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釜石のほほえむスクエアで家の修理などやっていたら、大船渡在住の人が二人わざわざ訪ねてきてくれた。コーヒーを飲みながらお話。家を背負って歩いてると体幹が鍛えられる気がするという話をしたら

「そっか。体が大黒柱になるわけだから鍛えられますね」

と言われた。そうだな。僕の体がそのまま家の大黒柱になるんだ。生活をささえるのは、文字通り僕の体なんだな。それはこの移動生活に限った話じゃない。

ほほえむスクエアを出て大槌町へ向かう。11キロくらいしかないんだけど、途中に1.2キロのトンネルがあって、そこで気力を削られた。入った瞬間から「なんかここ嫌な感じだなあ〜」って思ったんだけど、すすむうちにどんどん汗をかいてきて、思考がなぜかネガティブになって、油断したら死について考えちゃって、負けじと音楽をかけながら歌を大声で歌って(でも油断したらどんな歌詞でも死にまつわる内容に解釈しそうになる)なんとか乗り切る。疲れて発狂しそうになった。でもトンネルを抜けたとき生まれ変わったような気持ちになって清々しかった。何かを取り込んだような気がして、しばらくからだのバランスをとるのがむずかしかった。でも勝った。勝ったぞ。何に勝ったかはわからないけれど。

 

トンネルを抜けてわりとすぐ、車にのった家族連れに話しかけられる。近くで「沢口パン」ていうパン屋さんをやっている家族で、すこし事情を話したら「うち泊まっていいぞ」て言ってくれた。

店は鵜住居っていう面白い地名の場所にあった。来客ノートに絵を1枚描いた。

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ここも津波の被害がひどい。震災前は建物もたくさんあったから海なんか全然見えないところだった。でも震災後は何も遮るものがなくなって、こんなに海は近かったんだと思い知ったという。地震のあと、まさかここまで津波が来るとは思ってなくて、でも海の近くの電柱から順番に倒れていくのが見えたから急いで逃げた。という。恐ろしい。

ここは地面を19.5メートルまでかさ上げするらしい。それが終わるのはいつになるのかよくわからない、でも待つしかない。いまの仮設もいずれ出て行かなきゃいけない。仮設住宅も維持費がかかるので、まだ仮設暮らしを続けている(これも本意ではないはずなのだけど)人を集めて、空になった仮設は取り壊すっていう段階になりつつある。パン屋にはカフェが併設されていて、それは震災後にはじめたらしい。以前からやろうという話はあったけれど、震災後に山の上に建てられた仮設から出られず閉じこもっている人たちをみて、人が集まるところはあったほうがいいということではじめたらしい。

夜は家をトラックの中に入れさせてもらい、僕は仮設住宅内にある談話室で寝かせてもらう。大船渡以来二度目だな。

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そういえば昨日、家を置いた仮設商店街に店を構える写真屋さんが一枚写真を撮ってくれた。ちゃんとライティングもして。それを今朝現像して持ってきてくれた。面白い写真にな ってた。

午前中絵を描いていたら、2年くらい前に陸前高田で知り合った友人からツイッターで連絡がくる。なんと釡石に住んでるらしい。なにがあるかわからないな。
さっそく落ち合って、昨日に引き続き釡石ラーメンをたべる。以前やっていた仕事は体調を崩してしまって辞めたらしい。彼女は、前に会ったときよりもなんとなく力が抜けてリラ ックスした感じになってた。いま思うと、復興にむけてがんばるぞーって感じですこし力が入ってのかも、なんて話をする。越喜来の潮目の話をしたら「ぜひ見たい」というので、 いったん家だけ釡石の「ほほえむスクエア」というキッチンカーが集まってる広場に置かせてもらう。
ここも面白かった。ハピスコーヒーという店の前に置かせてもらったのだけ ど、そのオーナーはもともと東京で副業でコーヒー屋をやっていて、震災後にこっちの仮設住宅を車でまわってコーヒーを振る舞う活動をしているうちに
「あなたのとこのコーヒーが飲みたいのだけどどこにいるのかわからない」
という話になり、定点を持とうとしてこの「ほほえむスクエア」という広場でやりはじめたらしい。仮設住宅をまわるコーヒー屋さんって良いな。家の近くに定期的に店がやってきたりイ ベントがやってくると生活に新鮮なリズムが生まれて、たとえ家に閉じ込められたとしても発狂するのを食い止められそうだ。家族で遊園地に行って自分だけメリーゴーランドに乗ると自分はまわってるけど母親は同じところにたってて、その前を通り過ぎる時が楽しくて手をふっちゃうみたいな感じだ。本当に一人でメリーゴーランド乗ってるだけだとただま わってるだけでつまんないんだけど。で、定点をもった後もキッチンカーのままなのが良いなあと思った。
「まわる」ってのは良い。直線的に移動するんじゃなくて、ある周期でまわりつづけるってのは良い。移動しながらその場に留まる方法のひとつ。レコードを聞く時、レコードその ものは動いてないけどそれは回っているから針があたる点は動きつづける。そしたら音楽が流れる。面白いなー。永遠に動きつづけるためには直線じゃだめだ回転しないと。

彼女に潮目を見せたらやっぱり感動してくれた。その足でわいちさんの家に行って奥さんと一緒に七夕の飾り作りを手伝った。最初に顔を合わせて
「なんで戻ってきたのー」
って言われた時はどきっとした。もう過ぎた事が突然戻ってくるのはレコードの音が飛ぶのと同じだ。

帰ってきたら釡石災害FMのパーソナリティの人がコーヒー屋に来ていて、急遽ラジオにでることに。そのままスタジオに行って収録してきた。話してたら予定の30分をあっとい う間に超えた。いまならいくらでも話せるような気さえする。夜はそのままほほえむスクエアに家を置いて、友人の家に泊まる。

一つ年下で、めちゃ良いキャラをした共同通信社記者の女の子に出会ってどきどきした。あんな感じで
「共同通信のものです」
って言われたらどきっとするわ。

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「受け取る」ということは能動的なアクションだと思っているから、作品から受け取った内容は即ち その作品が「言いたかったこと」になると思っているのだけど、どうも自分には少なからず「こう見 られたい」「すごいと思われたい」みたいな気持ちがあることに気がつく。でもそういう気持ちを持 ってたら疲れるだけだってことがよくわかってきた。疲れるから、頭が自然にそういうことを考えな くなりつつあるのがわかる。どう思われても構わないから自分のことは聞かれないと答えないし、少 し話して相手にどんな誤解があっても「もういいやー」って感じになりつつある。

今日こそ吉浜を発つ。2キロ以上ある長いトンネルがあるからって、お父さんが軽トラで途中まで送 ってくれた。助かった。2キロのトンネルは歩いてたらとてもきつかっただろうな。トンネルの中は 音が反響するから、後ろからくるトラックがいまどのくらい近いのかとか、この音はもう僕を追い抜 いたトラックの音なのか、それとも後ろからまだトラックが来ているのかとか、そういうのが全然わ からない恐ろしいところだ。
吉浜では結局3泊した。超オープンマインドな家族で、赤の他人の僕 でもトイレを使ったりお風呂に入ったりするのがあまりにも普通のことのような気がするので可笑し くなった。心に裏表が全くない感じ。

すぐに釡石市に入った。ここも海抜が低い土地に家やら店やら工場やらがたくさん建っていたのでか なり被害が大きかったみたい。瓦礫を集めた山もまだあった。釡石の市街地に入ったあたりで女性二 人に呼び止められる。僕が東京から出発したことを知ったら
「私たちも横浜から越してきたばかりなんですよー」
と言う。なんか面白そうな人たちだと思って
「二人はどういう関係なんですか?」
って聞いたら
「幼なじみです」
という。面白そうな二人。もっと話を聞きたいから今日は釡石に泊まろうと思い、一晩家を置かせて もらえそうなところはないか相談したら、青葉公園というところにある仮設の商店街なら大丈夫かも と教えてくれた。1時間後にそこで待ち合わせることに。
商店街のラーメン屋で釡石ラーメンなるものを食べながら二人と話す。二人は部屋をシェアしながら 暮らしていて、震災前にも関西で一緒に住んでいたことがあるらしい。3年ぐらいで住んでる土地に 飽きちゃうらしく、僕の活動をみて「私が望む究極の暮らし方だ」って言ってた。 神奈川に住んでいたとき、岩手に引っ越すから仕事を辞めたいと職場に相談したら 「結婚するの?」と聞かれたという。そりゃそうだ。僕も香川県に引っ越す時に何人かに聞かれた。
「そこに仕事があるから引っ越す」とか「お嫁に行くから引っ越す」とかは、皆ストンと納得するん だけれど「そこに住んでみたいから引っ越す」とか「ここが嫌だから引っ越す」というのはどうも納 得しにくいらしく、職場のみんなに心配されたという。
「その年で生活を移すということにどれだけ リスクがあるかわかってるのか」とか「子供をつくれる年齢は限られてるんだぞ」とか。みんなこわ いんだ。いまやらせてもらっている仕事を手放すことになったり、自分が積み重ねた人との信頼関係 が壊れてしまうんじゃないかって思うんだろう。そんなレールから落ちないようにするために自分の 命を使うように仕向けることによってこの経済は大きくなってきたんだろう。積み重ねたキャリアや らのぼりつめたポストやらを手放したら1から出直すことになるんじゃないか、そうしたら自分は何 者でもなくなるんじゃないか。それがこわいっていうのもあるかもしれない。だからみんな心配する し、自分がそうならないようにするためだけに人生を使う。
でもこの二人は、一見とっても軽いノリで「ここに住みたいと思ったんですよ」って言う。思いだしたら、もういてもたってもいられなくなるんだろう。狩猟採集民族の血が流れてるんだろうな。 農耕民族ではなく。まだ引っ越して1ヶ月ちょっとで、このあたりのことは全然わかってないし仕事 も始めたばかりで「これからどうなるんだろうね」って顔を見合わせていた。毎夜二人で「私たち、この方向性でいいよね」という話し合いをするらしい。お笑いコンビみたいだな。この態度は強い な。どこででも生きられるだろうなと思った。
別れ際に「個展見に行きます」って言ってくれた。また会いたいな。変な言い方だけど、同じ種に属 する生物に出会ったような気がした。同志だな。

夜買い物に出かけて帰ってきたら、釡石の高校生二人に話しかけられた。美術の道に進みたいらしく、歩く家の目撃情報を聞きつけて1時間くらい僕をさがしていたという。がんばってほしい。

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吉浜は人口が増えなかったせいもあり、海の近くには家がなかったため、津波で巻き込まれた家はなかったらしい。海抜が低いところには家が一軒もない。ほとんど田畑になっている。田んぼは当然被害を受けたらしく、まだ赤茶色の土をしたつくったばかりのようだったけど、もうしっかり田植えされていた。家が流されたりしてないか復旧が早いんだろうな。昔からある家はやっぱりどれも海から離れたところに建っている。ただ今回の津波で一人だけ犠牲になったという。昭和の津波の時に、流されたまちのみんなの舟を津波が来るなか泳いで回収してきた伝説の人がいて、そのひとが今回の地震で海の近くの小屋を見に行ったときに津波にやられてしまったそう。

今日ここを出発する予定だったけれど「明日までいたらウニが食えるぞ」って言われてもう1日いることに。朝家族でウニをとってくるという。贅沢だなあ。家族でとるのは気楽だけど、専業で漁業をやってる人は生活がかかってるからウニをとるときとかも何秒で何個取るみたいな意識でとるという。そりゃそうなるな。〜秒でこのペースなら〜万円、みたいな感じなんだろう。パチプロみたいだ。もうひとつ面白い話をきいた。三毛猫は遺伝子の関係でほとんどメスしかいないのだけど、ごくごく稀にオスがいる。そして三毛猫のオスは大漁を呼ぶという伝えがあって。人によっては200万円くらい出してでも買いたがるらしい。

舟の上で暮らすことに少し憧れる。舟は海の上を浮かんでいて住宅みたいに基礎で固定されてない。そして僕の曾曾おじいちゃんは淡路島で船大工だった。船大工と聞いてなんとなくピンとくるものがある。今の自分と無関係とは思えない。

集団的自衛権の解釈変更が閣議決定で成されたらしい。で、今日も昨日に引き続いて首相官邸前で抗議活動があったよう。震災以降デモが身近になっている気がするけど、今回ははじめて「震災とは直接関係無い話題」に対する抗議活動が盛り上がった気がして、もうデモは誰もが参加できるような感じになったのだなと、思ったけどこう書くとこれは第三者目線で偉そうな感じがして嫌だな。お前はどの立場からそんなことを言ってるのだ、出来るのだってことがあまりにも多くて麻痺してしまいがち。

今日は家は動かさずに、吉浜の家の絵を描いたり近くを散歩したりしてた。夜に友達と電話などする。その人も2日連続でデモに参加していて、帰り道に強い無力感を味わって悲しくなったらしい。デモに初めて参加したけれどそのさなかに「こんなことやって何になるのか」っていう気持ちはずっとあったと。でも何かできるときにやっておかないとって思って参加していたらしいけれど、それによってなにか現状が変わるわけでもなく、悲しい気持ちになったらしい。で、僕は陸前高田の佐藤たね屋さんと、越喜来のわいちさんの話をした。佐藤たね屋にも、わいちさんの潮目にも希望しかなかった。

「男なら見とけ、アルミ缶のふたがジョイントの金具になるんだ。そしてこれは、震度7でも壊れない」

今思い出しても泣きそうになる。砂埃が舞いダンプカーやらショベルカーやらの大型重機の音で騒々しいなか、佐藤さんは大きな声で話してくれた。その一言一言の切実さはまるで言霊が飛んでくるみたいだった。その時感じた希望は、そのまわりの景色に乱されることが無かった。彼のその短い言葉と、かれが瓦礫でつくった小さなビニールハウスは、復興のために土地をかさ上げするべくたくさんの重機が動いて何百何千トンっていう土が盛られていく景色よりもはるかに強くて純粋な希望を感じた。

彼からしたら、なんともならない最悪の事態なんて存在しないんだろう。生きるための小さな工夫の積み重ねによって、あらゆる災害は克服できるって言ってるみたいだった。土を10メートルも盛る必要は無いし、海が見えなくなるまで堤防を高くする必要もない。ただアルミ缶のふたをジョイントの金具に転用して、水道がとまれば土を5メートル掘ればいいって言ってるみたいだった。その小さな工夫だ。

みんなが家をあるいは店を流されて、これからどうしようって呆然としているとき、彼は流された店の基礎の上にプレハブ小屋を建てて一人で営業を再開したのだ。

「俺はこれで生計がたてられてるから大丈夫なんだ」

って言ってた。

潮目のわいちさんは、自分を勘定にいれることをしない人だった。例えば「落ち込む」ためには、自分を勘定にいれる必要がある。目の前の悲惨な状況の中にいる一人として、自分を数に数える必要がある。そうしないと落ち込むことはできない。でもまるで彼は、その状況の中に自分はいないかのように、まるで世界には「他者しかいない」かのように考え、行動しているみたいだった。人のための人だった。そんなこと可能なのか。こんな人が本当にいたのだ。すごい人に会ったと思った。潮目は、そんなわいちさんが子供を始めとした町のみんなのためにつくった遊具兼資料館。遊具と資料館を兼ねた建物なんて聞いたことない。その造形のひとつひとつや遊ぶにあたっての注意書きがいちいち心に刺さった。

例えばブランコは、瓦礫だった長い柱に、同じく瓦礫だった船をぶらさげてつくってある。わいちさんは「船酔いするから気つけろ」って言ってた。そうか船だからそれは船酔いになるのか。すごい。ただのゴミになってしまった船がもう一回生まれ変わったみたいだ。

例えば注意書きは「自分ができることを他の人みんなができると思うな。無理に誘うな」とか「後輩と女の子には特にやさしくしろ」とか。そういうことが書いてある。やさしい。

 

そんな希望しかない二人のおじちゃんの話をしたら、電話先の友達も泣きそうになったらしい。ありがとうっていってくれた。あんな希望を見せつけられてしまったら人に伝える義務があるな。伝えなくちゃな。

 

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今日は天気が良い。昨日雨で諦めた夏虫山と呼ばれているところに連れて行ってもらう。ここも素晴らしいところだった。もとは牛の放牧場だったらしいのだけど、原発事故以来、牧草の線量の問題で放牧することができなくなって、いまはただの草原みたいになっている。とっても見晴らしがいい。大きな岬が3本きれいに見える。岩手県の海岸沿いがうねうねしたリアス式だってことがよくわかる。ここからみると越喜来のまちも小さい。

2時頃いよいよ越喜来を出る。4泊した。これでお別れ。また別れだ。でもまた会うだろう。わいちさん夫婦と潮目の前で別れたあと、京子さんが来た時と同じように車でしばらく追っかけてくれた。この人はこの4日間でいったい何枚写真を撮ったのだろう。自分でパパラッチだって言ってた。そういう役回りなのだ。いいな。

今日はここから7キロくらい北上したの吉浜というところに向かう。そこに大船渡の知り合いの妹さん一家が住んでいて、紹介してもらった。でかい家だった。犬が1匹、猫が6匹、フェレットが1匹、亀が1匹いる。そしてまわりに家がない。そばに川が流れている。水道は井戸水らしい。賑やかな家族で、ご飯を食べるとき僕はほとんど話さずとも、みんなの会話を聞いてるだけで参加したような気分になった。特に二人いる娘さんは両方とも、自分の会話の出だしから終わりまでをあらかじめ決めているかのように、理路整然としてはっきりと大きな声で話してて、聞いてて気持ち良い。

夜、インターネットで集団的自衛権の解釈変更に対する首相官邸前抗議が盛り上がってる様子の映像をみていた。僕は自分がそこに行けないことが悔しくて、せめて見守ろうと思ってみていたのだけど、そこにたまたま、イースタンユースの吉野寿さんが映り込んでいた。彼も他の人たちと同じようにメガホンをもって「アベはやめろ」っていうコールをしていた。その絵はけっこう衝撃的で、ふだんyoutubeでみているイースタンユースのライブ映像の、あの叫び狂う吉野さんではなく、純粋に1市民としての吉野さんだった。そうだ。デモに参加するっていうことは一粒の砂になることなのだな。また友達のシンガーソングライターが自分のツイッターの(半ば宣伝用の)アカウントで今回のデモがあることを拡散していて、それに対してファンから「そういう呼びかけをするあなたにはがっかりです」と言われていた。そういう政治的なことと、普段の音楽活動とは分けて考えてくれとでも言うかのように。例えば投票した候補者が中の良い友達と違ったら、あるいは好きなアーティストと政治思想が違ったら。その友達にがっかりしてしまったり、そのアーティストの作品が嫌いになるのか。音楽家は音楽だけやってればいいのか。そう考えてしまうってのは、あたかも「日常」が存在するかのように思っているからだろう。自分たちのこの日常は、他と切り離された確固たるものとしてあるっていう幻想に取り憑かれているからだろうな。それは普遍のものとして今まで永久に存在しつづけてきて、これからも存在しつづけるって無自覚に思っているからだろうな。選挙で投票する候補者を友達や家族と議論するっていう育ち方をしてこなかった。他の人がどうだったのかわからないけれど僕のまわりの様子を思い出すと、選挙が近づくと「選挙には行きなさい」とは言われるけれども、誰に投票するかっていうのは、さも絶対に口外してはいけない爆弾みたいな話題として扱われていたイメージがある。それがその人と違ったら、関係がこじれてしまうんじゃないかとか、そういう不安があったのだと思う。それは、日常を絶対視していたんだと思う。でも震災以降それはどうもおかしいというかそのころの呑気のせいでこんなことになってしまったのだって思って、友達とも不慣れながら選挙の話をしたり政治の話をしたりするようになった。だからその友達のミュージシャンがデモのことを拡散していたのを知った時はとっても嬉しかった。ファンに「がっかりです」なんて余計なことを言われなくとも、拡散することに対する葛藤はあったんじゃないかと思う。久しぶりに会いたい。

土地独特の古い家を描いてるとか、どこにも務めないで放浪するためにやってるとか、そんなこと一言も言ってない。人間は本当に自分の想像力の範囲でしかものごとを理解できないし、自分が聞きたいと思えることしか聞かないな。その他は聞いてるふりしてるだけだな。こんなことで怒ってる場合じゃない。大竹伸朗さんが宇和島に暮らしはじめた覚悟を考えるとまだまだ。いとうせいこうさんも同じようなことで嘆いていた記憶がある。プライドを捨てるのだ。なにを言われてもいいって最初に決めたはずだ。最初からわかっていたはずだ。こんな一人一人が言う内容は問題ではない。問題はもっと大きなところにある。そいつしか相手にしちゃいけないんだ。ニーチェも言ってた。自分の剣は大きな敵のためにとっておけって。小さな敵に使って錆びさせるなって。一人になるであろうことはわかっていた。移動を常態化するということは。少なからず放浪だとか、旅だとか、自分探しだとか、そういう未成熟な状態と結びつけられることははじめから予想がついたはずだ。めんどくさい。あーめんどくさい。

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今日ツイッターで
「近くをお立ち寄りの際は敷地内をお使いください」
と僕に声をかけてくれた人がいた。いいな。良い挨拶だな。この挨拶がもっと一般化しろ。敷地を人に貸すことが普通になってネットとかでそういう仕組みができたらいろいろ面白いことが起こりそうだ。人の敷地を借りて移動する家の仕組みとか面白そうだな。革命がおこりそうだ。べつに毎日移動しなくてもいいのだ1ヶ月とか1年とか契約期間をもうけて人んちの庭とか駐車場に自分の家をつくってすむ。家は敷地と箱と基礎でできてる。わけて考えれば楽しいことがおこりそう。

今日は日曜日で、天気がよかったら越喜来のみんなが夏虫山というところに連れて行ってくれるという話だったけれどあいにく1日中ひどい雨が降り続いて外なんか出れたもんじゃなかった。それでもわいちさんの妹さんの京子さんが、滝に連れて行ってくれたり、津波で流されて新しい場所に建設中のとまり地区の公民館をみせてくれたりした。そこで知り合った人が越喜来でほぼ自給自足の生活をしていた河内山亨さんという画家の画集を見せてくれた。完全に独学で絵を描いていたらしい。「牛を彫る百姓」という絵があって、これがとても良かった。河内山さんもいわば百姓だ。そんな人が、同じ村の百姓が牛を彫っているところを絵に描いている。そこでは絵も彫刻も土に根ざして自然に制作されているように感じられてとても良かった。

そういえば滝に行った時に支援活動で来ている大学生グループも一緒に行ったのだけど(というか彼らが「滝に行く」というので案内を兼ねて行ったのだけど)、彼らは車からおりたところから眺めようとするだけで、沢のしたまでおりて行こうとしなかった。道路から5メートルくらい山の傾斜を降りないと滝はちゃんとみえない。確かにすこし急な斜面でおりるのにテクニックというか、少し勇気はいるのかもしれない。でも全然降りれない場所ではない。たぶん汚れるのを嫌ったのだろうと思う。すこし雨も降っていたから地面は湿っていて泥っぽかった。でも彼らはここらの地区の「まちづくり会議」なるものに参加するためにわざわざ訪ねて来ているはずの大学生たちなのだ。公民館の工事を手伝ったりもしたらしい。そんな"まちづくり"のために来た人たちが「滝が奇麗だからぜひ見て行ってほしい」って地元の人が案内してくれているのに降りてこようとしない。いや別にいいんだけど。

降りてみたら滝はとても奇麗だった。超でかくて凄いっていうわけじゃないけれど、地元の人が「俺はあそこ

好きなんだ」って言うのも頷ける。それなりに大きくて奇麗な形をしていて、滝のすぐ近くまで行ける。気持ちが良いところだった。ただ、ゴミがたくさん落ちていた。みんな道路から落とすんだろう。発泡スチロールの箱やら空き缶やらタイヤやらテレビやらがごちゃごちゃと落ちていた。僕らはそれをそれぞれ持てる分だけ持って引き返した。そのゴミを学生たちに見せつけてやろうかと思ったけど道路にあがったらもう彼らはいなかった。まじか。まちづくりってこういうところから始まるんじゃないのか。まして外部からきた人が町づくりをかんがえるんだったらなおさらだろ。地元の人が「よいとこだよ」って言ってたところをみてまわるとか、それこそゴミ拾いとか。そういえばわいちさんは「滝に行きやすいように遊歩道をつくったらいいと思うんだけどなあ」って言ってた。こういうところからまちづくりって考えるべきなんじゃないのか。こういうところから考えないから「復興」なんて大それた名前のもとに、とんでもない規模の工事がはじまっちゃったりするんじゃないのか。かなしい。だからあんな海が見えないくらい高い堤防を建てることになっちゃったりするんじゃないか。ていうか海が見えなくなったら津波が来るのも見えなくなるだろ。高い堤防に安心して逃げない人もいそうだ。

そんなこと考えながら家に帰る。そしたらわいちさんが、ぐさりとつきささることをさらっと言う。

「行政とか観光協会の側(←このへんうろ覚え)が『ダンプが通るから気をつけて歩くように』って歩行者や子供に注意を促すのは少しおかしい。車のほうで注意させて走らせるべきだ。柵をかけるとか、先に人の安全を考えてから車をはしらせるべきだ。そういうこと考えてないんだなあ。」

という。うわ。そうだその通りじゃないか。だって誰のための工事なんだ。そういえば津波の被災地に入ってから、工事車両のせいで死亡事故がおきているという話をよく聞くようになっている。なんでこんなことになるんだ。復興工事をやっているせいで人が事故にあうなんて。

また

「学校行事で子供にゴミ拾いさせるのはおかしい。捨てるのは大人なんだ。それを子供に拾わせるなんて。子供と一緒に大人と拾うとか、町会で主催して子供にも参加してもらう形をとるとか。そうしないといけないのになあ」という。

また

「この町の人が、山に行けば山菜がとれて海に行けば魚がとれるっていう暮らしは、とても贅沢なものだっていうことに気がつかなくちゃいけない」

という。なんて切実な言葉だろう。こんな台詞が、まさにその町に住んでる人の口からでてきた。

今夜はわいちさん一家の、物置として使っている部屋に寝かせてもらう。

ずっとわいちさんの名前をだしているけれど、その奥さんもすごい。わいちさんを支えている。かっこいい人。本当にかっこいいとしか言いようがない夫婦だな。こうやって思い出しながら書くだけで泣きそうになる。最近泣きそうになってばっかりだ。

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ここらは越喜来の南区というところで、わいちさんは越喜来南区の区長らしい。すごい区長だな。こんな区長ならどこまでもついていきたい。ここらも復興という名目でやたら大げさな工事が行われている。陸前高田と同じだ。堤防が高くなって海が見えなくなる。まちの人たちは一人一人の声が届かないことにうんざりしている。わいちさんは「ここ1年で一気に景色が変わりはじめたなあ」って言ってた。

今日は、津波にさらわれた跡地に花壇をつくり羊を放牧する「リグリーン」という試みで作られた花壇を別のところに植え替えるという作業を手伝った。なんでもこの花壇のあるところがかさ上げ用の土砂置き場になるためやむなくうつさなくてはいけないらしい。なんか陸前高田でもこんな話を聞いたような。。で、高校生が40人くらいボランティアで来ていて僕もそこに混ざった。みんなえらい。友達と話したりしながらも、ちゃんと土をさわって作業をしている。女の子が多いなあと思って聞いてみたら、そもそも女子の方が多い高校らしい。そんな女子高生二人とすこし話をした。その二人は高校にあるJRCという部活のメンバーで、普段から老人ホームのお手伝いなんかのボランティア活動を部活動としてやっているらしい。岩手県はそれがとても多いらしい。そんな部活があるのか。偉すぎるな。

お昼休みのとき、高校生達が誰に言われるでもなく潮目に集まって遊びはじめたのがすごく良かった。「ここから登れる」とか「そこ滑るから気をつけて」なんて声があちこちから聞こえた。すごい。潮目は、公園にあるアスレチックとかジャングルジムみたいな洗練された安全な遊具ではないのだ。釘も飛び出してるし、床も抜ける可能性がある。木登りしてるみたいに、あるいは山の雑木林を降りるみたいに遊ばないといけない。そこが楽しいんだ。注意しないと下手したら釘が頭に刺さったりもする。それで破傷風とかになって死んじゃうかもしれない。でもそこが楽しい。ここをこう通るとか、ここには登れないとか登れるとかっていうものが設定されていない。基本的に「自己責任で遊んでください」っていうもの。だから「そこ滑るよ」とか「こっから登れるよ」とかっていう会話が自然と生まれる。すばらしいな。わいちさんもごく自然にその中にとけこんでいって「そっから入れるべ」とか「これが滑り台になっててな…」なんて言って笑っている。良いなあ。

あまりにもみんなが集まっているから、そのまま集合写真を撮ろうと先生や大人達がカメラを構えて「こっち向いてー」とか「こっち集まって」とかって声をかける。うん。すごくその気持ちはわかる。写真に残してあとで見返すのも楽しいと思うし、それは活動の報告としても必要なんだろう。でもその写真をとるためにわいちさんや高校生たちが笑いながら話したり遊んだりするのをちょっとでも中断するのはすこし悲しい。「こっちむいてー」なんて言わずに、遊んでる姿を撮るだけじゃいけないのか。ていうか記録写真てそういうために撮るんじゃないのかな。写真を撮るために、そのときの行為を一旦中断してこっちを向かせるってどうなんだろう。そのままあえて写真には残さずに遊ぶだけ遊んで、記憶だけに刻み付けておいてほしいという気持ちもある。まあでもこれはすごく個人的な考えなんだろうな。写真とるのも楽しいしな。どっちでもいいな。

夜は南区公民館で寝かせてもらう。越喜来のとまり地区というところを手伝いにきてる東海大学の学生たちも一緒。でもほとんど全く会話をしなかった。こういうとき「何しにきてるのー?」とかって話が自然にできればいいのだろうな。

東京の友達との他愛もないメールのやりとりのあと、何故か落ち込んでしまった。まだまだ弱いな。油断するとすぐに自信を失う。自信を失ってはいけないのだ。大丈夫。このやり方は間違ってない。あとは、移動していることに自分で気がつかなくなるまで移動し続けるだけでいい。
一人で潮目にきて、近くのお店でご飯を買って、瓦礫になってたのをわいちさんが持ってきたという非常階段の上にすわってご飯を食べていた。そこか ら潮目と、そして越喜来のまちを眺めた。ここもひどく津波にやられている。かなり高いところまで波が来たのがわかる。で、この潮目はその波で生ま れた瓦礫を使って建てられた建物だ。真ん中に柱が立っていて、そこに「越喜来 南地区 復旧拠点」と書いてある。鯉のぼりもぶら下がってる。ここ から他に瓦礫で作った滑り台とブランコ(津波で瓦礫になった船の底を使ってブランコにしている)と、記念写真を撮るために作ったというパネルも見 える。この記念写真スポットは、津波のため取り壊しになった近くの小学校の正門(わいちさんがひっぱってきたらしい)と、笑っている鬼が描かれた パネルでできている。みているうちに自然に涙がでてきてとめられなくなる。すごい作品だ。彼はこれを本当に純粋にここの子供とまちのためだけにつ くったのだ。大船渡の焼きそば屋のおばちゃんはわいちさんのことを「彼は人のための人だ」と言っていた。彼は自分が評価を受けるためでもなんでも なく、ただ子供たちまちの人たちのために、自分の仕事が休みの日を使って潮目をつくった。仕事が無くて暇だからつくったんじゃない。このために人 の敷地を借りた。あちこちで釘は出っぱなしで、雨漏りもすきま風もあるけど、内部はちゃんと僕が泊まれるだけのスペースと、パソコン作業ができる 机とイスまである。机は家の梁でできている。ちなみに2階建て。これを仕事のあいまにつくったのだ。潮目は津波の資料館としての機能だけじゃなく て、滑り台やジャングルジムやブランコがある遊具としての機能や、漫画が読める小さな部屋もある。
資料館としての普通の入り口の他に秘密のいりぐちがあって、そこのドアには「押す」という表示があるのに引かないと開かない。良いな。飛び出した 釘やら木材やらに気をつけながら狭い通路を通って階段をのぼると、黒いカーテンが下がっていて一部に切れ目が入っている。そばに「のぞいちゃダメ だよ」ってシールが貼ってある。さっきのドアの表示のこともあり、ここはのぞかせようとしているのだなと思う。カーテンをのぞいてみると奥に白い 写真が貼ってある。その写真には、派手な色のアフロのかつらと馬鹿みたいにおおきなサングラスといったパーティーグッズを身につけたわいちさんら しき人がうつっていて、こちらに向かってピースをしている。写真の下には
「わっ!見たなあ~」
と書いてある。うわ。やられた。ここでも突然涙が出てくる。かっこよすぎるだろこの人。こんな人がいるなんて。もういい年のおじちゃんなのよ。こ の人に美術なんて言っても全く通じないだろう。美術とか建築の価値、評価について考えなおしてし まう。こういうものをこそ「みんなの家」って呼ぶべきなのでは。
衝撃をうけると同時にすごく勇気づけられる。そうだこういうやりかたでいいのだ。自分のやりかた を信じればいいと教えてくれるし、自信を失ってはいけないと勇気づけてくれる。 落ち込む暇があったら。「無力だ」なんて嘆くひまがあったら、山積みの瓦礫を使って自分の空間を立ち上げろ。そして、そこがこの町の復興拠点だと 名乗れ。そういうことを教えてくれる。 陸前高田の佐藤たね屋さんは瓦礫をつかってお店とビニールハウスを作った。井戸も自分で掘って、たね屋には欠かせないであろう水もちゃんと湧いて た。水道がとまったからといって水がなくなる訳ではないのだ。
「ここらは5メートル掘れば水が出てくる」
「意外と人は死なないんだ」
って言ってた。なんてこった。
わいちさんは瓦礫をつかって休日を返上して遊具と資料館をつくった。橋もつくった。
「誰かがひとりでやって、あとでみんなで話し合えばいい」
って言ってた。すごい。
今日はその潮目に泊まってみる。今まで人が泊まったことは無いらしい。僕が泊まることによってここは家になる。そうすることによって僕はここを 「家120」として描くことができる。ちょっとこじつけたようなやり方だけどこれは描かないといけないから。

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仮設住宅で1日過ごしただけで、ここの人間関係の複雑さを思い知らされた。もちろんここが他と比べて特殊なんだろうってことはなんとなくわかるけれど。そうなるのも無理もないなと思う。もう仮
設住宅での生活は4年目に入ってるのだ。自分で家を見つけたり公営住宅が当選したりして出ていった人もいるけれど、まだめどがたってない人もいる。1日しかいないけど疲れてしまった。。

12時頃仮設住宅を出発。越喜来(おきらい)というところに向かう。ここから14キロくらい北上 する。以前ネットで僕の活動を知った人が「越喜来に潮目という所があって、ぜひ行ってほしい」と 教えてくれて、現地の人たちに僕を紹介してくれたのだ。夕方に越喜来について「潮目」をつくった ワイチさんとそのご家族に会う。
潮目というのは瓦礫で作られた建物の名前で、ワイチさんがセルフ ビルドでつくったもの。これもまたとんでもない傑作だった。瓦礫でつくられた、津波資料館と遊具 を兼ねた2階建ての建物。何人もの人に連れられてきたからこそ大泣きはしなかったけど、一人で来 ていたら号泣していただろうと思う。もう日が落ちていて暗くなっていたので、この潮目はまた明日 ゆっくり見ることにする。
ワイチさんはすごい人で、建設業の仕事のかたわらまちのためにいろいろなことをしている人だっ た。根っからの「人のために動く人」だった。印象深いのは丸太橋の話。津波でダメージをうけた、 そんなに大きくない橋があって、危ないからと役所が撤去した。すぐに新しい橋が架けられるものだ と思ってまっていたけれど、いっこうに橋がかからない。
「みんなが不便なままだ」と、しびれをき らしたワイチさんが個人で丸太で橋をかけた。「自己責任で渡ってください」という注意書きを添え て。そしたらそれを役所が見にきた。ワイチさんは「危ないから撤去しろ」と言われるのを覚悟して いたらしいけれど、そのとき役所の人は「丸太1本じゃ危ないから、もっとたくさん丸太を使って安 全に渡れるようにしなさい」と言ってきたらしい。なんだそれ。面白い。
「こういうのは誰かが一人でやって、できた後にみんなで議論すればいいんだ」
って言ってた。その通りだな。僕がここ最近ずっと考えていたことだ。ここでつながった。なん ども書いてるように、公共の議論は、個人の行動からしか生まれない。こうやってしか公共は生み出 すことはできない。「一人公共事業」を地で行っている人だと思った。川俣正さんみたいだ。いや川 俣さんがワイチさんみたいだ、って言った方がいいのかな。こういう行動の仕方を美術の場で出力し ているのが川俣さんなんだな。
夜はワイチさんたちのすすめで、近くに住んでいる「先生」と呼ばれている方の家に泊めさせてもら う。家は潮目に置かせてもらう。

東京からのお客さんと陸前高田をまわる。昼過ぎに佐藤たね屋さんというところを訪ねる。こっちに住んでる友達が教えてくれた人。
「すごい人だと私は思うよ」
と教えてくれた。 佐藤たね屋さんのまわりにはほとんど何もない。佐藤さんだけ自分でプレハブでお店を建て直していた。ひさしなどは瓦礫を使って作られていた。震災で流された家の基礎の上に それは建っていた。店の外観からすでにただ者ではない感じを醸し出している。お店の中は普通に種を売っているのだけどその一角に本が売られている。店主の佐藤さんが英語と 中国語で書いた震災についての本。何故か日本語のものが見当たらないので、聞いてみたら
「日本語では書けなかった」
と言っていた。彼はその本を朗読しはじめた。割と簡単な英語で書かれていたので読もうとすれば読めたのだろうけれど、彼の朗読があまりにも勢いが強くて一言ごとに口から言 霊が飛んでくるようで、内容が全く頭に入らない。彼はその後そとにあるビニールハウスを見せてくれて、作った当時の話を聞かせてくれた。このビニールハウスがまたとんでも ない傑作で、当時身の回りにあった限られたものを材料として使った結果生まれた工夫がいたるところにあった。切実さの固まりみたいなビニールハウス。アルミ缶のふたをジョ イント用の金具の代わりにしていた。これがやばかった。本当に限られたものしかないときのアイデアだなと思った。ドアは窓枠に使うサッシにビニールをはったもの。みんなが あれができないこれができないとあたふたしている時に、この人は一人でこれをつくっていたのか。とにかく雨風をしのげるものを、あるものでつくればいいのだ。
「男は見とけ。このアルミ缶のふたがジョイントになるんだ。天井のこれはパイプを使ってるけど、パイプがないなら竹でやればいいんだ。竹は熱すれば曲がるから。で、天井に はビニールをはれば、寝泊まりくらいはできるんだ。そしてこいつは地震では絶対に壊れない。地面と一緒に揺れるから。縦にしっかりと作るから壊れちまう。戦争よりひどい状 態だった。サバイバル精神を発揮しないといけないんだ。そういうのはやっぱり男がもってるんだ。」 これを聞きながら泣きそうになってしまった。この台詞は外で聞いた。まわりは復興工事のダンプカーがたくさん走っていてかなり騒々しい。佐藤さんはとても大きな声で話をし た。一言一言がとても切実な響きを持っていた。すごかった。本当に凄かった。
彼は土地のかさ上げ工事のことを 「あの工事は住民のためっていうよりも、雇用をつくるためにやってるようなもんだ。だから行政のことはあんまり相手にしてないんだ。勝手にやれって思ってる。」
とにかくとんでもない人だった。殴られたような衝撃をうけた。
夜、家の置いてある仮設住宅のゲスト用の部屋を借りて泊まらせてもらう。やっぱり仮設住宅は壁が薄くて、窓の外の話し声なんかも聞こえて、ちょっと疲れるな。

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朝、東海新報の取材をうける。話していると自分でも整理がついてくる。いままで考えてきたことが、陸前高田の風景とつながってくる。
最近 ずっと「現場を動かすための装置•システム」と「なまの現場」の断絶のことを考えているように思える。 思い出すのはフリーター時代に大手企業が経営してるビアガーデンで、雨が降っても店を中止する判断がすぐに下せないために、外に並んで いるテーブルを雨のなか拭くという謎の時間を過ごしたこと。香川のバイト先でデザートをつくっているとき先にココアを入れてもダークチョ コレートを入れてもできるものは同じなのに、先にチョコをいれないとだめだと言われたこと。そのときチョコを他の人が使用中だったとし ても。これらの問題を考えるとき、十数前の福知山線の脱線事故がつながる。遅れたダイヤにあわせようとして速度を出しすぎた結果大勢の人 が犠牲になってしまった。もともと現場を安全に円滑にまわすためにつくられた装置が、ともすると人を操ってしまう。現場よりもその装置 に合わせる方が大切だという思考になりやすい。
中学生のとき先生が
「誰が見ても明らかに車が走ってない時は、赤信号で渡ってもかまわない」
と言ってた。
「だって信号は交通を整理するためにつくられたものだから」
そのとおりだと思った。そしてこれと同じ構図で生活のことを考えてみる。家の基礎は「装置」の側に属しているもので、上にのっている壁と 屋根でできた箱は「現場」に属しているもの。装置があるがために動けずに現場で多くの大切なものが失われてしまったのが先の、そして今も続いている震災のような気がしている。 そして山から土をけずって低地に送るための、陸前高田のこの巨大なパイプライン。装置によって考えられたものが、現場に直接落とされたら こういうことになるのだ。この現実離れした滑稽さは、この装置と現場の断絶からくる。そして家を担いで移動生活しているこのあり方は、こ の断絶を「むりやり現場の側から埋めようとした結果おこる」滑稽さがある。だから、陸前高田のパイプラインの滑稽さと、家が歩いている 滑稽さは少し似ているところがあると思う。

さて今日はお昼前に花畑のみんなと別れて大船渡に移動。知り合いが住んでる仮設住宅に向かう。途中で東京からのお客さんと合流。あっち は豪雨らしい。こっちはめちゃ晴れている。 この仮設住宅にくるのは1年半ぶり。
もう震災から3年経っていて、今では仮設を出て行ったひともだいぶ多いらしい。かつては復興に向け てみんなでがんばろうって感じで賑やかだったけれど、いまはもうそれぞれ自分の家の準備したりで黙々と忙しい。そんな「復興にむけてが んばろう」て言ってなんかやってる場合じゃない。あれ、なんかおかしな話だな。なんだこれ。それを復興っていうんじゃないのか。 「復興」っていうけれど。それはしばしば、とても派手なイメージをもって語られるけれど、本当はとっても地味で目立たないところでおこ ることじゃないか。生活って地味なことだから。派手なことじゃないから。その生活が立て直されるっていうことなんだから。復興ってとて も地味なことなんじゃないか。あんなふうに、10メートルも地面をかさ上げするようなことじゃないのでは。 まあいいか。で、今では住宅内の人間関係もいろいろと複雑になっている。そりゃそうなるよなあ。何が正しくてなにが間違っているのかが とてもわかりにくい。 そこですこし話しこんで、夜はこっちに住み着いてるアーティストの友達二人と合流。仮設屋台村で久々の再会もあった。嬉しい。みんなちゃ んと覚えていてくれるのだ。覚えていてくれるっていうのは嬉しいな。自分の存在を証明してくれるよう。
夜は友達二人の家に泊まらせてもらった。美術や建築の「生まれる現場」と「価値付けされたもの」の断絶の話などした。久々にこういう話したな。二人の家はとてもおかしな間取りをしていた。風呂よりもトイレの方がひろいんじゃないのか。

明日東京から取材にきたいという雑誌の編集者がいて、その人とは大船渡で待ち合わせのため今日も陸前高田に滞在。午前中はずっと昨日描いていた絵に加筆していた。
午後、昨日の花畑(津波で流された後をその地域の人たちがボランティアで花畑にしているところら しい。こういうオープンガーデンは他にもいくつかあるみたい)のところでお昼ご飯をいただく。そ こで、震災前に陸前高田の町並みを絵にしたという人と出会った。その絵は津波で流されていまは行 方不明なのだけど、展覧会のときの写真が残っていてそれをみせてもらった。僕も使ってるような水 性の細いペンで輪郭線を描いてから水彩で色付けしていて、なんとなくタッチが似ている。高田の町並みを、ひとつながりの巻物みたいにして描いていた。その絵は、陸前高田に対する愛とか親しみと かが描かれているように見える。ながいながい時間をかけないとこういう絵は描けないなあと思っ た。話を聞いてみると、例えばお店をたたんでしまった建物でもシャッターは開けて描くことにして いたらしい。お店をたたんだ本人がその絵を見たときに少しでも嫌な気持ちになるかもしれないか ら。建物の外壁とかがはがれていたら、それはそのまま描かずに絵の中では奇麗に直して描く。それ も見た時に嫌な気持ちになってほしくないから。すごいな。大変なものが失われてしまった。実物をみてみたかった。
その人は他に自分が住んでる仮設住宅の間取り(どこに何が置いてあるかまで描いてある)を描いた 年賀状も作ってた。これもやばかった。「あけましておめでとうございます」という文字の下に家の 間取りが描いてあるのだ。しかも仮設住宅だ。もう仮設生活3年目の間取りだ。すごいセンスだ。楽 しんでいる。かっこいい。

今日も昨日と同人のじところに泊めさせてもらう。彼は、人が元々どこの血を引いてるのかというル ーツに対してとても意識的な人。そういえば昨日も会ってすぐに「村上って言うけど、もとはどこの 村上なんだ」と聞かれた。僕は最近自分のルーツが淡路島にあることがわかったから答えられたけ ど、普段あまり考えないな。でもそこに対して意識的であることはとても正しくて必要なことかもし れないな。自分の先祖はどこの人なのかって、まわりの人は普段考えてないようにみえる。その人は 「あんまりこだわると親戚が増えすぎちゃうんだけどな」とも言ってたけれど。なんだか不思議なん だけど、そこで寝泊まりするのはとても自然なことのように感じた。彼は津波で家族を失っている。 僕は「画家です」って言うと、いつも「画家の卵」とか「将来は画家になる人」って言い換えられち ゃうんだけど、彼は人が僕のことを「画家の卵」って言ったのに対してわざわざ「いや、この人は画 家だよ」って言ってくれた。