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お昼前、僕の家をトラックに積んで庭師の志賀さんちを長男と次男と僕の三人で出発。滝桜や張り子人形で有名な三春町を目指す。出発する前にお母さんが、郡山は線量が少し高いこと。セシウムなんかは土に付着しやすいからなるべく土の上では寝ないこと。2メートル離れれば大丈夫だということを教えてくれた。生活の中での放射能との付き合い方が自然に身に付いてる感じがした。

お父さんの勧めで、バイパスではなくて山あいを走っている旧道から向かった。持っていた韓国海苔(勿来町のおばちゃんからもらった)のパッケージがどんどん膨らむので標高が高くなっていくのがわかる。とても深い山道なんだけど、ずっと走っているとあちこちに家を見つけるし、ときどき町にも出る。当たり前だけど、こんなところでも住んでいる人がいるんだって思う。ここで生まれて、一時期は都会に出て、ここに戻ってきて故郷で人生を終えるような幸せもあるのだ。

山道に一軒だけぽつんと建っていた家を通り過ぎるとき、男の人が白い車を洗車しているのが見えたのが良かった。洗車といえば休日にやるものだし多分仕事が休みなんだろう。今にも崩れそうな家もたくさん見た。こういう山奥でいまにも崩れそうな家を見るのは、なんていうかとても自然な感じがした。人がいるところでは空き家がほったらかされるのは許されないけど、山のなかではわざわざ解体される方が不自然というか。人が減っていって、社会のコントロールを逃れて自然の成り行きのなかに家が解体されていく感じというか。

三春町で張り子づくりをすこし見学してお話を聞いたあと、再びトラックで郡山まで行く。駅近くで志賀家の息子二人と別れる。「個展観に行きます」って言ってくれた。なんだか初対面の気がしない家族のみなさんだった。北上を始めてからずっとさみしい別れが続いているけど生きてれば毎日朝はくるし北に向かわなきゃ行けないし家の絵を描かなきゃいけない。時間が経つのが本当に早くてどうかしちゃいそうだけどどうかしてる暇もないくらい時間が経つのが早いという状態で、今日もあっという間に夜になってしまった。

今夜の家の置き場を探さなくちゃいけなかったから、お寺を探していたら自転車屋のおじちゃんから声をかけられた。自転車屋の中でコーヒーをいただいていたら、店の前を男の人が通り過ぎた。おじちゃんはその人に向けて「オウ!」と言った。その男の人はこっちも見ないで通り過ぎていった。

おじちゃんは

「だめだな。娘の同級生なんだけど、挨拶もできねえ。ここに同級生のお父さんがいることはわかってるんだよ。だからこっちから声をかけたのにな」

と言っていた。その店は借りてやっている場所だから家を置かせてやることはできないと言われたけど、近くの神社とお寺を紹介してくれた。

そしていまその神社の境内からこの日記を書いている。神社の人が「一晩なら」とオッケーしてくれたのだ。

さっき郡山駅近くの「まねきの湯」という銭湯でお風呂に入ってきたところ。ここはいわき市よりも暑い気がする。

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福島県双葉郡富岡町。原発まで7.5キロくらい。

昨日立ち入り禁止区域まで行ったのをあんなさらっと書いてしまってよかったのか。一生で二度とないような強烈な体験だったはず。もう一度思い出しながら書いてみる。ひと気がなくて異様な雰囲気だったということは昨日書いた。植物がしげっていて、家はどれも崩れたり瓦が落ちたりしていた。鳥がやたらたくさん鳴いていた。この鳥たちの鳴き声がまた気持ち悪かった。変わった鳴き方をしているとかじゃない。実家近くの公園とかでふつうに聞いたら「奇麗な声だなー」とか思うんだろうけど、ここでは異様な響き方をしていた。

街全体が木々の緑色に覆われていて、そこに西日があたってとても奇麗。セシウムなんかは目に見えないので、頭で気にさえしなければなんてことないのだ。でもそれは間違いなく飛んでいるし、草木や土の至る所に付着している。目に見えない物がまちを覆っていて、そのせいで人が逃げていて、家はほっとかれて崩れている。そしてそんな目に見えない物なんて気にしない植物や鳥や虫たちが人の代わりに暮らしている。それは物理的に在るものなのに、頭で感じるしかない。見えないし匂いもないし音も出さない。そこにあるってことを忘れてしまったら、あるいは知らなかったら無いも同然。

なんかうまく言葉にできないけど、とにかくかなり不自然な状態。あってはいけない状態のまち。

 

今日も引き続き昨日の家(庭師のお父さまの家)に家を置かせてもらう。というのも、明日まで待ってくれればトラックの車検が終わって、三春町のあたりまで家ごと運んでくれるらしい。ここから郡山まで80キロくらいあって、あいだはずっと山道らしい。とても助かる。お父さまがぜひ三春町は訪ねて欲しいとおっしゃるのでそういうことになった。放射能のせいで海岸線が通れないのが本当にうざったい。

この家はとっても広い。門をくぐって切りそろえられた草木のあいだを歩いていって、玄関までで15メートルくらいある。僕は10畳間を一部屋まるまる使わせてもらっている。

「大きい家ですね」って言ったら

「このあたりでは普通です。ぼろぼろだし」と言われた。

家が大きいせいか、至る所に「電気を消す!」「奇麗に保つ!」というような張り紙が張ってある。良いな。聞いてみたらお母さんが貼ったものらしい。シェアハウスみたい。

 

外で家の絵を描いていたら近くのスーパーの駐輪場から

少年A

「いまってなんじ?」

少年B

「えーっとね。ちょっと待ってね。いま何時ですか?」

ベンチに座っていたおっちゃん

「二時半。二時半」

少年B

「ありがとうございます!」

少年A

「ありがとうございました!」

少年B

「二時三十分!やった!まだあと一時間遊べる!」

という会話が聞こえた。少年Bの「ありがとうございました!」ていうのが良い。子供の頃の1時間は今よりもずっと長かった。毎日「朝から夕方までの1日」っていう、確固たる量の時間があった。いまそれを感じることができなくなった。1日が過ぎた後に「1日があった」ってかろうじて思えるくらい。それもそのうち思わなくなっていく気がする。だんだんのびて1週間になって1ヶ月になって、時間の単位が人生っていう時間に溶けていく感じがする。

どれだけ良いことを言ったとしても、それで何かを言った気になっちゃいけない。どんな簡単なことでも「自分には何かができる」って思っちゃいけない。「これができる」って思った瞬間にそれはできなくなる。面白さや美しさは志向性のなかに宿ると思う。何かに向けて運動することそれ自体に美が宿る。早い話がいい気になっちゃいけない。答えを出してはいけない。自分の居場所を定めてはいけない。ここでこういう事を言ってそれで良しとしてもいけない。うまいこと言ったとか思っちゃいけないし、この文章を信じてもいけない。

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今日家を置かせてもらった民宿は海の目の前だったけど津波は床上浸水ですんでいた。このあたりは津波の被害はほとんどないように見える。なんでかおばちゃんに聞いてみたら、勿来町は海岸線が一直線だったかららしい。一直線だから津波が大きくならずにすんだという。すぐ近くに火力発電所があるんだけど、そこのあたりは車も家も流されちゃったという。そこは海岸線が曲がった湾になっていたから津波が大きくなってしまったんだとか。

 

ある場所を訪れた時に

「人生何十年もあるんだから、1、2年こういうことやってもいいのよ」

と人が話しているのが聞こえた。それで合点がいった。これまで「若いからできていいわね」とか言われてなんか違和感があったのは、あの人たちに日常化のバイアスがかかっているからだ。彼ら彼女らの中には何か不動で確固たる「日常とはこういうものだ」という無意識の思い込みがあるのだ。「いま目の前でこんなことをやっている人がいるのはある種の非日常的な"勢いにのって"やっているからだ。彼もいずれ若くなくなり"私たちと同じようなこの日常"に取り込まれていく。だから私がこの日常にいることは間違ってない」と自分を納得させるためにそういうことを口走る。

 

昨日も書いたとおり、今日は田谷さんが紹介してくれた人の家に家を置かせてもらう。そこには僕と同い年の長男と3つくらい離れている次男がいた。長男の方が原発事故で立ち入り禁止になっているところまで車で連れていってくれた。

一度見てみたかった。それは好奇心もあるし、また主にいま海岸線を歩いているのでこのまま北上するといずれ立ち入り禁止区域にぶつかる。だからどこかで郡山にむかう道にそれなくちゃいけないんだけど、それは立ち入り禁止区域にぶつかってから引き返すというやりかたでも大丈夫そうか、あるいはもっと早い段階で道を逸れたほうがいいのか、実際みてみないとわからない。調べてみるといまは7キロ圏内くらいのところまで近づけるらしい。大丈夫なのか。

距離が近づくにつれて、体がこわばって緊張してくるのがわかった。15キロ圏内あたりからはほとんどひと気が無かった。なにか作業をしている人はたくさんいるんだけど、生活の気配がなかった。犬の散歩してるひととか、畑仕事をしてるおばちゃんとか、自転車にのってる主婦とか、子供とか、窓から人影が見えるというような無かった。ほとんどの家は窓にカーテンがかけられていて、地震で落ちた瓦なんかはそのまんまになっていた。今にも崩れそうな家もいくつかある。

規制線がはられている直前で車を降りて、歩いて近づいてみた。福島第一原発まで7キロくらい。

「島根県警」と書かれたマスクをしたおまわりさんが二人近づいてきて

「なにしてるんですか」

と聞いてきた。僕たちは

「ちょっと友達が来たんで連れてきたんです。中には入りません」

とかなんとか言ってやりすごす。どうやら全国の警察が交代で規制線をみはっているみたい。

「ごくろうさまです」

と言って別れる。

家の絵を2時間くらい描いてもいいかと長男の方に聞いたら

「いくらでも待つよ」

と言ってくれたので、すこし探索して家の絵を描き始めた。探索してる最中にも一回おまわりさんに職質された。

はじめ雨が降っていた。雨が降るなか、画用紙に落ちる水滴を払いながら絵を描いていた。やがて雨があがると、わずか数分のうちに足を何十カ所も蚊やブヨに刺される。なんでこんなにたくさんいるんだ。経験したことのないスピードで刺された。足がものすごく腫れた。それでも描いていた。ここの家の絵だけは現場で描ききらないとダメだと思っていた。あたりはあちこちからやたら元気な鳥が鳴く声がする。人影は全くない。やたらと植物が茂っている。日差しが強くて足はまだ刺されつづけて熱をもってきた。なぜか心拍数があがってきてだんだん絵に集中するのが困難になる。そしたら下腹部が痛くなってきてその後、うまく言えないんだけど急に突然精神的な限界がきたのを感じて「これ以上いたら頭がおかしくなる」と思いいそいでスケッチブックをたたんで立ち去った。30分くらい現場でがんばったけれど無理だった。その家を写真に撮り、あとで書き加えることにした。

車で帰ってる途中もしばらく下腹部は痛くて落ち着かなかったけど、だんだん離れるに従っておさまっていった。精神的なものが原因なんだろうけれど、こんな状態になるなんて予想してなかった。二度と行きたくない。というか行かなければよかったとさえ思ってしまった。でもいまは落ち着いて、行ってよかったと思える。

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規制線のあたり

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僕はここには感じたことをなるべく正直に書こうとしている。なんで日記を公開するのかって言われたこともある。自分の精神状態をしずめるためにこれを書いているんだけど、それを公開する必要はあるのか。自分でもなんでかよくわからないけど、ひとつは自分が「移住を生活する」という生活そのものを含めた作品をつくっている以上、公と私の境界線があってはいけないという強迫観念に近いものがあるからだと思う。

ここに書くのは誰かに嫌な思いをさせるかもしれないような内容のこともあるし、あとで「あいつあのときこんなこと考えてたのか」って驚かれるようなこともある。でもほとんどの場合、それはそのときに思ってたことじゃない。それは「あのときこう思った。それをいま思い出しながら書く」という作業ではなくて、あとでこうやって文章を書きながらそのときのことを思い出して「あのときに感じたことはこういうことだろう」というように後から付け足されるものを言葉にしていくという作業に近い。簡単に言っちゃえば「あのときこんなふうに思ったことにしよう」というもの。

僕はそんな風にしてしか自分のなかで出来事を完結させることができない。こんな風に「あのときこう思ったことにしよう」を書いておかないと、自分の中でいつまでも出来事が終わってくれなくて気持ちが悪い。だからこの場所は「あの時こう思ってたけど言えなかったことをここで書く」というような愚痴の場では断じてない。なんでそんなようなことをわざわざ書くのか。僕は何もないところから「これをつくりたい」とは思えない人間だし「美術史に自分をのっけて新しいものを打ち出していく」というようなこともできないことも最近よくわかってきた。日々過ごす中で感じた違和感とか誰かの言葉とかに対して、自分を過敏に反応させて考えをめぐらしてアイデアを落としていくような作業のなかからでしか作品をつくることができない。そしてそれは言葉にされなくてはいけないし、公開されてなくてはいけない。だから「こんなこと書いたら嫌がられるかな」とどこかでは思いつつ、作家である以上こんなふうに書くことしかできない。

また「受け取る」ということは能動的なことだと思う。言葉を受けたり、誰かの作品を見てなにか思ったなら、それがその言葉や作品の意図だし、それが意味だ。それこそがその言葉や作品の存在価値だ。話し手や作り手の意図を第一とするのは良くないと思う。

 

昨晩からずっと雨が降っている。そういえばこの家で雨の中寝たのは初めてかも。ごくたまにどこから漏れてるのかわからない水滴が顔に落ちてくる以外水漏れはなかった。ただ底のぬれた靴の置き場に困るな。

新座でしりあった銅版画作家の田谷さんからメールがきた。いわき市のこのあたりに知り合いが住んでて、連絡したら僕に会いたいといってるらしい。自分の現在地を伝えたら、その人が親子で訪ねてきた。そして車で山奥の美味しいカフェまで連れていってくれた。その人の家は僕の家があるところから数キロ北にあって「うち来てください」と言ってくれたので明日はそこに家を置かせてもらうことにする。こんなのんびりペースで大丈夫なのか不安だけど。

その人は山をみながら「奇麗なところなんですよ。線量さえなければ」といっていた。ここは原発から60キロくらい。近くの海水浴場は去年から海開きをしていて、泳いでいるひともたくさんいるらしい。 カフェからの帰り道、突然車がパンクした。道路の脇に車をとめて、迎えが来るのを待つ。それまで僕たちを運んでいた車はパンクしたとたんに荷物になった。道の真ん中で立ち往生したときに不思議な感覚があった。普段は通り過ぎるだけの道に突如落とされて、動くこともできなくて、仕方なく道に生えてる花とか虫とかを観察してみたりして。

今夜は昨日知り合ったおばちゃんがやってる民宿に家をおかせてもらう。今日は客もいないから部屋に泊まっていいよ。サービスしてやっから、と言ってくれた。ありがたい。おばちゃんに「旦那はアルツハイマーだから、気にすんな」と言われた。

民宿に入ると旦那さんが大声で迎えてくれた。
「ほんと立派なもんだ。いまの社会ってもんは悪徳業者ばっかりでしっちゃかめっちゃかだからな。あんたみたいな人がこれから社会を支えていくんだからな。俺はもう頭がダメになっちまった」
と言ってた。おばちゃんはまた
「アルツハイマーだから」
って言っている。
いまこれを自分の部屋で書いてるんだけど、ときどき旦那さんが怒鳴る声が聞こえる。おばちゃん大変そうだな。

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いま福島県いわき市の「勿来温泉 関の湯」という大型浴場のラウンジにいる。まわりには退職したばかりくらいの年齢の夫婦連れや親子連れがご飯を食べたりビールを飲んだりしている。月曜日なので、働きざかりの年代の人たちは見当たらない。5,6人のおばちゃんのグループが2グループあってそれぞれ盛り上がっている。家の前に救急車が止まった話やどっかのサンドイッチが美味しいという話が聞こえる。だいたい2,3人が同時に話しているんだけどそれで会話が成り立ってるんだか成り立ってないんだかわからない感じ豪快なテンポのまま話が続いていく。ブレインストーミングしてるみたいだ。すごいな。そういえば常陸太田のアーティスト二人の家にはテレビがなかった。それが良かった。テレビをつけながら会話をすると、話題が表面をすべる。

隣の隣で座布団を敷いて寝ていた男性がどこかが痛くて動けないらしく、スタッフやら家族やらがばたばたと集まってきた。周りの人たちもちらちらと見て気にしている。そんななかでマックブックをひらいてこれを書いている。

今日常陸太田市里川町から北茨城市の大津港までトラックで家を運んでもらい、少し歩いて福島県に入った。いよいよ福島県。ほんと特別な名前になったな。県境を超えたけどなんてことない。それまでの景色と特に何か変わったところは見当たらない。iPhoneの現在地の表示は「茨城県北茨城市」から「福島県いわき市」になってた。でも目の前には同じように右側に海が、左側に山がある道路が続いてるだけだ。海沿いを歩いてるんだけどトンネルもある。ここらあたりから関東平野じゃなくなり、山と海がとても近い。

「家の絵を描かなきゃ」ってこれまで以上に強く思った。今までは自分の家の置き場が見つかる前に絵を描き始める気にならなかったけど描かずにはいられなくなって、家をおろして家の絵を描き始めた。まだトラックでおろされた場所から5キロくらいしか歩いてない。

勿来町関田西という所で描きはじめたらバイクに乗ったおばちゃんに話しかけられる。このあたりに来ると方言が強くて聞き取れないことがあるな。

おばちゃんに事情を説明したら「とんでもねえ長男だな」と笑いながら、今日僕の家を置く敷地を貸してくれた。

その敷地というのが2011年の地震と津波(床下浸水ですんだらしい)でダメになった家を解体した後の更地らしい。

さらに近くで民宿をやっているおばちゃんの友達のおばちゃんと道ではちあって、そのおばちゃんも面白がって「うちも使っていい」と言ってくれた。

バイクのおばちゃんは

「そしたらわざわざ更地で寝なくたって、この民宿に置かせてもらえばええ」

と言う。でも僕は「あの震災でダメになった家の跡地で寝てみたい」と思ってた。だから民宿には明日置かせてもらうことに。海が見える民宿だった。

民宿のおばちゃんは「明日好きなときにきたらええ」と言ってくれた。

以前あるプロジェクトの期間中に岩手県の大船渡で津波にさらわれた敷地に寝たことがあった。

あのとき、知らない人がたくさん目の前を通り過ぎながら僕を睨みつけてくるというひどい悪夢をみて、もう寝るのやめようと思ったのだった。でも今はなんとなく大丈夫な気がする。

そんでバイクのおばちゃんが、この温泉の無料券をプレゼントしてくれて今に至る。太平洋が一望できる素敵な温泉だった。

 

さっきラウンジで絵を描いていたら、隣に座っていた男性に話しかけられた。その男性はいわき市に住んでいて「~の実家が原発で帰れなくなった。双葉町ってとこなんだけど」という話がさらっとでてきた。「北上するなら郡山を目指した方がいい。6号線は原発で通行止めになってる」とアドバイスをくれた。僕は自分の説明をするのが面倒で、適当に「スケッチ旅行している画家です」という説明をした。

これからおばちゃんの更地においてある家に帰る。あんな小さな軽い家でも、帰る場所があると思うだけでここがすこしホームのように感じられてほっとするのだ。

倒れていた男性のところにとうとう救急隊員がきた。でもちゃんと話はできているみたい。大丈夫かな。

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歩かない時はこういう感じになる

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常陸太田市里川町にいる。標高600メートル。星がとても綺麗。もうあと数キロ北上したら福島県に入る。昨日までいた松平町よりもすこし気温が低い感じがする。この街に家は65軒くらいあるけど、時々人が帰ってくるだけの空き家状態のところも多いらしい。今日はここで酪農をやっている家に家を置かせてもらう。僕を呼んでくれた人とその奥さんと、お母さまお父さまが住んでいる。ここはそのお父さんが始めた牧場で、それまでは野菜やお米をつくる段々畑がある農家だったところを、一大決心してブルドーザで土をならし牧場に変えたらしい。最初二頭の牛を仕入れてやり始め、今では60頭くらいになっている。ここまで規模の大きな牧場は当時なかったためまわりの人に反対されたという。それをエネルギーに変えて見事に成功させた。眼鏡がとても似合う聡明そうなお父さんと、それを継いでいる人と、また新たに生まれる命もある。すごい。
ここから福島第一原発まで120キロくらい。原発事故が起きてから数ヶ月は線量検査にひっかかったため毎日毎日絞った牛乳を捨てていた。何トンも。当時は牛が心配で、家ではなくて牛舎により近い小さな事務所に寝泊まりしていた。
牛舎のなかで牛のそばを通ると必ず顔をあげてこっちの目を見てくる。目がうるうるしていて顔が大きくて重そうで、舌が長い。草をやるとそれが無くなるまで一秒も休まずに食べ続ける。一頭あたり一日30キロの乳を出す。牛が乳を出すためには子供が生まれないといけない。だからほとんどの牛はいつも妊している。生まれてから一ヶ月経ってない子牛もいた。牛乳の値段はどんどん下がっている。買い取られる牛乳の脂肪分に制限が設けられてから、なかなか基準をクリアできず牛をやめてしまう人が全国的に多くいたらしい。

今日人に前髪を切ってもらった。この生活をするにあたってなるべく「旅人」っぽくなりたくない。ごく普通に家で生活をしているような印象を保ちたい。髭も髪も伸びてない方がいいし毎日お風呂に入った方がいいし肌は白い方がいい。ながく旅をしている人ってどんどん仙人みたいな見た目になっていって、本人もそれでよしとしちゃってるイメージだけど、僕は旅人ではなくて家と一緒に移動しているだけの人なのでそういう見た目にはなっちゃだめだ。

田んぼが近くに無いので、昨日までみたいにカエルの合唱は聞こえない。かわりに時々牛がおしっこをしているジョロロという豪快な音やおならの音やもぞもぞと動く音や、すこしの虫の鳴き声と、そいつらが電灯にぶつかる音が聞こえてくる。外はとても静かで暗い。

そこに近づいていると思うと気が引き締まってくる。この制作の発端になっている事故が起こった現場。明日か明後日にはもう福島県に入るはず。とてもとても重要な現場に入る。

「あなたがんばって」よりも「わたしがんばる」の方が応援になることもある。誰かが何かやっているのを見たり聞いたりするのが応援に感じられることもある。

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菊地さんの家にツバメの巣があった。ツバメは毎年同じところに巣をつくる。震災の前年、やたら丈夫な巣をつくっているツバメをみて菊地さんは「こいつ巣の作り方を知らないんじゃないか」と思ったけど、観察しているうちに「なんか大きな地震とかあるんじゃないか」と思ったらしい。

菊地さんの家をお昼前に出発して、林たちの家に戻ってくる。いろいろあって明日までここにいさせてもらうことにした。明日里川町というところに住んでいる人が「ぜひうちにもきてほしい」ということで、トラックで家ごと迎えにきてくれることになってる。林たちとは帰ってこないので会えない。ちゃんと別れたので、また会ってしまったらなんかまぬけだ。

お昼ごろに、19日の日記にも登場したよしざわさんが2歳の息子さんを連れて遊びにきた。

こいつがなかなかくせのある面白い男の子だった。まず僕が「こんにちは」と言ったら「ばいばい」と言う。

そして、僕の家に興味がありそうな感じでドアをぱかぱかあけるんだけど、絶対に中に入らない。

「入りなよ」と言っても入らない。

で、別れ際に僕が「バイバイ」と言ったら「ブッ」と言われた。その「ブッ」を覚えておく。

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夕方散歩してたら畑作業をしているおばちゃんをみつける。ひとつの葉のまわりの土を何分かかけて整えて、おわったらまた次の葉へ。手間がかかる作業だ。毎日そこに通わないといけない。畑をやるには家が毎日近くに無いといけないのだ。手間をかけて育てても動物にやられたり天候のせいでダメになったりすることもあるだろう。いまはみんな一緒に地面から生えてるけど、収穫したら自分で食べる分と人に分ける分と売る分とにわかれていくんだろう。

林たちの家を出る。林は朝早く家を出て行った。今日明日と東京に帰るらしい。4日間もいるとさすがに名残惜しい。ここで自分の根が生え始めているのがわかる。あんまり長く居ると、別れがつらくなるな。根を引き抜くのが痛くなる。林はすごい。日記を書こうとして今日なにがあったかをふり返るときに、林のことを見過ごしてしまうくらい、違和感無く今まで一緒に生活していた。あまりに自然にいろんなことに気を回すので、こちらはそれに気がつかない。こんなことできる人がいるのか。毎晩飲みながら話をした。話したりスケッチブックを見せてもらったりして、根っからの絵描きだなと思った。日々の思考とか講演をきいたときのメモとかみせてもらうと、絵と言葉の区別がまるで無いかのように自由に描かれていて、彼女の思考の中ではそれらがとけあってるようだった。

今日は水戸芸で出会って、翌日野菜ジュースを届けてくれた菊地さんの家に行く。東連地町というところで、林たちの家から歩いて20分くらい。すごく近い。

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菊地さんはここで建築設計と大工をやっている。父親の仕事を継ぐかたちみたい。

お昼ご飯にと、水戸のおいしいお店を予約してくれていたみたいで、着いてすぐに車で水戸まで行った。

菊地さんはまだ20代で、お店にいく服装も車もお洒落でサングラスも似合ってた。でも家と事務所にしているところは360度田んぼと畑に囲まれているようなところだ。仕事は忙しいらしい。生まれたところで咲いている花みたいだ。かっこいい。

水戸のカフェで、みなみさんという人と合流して一緒にごはんをたべた。菊地さんとみなみは水戸芸術館の「高校生ウィーク」というコミュニティで知り合ったらしい。話をきいてると、年齢層も様々な人が集まって町を探検したりなんか作ったりカフェの店員をやったりしているみたいでとっても楽しそうだった。この前の下市交流会といい、水戸はこんな自由なコミュニティがたくさんあるのかな。

 

時間が経つのが本当に早い。拷問を受けてるみたい。思考も思い出の整理も追いついてない。悲しみや喜びを感じる気持ちも追いついてない。全ての出来事が次から次へと始まって、何かを感じる暇を与えずに終わっていく。すごいスピードで過ぎていくあらゆる物事から、目にとまった物事をひとつひろいあげて、それをながめているうちにあまりにもたくさんのことが流れ去って、もう手に取ることもできなくなってしまう。散らかしては片付けて、また散らかしては片付けてを繰り返しているだけだ。そこで遊ぶために散らかすのに、遊びはじめたら片付けの時間が来る。小さいころブロックで遊んだ時もこんな気持ちだった。そのうちちゃんと片付けられなくなってくるだろう。散らかしながら、片付けなくちゃと思いながらもまた新しく散らかしてしまうことになるだろう。そんなんでいいのか。

昼に読売新聞の茨城タウンニュースという地域向け情報紙の記者の取材を受ける。

そこで

この活動に「自分探し」のような意味はあるか?

というようなことを聞かれた。ぽかんとしてしまった。あまりにも予想外だったのでうまく答えられなかった。そんなふうにみえることもあるのか。

むしろ自分を見捨てるのに必死なのに

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この「移住を生活する」とは無関係のイラストレーションの仕事があって、それがあんまり進められてなかったのでこの機会を利用して、今日はずっと常陸太田の林たちの家にこもってその作業をしていた。あまり進まない。思う通りにいかない。雑誌の表紙なんかに使うイラストを描くのは普通に絵を描くのとは違うこつがいりそう。

外はひどい雨と風が吹いていて、あるとき外で大きな音がしたのでまさかと思い見てみると、僕の家がひっくり返っていた。瓦が1枚飛んでいた。外は危ないので中に入れさせてもらう。強い風が吹くとちゃんと瓦が飛ぶのがなんだか嬉しい。

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ミヤタと林を含む常陸太田の人たちが市内を案内してくれるというので、軽トラに家を積んで、もう1台の車に5人乗って夕方まで市内をぐるぐるした。鯨が丘や西山荘や里美地区やら。

アーティストがまちおこし事業の一環として町に雇われている、という状態について考えて悶々とする。どうやらこの常陸太田のレジデンスは市のまちおこし事業の一環として行われているようだった。最近は本当に国内あちこちで「アート」と「まちおこし」の単語がセットになって語られているのを聞くな。

美術の制作は基本的に個人の内的な衝動からおこる活動でしかあり得ないと思うから「まちおこし」という公共をつくりだす動きと相性が良い気はする。パブリックな動きをつくりだすためには、まず最初に個人の内的な衝動による働きかけが不可欠だと思うから。「一人の閉じた個人の活動」があるからそのまわりに「公共」が展開する、というようなことを前にも書いた。でもつくづく感じるのは役所の、特に「〜市役所〜支所〜課」みたいに、より町に近い人たちが動くときにはまず「上からおりてくる公の予算」が先にあって、それをどう使うかっていう頭になりがちで、予算の割当先が決まるまでが重要で、そこから先はもうよくわからない知らない、みたいなことになりやすいな。そこの順番が美術活動とは全然逆なので、協働したときに変なことになりかねない。

例えば公用車をだすためには「アーティストが子供と交流しているところを撮った写真」とか「まちの人と歓談しているところの写真」が必要になるんだろう。

それは「交流しているところを写真にとるための交流」が行われてしまうという変な事態になりえるし、あちこちでそういう事態になっているんだろうなと思う。そうやって使われるお金たちはさぞ無念だろうな。

重力が思考を阻害する邪魔なものに感じられる。肩が痛くなるのも歩くのが疲れるのも、人が土地に括り付けられるのも重力のせいだ。住所と重力の語感も似てる。

朝10時半頃にBelly Buttonを出発。

常陸太田市のアーティストインレジデンスに滞在中のアーティスト林友深とミヤタユキの家に向けて出発。

27キロくらい。荷物が減ったのでだいぶ違う。2時間半くらいは休まずに歩けた。

歩きながらミンティアと1000円のカンパをもらう。

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常陸太田市。信号に変な像が立っていた。なんだこれは。

歩いていたら昨日水戸芸で知り合った常陸太田在住の菊池さんからメールがくる

「約束の野菜ジュースを渡したいんですが、いまどこにいますか?」

なんと本当に野菜ジュースを届けてくれた。すごい。冗談に受け取ってしまったことを反省する。

菊池さんは僕が今向かっている松平町というところのすぐ近所にすんでいるらしい。そこにも遊びにいくことを約束した。これは冗談じゃない。

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林が壁画を描いているという公園まで歩いていって、そこからよしざわさんという人がトラックで林の家まで家を運んでくれた。トラックに乗せたのは初めて。ワープと呼ぶことにする。

夜、林と宴会になる。ミヤタと林が高速道路でひどい事故にあったときいていたので、事故について話を聞いた。

夜。林とミヤタが運転する車が高速道路上にランプもつけずに停車していた車にぶつかりそうになったのを避けてスピンしたところを、後続の車何台かに衝突された。窓をあけて「助けてください!」と叫んだけど、全く意味なく、窓からiPhoneが投げ出されていった。「ああ、死ぬな」と思った。車の中から警察に電話して「いまどこにいるかわからないんですけど、もう一回衝突されたら死にます」と話した。

しかし幸い二人とも死ななかった。全身打撲と骨折をしたものの、いま林もミヤタも元気でやっている。良かった。死なないで本当に良かった。ほんと、一歩間違えたら、例えばドアから飛び出したり、車を避けきれずに正面衝突していたり、もう1台多く車が走っていたりしたら、死んでいたかも。あるいは体が使い物にならなくなっていたかもしれないのだ。二人は生き残った。

あとでミヤタから聞いたのだけど、停車していた車を避けるのに、全身の全エネルギーをつかったので、スピンして停車した直後、記憶が一瞬飛んだという。そのあと、頭の中にふせんが6つ浮かんできてそのうち2つに「ともみ」と「高知」と書かれていて、あとの4つには何も書かれていなかったという。

もう本当に限界を超えた直後、人の頭は単語を6つまで覚えられる状態になるということだ。あと4つには何も書かれていなかった、というところがリアルだ。

4時くらいまで絵を描いたり日記を書いたりする。

それと荷物をいくつか実家に送った。上着と文庫本と、描き終わった絵を70枚くらい。

元気をもらえると思ってニーチェのツァラトゥストラ下巻を持ち歩いていたけど、読む時間はほとんど無く、ただ重いだけのものになっていた。

元気を手に入れるためには、本とか持ち歩くより何より、とにかく1グラムでも荷物を減らした方がいいことがよくわかった。体への負担が全然違う。

今日は水戸芸術館のファッション展の最終日ということもあって、東京から友達が4人(2人+2人の別グループ)水戸に遊びにくるという連絡を受けたので、鈴木君の家を家と一緒に出て水戸芸術館に向かった。5キロくらいの移動。

水戸芸で常陸太田市に住んでいるという人と新しく知り合った。

「明日常陸太田に行くんですよ」

「そこ地元ですよ!差し入れ持っていきます」

「本当ですか?野菜ジュースが嬉しいです」

という会話をするなど。

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そのあと、昨日の交流会で隣に座っていた山田さんがやっているBelly Buttonという雑貨屋に遊びにいく。今日はここに家を置かせてもらう予定になっていた。

しかも

「来月からチャーシューを売ろうと思っていて、今チャーシューを研究して作ってるんです。よかったら晩ご飯友達も一緒に晩ご飯食べに」

ということなので、東京から来た友達4人(デザイナーの飯田君と藝大建築院生の下岡さんと編物関係のお仕事をしている吉沢さんと法政大建築学生の川田君)と鈴木君も一緒に店をのぞかせてもらった。

商品が一癖も二癖もある物ばっかりだった。上の写真は山田さん曰く「カトラリーにしか興味がない人が作ったカトラリー」らしい。

 

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これはそのうちの1つで、コーヒーに砂糖を溶かすためのスプーン(右利き用)。用途が限定されすぎている。飯田君は「カトラリーにしか興味が無い人がカトラリー作るとこうなるのか」と言っていた。

 

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上のやつはまた別の作家の「七味唐辛子入れ」らしい。すごいな。

これは売れないだろうなあと思った。とても面白いお店だった。

 

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そのあとお店の駐車場にブルーシートを広げて、みんなで買い出しにいく。山田さんがチャーシュー丼、その息子さんがタンドリーチキンを作ってもってきてくれた。どっちもおいしい。

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みんな東京に帰っていった。