ムン・キョンウォン&チョン・ジュンホ「どこにもない場所のこと」/金沢21世紀美術館。小さな船で遭難する男の映像作品、すばらしかった。小さな植物を大事に育てているところ、漂流してきたパラソルをさしてまどろむところ、夢をみるところ。いろいろなシーンがつながり、しかも映像全体で始まりと終わりがない。切れ目なくループしている(ループする映像が展示室内に置かれることが一般化している美術館でしかできない体験だと思った。映画館ではなく)。果てのない海をぽつんと一人であてもなく漂い、ときどき嵐に遭ったり日差しが気落ち良かったり、海に浮いている変なものを拾ったりする感じは、誰もが自分のことにひきつけて考えられると思うし、社会全体のことにも、インターネットのメタファーにも見える。海にグリッド線が引かれているのも良かった。ムン&チョンの展示全体に、なにかを「表現する」とかそんな次元の話ではなく、作家としてなにかを背負うこと、背負わされること、の覚悟を見ているような。そんな態度と、モチーフを絞り、普遍的な問題に昇華させるセンスが。元気でた…。
中谷宇吉郎雪の科学館も最高だった。ダイヤモンドダストを、冷凍庫とプチプチをつかって発生させる実験。過剰冷却水を凍らせる実験。チンダル像をみる実験。特にチンダル現象、バケツの底にできた氷なんて身近なもののはずなのに、そんなことになっているとは全然知らなくてほんとうにびっくりした。(06102247)

・選択肢があることの不幸について
選択肢があるということが、かえって不幸を呼んでしまう例は身の回りにありふれているように思われるのだが、そのことを指摘する人がほとんどいない。選択肢というものはあるほどよいというのがほとんど社会通念みたいになってしまっているけど、しかし他人のことをうらやんだり妬んだり、自分を卑下したりする原因のほとんどは、選択肢があること、別の選択肢の可能性を考えてしまうことに起因するのでは

・自分が「良い」と思うことが、かならずしも人を気遣うことではないとき、どうすればいいのかわからない
金沢にて何人かで飲んでいて、後輩的立ち位置の子が終電を逃した。ぼくはその子のキャラクター的に、みんなから「終電逃しちゃったの!?どうすんの!タクシー?お金すこし出そうか!」みたいに過剰に気にされるのが嫌に感じるのではないかと思った。自分がその人だったら嫌だな、ではなく、「その人としての自分」は気にされたくない、と直観的に感じた。しかし当然ながら、みんなその子のことを心配した。大丈夫ですよ、とその子は言った。兄に迎えに来てもらいます、ということになり、店を出た。
そして店をでてからぼくは、少し迷ったけど、「終電を逃したことに関して、自分は全然悪いと思ってない」という意味のことをいった。あれは正しかったのか。たしかに権力勾配はあった。あまり褒められたせりふではないことはわかっている。わざわざ言わなくても、黙っていればよかった、黙っているのが無難だったかもしれない。でもたしかに、みんなから気にされるのは嫌だという直感があった

雲と山の稜線のあいだの空がプラチナに光ることがある

たいへんだ明日は早朝に起きねばと思ったあとで、いや8時って別に早朝とは言わないのではないかと思い直し、しかし普段の自分からしたらじゅうぶん早いから、堂々と早朝を主張すればいいではないか。たしかに、小学生たちはとっくに1日を始めており、学校で色々と勉強をしているかもしれない。会社に勤める人たちは自分のデスクについたり仕事相手と会ったりして、お金を稼いでいるかもしれない。ぼくの1日のスタートは、その他大勢と比べれば遅いかもしれない。しかし、ぼくはぼくの時間を生きている。自分には自分の現場がある。何時からが早朝なのかは自分で決めればいいではないか。それが、人間というものではないか…

円盤に乗る派の演劇作品を初めて拝見しました。

後半、幕の向こうに自動車が出現したときは笑ってしまいましたが、その後のドライブのシーンでゲストハウスのOWNERが突然「なんかへんだあ〜」というせりふを連発しながら両手を振り上げたあたりで、こちらまで「なにかがへんだ」という気持ちになり、心底こわくなってしまって鳥肌が立ちました。いま何か大変なことがほんとうにおこっているんじゃないかと、まわりをみまわしたりしてしまって、でも他に同じ反応をしている人はいなくて、どうやら自分は劇の一場面を見ているだけらしいということを思い出し、でもそれがわかったあともずっと胸がざわついていて、いったい何を見させられているのか、これはただのフィクションで、舞台上に役者と音楽と照明があるだけのはずなのに、それらと自分とのあいだでなにか得体のしれないプロセスが発動して、一瞬何がなんだかわからなくなり、あとになって、あー、演劇の力なのかもしれないなあと腑に落ちたのでした。これまでいくつか演劇を見てきて、役者が光を纏っているように見えたり、せりふが異常に耳に入ってきたりする神秘体験をすることはありましたが、あんなにこわくなったのは初めてでした。ぼくも作品をつくる人間なのですが、あのような魔術を扱える演劇というジャンル、羨ましいなあと思えました。
OWNERは両手を上げただけでなく、ドアを開けて外に出て「なんかへんだあ〜」といいながら地面をごろごろと転がっていましたが、ああ、すごい雨ってこういう感じだよねえとも。
観劇直後はなんというか、魂の抜けた肉体たちがへんてこな振り付けでスカを踊っている国に放り出されたような気持ちになり、これは咀嚼が必要だなと思ったのですが、あとからあとからじわじわと、例えばムサシ丸が話すときの不思議なイントネーション、語尾の「よお〜」の感じには、古典芸能に通じるものがあるなあとか、『船弁慶』のなかでは女性だからという理由で帰らせられる「静ちゃん」が、より人間以下の存在である犬として登場し、しかもそれが一番まともな話しかたをしているなんて皮肉が効いているなあとか、そういえば義経伝説に置き去りにされた犬の話もあったなとか、いろいろなことについて人と話したくなる作品でした。犬だからという理由で置き去りにされた静ちゃんを演じた畠山さんが、終盤平家の亡霊「ヒラオカくん」として9太郎に復讐するというところが、今回ベースになった古典と現代をつなげるパイプだったように思います。
僕も男なのですが、男性の肉体を持つことを選択した「記憶」はないけど、同性の先祖(劇中では「兄」でしたが)たちが行ってきた加害の歴史は背負っている(ワイツゼッカーの「罪はないが責任はある」という演説と通じるものがありますね)し、その被害を受けた亡霊の復讐を喰らうことはあるよなと。(亡霊は自分なのではないか、とも思いましたが)
終盤、静ちゃんだかヒラオカくんだかわからない存在が、亡霊に襲われてベッドに寝ている9太郎の傍で筋トレしながらプロテイン飲んだりソファをコロコロで掃除したりしているのも素晴らしかったです。
また9太郎もムサシ丸もロボットっぽいのですが、しかし断じてロボットではなく、なんだか肉体をもっていることの悲しみのようなものがイントネーションや振り付けから感じられて、劇の全体に、魂のない肉体が踊ってる雰囲気が通底しているようにも思えました。それは能を観たときに感じるものにも近いです。ムサシ丸がなとりさんだったときはロボットっぽいなど思ったんですが、劇が進むにつれて役者の橋本さんがどんどん役に入り込んでいったのか、ムサシ丸になってしばらくしたころには、もうただの肉塊が蓄音器みたいに話してるなと、役者ってすごいなあと思いました。とりとめのないことを長々書いてしまいました。とにかくほんとうに観れてよかったです。ありがとうございました。

アトリエの近所に広いコインパーキングがあって、その敷地と道路の境界あたりに、大きな桜の木が二本あった。毎年春には、ちょっと圧倒されるくらいの量の桜の花が咲いて、通りすがりにみんな写真を撮っていたし、その桜に面した道路に立って反対側を見ると、屋根の向こうに大きな銀杏の木も生えていて、コンクリートと砂利に覆われている住宅街のなかで、その二種類の樹は、四季の巡りを感じさせる、大事な存在だった。街の樹。みんなの樹だった。先月、コインパーキングが取り壊され、更地にする工事が気がつけば始まっていて、すこし心配だったのだけど、桜の木は敷地の際に生えているので、まさか抜かれないだろうと思っていたのだけど、抜かれた。というよりも、むしり取られていた。五本の赤い鉄のツメがアームの先についている重機が、桜の幹を、その途中から割り、えぐり、むしりとっていて。中身が白くむきだしにされていた。久しぶりに感じた。怒りの感情。純粋な怒りは無色透明であることを思い出した。通りすがりの人たちもみんな、うわあ…とか、え?…とか呟きながら写真を撮っていた。あるおばちゃんは「ひどいことするわねえ」「ミサイルが飛んできたのかと…ウクライナのこと思い出しちゃった」と言っていた。僕はえぐられた桜を絵に描いた。内田が工事のスタッフに頼んで大きな枝を一本もらってきてくれたので、二人で20本くらい挿し木にした。発根促進剤も植木屋さんで買ってきて、土は赤玉土や鹿沼土や黒土でいろんなバリエーションをつくった。どれかに根が生えてくれれば、どこかに地植えして再生できるかもしれないと。

そんな桜をもぎたおした跡地で、ついに工事が始まった。仮囲いには看板が掲げられていて、会社名は大きく「seed」と書いてあった。ばかにしているのか。ここにどんな施設ができようと、絶対に利用しない。(06031752)

pk shampooの「夜間通用口」に出てくる「月が照らす光」という歌詞。おもしろい。月が照らす光とはつまり月光のことだろうけど、ふつう「月が照らす〇〇」とか「光が照らす〇〇」とはいうけど、「〇〇が照らす光」という言い方はしない。光はなにかを照らす方であって、照らされる方じゃないから。でも、たしかに、月は太陽の光を反射している。だから「月が照らす光」といういいかたは正しい。でもこうやって光自体を主役にしている言い方、あまり聞いたことがない。
「月が」の部分までだと、主体が月なのかと思わせるのだけど、「照らす光」まで聞いたときに、光が主体であることがわかり、頭の中でイメージする対象が、月から光へスライドする。
このスライドと、月が太陽の光を反射しているイメージが一致している。
また、この言い回しからは、言外に太陽の存在も感じさせる。気持ちがいい。自分の母国語が日本語で良かった。

1:深夜ラジオがつまらなくなった。SNSによって深夜ラジオも昼間のラジオも一緒くたに、同じコンプライアンスを守るようになり、濃淡が消えたせいである。また発行部数が少ないことで深夜ラジオのような内輪ノリが成り立っていた雑誌のインタビュー記事に細かい問題点を見つけ、わざわざ写真に撮ってSNSで晒すのも同じ根。この罪深い行為はミーム化した方がいいのではないか。なにかしら名前を与えたほうがいいのでは。とても微妙な問題だけど、ある種キャラクター的に「女ならピンクみたいな偏見あるから」みたいな話からあえて始める会話術もありうる。目の当たりにして、上手だと思った。言われた方も、ぜんぜん嫌じゃなかったと言っていた。
2:土地を探しているときに見つけた、at homeの土地売買のページにある、荻窪の奇妙な形の物件。1.6m✕19.5mの、めちゃくちゃ細長い二等辺三角形で600万円。0.4m×14.4mの三角形で70万円というのもある。やばすぎる。何につかえというのか。東京で、駅から近いから、どんな形だろうと坪単価に換算してこの価格です、という、土地の値段を機械的に決めていった先の、成れの果て感。ここで何ができるのか、大喜利をやれと言っているのか?
3:セブンイレブン吉祥寺通り東店がおもしろいらしい。中国人のオーナーで、街の個人商店みたいな立ち位置になってるという。

京王線各停新宿駅行、乗る電車を間違えたことに気がついたらしい男子小学生二人組が騒いでおり、次で降りるぞとわーわーやっているところに女子高校生が大丈夫?という調子で話しかけ、一緒に行こうかと言って3人で新宿駅で降り、女子高生は携帯でなにかをすごいスピードで検索しながら、4番線に59分発の電車があるからそれ乗ればおっけーと二人に諭し、3人は階段を登っていった。
この女子高生、それだけにとどまらず、手にキャップ帽を持っている。小学生に話しかける前に拾った、座席に落ちていた忘れものである。きっと駅員に届けるつもりなんだろう。またこの人が座っていたところは優先席なのだけど、終始浅く座っていて、笹塚駅で乗ってきたおばちゃんにすかさず席を譲ろうとしていた。他にも空いていた優先席があるにも関わらず、迷いはなかった。
なにかの主人公を見ているような気分。車両の中心があの子だった。電車を間違えたおかげでいいものをみた。
きっと彼女は日常的にあんな感じなのだろう。だから、いろいろと引き寄せるのだろう。

そしてぼくはその後に乗り換えた中央線。中央線という名の暴力を久々に体感した。中央線という名の豚小屋、中央線という名の家畜小屋。

発酵熱を使って暖房をつくったさいにもらった助成金の報告書を論文調で書いている。慣れない。主題は13ポイントのMS太ゴシック体、副題は11ポイントのMS明朝体とし両端は「- -」でくくるとか、数字は二桁以上は半角で一桁の場合は全角で書くとか、やたら細かいルールがめんどくさいというのもあるのだけど、それ以上に、本文を書いている時にどこまで前提を遡ればいいのかわからなくなる。例えば背景と目的を説明する時「ここ10年だけ考えても災害が多いですね。災害は電気やガスなどインフラを寸断させ、日頃わたしたちがどれだけそういうものに頼っているかを浮き彫りにします」みたいな話から始めてみたのだが、東日本大震災で停電があったことはさすがにみんな知ってるから書かなくていいかな…とか、いや、広範囲に停電が起きたことは書いておいた方がいいか、でもさすがに「地震があると停電がおこる」ことは知ってるよな。それも危ういのか?もしかして「そもそも地震とはプレートとプレートが…」みたいなところから書いた方がいいのか?いやいやそんな馬鹿な。しかし最近スピノザとかデカルトを読んでいるせいか、地震とは一体…地震を認識する自分という主体とは…みたいな、いやいや、そんな馬鹿な報告書があるか。

アトリエの地面で茶色くて細長い紐状のものがうねうねと波打つように動いていて、はじめミミズかと思ったのだが近づいて思わず声が漏れた。久々に、本当に久しぶりに見るカナヘビのしっぽであった。手のひらにのせてもずっとうねうねと動いている。涼ちゃん!これ見て!田原さん!これ見てください!と、気がつけばみんなに見せて回っていた。本体から切り離されても、敵の注意を惹きつけるためかしばらく動き続ける習性、というかそういうシステムになっている。かなり長くて、15センチ以上はあったと思う。傷口からは白い半透明の四本の突起のようなものが飛び出している。たぶん、肉。四本の突起は傷口の四隅から出ていて、まんなかには骨らしきものの断面が見える。もしかして僕は気が付かないうちに踏んでしまったのか、だとしたら申し訳ないと思ったので、草むらに向かって謝っておいた。謝ってすむもんではないとは思うけど。何事もなく、新しい尻尾が無事に生えてくることを願う。

昨日寝るのが4時前とかになってしまったので、今日の活動開始が14時を過ぎてしまった。アトリエに向かう途中、小学生の下校軍団とすれ違いまくる。毎日毎日、活動開始時間が遅いことに、なんだか焦っている。この焦りはどこから来るのか。おれはこれから一日を始めるのだという態度で堂々としていればいいのに。朝早く起きて活動すべしという昔からの刷り込みなのか。このままでは3時間くらいしか活動ができないと思ってアトリエに行くも、しかしアトリエでは、ずっと集中しているはずもなくだらだらと報告書の論文書きをして時間が無為に過ぎていく、そしてまた次の日に、なんとなくざわざわしながら過ごす。今やっている仕事が要するに性に合っていないからだろうが、この日々はつらい、せめて堂々としていたい。厄介な刷り込みを受けたもんだ。
真下を向きながら歩く小学生が二人いて、自分もむかし下ばっかり見て歩いてたことを思い出した。
それと、たぶん3年生くらいの小学生男子が、道路の向かいをうつむいて歩いていく小学生に対して「〜〜〜しなかったらわかってんだろうなあ!腹パンよんじゅっぱつ!」と叫んでいるところにも遭遇した。いじめられてたら嫌だなと思ったので、しばし、うつむいている子に、アトリエに遊びにくるかと声をかけようかとか思ったが、それはそれで不審者ではとブレーキをかけてしまった。

東京で北海道産ジャガイモのコロッケをかじった瞬間、北海道の風を感じるのは、その内部に含まれている空気を食べているからである。東京の空気とじゃがいもの粒子が混ざり合うことによって効果が生まれるのである。
またナスの素揚げを味噌汁に入れるとめちゃくちゃうまいということを発見したのだが、それはナスに染み込んだ油が口の中で味噌味の汁と分離しながらも混ざり合う感じが気持ち良いからだ。単に味が良いというだけもなく、風味ともまた違う、口の内側で感じる二種類の液体の「感じ」がうまい。味噌汁に揚げ焼き卵を入れたら美味いとか、カマンベールチーズ入れたら美味いとか、人から色々と教わって実践してきたけど、素揚げのナスはいまのところ最強。(05312212)

量としての時間。奨学金を完済するまで、唐辛子の種が発芽するまで、洗濯物が乾くまで、お茶が抽出されるまで、あるいは死ぬまでの待ち時間。これらを多く手にかければかけるほど鈍くなっていくもの。そこからの離脱。緑や、虫や、命。時間の中で見るという罠に陥らないように観ること。やっと発芽したねとか、まだもうすこし時間がかかりそうだね、とかではなく、種が発芽するという事態、そのものへの喜び。発芽する種のなかに永遠を観ること。

量としての時間を測ってみるのも面白い。近い未来に魚の漬け焼きを食べるため、あらかじめ魚を生姜醤油につけておくことや、近所で切り倒された桜を挿し技にするため、根が出るまで植木鉢に挿しておくことや、日々ぬか床の面倒をみることや、庭にブルーベリーを植えること。生活のなかで、一人の人間が携えている「時間」を全て書き出してみたらどれほどの量になるか。多かれ少なかれ、アメーバのように過去や未来に手を伸ばしながら生きている。僕は少ない方だと思うけど、それでも奨学金の返済、冷蔵庫の牛乳の賞味期限、淹れたコーヒーが冷めるまでの時間、読みかけの本、描きかけの絵、財布にある現金の残り、前回帰ったのが二ヶ月前だから、次は来月くらいまでには実家に顔を見せに行きたいな、と思うこと、書きかけの文、返事を待たせているメール。数えればキリがない。いくつもの時間をまたにかけている。今が、未来にも過去にもある。あるいは過去から未来にまたがる、複数の自分がいる。そういうものにまみれつつも、一つのことをやっているときは、他のことは忘れながら生活している。自分がいま手をかけている時間、全てを書き出してみることはできるか。何人かでやってみたい。一人の時間を合計したら何千時間になるのか計算してみたい。

幸せになりたい。この文言、それがどういうことを望んでいるのかがよくわからないから、そうは思えないのだけど、歓びと共に生きていきたい、とは思えるな。歓びとは、物事に対して先手を取ること。とにかく、受動的な感情に支配されないように気をつける。人を疑うこと、悲しみ、憎しみ、妬み。これら受動的感情に対して常に先手をとること。誰にも支配されないために、たえず能動的であること。ニーチェに言わせるなら「私が望んだのだ!」としてしまうこと。どんな状況におかれようと、私が望んだのだ!と叫ぶこと。マノウォーに歌わせるなら「俺の行く先に立ちふさがる者は皆、剣の錆びとなるだろう!」(05301252)

二日酔いがひどく、昼まで寝て回復してからニンテンドースイッチでマリオゴルフとスーパーマリオ64とスターフォックスをやっていたら外が暗くなっていた。19時にようやく能動的情動を獲得し、洗濯物を取り込み、たたみ、19時半、近所のイトーヨーカドーに入っている倉式珈琲店へドゥルーズのスピノザ本だけもって出かける。(05291935)

クラウス・ノミがすごい。ここまでの唯一無二、天下無双を地で行くようなアーティストは他に知らないかも。
自動車が走る道で一人だけ馬に跨って走りつつ(蹄の音がカツカツ響いてる感じ)、さらにその馬の上で肘を直角に曲げた腕を振子みたいに振り、目を見開きながら走り去っていく人を見ているような感じだ‥他人のことは全く気にせず、自分がやるべき音楽だけをやっているような‥素晴らしい‥
I wanna lasso you with my rubberband laser(05292118)

古本屋で、レジの近くの本棚を見てたら小銭の落ちる音がして、レジの女性が落ちました、大丈夫ですか?と声を発した瞬間、自分が小銭を落とした記憶、今日のことか、昨日のことか、もうわからないのだけどとにかく落とした瞬間に、あ、拾わなきゃと思ったのになにか手は別の作業中ですぐにはひろえず、後で拾おうと思ったことは覚えてるのだけど拾った瞬間のことは覚えておらず、という感じの、とにかく最近小銭を落とした時の記憶がザバーンと甦り、あのとき落とした小銭、結局拾ったんだっけ?と考え始めてしまった。(05251231)

仰向けの姿勢では、嗅覚は鈍る。パンの焼ける匂いがわからなかった。(05261523)

芸術にはなんの意味もない、なんの役にもたたないし、お金にもならないが、やらざるを得ないこと、やるように体が動いてしまうことほど、喜ばしいことはない。

地元のコンビニが潰れて釣具屋になった、という話を友達から聞いた。釣具屋が潰れてコンビニになった、という話なら全国にいくらでもありそうだけど、その逆はなかなか珍しいのではないか。ぼくは聞いたことがない。釣具屋はいつだって潰れる側の存在だと思っていた。コンビニがもう飽和状態ということなのか、あるいはコロナで釣り人の人口が増えてひそかにブームが来ているのか、とか色々と勘ぐってしまう。
そういえば少し前、うちの近所でもセブンイレブンが潰れたのだった。建物が空っぽになりテナント募集の紙が貼られたかと思ったら、そこから50メートルほどのところにある、美容院が潰れた跡地に新しいセブンイレブンがオープンした。これが噂に聞くセブン&アイグループの戦略かと震えつつも、そこで買い物をすることに慣れてきたころ、潰されたセブンイレブンの方のテナントで新しい美容院がオープンしており、ついに人間は頭がおかしくなったのかと思った。自分の尻尾を追いかけて延々と回転する巨大なマグロのような。

内田が自分で育てた唐辛子から種を取り、真空パック内に敷いた湿らせた紙に規則正しく並べ、一つ残らず発芽させているのを見せてもらい、その美しさから「神即自然」を感じてしまうのだけど、食べた野菜の種を発芽させながらスピノザを読むという集まりを開いたら面白いのではないかと思ったのでメモ。

思えばタンスを自分で買ったことがない。空鼠時代などは服をどこに入れていたかすら思い出せない。ものがないから、記憶が定着していないのだ。記憶は案外ものに宿るというか、頭の中だけで覚えておくのはすこし難易度が高いのかもしれない。日記にもそんな生活のことは書いてないのでいまはもうわからない。ただバスタオルを一枚しか持っていなかったことは覚えていて、ずいぶん洗濯もせず、しかも使い終わったやつを、室内の日陰で干していた(同居人たちも同じところに干していて、でもバスタオルを一枚しか持っていないのは僕だけだったので、他のメンバーのタオルは度々変わっていたが、僕のだけはずっと同じものが干されていた)のでたぶん匂いが取れず、でも僕は鼻がほとんど効かないのでそれがわからず、一度僕のタオルをシャワー後の友人に貸したら、くせえ!と言って、自分が脱いだTシャツで体を拭いていた光景が強烈に残っている。ぼくはどう反応すればいいかわからなかった。いまでもわからない。
タンスに限らず家具を買うということをほとんどしたことがなく、いま使っているベッドも机も自分で木材を切り出して作った。本棚は、制作に必要だったから買った。布団も制作に必要だったから買った。カラーボックスも制作に必要だったから買った。制作のために買った者たちは、その後ぼくの生活用のものに変わっている。必要があればまた作品のために駆り出されるだろう。書いていると、ぼくは自分の生活を作ることにほとんど興味がなく、それが制作に絡んだものになれば惜しみなくお金も時間もかけられるのに、自分の生活のために、という名目ではとうていやる気になれない。料理は好きなのに。レンジやオーブンは自分の生活のためでも買えるだろうに。(05242344)

アトリエにて千川さんのスピノザ講義の夜。終盤に近所に住んでいるダンサーのゆずさんがビール(前にここでクラフトビールもらったから、似たようなやつ探したと言って、見たことのないアサヒの「ホワイトビール」など)と共にやってきて、講義終了後に軽く宴会になり、舞踏とコンテンポラリーダンスの話を聞く。白塗りになって踊るような、いわゆる「舞踏」は世界的にはザ・ニッポンのコンテンポラリーダンス(つまり舞踏)として知られ、もう百年くらいの歴史があるという。彼らは舞台の上で踊るというよりも、いかに舞台の上に「立つか」を探求し、それはやがていかに大地に立つか、いかに生きるかという問題にまで昇華され、最終的に村など作ったりして、共同体になることも珍しくないと。
またバレエなどは身体が老いて足が上がらなくなったら直ちに引退、後進の育成に回るというルートがほとんど決まっているけど、コンテンポラリーダンスにそのような厳格な共通ルールはないので、基本的に年齢制限などはないのだが、老いて足が上がらなくなると、自然と「舞台の上にいかに立つか」ということを考えるようになり、舞踏の人たちが考えてきた問題と近づいていく。
しょぼい話だけど老いることが表現スタイルの変化を促すという話を聞いたとき、ハゲたら髪型のバリエーションが限られてくる話に似ているかもしれないと思った。(05220159)

久々にバイト先のパブに行き、5年ぶりにベーシストのマリさんと会う。カウンターに座ってすぐに、ましゅ?と声をかけてくれた。僕はここではましゅ、と呼ばれていた。わかります?ときいたら、わからないわけねーだろと。僕は5年前に、3ヶ月ほど働いていただけなのに。「わかります?って、ウケる笑」と。
働いていたときにかなりお世話になった、ハルさんがやっているバンドのウォーターフォールという曲、今でもたまに聞いているのだけど、そのミュージックビデオに出ている俳優もこの店で働いてた人で、滝で撮るというアイデアも、ここで働いていたヴィンセントのアイデアだと教えてもらった。みんなここの人じゃねえか。最高か。ハルさんはその後社員になり、音楽はもうやっていない、家で一人で弾いたりはしてるかもだけど、と言ってた。いまは別の店に飛ばされていて、まりさんは社員にならないんですかと聞いたら、なるわけねーだろと。ここで働き始めて12年。もういやだよお、と言っている。(05191135)

猫は逃げた/新宿武蔵野館。主人公の夫について。妻がサインして、はいあなたの番、と手渡してきた離婚届にすぐサインせずに、これって一番最後なんじゃないの?財産分与とか、家具のこととか全部終わってから、最後にサインするもんなんじゃないの?(他にも、もっと話そうよ、話してないじゃん、と、ろくに話し合いもできないくせにただ話すこと、をやたら重要視する感じも、味わい深いところがあるけどそれは置いておいて)と言うところや、本当は小説家になりたいんだけど、死ぬまで芽が出なかったら悲惨じゃん、と、こいつは小説が書きたいのではなく小説家になりたいだけなのではと思わせることを言ってしまうところとか、夫婦とそれぞれの恋人四人で並んで話してるときも、しばらくの間会話に入っていなくて、いざ口を開いたと思ったら、声が大きいよ、もう夜なんだからと言ってしまうところ、自分の気持もわからず、まして言葉になどできず、しかし世間体や外見(そとみ)はとても気になってしまう、ある種男にかけられた呪いのようなものを緻密に作り込んでいる。よくここまで脚本つくったなと。(そしていま本を読んでいる影響でどうしてもスピノザを思い出してしまう。事物の外に出て、外から事物を見ることができるというのは幻想なのだ)

あとLightersのエンディングテーマ、歌詞がネコ目線なのが良かった。そして猫のカンタ、異常に可愛かった。(05182525)