と力を手に入れられる。仕事を覚えて給料も上がるし、クビにされにくくなる。人が動かなくなるし、新しく入ってきた人もとてもやりづらくなる。その模様を、バイト生活で見た。

この1パターンだけが生活のありかたで、不満があれば見切りを付けてやっていくしかない、というのは我慢ならない。

もはや「ふつうの状態」という状態は存在しない世界になりつつあると思う。あらゆる状態は「状態a」「状態b」という風に並べられ、選択されるのを待っているように思う。そんな世界がみえる

 

リーダーには、リーダーの言うべき正しさがある。リーダーを糾弾するものは、リーダーを糾弾する者がいうべき正しさがある。リーダーの正しさと、それを糾弾する者の正しさは違う。

しかしいまは、そんな普通の状態ではない。歴史と未来の危機。「成長しなければ」という考えすら見直さなくちゃ行けないところにきていると思う。それに気がついている人もいるだろうに。でも、リーダーはそれを言ってはいけない。今の状態で、リーダーが「成長しなくてもいい」とは言えないのだろう。裸の王様になっている。

 

本当に面白い表現は「何かを志向している状態」のなかに宿るのだと思う。「何かをやりとげた状態」ではなくて、「何かをやろうとするその過渡的な状態が、表現に反映された」そのときに、表現は強く力をもつのだと思う。

2013年7月18日23時53分

 

ガーデンの方のバイトはこちらのシフトを申告することができるから、まだマシなのだけど、清掃のバイトの方は、僕の体調、予定、精神状態、天候に関わらず、必ず平日の毎朝に行かなくてはいけない。このストレス、精神的負担は尋常じゃない。この社会を動かしている歯車。人間の為につくられたものなのに、人間の身体を無視して設計された大きなシステムに、体の一部を奪われてしまった感覚。

どこかの企業に就職したら、こんな感じの生活になってしまうんだろう。そんなのどうかしてる。なんでみんな平気なんだ。どうでもいい。真剣に議論するに値する事なんて、滅多にない。どうでもいいことばかり。それをみんなで必死に話し合っている。トイレ清掃の時間短縮とか、日々の売り上げ獲得についてとか、バケツの排水のし忘れは連帯責任だ!とかなんとかかんとか。ほんとどうかしている。

 

目は、澄んできている。感覚は鋭くなっていると思う。中途半端につくられたもの、ごまかしがあるものがわかるようになってきた気がする。このバイト生活は、それ以前のぼくの作家生活を相対化してくれている。いまのバイト生活のほうが、彼女との関係がよくなったり、「応援しているよ」と言ってくれる人が増えたような気がしないでもない。増えた、というかその声がよく聞こえるようになってきた。みんな、自分より弱い者が立ち上がるのを待っているのだ。みんな驚きたいのだ。特に、自分より弱い者が立ち上がる事に驚きたいのだ。この時期に、何者でもない僕の事を応援してくれる人達のことを、一生大切にしていきたいと思う。

 

僕は理想主義者なのかもしれない。建築は人が使うものをつくる仕事だ。そこに自分の思想をのせて何かを表現しようとする人達。自分の傲慢を他人におしつける建築家たちと、それをもてはやしてスターに祭り上げる建築界の雰囲気が許せなかった。そこに入っていく事ができなかった。

現代美術家として活動してみて、ただ生きることを繰り返す日々から逃れるためにやりはじめたのに、それがまたするにルーティンワークになっていくことに気がついた。自分をコンテンツ化する作業。生産と消費の追いかけっこをする覚悟が足りなくて、自分の制作へのモチベーション維持に危機感を覚えた。自分で自分の作品を濁しているような感じがあった。作品の中に詰め込む「覚悟」が薄くなっていった。自分をおいつめるために、バイト生活をしてみようと思った。社会にまみれてみなければと思い、バイト生活を始めた。展示をいくつか断った。コンペや助成金などに応募するのをやめた。共同アトリエを出た。

ブコウスキーの詩にこんな感じの言葉があった

「俺は生きているけど働いていない

彼は働いているけど生きていない」

「働いているけど生きていない」という感覚。いまは、日々内圧が高まっているのを感じている。表現への欲求とか、有名になりたい気持ちとか、僕のことを笑っている、あきれてみている人達を見返してやりたいという欲求。

お金を稼がないと生きていけないということは知っていた。噂では聞いていた。

「目」は澄んでいった。何がヤバくて、何がヤバくないかを見極める目を磨く努力を怠ってはいけない。

 

最近読んだ本

遠藤周作「沈黙」「深い河」

ジャックケルアック「路上」

ジョンクラカワー「荒野へ」「空へ」

チャールズブコウスキー「ポストオフィス」「酔いどれ紀行」「尾が北向けば」「モノマネ鳥よ、俺の幸運を願え」

2013年7月9日24時25分

 

あっというまに夜になってしまう。

明日からはまたガーデンのバイトだ。

今日、家でずっと作業していることに耐えられなくて、渋谷までいって想田和弘さんの「選挙2」をみてきた。三時間ちかくある大作だったけれど、あっというまだった。「民主主義」にせまる。という側面よりは、「ジャーナリズムやドキュメンタリズム、当事者性と他者性、主観と客観などなどの、そういったかんじのもの」と「議会制民主主義・あるいは選挙というシステム」との関係にせまった映画という感じがした。映画を観ているぼくは当然、主人公の山さんに感情移入して、応援したくなるのだけれど、結局最後は(山さんの戦略不足もあって)9人中5人

が当選する選挙で落ちてしまう。という無情な結果に終わる。それが選挙なのだ、と思う。以前、衆議院議員選挙で自民が圧倒的勝利をおさめた時にも感じた絶望に似ている。自分達が、実は少数派なのかもしれないという不安。多数がどこにいるのか分らない感じ。投票率の低さ。

みているぼくは、山さんが当選するか落選するか「本当に分らないなあ」と思いながらみていたけれど、ふたをあけてみると、得票数は最後から2番目か3番目の、完全敗北だった。これをスクリーンの前のぼくは「これは結果がわからないなあ」と本気で思っていたのだ。

 

そして帰ってきて、9党の党首討論をやっている。安倍さんが一番まともに現実的なことをいっているように思えてくる。実際に政治を動かしているという自覚が、言葉から感じられる。それにしても、本当にこの社会はうまくできているなと思う。敵をつくることによってしか満たされない欲望は人間みんなが抱えていると思う。それを、実際に暴力にさせないで、敵を作りながら、国を発達させていくしくみというか、それがとてもよくできている。

外山恒一さんが言っていた「議会制民主主義は、革命や維新を防止する為のシステムである」。この民主主義の範囲内でいくらがんばって立ち回ったって、本当に革命がおこるわけではないのかもしれない。選挙では何も変わらないという感覚はここからきているのかもしれない。政治に飽きているというか、茶番に見えてきてしまっている、という感覚が(それは恐ろしい感覚だ。できれば持っている事を認めたくない)少なからずある。東浩紀さんがいつだったかツイッターで言ってたことが思い出される。

 

この国は、成長せずにはいられないようにできているらしい。本当の事をいう政治家が一人くらいでてきてもいいと思う。もうこれ以上の経済成長を望むのは、酷なことだと思うのに。

2013年7月9日(火)10時17分

 

表現者なら全員尊敬できる。

「命を救われた」というのは大げさかもしれないけれど、発狂せずに生きていられるのは、彼らのおかげだと思っている。

転覆を志向するアクティヴィストやピエロのような存在にはなりたくない。アクティヴィズムは、転覆への志向性そのもののなかに宿り、転覆が成功してしまったらそこで終わりだ。彼らのことはとても尊敬しているけれど。

ただ移動をしつづけ、土地や共同体への参加と脱退を繰り返し、たくさんの生活圏、コミュニティ、個人の感覚を、複数化していくこと。着陸したら出発し、出発したらすぐに着陸する。着陸したと思ったら、それは出発であったり、出発したものだと思っていたら、それは着陸であったりする。

 

 

この社会はお金を払う方が、サービスを提供する方よりも偉いという考え方があまりにも一般化している。

一週間という考え方を「人間」にあてはめたときの取りこぼしが多すぎる。

例えば「ある名付けられる以前の状態の存在。それは四つ足で、尻尾があり、足が早く、人や物を運ぶ事が出来る」を「馬」と名付けたときに取りこぼしてしまうものたちのために美術はある。

 

 

そのうち「全席優先席車両」なんかが登場して、働く者たちは狭い車両に押し込まれ、年老いて働かなったものたちが、ゆったりと席に座るのが当然のようになっていくかもしれない。

2013年7月8日(月)23時28分

 

毎日、同じ時間に同じ場所に通うことが、人の心に及ぼすもの。

「誰にも気付かれなければ、本人にさえ気付かれなければ、殺しは許される」

休む事は許されない。体の不調や、精神の不調で休むことは許されない。「あなたの都合で」休むことは許されないという無言の、強力な圧力。遊びの誘いを断る時でさえも「今日はなんか気分が乗らないからパス」という風に答えづらい。それはこの風潮、この圧力が人の心に及ぼした影響だと思う。

2013年7月5日(金)09時36分

朝の、清掃のバイトが辛くなってきた。毎日同じ時間に同じ場所に通うということが、こんなにも人を疲れさせるのか、と思う。

寝不足というのもあるけど、それ以上に、同じ場所に今日も明日も明後日も行かなくちゃいけないということがとても重荷に感じる。しかも、そこで僕は一人でただ作業をこなすのみだ。まずビルの裏口から暗証番号を入力して、中に入り、正面入り口を開け、エレベーターで地下一階に下り、鍵をとり、管理室の扉をあけ、そこで着替えて、ゴミ袋と掃除機とモップと、タオルやスポンジや洗剤が入ったバケツと、「清掃中」と書かれた黄色い看板をもって、二階に上がり、2階に入っているテナントの扉をあけて、なかのゴミ箱を全部ゴミ袋にうつし、掃除機をかけ、流し台をあらい、机をふき(ビルに入ってからここまで45分くらい)、おわったらテナントの扉を閉める。2階共用部のトイレを掃除(トイレは男女各五分以内がベスト)したら、1階に降りて、ロビーに掃除機をかけて、ガラス戸をふいて、1階のトイレを掃除し、地下に降りる。地下のロビーも掃除機をかけ、トイレも掃除し(地下にはテナントが入ってないから、トイレの掃除を毎日する必要はないはずだ)、そこまでおわったら、今度は1階と地下1階を結ぶ外階段に置いてある灰皿を掃除する。帚とちり取りをもってビルの周りを「拾い掃き」する。以上でおわり。これに加えて、火曜日は、ビルのオーナーの住居部分の掃除がある。

これを一人でこなすのみ。それを週に五日間毎日やる。一ヶ月で20回として、一年で240回やる。2階のゴミ箱は、8個くらいあるから、1年間で2400回ゴミ箱を空にしている計算になる。

僕は一年間もこの仕事を続ける気はないけど、当然これを続けている人達がたくさんいるのだ。世の中には、一年間で240回も灰皿を交換して2400回もゴミ箱を空にしている人達が、たくさんいることがわかる。

このバイトから帰ってくるのが、一日の中でいちばん辛い時間になっている。朝の9時の時点で、僕はへとへとになって、体をひきずっている。

僕は、こんな仕事には就きたくないと思うし、頼まれても就職なんてしたくない。でも、この会社にもたくさん社員はいるし、それを生涯続けたひともいるだろう。

それは才能なのかもしれない、と今日作業中にふと思った。僕には清掃員の才能は無い。という言い方ができる。清掃員の才能がある人がいる、という言い方ができる。仕事の多様性は、そのまま人間の多様性と重なる。でも、人間の多様性はもっともっと無限のものだし、仕事の多様性と重ねてしまうのがもったいないという考え方も出来る。とにかく、この社会は本当によくできているなと思う。

 

僕たちが移動と生活を分けて考えてしまうのは、家を持ってしまっているからだと思う。最近、ビアガーデンのバイト現場に、新しい人が2人はいってきた。新しい人が入ると、それまでいた人達は、「あたらしい人」という共通の対象が生まれる。そうすると、それまでぎくしゃくしていた関係がうまくまわりはじめたりする。人の移動と、それによる心境の変化を見逃さないこと。日々、参加と脱退をくりかえすこと。

2013年6月22日24時54分

 

今日、ガーデンのバイトにいく前に新橋の鉄道歴史記念館(だったかな)に行ってきた。

ジオラマの企画展示を見に行ったのだけど、とても見応えがあった。時間がなくてぜんぜんゆっくりみられなかったから、今度また時間をとっていこうと思う。

ここで思ったのは、ジオラマにいまいちリアリティが持てない(限られた世界の中の技術の比べ合いになってしまっているように見える)のは、僕達がふだん目にしている実寸のスケールから、一気に、ジオラマ内の世界の縮小されたスケールに飛躍してしまうからだと思った。あいだに、緩衝材がないから、そこが別の世界のように見えてしまう。目の直前では実寸大だけど、目から離れるにつれて縮小率を大きくして、ほんの数センチ先のものを、数百メートル先にあるようにみせる。そうしていったら、どんなふうに見えるのだろうと思った。まあだれかがやっていそうなことだけど。

その後バイト。終業後の終礼で、「女子達がぜんぜんうごかなくて嫌になる」的な話を、チーフと、男子スタッフ一人とはなしていた。僕は、全部どうでもいいと思っているし、全員が出来すぎるのもつまらないからこんな感じでいいんじゃないかと思っている。ああ、いま気がついた。彼らは「効率を上げる」ということを無意識のうちに目指そうとしているのだ。演じているのだ。この社会で生き残る為に、無意識のうちに演じている。例えばチーフは、なにか注意することをみつけなければ、と思っている。例えばそこに同席した男子スタッフの人は「自分はできている」という前提で話している。あまりにもその前提で話すものだから、こっちとしても「この人はできていて、他が出来ていないせいなのだな」という考えにすこしずつ変わっていってしまう。面白い。

チーフの方は、これは僕が塾講師のバイトの研修をしたときに、体験授業後の親子面談で、「娘さんはとても飲み込みが早いし、賢いです」的なことを母親にいって、その親子は帰っていったんだけど、その後その塾の先生(社員)から「何か弱点を指摘してあげないと」と言われたのと同じだ。「これが仕事になるのだから」「これがおれの立場なのだから」という、社会的な刷り込みをさせられている。

 

出来ない人間をできるようにするには、「やれ」「もっと動け」と注意すればいいというものではない。それは、「効率的じゃない」。すべて自分の問題なのだ。他人に期待したらダメだ。人がやらないのは、自分のせいなのだ。

6月21日(土)25時25分

 

ここ数日間ずっと雨が降っているか曇っている。じめじめしている。

夜、布団について、あとは寝るだけっていう時に、窓から雨の降る公園を眺めるのはとても気持ち良い。

雨が降ると、ビアガーデンはたいてい中止になる。

今日も一日雨が降っていた。世間的には、今日は金曜日で、予約もたくさん入っていたのだけれど、この雨には、金曜も土曜も平日もクソもないから、関係ないのだ。僕はバイト先で、雨の降る外を眺めながら、もし、僕達人間の世界の金曜日が、一日ずれていたら。つまり、この歴史の最初に曜日を定めるのが、あと一日遅かったら、今日はまだ木曜日で、この予約もそんなにたくさん入っていなかったかもしれない、なんてことを思っていた。

とにかく今日はつかれた。昼寝をしていない。今日は、清掃のバイトから帰ってきてすぐに小津安二郎の「秋刀魚の味」を見たのだ。素晴らしかった。カメラワークと、構図と、脚本、台詞の言わせ方、こまかい動作や小物の配置など、すべて計算されていて、観た後に、強く「体験した」という感じがあった。

映画もだけど、最近、本を見まくっている。実家に帰るまえよりもはるかに速いペースで読んでいる。ひと月に4冊か5冊くらい。次読む本が無くなってしまうのがこわいくらいだ。たぶん僕は、かつて体験した事のない、いまのバイト生活で、精神的なバランスをとるために読んでいるのだと思う。本の中にのめりこむことによって、いまの、フリーターと化して働きまくっている自分を、対岸に置いて、相対化しようとしている。そうせずにはいられないのだと思う。いまのところ僕が読みたいのは、物語に限っているし。

2013年6月18日(火)25時24分

 

今日も一日バイトであった。ビアガーデンのバイトでちょっと久しぶりにチーフに会う。この人がいろいろ細かいことをぶつぶついってくる人なのだけど、今日も相変わらずであった。僕は、この方法は、スタッフを育てるのに有効な方法ではないと思う。僕は支配人のやり方の方が好きだ。まずは、自分で考えさせて、うまくいけば褒めて、失敗したらその責任を自ら取る、っていう方が断然効果的だし、部下からも好かれると思う。支持をだせばそのとおり動くというわけではないのだ。人間は。それぞれに誇りを持っているし、それぞれ得意な「やりかた」があるし、自信もあるはずなのだ。いろいろ細かくいわれるせいで終始緊張してしまい、うまく体が動かなくなるせいで自分の力が十分に発揮できず、それでまた怒られてしまうという循環に陥っていると思う。

 

猿がだんだん立ち上がって、人に進化していくあの図で、人の後にお墓があるという絵が思い浮かぶ。

2013年6月17日(月)20時53分

 

今日はガーデンのバイトは休み。希望休で休みをもらった。吉原芸術大サービス2014の助成金二次審査があったので、そこに行って来た。といっても僕は一言も話さず、顔だけ見せるという感じだった。

その前に、清掃バイトの帰りにお茶の水のレモン画翠にいって、遠足プロジェクトの材料を見てみた。

そこでは結局、下手にジオラマを真似るよりも、紙でつくるのがベストという結論になって、ほとんどなにも買わずに(カッターの刃だけ買った)出て行った。

助成金審査の帰り道、上野公園に寄ってみると、不忍池が、通行人の多くが足を止めて眺めてしまう程、美しかった。数百メートル先まで、びっしりと茂った蓮の葉に、傾いた陽があたっている。遠くには高いビルが並んで建っている。僕は遠足プロジェクトのことを反射的に思い出して、これをつくろうと思った。この遠近感、この距離を、29センチのランドセルの中に閉じこめたい。

これでようやく決まったような気がする。でも、時間がないぞ。

なんだか、最近暑さのせいとか、ベッドのある部屋に制作場所を置かざるを得ないせいか、遠足プロジェクトの作業がぜんぜんすすまない。まあいろいろ理由を付けているけど、結局僕自身の必死さがたりないだけなのだ。やっかいな展示を引き受けてしまった。。

僕は何がしたいのか。本当に美術を一生やっていく気があるのか。

クーラーがこわれている。たぶん、フロンガスがぬけている。

最近、こわくなってきた。おおきな壁が目の前に出現したような感覚がある。八方塞がり。

 

実家には、弟も住んでいる。彼は、ブレイクダンスを相変わらずやりながら、相変わらずドミノピザでバイトをしている。ダンスをこれだけ長い間好きでいられるのはすごい事だと思う。たぶん毎日筋トレをしているのもあって、体格がすごくよくなっている。タンクトップなど着るようになってきている。けど似合わない。なんだか無理してタンクトップを来ているようにみえる。いや、体格はタンクトップを着るにふさわしいのだけど、なんだか根本的に無理があるような、へんな感じがする。昔の豊を知っているからなのか。わからない。そのファッションを実家でやられてもなあという感じもする。いつだったかもーりーから、ジンヨハネスさんが実家暮らしだと聞いて衝撃を受けた事を思い出した。いま。

そういえば僕は昨日眼鏡を買った。この眼鏡も、彼女に「似合うよ!」と強めにいわれて、僕もまあ悪くないような気がしたから買ったけど、本当によかったのかわからない。なにもかもわからないぞ。

2013年6月15日(土)25時10分

 

雨が降ってる。今日もガーデンのバイトがあった。天気予報は夕方から雨だったらしいけど、結局夜まで降らず、ガーデンは通常通り営業した。

最近、天気予報が全然あたらない。

いまお花茶屋は雨が降っている。良い雨だ。さぁーっという感じで降っている。部屋の中から雨が降っている外を眺めるのは、とても気持ちよい。これだけ気持ちよければ「雨が好き」といっても許されるような気がする。

今日、バイト帰りにいつも通り缶ビールと無印良品のおつまみをファミマで買って、新橋の駅前あたりまで歩いていて、京浜東北線が道路のうえを走っていき、その下にはタクシーと、信号と、行き交う人々。その上には、高いビルが何棟か見える、そんな風景を見たとき、なんだか、悟りを開いたような、穏やかな気持ちになった。僕達人間は、何世紀もかかって今日の生活を手に入れたのだ。それは、何世紀も前から、一人一人の人間が、なんとか今日までバトンをまわしてこれたから、成り立っているものだ。でも、彼らはみんな死んでいった。そして僕たちも、まあうまくいけば、バトンを次の人に託して死んでいく。最後には死んでいくのに、なんのために、ここまでの生活を手に入れることができたのか。それはたぶん、生きていて、なにもせずにはいられない、前に進まずにはいられない人達がたくさんいたから。彼らは、「自分はどうせ死ぬから」といって、何もしないわけではなかった。

そして、今日にいたるまでの、ヒトの進化は、一人一人の体の中に宿っているのだ。ひとりひとりが、小さな単細胞生物に始まって、地球の歴史と共に、ほ乳類になり、チンパンジーになり、人になっていった歴史を背負って今生きているのだと思った。これは何かの比喩とかではなくて、事実としてそうだといえると思った。まちゆく一人一人が、数千万年という生物の進化の歴史を背負っている。それに気がついたとき、目の前にすごい光景があらわれたような気がした。

2013年6月12日(水)24時39分

 

今日は、関西から東京に来ている津川まぁ子ちゃんから誘われて、「第4回うんこ映画祭 うんこフェス」なるイベントに行ってきた。僕はまぁ子ちゃんのゲストとして入れたから無料だったけど、普通にいったら2000円以上払わなくちゃいけないイベントである。

内容は予想通り(?)ひどいイベントだった。驚くべきは、イベントにそれなりの人数のお客さんが来ていたことと、みんな楽しそうにしていたということだ。

僕は「美術」「表現」について考えざるを得なかった。遠藤周作の「沈黙」を読み終えたばっかりだったからか、このうんこイベントは、日本の一部の(ある種の)人達が美術と言うツールを手に入れてから、少しずつ時間をかけてこのような形になるまで、極端に偏って解釈していった結果生まれたイベントだと解釈してみた。

とにかく、こんな世界があるということは、まぁ子ちゃんから話で聞いてなんとなく知っていたけど、実際にいってみると、まあひどいものであった。でも、あれに救われている人もたくさん居るのだと思う。本当にいろんな人がいる。

最後まで居られず、途中で帰ってしまった。

2013年6月11日25時10分

 

「吉原芸術大サービス2014」の打ち合わせからかえってきた。

ついさっき「今日は夜に打ち合わせがあるなあ」と思ったばかりのような気がする。

それから今まで、なんか別の人が僕の体に入っていたみたいな感じである。今日は打ち合わせがあるなあと思っていたときと、今の「心の様子」は似ている。これが人と会って話す、ということなのか。人と会って話すと、それ仕様のスイッチが頭の中で切り替わるような、そんな感覚。そして、より深く思考の中に潜り込んでいけるのは、一人のとき、いまのこの頭の状態のときだ。夕方に寝たからあんまり眠くないし、お腹もちょっと減っている、という感じ。この時が、思考が深く潜り込みやすいと思う。

毎日バイトをしていて、職場でいろんな人と接したり、仕事嫌だなあと思ったり、もっと遅くまでおきていたいけど、明日朝早いからもう寝なくちゃ、等と思っていたりする。

2013年6月8日24時17分

昨日のバイト終わりから今日にかけて、御殿場に富士山を見に行った。遠足プロジェクトの制作のためもあって、観る必要があったのだ。新橋から23時57分発の東海道線に乗って国府津に向かったのだけど、戸塚で、何故か突然猛烈に気持ちが悪くなって、お腹が痛くなり吐き気もでてきて、たまらず電車を降りてしまった。

駅のトイレに駆け込んでなんとか収まった。けどもう電車がなかったので、国府津には行けず、戸塚の漫画喫茶で一晩明かした。

寝たのは1時過ぎだったけど、五時ごろには目が覚めた。最近、ながくても4時間半眠ると目が覚めてしまう。でも、漫画喫茶で目覚める時の、「ここはどこだっけ。俺はどうしたいんだっけ」みたいな、右も左も過去も未来も分らないような感覚は嫌いじゃない。

 

そのあと御殿場までいった。駅には登山客らしき人が十数人居た。外国人3人組が「フジー!」と叫んでいた。

富士山がよく見える所まで、バスもつかいながらのぼっていったけど、何故か富士山の周りだけ、まるで山を隠すように厚い雲がかかっていて、まったく見えなかった。

1時間くらい、待ってみたけど、雲はとれなかった。僕が居る所は日が射していたのに。でも、思い立って自分がいる場所の標高を調べてみたら、600mちかくあった。

「富士山は見えない」と思っていたけど、気がつかないうちにすでに富士山のうえに立っていたのだ。

富士山は、見るものでもあるけど、登るものでもあり、また営みを載せるものでもあった。この感覚は、いってみないと分らなかった。なんていう勘違いをしていたんだろう。

いまこの日記を書いているこの東京都葛飾区の僕の家も富士山の上にある、という見方もできなくはないと思う。

というか、本州全体だって、富士山に載っているという言い方もできる。どこからどこがこの山で、どこからどこがあの山で、なんて、人が恣意的に、話をスムーズにするための便宜上、区別しているにすぎない。

何日か前に、気象庁が「梅雨入り宣言」とやらをしたけど、その宣言を聞いてから今日まで、雨の日があった記憶はない。ずっと晴れているか、曇っているかだし、しかも毎日暑い。「この日から梅雨です」なんて判断はそんな明確にできるはずはないと思う。それと富士山の話もつながっているように思う。

でも富士山は、晴れた日にもう一度いきたい。

2013年6月6日(木)25時10分

僕達は、すぐに「共通の敵」をつくりたがる。僕も、ちょっと油断するとある人を、他の人達と一緒に敵に仕立ててしまいそうになる。

あぶないあぶない。それだけはだめだ。もっと大きく相対化するのが僕の使命なのだ。社会の中に収まって自分を相対化するようなみみっちいことはしてはだめなのだ。

2013年6月5日25時12分

さっきバイトからかえってきた。キッチンには、僕の分の晩ご飯が残してあった。本当にありがたい。ガーデンのバイトは、たくさん入ってるだけあって、他の人達よりもだんだんまわりが見えるようになってきたと思う。

同じバイト仲間や、上司も、みんな、それぞれに「信念」を持っている。それを自覚していない人がほとんどだし、あんまり褒められたものではないものも在るけれど、それぞれ「ここは譲れない」という思考の"こり"のようなものをもっている。それは、信念と呼んで差し支えないと思う。

それはそうと今日、北海道のれいこおばさんからの葉書によって、村上家のルーツが、瀬戸内海の淡路島にあることがわかった。僕の曾曾おじいちゃんは、淡路島の人で、船大工の名士だったらしい。

なんだか、僕が四国の高松とかに行くつもりになってるのも、四国に行くイメージが思い浮かべやすいのも、もともと瀬戸内海の血をひいてるからなんじゃないか、という気がしてきた。すごい。百数十年ぶりに、四国に帰るのだ。おじいちゃんから、曾曾おじいちゃんが住んでいた家の住所を聞いておかねばならない。

2013年6月5日(水)10:15

 

今日清掃のバイトからの帰り道で、ふと思いついた。このバイトを始めてからずっと、清掃というのは社会の底辺の職業なんじゃないかと思っていた。「極めて優秀な清掃スタッフ」なんて聞いた事がないもの。母親にその事を話すと、「そうだと思うよ。だって、自分の息子が清掃のバイトしてるって、人に言えない。いくらそういう時期だと本人が言っているといっても」と言っていた。

しかし清掃員は、まちの至る所にいる。ちょっと注意して観察してみると、マンション、駅、公衆トイレ、公園、テナントビルなど、しかも、だいたいみんな同じような制服を着ている。これはすごい発見である。六本木ヒルズの清掃員も、僕と同じような制服を着て作業しているに違いない。もしかしたら、ドバイの超高層ビルの清掃員も。

清掃員は、この社会の底辺に近い職業であると同時に、どこにでもいる人達でもある。(その社会が成熟しているかどうかは、もしかしたら、清掃員がまちに居るかみてみるとわかるかもしれない。)半ばアイコン化した、誰が見てもそれとわかる制服を着ている人達。清掃員は、カバコフが「ハエ」と呼んだものたちと同じかもしれない。あらゆる階層を縦横無尽に移動している人達。闇の組織。朝、誰よりもオフィスに入るのは、その会社のスタッフではなく、清掃員である。そんなことができるのは彼らだけだ。どんな人間でも、あの服を着ていれば、その人は社会活動に参加している、とまわりに思わせる力がある。

もしかしたら交通整理の人達もそうかもしれない。いつか、どこかで知り合ったおばちゃんが、自分の、交通整理員のパートタイマーだったころの過去を、さも恥ずかしいところを見せるかのように話していた。どこで話したんだっけ。全然思い出せないけど。

2013年6月4日(火曜日)17時22分

すっかり日記の更新をさぼってしまっていた。

これからは、パソコンを立ち上げたままおいておこうと思う。少しでもいいから、毎日書けるように。

今日はガーデンのバイトが休みで、16時頃まで昼寝していたのだけど、夢で内田樹さんが、何故か美術作家の設定で出てきて、「実態縮(じったいしゅく)」という概念を僕にレクチャーしてくれた。それは、ものの表面的なかたちではなくて、ものの「実態」を縮小するという制作方法で、なんか透明なグラスが三つ逆さまに重なって溶け合っているような作品と共に説明された。

なんだか最近、こういう不思議なアイデアや音楽のフレーズが夢に出てくる事がおおい。でもたいていのアイデア達は、現実ではあんまり使い物にならない気がしている。

これから僕は、遠足プロジェクト用の写真をメールで送り、プランと制作方法を決定しなくてはいけない。このぶんだと、だいぶ前から制作を始めないと七月後半に間に合わない。あと、×日町のプランもまとめて送らなくてはいけない。

なれない生活をはじめて、体が疲れている。通勤定期をはじめて買った。こんな風に平日はほぼ毎日仕事にいって、日曜日は休みという、社会では一般的な生活をしていると、まったく、この国のこの社会はうまくつくられている、と思う。仕事をしてお金を稼いで、家賃を払ったりご飯を食べたり、眼鏡や服を買ったりする。お金を稼がないと生活ができないとされている、資本主義のシステムが、人間をうまくコントロールするために、本当によく考えられている、というか、いまはよくまわっているというか、そんな感じがする。平日は働いて、週末に家族や恋人と会って、外食に行ったり、デートしたりする。そしてまた平日になり、がんばって働く。職場では、それぞれ家族や恋人を持った人達がいて、彼らとの話題はテレビで流行っている芸人のギャグであったり、映画や音楽やスポーツであったりする。まあ、恋人や家族との話題も、たいして変わらないのかもしれないけれど。そうやって、人間をコントロールして仕事をさせて、経済をまわしていくこの仕組み。巨大なシステム。この巨大なシステムと、歴史が、抵抗する隙を与えず、僕達をのみこんでいる。この巨大な波にのまれ、クラゲのように漂う人々や、サーファーのように楽しむ人々、流れに逆らってとんでもない所にいってしまう魚のような人々、いろんな人がいる。

僕のバイト先の上司達。彼らは、もはやその他の場所で生きていくことができない。その場所に長く居る事によって、力と責任が与えられ、それが幸せなことだと心から感じで居る。彼らを笑う事はできない。それは、彼らにとって、心からの幸せだから。それをだれが否定できるだろうか。

2013年5月16日11時46分

一週間もあいだがあいてしまった。

数日前から、もうひとつのバイト「テナントビルの清掃」がはじまった。これは週5日で、基本的に朝7時~9時半、火曜のみ10時までのバイト。現場は四谷三丁目。駅から徒歩2、3分のところ。

 

椹木野衣さんが美術手帳に百瀬文さんの修了作品についての評論を書いたらしい。百瀬さんは僕と歳1つしか違わない。学年は同じ。まったく、僕は新しいバイトとビアガーデンのバイトに使う定期券を買ったり、トイレ掃除が目標5分のところを7分くらいかかってしまって「もうすこし早くね」と言われたり、ビアガーデンではハーフ&ハーフを自力でつくろうとしたところ、どうやら間違っていたらしく「わからないことは聞いてって、なんども言ってるよね」って怒られたり、チーフに好かれてないんじゃないかと心配になっちゃったりしているだけの、ただのフリーターである。ジュリアンカサブランカスも歌っている「むこうがわでは、誰も僕を待っていない。」さっきシャワーをあびながら考えていたんだけど「誰かに良く思われてないんじゃないか」っていう、完全に僕の損でしかない不安な気持ち、すごく久しぶりだな、と思った。高校生以来か、大学に入りたての頃以来か。

僕は、あのテナントビルや、ビアガーデンでは、何者でもないのだ。

毎日同じ時間に現場に行ったり、電車に乗ったり、店を開く準備をしたり、上司に怒られたりしているうちに、なんとなく気付いたことがある。

まったくこの社会は、"よくできている"。人間ていうめんどくさくて危険きわまりない生き物を、うまく社会のなかで納めるために、うまくできている、"うまくできているようにみえる"といった方が正しいか。

人がいる。あとからふりかえってみると、本当に、みんなかわいいなと思う。あのチーフは、あの支配人は、あの、僕に掃除を教えてくれたおっさんは、それぞれの世界でしかもはや生きていけない。ブコウスキーの短編小説の中にもこんなせりふがあった「チンケな人間でも、同じ所に長くいれば、ささやかな信望と力を獲得できる」。あの小さな世界の住人たち。それぞれ悩みがあり、恋愛とか性の事情があり、親が居て、故郷がある。どう転んでか、いまあの場所にあのように収まっているのだ。そしてみんな老いて死んでいく。僕も死んでいく。嫌だ。嫌だなあ。まだ数日間しか続いていないけど、毎日お金を稼ぐ為にでかけている。昨日がはたして、本当に昨日なのか、それとも一昨日なのかがよくわからなくなる。朝電車に乗り込もうとした時、このまま自分が本当に死ぬまでこんな調子なんじゃないかという"予感"のようなものが降りて来た瞬間があった。本当におそろしいことだ。でも、みんなそのように生きている。この社会では。お金が力を持っているこの社会。

もっとたくさん書きたいことがあったような気がしたけど、なんだか出てこないのでやめる。明日も五時半前には起きて、6時前の電車に乗り込んであの四谷のビルに向かわなければいけない。そのあと一回実家に帰ってきて、また1時前にビアガーデンに出かける。今日と一緒だ。

でも今日と違うのは、明日のビルの現場は、はじめて一人での仕事にのぞむという事だ。山本さんによる指導は今日までだったのだ。

2013年5月15日24時52分

既に詰んでいる。

原発はあぶないから、原発をとめている。そのかわり火力発電をつかっている。co2を排出している。

忘れていた地球温暖化が、また首をもたげる。とてもあぶないらしい。ぼくが忘れていたからと言って、その問題が存在しなくなるわけではないのだ。経済成長なんていらない。本当のことをいってくれ。

生きていかなくちゃいけない。

まさに八方ふさがり。

優先席があるからマナーがわるくなる。

発泡酒とビールの区分けはいらない。

僕のこの生活。生きていると生活がある。

ホーンテッドマンションで、案内人が最初に言った「諸君はこのへやから出る事ができるかな?私ならこうするがね」といって、首をつっている人を見せていた。死ぬという脱出。

ぼくはそれはしない。したくない。しかし生きていかねばならない。お金を稼がねば生きていけない。

生活しなければ生きていけない。

2013年5月8日(水)24時0分

昨日日記を書くのをさぼってしまった。

今日もビアガーデンバイトであった。今日で営業開始から二日目。すこし、やりかたがわかってきた。

思い知らされた事は、自分から他者への態度は、ほぼそのまま他者から僕への態度になって跳ね返ってくるということ。

僕自身が僕自身に自信があれば、他の人達も自然と僕を頼ってきたり

する。逆に、自信がないと、まわりの人達も不安になる。

大切なのは、自分を曝け出すことだ。かっこつけたり、斜に構えたり、思慮深そうな人間ぶったりすることじゃない。自分を曝け出すのが大事なのだ。そして、それがいちばん難しい。

僕は「やりたいこと」という言い方が嫌いだったけれど、それは認めるべきなのかもしれない。もっと自分が、大きな歯車にのせられている感覚というか、さも自然の法則のように、この世界に生きている事に対する、ごく当然の帰結として活動しているという感覚だったけれど、これは僕の思い上がりなのかもしれないと思う。僕は「じぶんがやりたいことをやっている」という素直な意識でいればいいのだ。

 

はやく出発して到着しろ。到着したら出発しろ。

離陸したらちゃんと着陸しろ。着陸したらすぐ離陸しろ。