住所を変えてみる。住む地域を変える。模様替えをしてみる。着る服のテイストを変えてみる。近所付き合いの距離感を変えてみる。寝る部屋を変えてみる。習慣や趣味を変えてみる。
そのとき新しい環境に合わせて、身体や精神が変態するあいだの時間が「生きている」時間で。生き続けるために、ある状態とある状態の間の往復運動をする。自分のまわりの環境を俯瞰して捉える目を持つために。より「よく生きる」ためにはどうしたら良いか比較できるようにするために。思考を常に働かせておくために。ある状態に落ち着いたとしても、そこでなにか問題が発生した時逃げられるように。

色々と考えながら描いてみたけど、やっぱり家の絵が一番、対立するものとしてふさわしい気がする。看板の絵も「近い」けど、家の絵が一番シャープでストレートな気がする。ガードレールは「遠い」。街灯はまだよくわからない。歩道橋も描いて見たい。
で今日最初の材料を買ってきた。1820×910×30mmの発泡スチロール4枚。スタイロを使うか迷ったけれど、重さがあるのと、「発泡スチロール」っていう、誰もが想像できるものを使うことに面白さがあるような気がして、スタイロはやめた。これから、大きさを決めていく。
そしてバイト生活がまた始まる。。
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昨日、香川県庁舎に行ってきた。丹下健三が設計した建物で、写真では何度か見ていたけれど、実物は初めて見た。コンクリートを使って日本家屋とか神社を思い出させるよあな作り込みが細かく行われていて、めっちゃ力強くてかっこいい建物だった。まわりのまちなみから完全に独立して存在している感じがした。
で、この建物を描こうと思ってやり始めてみたら、なんだか全然気分が乗らなくて途中でやめてしまった。

なんでか考えてみると、僕にとって建物の絵を描くということは、その対象に対する、何か攻撃めいた感情(僕たちの生活は閉じ込められている元凶の、この不動産というものを紙に小さく描ききるという攻撃的な感情がある)とか、僕自身大学で建築を専攻していたときに抱いた建築や建築家への不信感とか、そこで生活•仕事をしている人たちや、この名もない建物を記憶に刻むための描く行為とか、いろんなものが入り交じっているので、香川県庁舎のような有名な建築は、わざわざ僕が描きとる必要はないし、その建物が発するオーラも筆を邪魔する感覚があったかもしれない。なんにしても、僕がやらなくてもいいんじゃないかという気持ちが働いて、やる気が起きなかったのかもしれない。

9月までの、鬼のようなバイト生活で貯めた貯金で、いま生活できている。でもそれも残り少なくなってきた。
4月からの動きのために、3月までにまたお金をためなくてはいけないのだけど、入金予定は展示のギャラだけで、何か別にお金になる仕事を探さなくちゃいけないかなーと思っていた。
で、昨日キキさんがやってる古本屋「なタ書」に遊びに行ってみたら、なんと百貨店か何かの3月までの緊急雇用で、フォトショップのイラストレーターが使える人をさがしているという情報を教えてもらった。キキさんさすがやー!と思って、早速紹介をお願いしたのだけど、今日1日待っても連絡が無いので、キキさん忘れたかな〜それかもう人がいるのかなあ〜なんて思って、やっぱり自分で探したほうがいいのかなあと思っている。でももう少し待ってみる。

あと、一昨日税務署に行って「美術家」で個人事業主申請をしてきた。大分で小鷹さんと話して、申請を決めた。あっけないくらいすんなりと終わった

「そうではない状態」をつくりだすことによって、この世界を「そうである状態」につくりかえることができる。

[告知]

Art project Oita「循環」

期間:2013年11月9日~2014年1月5日
会場:大分市中央町3丁目3-3-19「the bridge」向かいのフンドーキンマンション4、5階

入場料:500円(期間中何度でも入場可)

参加作家:遠藤一郎、林千歩、平川渚、飯島浩二、SAVAKO、安東幸夫、水川千春、はまぐちさくらこ、秋山裕徳太子、村上慧、旅する服屋さんメイドイン、たろ、愛☆まどんな、雪野恭弘、小鷹拓郎、小野愛、篠原有司男

 

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大分での滞在制作から帰ってきて、すぐに風邪をひいて一日寝込んでました。37.5度の熱が出た。

帰りの未来へ号にのっている時点で、のどがいたくて、これは危ないと思っていたけど、未来へ号おりたあたりからだるくなってきて、家に着く頃にはもう完全に風邪ひいてた。

 

10月31日から昨日まで、大分市で開催されている「Art project Oita」に出品するため、大分市中央町にある「フンドーキンマンション」という建物で滞在制作をしていました。

Island Japanの伊藤さんと一郎さんからのお誘いを受けて参加したのですが、これがとっても楽しかったです。ただみんなでわいわいやって楽しかったというだけじゃなくて、参加作家として、ちゃんと制作ができたということをふくめて、充実した10日間でした。途中、2回くらい絶望に近い状態に陥り、夜中に走ってみたり、海まで散歩したり、ずっとやめていたタバコをすってみたりして、なんとか乗り越えて、作品に形を与えることができました。僕の制作部屋は5階だったのですが、フンドーキンマンションは、1階の次が4階になっているから、上の階の部屋に居ると地上との隔たり感が強くて、部屋にずっといるとどんどん孤立した気持ちになっていく建物でした。

最近は、映像編集の面白さにちょっとはまっています。映像の中では、例えば、町で掃除をしている清掃員を撮影して、その人が手を動かさないでぼーっとたっている瞬間だけを編集で取り出すといったことができる、みたいな、そんな映像制作の頭になっています。

 

今回の大分の滞在制作、10日間の短いあいだだったけど、古いビルにみんなで滞在して、それぞれの関係がとても密な状態で生活していたので、最後のお別れのときは、とても寂しい気持ちになりました。僕は最近までずっとバイトばっかりで、制作活動をあまりやっていなかったので、久しぶりに作家の人たちと交流して、緊張とか、不安とかで、まわりの作家さん達とうまくコミュニケーションがとれないという状態になってしまっていたけど、最終的に良い展示が作れたと思います。

また、一緒に仕事した作家さんたちの作品以上に、その振る舞いをみて、感動することが多くありました。

旅する服屋ともくんをみていて、僕自身が少し前までは、なにかと地域のコミュニティに入り込んでいくことを武器にしていたことを思い出した。地元の人が集まる居酒屋に通って仲良くなって、漁師の船に乗せてもらったり、祭りに参加したり現地の人と海に入って貝をとったり、持ち寄りの鍋をやったりして、とにかく地元の人と親密な関係をつくることを作品の一部にしていて、いまあのときみたいな動き方ができるかと自分に問うと、できないかもしれない、と思う。もう一度行かなくちゃいけない、というのが面倒に感じてしまったことが何度もあって、一度関係をつくってしまうと、それを維持しなくちゃいけない、という気持ちが勝手に働いてしまって、疎遠になった気持ちに”僕自身が勝手に”なってしまう。でも、ともくんや、一郎さんをみて、変に気を使うことは、相手にとっても自分にとってもよくないことになるのだと、改めて思った。

小鷹拓郎さんは、「自分のフィルターを通した他人の話」をするときに話し方のスイッチが切り替わる感じがあって、それがもろに今回の「401号室の元住民の展覧会を開催する」という作品に現れていて面白かった。飯島さんの作品もかっこよかった。一郎さんのもよかった。

女性作家の人たちのかっこよさにも痺れた。さくらこさんが来た初日に、部屋をのぞいてみたら床に寝ていて、その姿に作家としての覚悟みたいなものが見て取れて(というか勝手に僕が見て取ったんだけど)痺れた。さくらこさんもだけど、愛まどんなさんとか水川さんもずっと一貫したスタイルでぶれずに制作していて、その振る舞いもとてもかっこよかったし千歩ちゃんかわいかったし。

裏さんたちをはじめ、別府に滞在中の小野さんとかコーヒー屋のさくらとか、チェリーさんとか、大分を拠点として活動している人たちと仲良くなれたのも嬉しかった。しかも、なんと僕の学生時代に仲良くしてもらっていた先輩が、フンドーキンマンションの近くの飲食店立ち上げに深く関わっていたらしいということが、大分から帰ってきてからわかって、展覧会のクロージングで会う約束をした。これから何度も足を運ぶ場所になっていきそうな気がする。

 

僕はこれから、風邪をなおしつつ、自分のプロジェクトのための「練習」をはじめようと思う。この世界を、僕の活動に反射させて、大きくうつし出すために。

今回の滞在で戦っている人たちと再会できて本当によかった。「たたかっている人たち」と久しく会っていなかった気がする。またみんなと再会できるようにがんばる。

清掃員村上2

 

Art project Oitaでの展示の際につくった映像です。

 

 

ターナー展メモ

印象派などのモダニズム絵画が生まれる直前の時代を体現した画家という感じ。

光がまぶしくて、目が疲れた。

10代の頃描かれた絵画もいくつか展示してあったけど、若い頃から超絶的に絵が上手くて、理髪店の息子だとは思えないストイックさだった。初期はロイヤルアカデミー向けの写実的な作品が多かったけど、地位を確立していくにつれて、どんどん抽象的な画面になっていく。

晩年になるほど形の輪郭が崩れていって、どんどん狂っていった。特に最後に展示してあった絵が、、

歴史画よりも劣るとされていた当時の風景画の地位を上げるために、歴史的な主題を扱ったかのようなタイトルをつけて、画面の端っこにおいて、後ろに壮大な風景を描くという手法もとっていた。

 

美と崇高を志すピクチャレスクな画面を追求し続けた。

画面と向き合うと、風がふいて来る感覚。

 

 

台風が原因で福島原発で事故が起きて、関東に放射性物質を含む緑色の灰が大量に降ります。とアナウンスされている恐ろしい夢を見た。被っても直ちに健康に害はありません、と付け足すあたりが嫌にリアルだった。

 

 

2013年10月18日26時56分

 

イタリアから帰国して少し日があいてしまった。

いまこの時間でも頭が冴えている。今日の昼に6時間近く寝たから当たり前だ。これは時差ぼけなのか。夜にうまく眠れない。がんばって寝てもまた昼に眠くなる。

今回のビエンナーレの企画展は、イタリアのMarino Auritiという作家が構想した「The Encyclopedic palace of the World」(「全世界の博物学的宮殿」みたいな意味)というものから着想を得ていたらしい。アルセナーレ会場の一番最初の方にあった大きなタワーの模型のような作品は、そのモデルだそうだ。帰国してから知った。。

 

14日の15時50分の便でイタリアを出発して、15日の17時過ぎに成田空港に着陸した。帰りの飛行機の中で「MAMA」というホラー映画と「俺はまだ本気出してないだけ」という映画をみた。着陸の瞬間はBruce Springsteenの「Born to run」を聞いていた。

MAMAという映画がとても良かった。ギレルモデルトロが制作に関わっているらしいのだけど、ホラー映画の王道のようなストーリー展開をしながら、ラストで裏切られる。映画の中に不自然なところがない。なにか、あるシーンを生むために、登場人物にすこし無理をさせたりするようなことがほとんど無かったように思う。医者の先生が、一人で夜に山小屋に向かうところはちょっと?だったけれど。

最後の、MAMAが、自分の子供の遺骨を放り投げるシーンは衝撃的だった。人に勧めたい映画。

 

イタリアはとても楽しかった。後半は、ちょっと疲れたけど、帰りたくなかった。

町を歩いていて、看板も読めないし、歩いている人の会話の内容もわからないような環境にいると、自分が、本当は何が言いたいのか、何がしたいのかを、すこし深く考えるようになる。これがトレーニングになる。やっぱり、日本だけに居たらだめだ。

 

帰国してから、それまで以上にツイッターやFacebookを見るようになった気がする。なにか書き込みたいのだけど、何かが邪魔をする。これは本当に書き込むに値するものなのか、とか、そういうことをすごく考え込んでしまうし、ツイッターとかFacebookをやっていない人のことがもはやうらやましいと感じてしまうのだけど、なんでこんなことになってしまったのか。行き止まり。行き止まりだ。最近寒くなってきた。もうすぐ秋になり、葉っぱが落ちて、すぐに冬になっていく。僕の生活は死ぬまで続くだろう。この閉じた輪の中から逃げようとする試みも、すぐに僕の「生活」となってとりこまれてしまう。

革命をするのではなくて、僕の心と態度の問題だ。

言語を•貨幣を•服装を•文字を•身振り手振りを

1何か別のものに置き換える

2消し去る

3もう1つ追加する

 

もともと、僕たちは移動しつづけながら、狩りをして暮らす民族だったと仮定する。

ナウマンゾウなどの大型動物が、環境の変化に対応できず、絶滅してしまったあとの話。小振りな動物が増え、それを狩るために石器が発達した。また、狩った動物や、水を保存するための土器が作られるようになった。持っている物が少なかったから、動物達を追いながら移動が容易にできたころと比べて、土器がたくさんつくられるようになったりして、物が増えていくと、移動が困難になってきた。せっかくつくった土器を、捨てて去る訳にもいかないので、僕たちは定住をすることにした。共同体で集まって家を建て、食料を保存して冬を乗り切ったりした。そして多分、このときに「留守番」という役割が生まれて、「退屈」という概念も生まれたように思う。定住するということは、周辺の環境との関係をとても大切にしないといけない。昨日と同じサイクルを、今日も繰り返すことに神経を集中しないといけない。「生活」の閉じた輪がここから始まったように思う。

物が多くては、移動ができないというのは今も同じで、今では、物の生産が至上の価値であり、物の所有が社会的なステータスとなっていた時代の名残で、とてもたくさんの物に囲まれてしまっていて身動きがとれず、移動ができない。移動ができないというのは、たぶん想像力を殺す一番の方法なので、僕の知り合いの母親は鬱病になったりしている。

「留守番」と「鬱」には強い結びつきがある。つまり、定住と鬱には強い結びつきがある。

 

その後、農作が始まり、自分達の農地を持つようになった。すると、ほかの共同体との境界が生まれる。

そこから縄張りという感覚が生まれ、本格的な定住生活がスタートした。

聖徳太子以前の世界、豪族やら小国がたくさんひしめいていた時代。

大化の改新後、天皇を中心とした中央集権的な統治が始まり、土地は民に「貸し与えられたもの」という考え方が浸透した。貸し与えられた土地を、民は開墾する義務があり、その収穫から税収も行われた。

しかし生活が苦しく、土地を投げ出す者が多くなった。そうすると税収は減り、土地もだめになっていく。そこで、墾田永年私財法により土地の私有を認めることとなった。このとき最初の「土地の所有」という概念が生まれた。

2013年10月14日9時10分

 

また日記を書くのを忘れて眠ってしまった。エンデの「はてしない物語」を読んでいたらいつのまにか寝ていた。

今日いよいよ帰国だ。これからお昼の飛行機に乗って、日本に着く頃には15日の夕方になっているらしい。

昨日の夜、メストレの北側からホテルに帰る途中、お兄さんに「Can you speak English?」と聞かれて、「a little」と答えたら、道を聞かれた。「メストレセントレ」みたいな名前の場所へはどう行くんだ?と。僕が何日か前にたまたま通りかかった場所だ。僕は「I know.But I dont know way to go..sorry」みたいに答えた。

彼は「thank you」と言って、それで会話は終わったのだけど。終わってから驚いたのは、一度日本語で文章を組み立てること無く、いきなり英語が口をついてでてきたことに気がついた。帰りながら、もっと(たとえばI had been there.place like a market.But I don’t know the way to go.sorry.I only say.that place is there.not hereみたいに)ちゃんとした文で伝えられたらな、と思ったけど、でも突然英語が出てきたのにうれしくなっていた。そうだ。たぶん住めば話せるようになるのだ。

 

昨日は、ユーロスターイタリアにのって、ヴェローナに行った。片道一時間くらい。チケットは23ユーロ。

ヴェローナで、スカルパが50年くらい前にリノベーションした「カステルヴェッキオ美術館」を観てきた。

古いお城(700年くらい前に建設されたものらしい)を、美術館に改修したもので。これが素晴らしかった。

すこし建物に気をつけながら歩いていると(どこまでが既存の部分で、どこからがスカルパが手を加えたところなのか)じわじわとこみ上げるような感動がわいてくる。古い石の壁や床や天井に、鉄の躯体や扉や梁が、やさしく寄り添うようにくみ合わさっていて、スカルパがながい期間をかけて誠実に設計に取り組んだ様子が目に浮かんできた。とくに、屋根が途中で終わっていて、まだ工事中なのかと思わせるような部分があったんだけど、そこの止め方のセンスが鳥肌もので、まるで、まだこの建物が完成していなくて、さらにまた次世代の人たちがこの建物を引き受けて改修を進めるのを待っているかのようなたたずまいをしていた。

展示物の量も多くて、14世紀~18世紀くらいのイタリアの彫刻や絵画を展示していたのだけど(フランドル派とか)、こんなにたくさんのものが、お城と一緒にちゃんと残っていることが新鮮で、後にみたAnfiteatro Arenaのレンガの壁が薄っぺらくて今にも崩れそうな感じで何百年も残っている様子も印象的で「地面が揺れないから、千年前に積んだ石が今も崩れずに残っている土地」なのだと思う。

そのあと町をふらふらして、中華料理屋でたくさんのビールと一緒にご飯を食べたのだけど、このビールが余計だったのだ。。店を出てすぐに、トイレにいきたくてたまらなくなり、駅まで急いでいったのだけど。。

帰りは、各駅停車(レジョナーレ)でメストレまで帰ってきた。こっちのH&Mで下着を買って、帰りがけにまたバーピッコロで、パスタとカプレーゼを食べた。ビールも飲んだ。この感じのいいおじさんのお店で食べられるのもたぶんこれで最後だ。とてもいいお店だった。チャンスがあればまた訪ねてみたい。

 

殺すな。と強く思った。

みんな生への意志として運動しているだけなのだ。

だから殺すな。誰も殺すな。

2013年10月12日19時30分

 

生活がある。それだけでなんだか笑えてくるし、感動する。彼らが何を話しているかは全くわからないけど、彼らの生活を思うと、すべてがわかるような気もする。

夫婦でお店をやっている(そのお店も、レストランだったり、雑貨屋だったり、お菓子屋だったり、本屋だったり)中をのぞいたりしてみると、彼らがお店の中でレジのお金を数えていたり、なにかを見ながら話し合っていたり、また、何もしゃべらずとも、二人の動作が、長い年月をかけて出来上がった信頼関係を物語っていたりして、彼らはここで生まれて、二人が出会って、お店をやって今にいたる。親戚も友人もいて、たまに会ってはさわがしく会話を(みんな本当に感情豊かに話をする。声も大きい人が多い。)するのだろうと思うと、それだけで笑いと感動がこみ上げてくるような気がする。

むしろ、言葉が通じないからこそ、そういう仕草から読み取れるものが多いし、僕も、言葉が通じないからこそ、自分が何を言いたいのかがより明確になるというか、そんな気がする。

町をあるいていても、書かれている文字はほとんど読めないし、すれ違う人の会話もまったく聞き取れないけど、彼らの表情から、言葉が理解できるときよりも、より多くを読み取れるような気がする。

ここにきてよかった。いろいろとコンプレックスを感じることは多いけど、来て本当によかった。こうやって、いろんな地域を2ヶ月くらいずつ転々としてみたい。

 

こっちのお店は、それぞれ看板が個性的だとか、自分のお店の名前を全面に押し出したりだとか、そういうことをしないようだ。本当にすぐ会話がはじまるので、それで十分なのだと思う。どのお店も似たような顔をして通りに面しているのだけど、そんなことは問題じゃないんだと思う。人が看板になっているという感じがする。

 

今日はミヤケマイさんに教えてもらったMURANOという島のガラスの美術館に行ってきた。「White light,Whight heat」という展覧会をやっていて、これは僕の好きなヴェルヴェットアンダーグラウンドの曲名と同じだと思ったら、案の定それへのオマージュとして付けられたタイトルらしい。良い展覧会だった。ガラスを素材として使っている現代美術を集めて展示していて、どれもよかった。美術館(多分もともとガラス製品をつくる工場だったのだろうと思う)の空間と、展示作品の相性がとてもよかったような気がする。こんなキュレーションもあるのだ。本当に面白い。

 

そのあと、すぐそばのレストラン「B」(この店もミヤケさんに教えてもらった)でパスタと赤ワインで昼食をすませて(ついに、ピザとパン以外のものを食べた!おいしかった!ちょっと高かったけど!)また船に乗って、今度はプンタデラドガーナに行った。Tadao Andoが古いお城(か教会?)を美術館に改装したところ。

ここでは「Prima Materia」という展覧会がやってた。名前がごついので、大きな美術館かと思ったら、意外と小さかった。「もの派」を思い浮かべればわかるのだけど、素材の素材性をあつかった作品を「もの派」の時代(リーウーファンとか、ジュゼッペペノーネもいた)から、ごく最近の作家の作品まで集めたような展覧会。荒川周作の平面作品もいくつかあった。面白かったけど、ちょっと点数が少なかったかなあ。知らない作家ばかりだったので、これもあとでリサーチがいる。ブルースナウマンの「No,No,New Museum」という映像作品が印象的。

 

4時前には美術館を出てしまったので、そのあとはずっとまちをふらふら。。。