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今日久々に人からたばこをもらって思ったのは、喫煙も労働のひとつだということ。僕は去年までタバコを自分で買って吸っていたのだけど、ある日 嫌になってやめた。お金がかかるというのも理由のひとつだけど、あるとき突然自分の体が日本たばこ産業によってコントロールされている感じがし て「コントロールされてたまるか」と思った。タバコを吸い始めたらそれが日課になる。そうすると毎日毎日自分のお金をたばこ業界に支払ってその 煙を享受することになる。タバコ産業からしたら、喫煙者はとても勤勉な労働者になる。ちゃんと煙を毎日吸ってお金を稼いでくれるのだ。僕は尊敬 できない人の下で働くのは嫌だからバイトが嫌いなのだけど(だから3月までバイトしてたのだけど)、考えてみればタバコを吸う事も人の下で働く ことと同じようなもんじゃないか。だからやめられたのだな。タバコ産業に辞表を出すみたいなものだ。あぶないあぶない。

僕が小さいころもそうだったけど、4世帯もいるとそのなかに小さな社会ができて人間関係がすこし複雑になる。家族とはいつも一緒にいるのが基本 で、そうするとそのなかでうまくやっていかなくちゃいけないから、そういう環境で育った人は人間関係に対して感覚が鋭くなると思う。日々家で過 ごすことがすなわち社会勉強のひとつになってしまう、というか。というようなことを、久々に4世帯家族の一家と過ごして思った。今日は11時頃 にそこを出発。南三陸町に向かう。20キロくらいか。あるいている途中、登米市の一家がわざわざ交通安全のお守りを買って車で届けにきてくれ た。嬉しい。また会いたいな。次会うとしたら来年か。小学生だった長女も中学生になっているはず。それまで生きのびないと。
南三陸町もまた津波の被害が凄まじいところで、波にごっそりさらわれた海沿いの町は今では瓦礫が撤去されて、まっさらで見晴らしがやたら良くな っている。あちこちで重機が動いていた。海が全然見えないところに「ここより過去の津波浸水地域」っていう標識が掲げられていて、当時の町の人 たちの混乱が目に浮かぶようだった。歩いて移動する人が少ないためか、歩道はぼこぼこのままだった。でも人はとってもやさしくて、工事のための 交通整理のおじちゃんたちはみんな笑って声をかけてくれて、車道を横切るのを手伝ってくれたりした。ここでも警察に声をかけられて身分証を求め られたけど、その警官は「あなたのことは署に言っておくから。こんな人がいても怪しい人間じゃないって」と言ってくれた。
「南三陸町は小さい町なんだけど、最近立て続けに死亡事故が2件あったからくれぐれも車には気をつけて」
とも言ってた。
南三陸や気仙沼で事業を展開してる、ある会社の人に声をかけられて事情を説明したら。 「うちが前使っていたプレハブの小屋がまだ残ってるからそこでよかったら泊まっていいよ」 と言ってくれた。
行って詳しく話を聞いてみたら、どうやら震災で会社の事務所がだめになり、山の上の敷地に仮設のプレハブ小屋を建てて事務所に していたけど、そのそばに新しく事務所を建てたからいまプレハブの方は解体途中で、電気は通ってないけど和室の部屋なんかが残ってるからそこに 寝ていいとのこと。ちょうど雷が聞こえて雨が降り始めたところだった。嬉しい。その会社の何人かの人は2、3日前から家が歩いてるのを各地で目 撃していたらしい。そういえばツイッターで「歩く家がいるらしいよ」という写真付きの呟きを見つけた。「家を被って歩いている人がいるらしい」 ではなく「歩く家がいるらしい」っていう発想になっちゃうのは、これはゆるキャラに毒されすぎなんじゃないか。

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どうも「世間のしがらみから解放されたい人」みたいに見られがち。この前の授業でもそんな感想がいくつかあった。「自由になりたい 人」みたいな。そうじゃない。ていうかこの生活に自由はない。強く縛られている。家から目を離せないから行動が制限されるしずっと同じところには居られないから、歩かなくちゃいけないし絵も書かなくちゃい けない。この社会から逃げたいわけではない。悪く言いたいわけでもない。世界をまわしてるこの大きな大きな装置を悪いなんて簡単に言 えない。縄文時代に戻りたいとか、荒野に行って一人で狩猟採集しながら暮らしたいとか、田舎にこもって畑でもやりながら自給自足生活 したいとか、全然まったく思わない。お酒をのみながら人と話したりするのが好きだし映画館とか劇場とかライブハウスとかクラブとか美 術館が好きだしお金も好きだ。そのためにこの装置は必要なものだ。敵にまわそうなんて思わない。選挙にも行く。「自由」対「社会」み たいな二元論で考えがちなのかな。何が誰が悪いって簡単に言えないから難しいのだ。ライムスターだって歌ってる。誰もがお互い指差し てばっかりだって。あらゆる事は他のあらゆる事と関係していて、自分もそのまっただ中にいるのだ。問題を自分が引き受けないといけな いのに。人に指した指は自分にはね返ってくる世界になってるのに。家において基礎と上の箱の部分は分けて考えるべきだってことに昨日 気がついた。そう考えると現代の人にとって家がどういうものなのかとても見えやすくなる。

今日こそは登米市に向かう。石巻の人は登米のことを「とても良いところ」という。そういえば水戸の人は常陸太田市のことを「とても良 いところ」って言ってた。良いところいっぱいあるな。
石巻から北の内陸のほうに20キロくらい進むと登米市に入る。言われてた通り、 すごく景色の良いところ。道路の左側を見ると山と湖と川がダイナミックに関係しあいながらずっと続いている。そしてうっすら霧がかっ ていて神秘的。
途中にあったデイサービスセンターの職員さんに声をかけられて、1時間半くらいそこでおばあちゃんおじいちゃんたちと 過ごした。職員さんがあるおばあちゃんに「東京から来たんだってー。すごいね」と言ったらそのおばあちゃんは「かわいそうだ。かわい そうだからあんまりかまうな」みたいなことを言ってた。そういう見方もある。そういう見方もあるな。デイサービスセンターの独特の時 間の流れ方を久々に目の当たりにした。どんな時間でもみんなでつぶせば怖くない。

先日道路で会った登米市在住のご家族の家に着いたのが19時ごろ。僕が小さいころの家族構成とほとんど同じ4世帯同居のにぎやかなお うちだった。わんこもいる。わんこも含めた皆さんとても暖かく歓迎してくれた。まだほとんど初対面なのに。すごい。奥さんとおば あちゃんの「どうぞどうぞ」っていうせりふの言い方が似ている。良いな。だんなさんが仕事帰りに石巻のお酒を買ってきてくれてみんな で飲むなど。旦那さんのお父さまは油絵をやる人だった。夜はその家の離れの一室で寝かせてもらう。

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このあいだ石巻に向けてバイパスを歩いているとき、車が一台近くにとまり家族連れが降りてきて

「何やってるんですか」

と声をかけてきた。説明するとお父さんが「すげえ」と感動して、登米市にあるそのご家族の家の敷地に僕の家を置かせてもらうことに。今日石巻を出てそこに行く予定が、いろいろ人と会ったり紹介してもらったりしているうちに昼過ぎになってしまい、もう出発するには遅すぎる時間になってしまった。暗くなってから山道を歩くのはこわい。なので今日も石巻に滞在することに。こんなこともある。

今日石巻新聞の取材をうけながら「『家』において、基礎部分と上の箱の部分は分けて考えるべきだ」という話が口をついてでてきた。そうかそうだったのかと、話しながら感激していた。

家の基礎とその上の箱は別々のものとして考えるべきなのだ。僕は上の箱だけ持ち歩いているから敷地の交渉が必要になっている。本来人が生きるための家の機能として必要なのは屋根と壁だけなのだ。基礎なんてうつ必要ない。じゃあなんで基礎をうつのかというと、この社会のシステムのためだ。基礎をうって家を固定することによって誰がどこに住んでいるのかが整理しやすくなる。より円滑に経済をまわして行政を機能させるために家は基礎によって地面に固定されていなければいけない。先日のトレーラーハウスに住んでいる人の話によると、トレーラーハウスでは住民票が普通とれないらしい。動かせるから。家を動かされちゃ困るから車輪がついていたら住民票登録できない。そして住民票がとれないと、保険にも入れないし仕事もできない。

さらにその人は、仮設住宅に引っ越したとき「住民票はうつさないでいいです」と役所に言われたらしい。なぜなら家の基礎はまだ残っているからだ。津波に上の箱が流されても、基礎が残っていたらそこに住民票があるということになる。基礎が残ってれば住民票はそこにある。これは不思議と自然なことのように思える。そうだったのだ。

それに気がついた上で、今日石巻で津波の被害がもっとも酷かった一帯に行ってきた。だいぶ奇麗になっているけれど、基礎や塀が残っている家はまだまだある。一度これを見てしまったら、これを絵に描かずに町の方にいって普通に建ってる家だけを描く気にはなれない。それはとても不自然なことのように思える。だからそこで絵を一枚書いた。基礎しか残ってない家。描いていて突然涙がにじんできた時間があった。基礎。この基礎。愛と憎しみを込めて「基礎。基礎。」とつぶやきながら絵を描いた。

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プレセティア内康さんは、もともと魚屋さんだったらしい。それがだんだん仕出し(料理を作って家まで出前する)もするようになっていき、そのうち「おたくの魚屋の二階で宴会やっていいか」という話になり、宴会場になりはじめる。そうしたら、料理も出るし結婚式なんかもここでやるといいんじゃないか(当時結婚式は公民館などで行われることが多かったらしい)という話になってきて、結婚式もやりはじめる。そうこうしているうちに魚屋を切り離し、だんだんいまの式場のかたちになっていったらしい。時代に合わせて商売を変えて、その都度建物を作り替えて、規模を大きくしてきたのだ。だからいま式場をやっているのはとても自然なことのように感じる。良いな。

今日は、東京で知り合った人が紹介してくれた石巻にあるシェアハウスに向かう。そこに家を置かせてもらうよてい。歩いていて思った。昨日と同じだ。これは冒険でも旅でもなんでもない。全てが淡々とした日常に回収されて行く。今日も昨日と同じように敷地を出て、笑われたり話しかけられたりしながら家と一緒に歩いて次の敷地に向かう。着いたらお風呂かシャワーに入ってどこかでご飯を食べて、人と話すかもしれないし話さないかもしれない。日常ってのはそういう揺り戻す力のことかもしれない。どんな冒険者も探検家もその日々の生活はその力によって日常に回収されていく。だから常に誰かにとっての日常は、他の全ての人間にとっての非日常なのだ。そういう目で自分の日常を、あのうんざりの日常を見られたらいいのに。

石巻の路上で、トレーラーハウスに住んでいるという人に出会った。家が被災して仮設住宅に住んでいたのだけどもういい加減出て行こうと思い立って、仮設を出てトレーラーハウスに住み始めたらしい。僕が「住所と生活は必ずしも一致しなくてもいいんじゃないかと思ってる」っていう話をしたら、仮設住宅に住んでいたとき、住民票をそこに移さなくて良かった、という話をしてくれた。そうだったのか。それが仮設たるゆえんか。住民票をそこに移せたら、住んでいる人の気持ちもすこし違ってくるんじゃないか。

夜、シェアハウスの人たちとすこし話す。みんなそれぞれ復興のために忙しく働いているひとたちだった。僕と同年代くらいなのに、彼らは他者のために立ち上がっている。すごい。

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朝9時に塩竈のお寺を出発。とりあえず石巻方面へ。ここから石巻までは35キロくらい。
松島あたりでパトカーが僕の前に停まって、警官が二人おりて近づいてきた。「お。久々にきたな」 と思った。
事情を説明したら 「今までこれで歩いてて、通報されたこととかないの?いまはすぐに通報されちゃうから。」 と言われた。そうかな。応援してくれたり面白がる人の方が多いけどな。リュックの中身も確認され た。ここまでされたのは永田町以来だ。当たり前だけどおまわりさんの対応にも個人差がある。いつだっか忘れたけど、バ イパスを歩いてたらパトカーからおまわりさんが降りてきて、超笑いながら「なにやってんだー。気 をつけてなー!」と声をかけてくれた人もいた。かと思えば身分証確認と荷物検査をする人もいる。 その個人差のある行動が、制服を来ているだけで公共の振る舞いであるかのようになるのだから面白 い。
松島は観光客ですごく混み合っていた。やっぱり観光地だな。こういうところは苦手なのでそそくさ と通り過ぎた。しばらく歩いて下を見ると芋虫がたくさんいることに気がつく。芋虫とか毛虫の多い 時期になってきた。踏まれて死んでいるやつもたくさんいる。僕は踏まないように歩く。彼らのクネ クネした歩き方があまりにも一生懸命なので絶対に踏みたくない。とても速いスピードで体をくねく ねするんだけど、その「1くねくね」ですすむ距離は5mmくらい。僕は一歩で彼らの「150くね くね」ぶんくらい進む。この圧倒的なスピードの差。でも彼らはそんなこと関係ないかのようにすご く一生懸命動いている。見ていてなんか元気をもらえる。そういえば昨日から右足にマメができてい てとっても歩きづらいんだけど、ともするとマメができているせいで歩きづらいということに腹が立 ってきて、ますます歩いてやろうかという気持ちになる。からだは安静にしすぎてはいけない。いつ もちょっとずつ負荷をかけていた方が丈夫になれる。からだをあんまり気遣いすぎたら不健康になる と思っている。
夕方ごろに東松島についた。もうけっこう体が疲弊している。25キロくらい歩いた。ダメもとでツ イッターから
「東松島か石巻あたりで家を置かせてもらえそうな場所を探しています」 って発信してみたら、しばらくして
「会社の駐車場でよかったらどうぞ」
というリプがきた。この時の喜びは何にも代え難い。行ってみたらそこは「プレセティア内康」とい う式場•宴会場のお店で、大きな駐車場があった。社長さんが暖かく迎えてくれてその日は駐車場で 寝る事に。
東松島は2年前に一回来た事があって、そのとき海沿いはまだ津波の海水が引いていなくて、かなり ひどい状態だった記憶があるのだけどいまはもうほとんど奇麗になってるという。このお店は海から 2、3キロくらい離れているけど腰から上くらいの高さまで波が来たらしい。

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時々福島県の勿来町のおばちゃんから電話がかかってくる。
「ポカリ飲みな、ポカリ」
というアドバイスをくれる。昨日もかかってきた。仙台ですこし休憩して元気になったと聞いて安心したらしい様子。気にかけてくれる人がいるのはありがたい。時々面倒なこともあるけれど、それはその人が気にかけるペースと僕のペースが違うから起こることだ。生活のペースが違うから起こる。その人からしたら「もう連絡しないとやばい」みたいな心境になっているのかもしれないのだ。

お昼に仙台を出発し、塩竈市に向かう。13キロくらい。午前中は話しかけられにくい時間帯なのかもしれない。みんなお昼を過ぎてから、夕方になればもっと話しかけてくるようになる。午前中はどこもみんな忙し いんだな。塩竈市に入ったあたりで話しかけてきたおじちゃんに「息子が自転車で日本をまわった」 という話をされた。最初かなり強い方言で話されて全く何を言ってるのかわからなかったけど、僕が東京から来たと知ると話し方を変えてくれてだいぶ聞き取り やすくなった。 「ずっとこぎっぱなしって訳にもいかないんだよなあ。疲れちまうからな。どっかで野宿しないといけねえんだなあ。息子は帰りがきつくなったみたいで、トラ ックで自転車を運んでくれって言うんだよ」
その通りだ。人はずっと活動できない。いつかはどこかで眠らないといけないから家が必要なのだ。
塩竈でお寺を探して、今日一回目の敷地交渉。チャイムを押すと住職の息子さんらしき人が出てきてくれた。僕の身なりをみて、一瞬不審な目を向けたのがわか った。しまった髭をそっておけばよかった。と思ったけど一生懸命説明する。説明の仕方としては
「ちょっと複雑な説明になるんですが。あそこに白い小さな家が見えるじゃないですか、あれを担いで歩いて移動生活をしている画家の者です」 (反応を伺う) 「東京からスタートしていま2ヶ月くらい経っていて、基本的にあの家の中で寝泊まりしながら移動してるんですが、今まで夜眠る時に路上や公園では勝手に寝 られないので、一晩ずつ敷地を借りながら移動してきたんですよ。おうちの庭先とか、駐車場とか、神社の境内とか。とにかく『ここに一晩置いといていいよ』 という許可をもらえる場所を探しながら歩いてきました」
(反応を伺う) 「で、もしよろしければこのお寺の敷地内、隅っこでもどこでもいいので、一晩家を置かせていただけると助かるんですが」
だいたいこんな風に説明する。手には今まで描きためた絵のファイルを一応持っておく。
「少々おまちください」
と、奥で話し込む声が聞こえて
「じゃあ下の駐車場に」 と言ってくれた。この瞬間のほっとする感じ。久々だな。こういう交渉はここ10日間くらいやってなかった。無事に家を置いて、家の中に銀マットを敷いてあ れこれやってたらさっきの方が来て、シャワーとトイレを案内してくれた。このあたりも銭湯が無いみたいだったので助かる。
後でお寺の住職さんも来て 「私は歩いてないんだけど、父が昔行脚っつって日本中を歩いてまわったことがあってねえ。私はいま出先から帰ってきたばかりで仕事がたまっていて、相手が できずに申し訳ない。」
と言ってくれた。
「ここから北へ行けば行くほど、大型車両が通ってるから気をつけて」
大型車両と聞いただけで土煙と風圧と轟音が鮮明にイメージできる。嫌だなあ。

ある人から、人に超嫌われてしまったという話を聞く。
同じ人とずーっと近くにいると、うっとおしくなって嫌いになってしまいやすくなる。かつての仲が良ければ良いほど、関係が悪くなった時にひどい状態になりやすい。そんな時は動くに限る。自分をそこから離すに限る。でもそうもいかない事情とかいろいろあるところが難しいんだなあ。

先日飛んだ分の瓦を急遽作っていた。

泊めていただいてる方に車でホームセンターに連れて行ってもらい、発泡スチロールを買ってきた。スチロールカッターは無いので、普通のカッターで彫刻を作るように瓦を作った。作っていて3月のことを思い出した。あの小さな家を香川県の一軒家の3畳間でつくっていたときのこと。中塚と一緒に住んでいた家では、個室はそれぞれ3畳しかなかった。狭い部屋で発泡スチロールを削りながら、あるいはペンキを塗りながら、自分の船を造るような気持ちで家をつくっていた。追い込まれたような気持ちだった。2ヶ月くらいかけて家をつくり、家を出て行く日に二人で高松市内を散歩した。公園で、雑誌か何かのモデルの撮影をしていた。その人たちをみて「あの人たちの生活と私たちの生活には違いがあるなー」とか話していた。今も中塚はあの家で暮らしているし僕の住所も一応そこにあるのだけど、香川で作った自分の家と一緒にいま宮城県にいるのだ。不思議な気持ち。

いま朝の9時だ。今日ここを出て塩竈までいく予定なのだけど、僕は今夜どんなところに寝ることになるのか、誰と会っているのか。全然想像がつかない。これも不思議な気持ち。仙台に1週間くらい滞在した。相変わらず時間はとっても早く過ぎてあっという間に出発の時だ。6月も半ばになった。

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昨日の授業で「テントと家の違いはなんですか?」という質問があった。テントは目的地と出発地があって、その目的地の方に仮設でつくるものだと思う。目的地と出発地という概念を消そうとしているので、この生活はテントじゃだめだ。テントでは仮設の繰り返しにしかならない。地面に置いた時に、「いつの間に家が建ったの?」っていうリアクションができないと。 地面に置いた時に、まさか歩いて持ってきたとは思いもしない形をしていないと。

 

今日、たまたまお昼ご飯を食べながら人と話す機会をもった。いまやっている学問や仕事に対して「本当にそれをやりたいのかわからない」という悩みは多くの人がもってると思うけど、やったことが無いことをやりたいかどうかなんてわかるわけがないしとにかくやるしかない。そしてやればやるほど自分が「それをやっている」とか「それができている」とは思えなくなる。だから「これは本当にやりたいことなのか」っていう気持ち悪さは一生持ちつづけることになる。そこに答えをだしちゃいけない。だから東京モード学園の広告が嫌いだ。あれは「やりたい奴は集まれ」じゃなくて「ちょっと試してみたい奴は集まれ」くらいでないといけないはず。

 

今日は先日のご夫婦の家に、今度は家ごと泊めてもらうことに。夜自分の過去の作品を紹介するなど。

 

たくさんの人に憧れを持ちたい。憧れるということはその人を自分の中に取り込むこと。取り込むためにはその人のことに出会わないといけないし、知らないといけないし、すくなからず衝撃を受けないといけない。そして出会うほどに別れがきつい。また会えるだろうとはわかっていても、あるいは時間が経てばこの感情も消えてなくなるということがわかっていても、その感情の渦中にいるときの苦しみとかさみしさとは無関係だな。そんなことは慰めにならない。感情はその瞬間だけにわき起こるものだから、その瞬間にしか考えられない。お腹が痛い時に、お腹が痛くない時のことを考えられなくなるのと一緒だ。「いつか痛くなくなるよ」なんてことは、お腹が痛いその時に言われても慰めにならない。

今日は授業の二つ目。留学生が多い。普段英語での授業らしく、先生が僕の話を通訳してくれた。始めて通訳を介して話をしたのだけど、すこし話すと通訳を待たないといけないので話が途切れる。そうすると通訳をまっている間に、何を話していたのか忘れる。英語話せるようにならねばと痛感する。

 

ちょっと温泉に行きたいと思い、夕方秋保の日帰り温泉に行ったのだけど、そこに

「この露天風呂には自然界から虫さんがお邪魔することがあります。そんなときは網でそっと逃がしてあげてください」

と書いてある張り紙があって、そばに虫網が置いてあった。良い。虫が好きなんだろうな。殺されるのは嫌なんだろうな。お風呂は川沿いにある露天風呂で、連日の雨で川は水位が増して見てて怖いくらいの濁流になっている。その川を見ながらお風呂で考える。この移動生活をしているということが、自分をとりまく人たちにちゃんと定着しないと意味がないんじゃないかと思いはじめている。自分がその生活をなんの疑いもなく、普通に営めるようになるまでやらないと意味がないのでは?それが定着してしまえば、例えば同じところに1年くらい滞在していたとしても、移住を生活している途中っていう認識でいられる。そういう認識になったときに、本当に成功したと言えるのでは?そのためにはもしかしたら、一年やって展覧会をするだけでは足りないのでは?住民票はどうしようか。例えば住民票を毎日とか1週間ごとに移す事は可能なのか。そういうとき、健康保険料とか住民税の計算はどうなるのか。役所の人が物凄くややこしい計算をしないといけなくなるな。引っ越してから14日以内に住民票を移さないと、住民基本台帳法違反で罰則があるという決まりがある。その逆はどうやらないらしい。毎日住民票移すとそれはそれで小さなテロになりそうで、あんまりひどいと捕まりそうな気もする。住民票なんて普通そんな頻繁に移すものではない。土地の力はやっぱり強い。その土地でまた何か大きな震災があるかもしれないという程度の不安は、ずっと住んでいる土地にこれからも住むという考えを揺るがすほどにはなりにくい。三宅島でも福島でも岩手でも思ったこと。

 

そういえば秋保に行くバスの中、突然大声で知らない女性に話しかけていた男性がいた。とても大きな声で。恥ずかったと思うし内心どう思っていたのかはわからないけれど、女性はやさしく答えていた。男性がバスから降りるとき

「話をしてくれてありがとう」

と言ってた。こういう感じでしか女性とコミュニケーションできない自分にどこかで気がついているような、そんな「ありがとう」だった。

今日は2つ頼まれた講義のうち1つめの日。生徒は100人くらいいるらしく、しかも美術とか建築関係を勉強しているわけでもない人たちで。どこから話せばいいのか。僕のやってることは、ある程度の免疫がないとただのキチガイに見えるんじゃないか。とかいろいろ考えて直前はかなり緊張したけど話し始めたらなんかすらすらと言葉がでてきた。作品の話をする前に、あえて「生きてるのって理不尽だと思いませんか」っていう問いかけをしてみた。教室でいきなりそんな問いかけをされて嫌な気持ちになる人はたくさんいるだろうと思う。最初に嫌になってしまったらそのあとどんな良い話をしても耳に入らないだろうからこれはひとつの賭けだったんだけど、この言葉に対してどれくらいの人が興味をしめすかあえて試してみた。問いかけをした直後、多くの人が笑ったのがすこし意外だった。でもわりと成功だったと思う。授業楽しかった。

たまたま仙台に来ていたミリメーターのお二人と、昨日知り合ったばかりの斧澤さんと4人で夜ご飯を食べた。斧澤さんはかつてせんだいデザインリーグで日本2位をとった人。ちょっとファンだった。話せて嬉しい。歩きながらたまに頭をぶるぶると振る。

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授業のためせっかく仙台に数日間滞在できるので、からだと頭のギアをローにいれて休ませるような気持ちで日々を過ごすように努力してみる。僕は休まず制作をし続けられるような天才ではないので、体と頭を動かすときと動かさないときのメリハリをつけないとうまく動けない。今までは放っといても時間はあったので勝手にだらけるタイミングが訪れたのだけど、この生活でそれが自然には起こらないから自分で作り出さないといけない。起こらないままでもいいのかもしれないけど。

今日はお昼頃まで日記を書いたり絵に加筆したりする作業。夜に、せんだいスクールオブデザインの人たちの飲み会に混ぜてもらう。混ぜてもらう前からだいぶ酔っぱらっていたので、あんまりちゃんと話せなかった。。五十嵐太郎さんともほんのすこしだけお話できた。なんにせよ批判的に見てもらえるのは良いことだな。

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3日間いた後輩宅を出発する朝。もともと朝は好きじゃないけど、すこし滞在したところを離れるとなるとなおさらきつい。もう何度も経験したけど慣れるものじゃない。一番気持ちが落ちやすいのは朝なんだ。しかも今日は月曜日で外はずっと雨が降っている。あとになってこう書けるけど、その時はもう本当に落ち込んでどうにもできなくなる。まずここがどこなのか、なんでこんなことになっているのか思い出してなんでこんなことになってしまったんだろう。と、落ちていく。無力感と絶望。東京駅で高層ビル群を見上げた時に感じたものと一緒。でもしばらくじっとしていると体が動いていく。何かの命令に従うかのようにプラス思考になっていく。音楽も手助けしてくれる。旋律をもった音楽の世界がこの世界とは別にあって、音楽を聞くことによって僕の体がその世界に結びついていく。うまくいけば自分の人生を大きな旋律に乗せる事ができるはず。

ちょっとしたつながりで、今週の水曜と木曜日に授業をもつことになった。しかも相手は美術でも建築の生徒でもない。一般教養っぽい枠で話をする。どこから話せばいいんだろう。どきどきする。

最初、建物に入る時にガラスのドアが片方しか開かなくて僕の家が入らなかった。そしたら「何事だ」って感じでぞろぞろと人が集まってきて、ドライバーを持ち出したり別の窓から入れようと家の大きさを測ったり、みんなでああでもないこうでもないと話していた。僕はほとんど何もせずにその様子をみていた。面白い。なんでみんなそんなに良い人なのだ。

夜はまた知り合いの紹介がつながり、仙台のマンションに泊めてさせてもらう。助かるー

今日も家は置いたまま。家を置いたままだとそれはそれで「動かさないと家が傷んじゃうかな」とか思ってしまう。家は人が出入りして空気が入れ替わらないとすぐにだめになってしまう。発泡スチロールの家でも同じ。

昨日に引き続き海岸沿いを見てみようと、電車に乗って美田園という駅まで行ってみることにした。

仙台駅で、高いヒールを履いて大きなスーツケースを二つ引きずりながら階段をおりている若い女性がいる。はたから見ていてかなりきつそうな状態で今にも階段から落としそうなくらいだ。僕の前を歩いていた男性が

「持ちましょうか?」

と声をかけたら女性は

「大丈夫です」
と答えた。男性はまさか断られるとは思っていなかったらしく、意表を突かれたような表情をして去って行く。僕は本人が大丈夫と言うならいいかと思って通り過ぎたんだけど、そのあと別の通りすがりのおばちゃんが

「持ちますよ」

って声をかけた。女性はまた
「大丈夫です」
と答えた。そしたらおばちゃんはそこで引かずに
「だって重いから。わたし力持ちだから」
といってスーツケースを半ば強引に女性の手からはがして持った。すごい。結果的に女性はそれで助かったんだと思う。本人が大丈夫だと言っててもスーツケースを持ってあげるべきだったのか。

「ヒールを履いて大きなスーツケースを引きずる」っていう行いの延長線上に「小さな家を担いで移動生活をする」という行為があるな。生活に伴う荷物を自分の体ひとつで持ち運ぼうとすると、まわりから滑稽に見えてしまうのだ。だから大きなスーツケースをヒールを履いて運んでいる女性を、まわりの人が手助けしようとするのはとっても自然な事だと思う。みんなその女性に同情するのだ。自分も多くの荷物を抱えているから。

そういえば大玉村のハーレー乗りのおじちゃんの奥さんは2011年の震災以降、いつ地震が来ても逃げられるように生活に必要なものを一通り詰めたバッグを玄関の横に置いていた。でも奥さんは「重くて持てないのよ」って言ってた。

「何が必要な考え始めたらあれも要るしこれも要るってなっちゃって、重くなっちゃったのよ。いざとなれば火事場の馬鹿力で持てるんでしょうけど。」

って言ってた。フランシスアリスの、人が風船を大量に運んでいる写真作品を思い出した。人が自分の体ひとつでこの大きくなった経済に見合った商売をやろうと必死になれば、人の体とは釣り合わない物量を持ち運ぶ事になって、それは滑稽に見える。今では少なくなったけどいまだに僕の実家のあたりには行商のおばちゃん達がいて、彼女らは自分の身長よりも高く積み上げられた段ボールをキャリーに積んで運んでいるのだ。その姿はこの大きくなりすぎた経済に、自分の体1つで対応しようと頑張っているようでとてもかっこいい。

 

後輩宅に泊まる最後の夜。後輩のご両親と宴会っぽくなった。

「明日から平日で自分たちも仕事だけど。いうなれば村上さんも明日から仕事だからな。そういう多様性が大事」

と言ってくれた。嬉しい。また海岸沿いを見てきたという話をきいてお父さんが「こうやって見てくれる人がいてうれしい。自分の生活をするので精一杯になっちゃって」と笑いながら話していた。

仙台空港の近くで、ほとんど一面草原のようになっているところに一軒だけぽつんと家が残っていたのだ。1階部分を波にえぐられていたけどすごく立派な家だった。たぶん何かの事情があって取り壊すわけにもいかずに残っているんだろうと思う。この家は、こんな状態で3年間建っていたのかと思うと絵に描かずにはいられなかった。かっこよかった。

今日家は後輩宅に置いたまま。せんだいメディアテークの近くでレンタサイクルを借りて、海岸の方まで走っていってみた。2、3年前にも仙台から石巻にかけての海沿いを同じようにレンタサイクルで走ったことがあった。あれからどう変わってるのかちょっと見てみるために。

とりあえず海を目指して東に走ってるうちに、七ヶ浜というところに着く。海水浴場らしきところについたけど、あたりはごっそりと津波にさらわれたみたいで、いまは瓦礫も片付けられて原っぱのような感じになってる。基礎だけ残っている家とか、鉄骨だけ残っている何かの事務所らしきものもある。「津波でさらわれたあとの家を描く」のは、なんだか震災に便乗してるみたいでわざとらしいかと思ってたんだけど、再びその跡地を目の当たりにして「これは描かないといけないな」と思った。間違いなくそこにあった家。地面に固定されているから壊れてしまった。そして、まだ先行きが見えないまま敷地に草が生えて原っぱになってる。

考えてみたら描かないで避けているほうが不自然だ。僕は海岸線を歩いてるんだから。そしてやってみたら自然に描き始められた。海岸には家族連れが一組いる他にはひと気が無くて、ウミネコの鳴き声が人の声みたいに聞こえてすこし不気味。

 

夜、仙台に住んでいる大学の友達二人と飲む。

「動いている気がしないから、いまここも地元のような感じがする」っていう話をしたら「ずっと歩いてるから生活が地続きなんじゃない?」と言われた。そうかも。

いまや移動と言えば電車とか車とか飛行機にのるもので、乗り物に乗る前と降りた後では断絶がある。東京で電車に乗っていると、ある駅から次の駅へと景色が変わる様が、まるでテレビのチャンネルを変えているみたいに見えて、もはや移動はほとんど脳内で行われているんじゃないかと思ってしまうぐらい。どこでもドアはいらない。たけコプターが欲しい。体を外気にさらしたまま移動しないと、断絶がおこってしまうのだ。