2024年1月1日の能登半島地震後の現地レポートをここに上げておきます
「丁寧」と「ワイルド」には重なる領域がある
友達の実家が森の中にあるログハウスの宿で、そこで提供される、近所でとれたきのこのスープとか庭で育てた野菜のサラダやハーブなどを使った夕食と朝食がものすごく美味しくて彩り豊かでおしゃれなので、その友達につい「丁寧な暮らし」で育てられたことが想像できる、みたいなことを言ってしまった。そしたら友達は「丁寧というよりも、ワイルドかな」と言っていて、ハッとした。丁寧さとワイルドさは、一見正反対のように見えるけど、言われてみるとたしかに紙一重というか、すごく近いかもしれない。二つの円が重なるベン図のように、重なる領域というものがある。その友達は「小さい時は森の中を走り回って遊んでいた」と言っているし、夕食で出されるきのこは森を歩いて採ってきているものだし、「野菜を育てている」というのも、「丁寧」と見ることもできるけど、一方ではすごく野生的な営みでもある。現代的ではない営み、と言ってもよい。私たちもときどき、友達が長野の家に泊まりにきているときなんかに、庭でとれたじゃがいもを調理して出したりすると「丁寧な暮らしだ」と言われたりするけどちょっと違和感があるのは、丁寧という言葉にどこか、現代的な暮らしの究極形態みたいなニュアンスを感じてしまっているからかもしれない。実は「丁寧」という言葉のイメージと正体はすごく離れてるんじゃないか。
今日も庭ででかいかぼちゃがひとつとれたけど、それは自分で「丁寧に」植えたわけじゃなくて、庭が土だから埋めときゃ分解されるだろうということで捨てた生ゴミに混じっていたかぼちゃの種がワイルドに勝手に発芽して成長して受粉して結実したものを収穫しただけで、こっちとしてはなにもやっていないのだけど、都心から来た人からすると、「庭でかぼちゃが育っている」というのは「ワイルド」というよりも「丁寧」として映るだろう。庭に生ゴミを埋めるという行為も「コンポスト」と言い換えれば「丁寧な暮らし」感がある。
私が千葉で進めている村上勉強堂も、ある意味では「丁寧な暮らし」と言えなくもない。土から壁をつくったり、井戸を掘ったり、落ち葉を発酵させて暖房にしたり、というのはすごく丁寧なんじゃないか。
完璧な人間
「完璧な人間はいない」という言葉、いまでもたまに聞くような気がするし、自分も使ってしまいそうな場面はあるけど、考えてみれば暴力的な表現かもしれない。単線的に時間が進む進歩史観的な前提で、完璧な人間とそうでない人間がいるということを暗に認めてしまっている。キリスト教でいうところの原罪的な匂いもする。
人間はみな不完全なので、完璧を目指すべきだ。それも、全員に共通する完璧をだ。ということだと思うけど、それは全体主義に通じている。私たちはそれぞれに独立した存在で、お互いを比べることなどまったく不可能であり、私たちに共通する指標など1ミリも存在しない、という前提に立たなければ幸せにはなれない。人はみな違う人生を生きているので、どの時点で切り取っても、私はその瞬間での最高得点100パーセントな存在なので、別の人生を生きている人間が、私を完璧かどうかなんて判断することはできない。
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浦和で8年ケーキを作る仕事をしていたひとと友達になり、北アルプス国際芸術祭の作品撤去を丸一日手伝ってくれた。そのバイタリティたるや素晴らしく、二時間くらい集中作業して私が「休憩しよう」と言っても「え? 休憩ですか?」とぜんぜんピンときておらず、まだまだぜんぜんできますけど休憩というならそうしましょう、という感じである。水分をたっぷり吸った落ち葉堆肥の詰まったガラ袋を運ぶときも、私でもかなり重たく感じるものなのに「重いっすね〜」くらいの軽いノリでひょいひょいと運んでいく。聞くと「20kgのグラを運んだりしてたんで」という(グラとはグラニュー糖のことらしい)。このくらいは造作もない、ということか。撤去の過程で大量の虫(ほんとうにおびただしい数の芋虫たち。すべて同じ種類で、赤ちゃんサイズからキングサイズまで揃っており、王国みたいだった)が出てきて、私が「うわー!」と驚いても、「え! みたいみたい」とむしろ積極的に観察しにくる。指示を与えるとずっと手を動かしているし、また指示を与えられていないときもできることを自分で見つけてどんどんやっていく。「戦士」という言葉が浮かんだ。彼女はこの厳しい資本主義社会を生き抜いてきたソルジャーなのだ、と思った。8年間、相当な激務を日々こなしてきた、ということが容易に想像できた。普段私のまわりにいるひとたちがいかに「ぽや〜」としているかを見せつけられるようだった。みんながムーミン谷みたいなところでのんびり暮らしているあいだずっと、ひとりで地下闘技場で毎日のように死闘を繰り広げ、肉体と精神を鍛え続けたスーパーサイヤ人が、ふらっとムーミン谷にやってきて異次元の強さを無自覚に披露する、みたいな感じだった。最高だった。これは夢ではない。
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病院と図書館を混ぜたような、とても大きな施設に1泊している。一階は茶色い空間でフロントなどがあり、2階から上は病院みたいな白い空間。
エレベーターがふたつあって、ひとつは搬入用と呼ばれているのだが、その内部はエレベーターと呼ぶにはあまりにも広い。奥行きがたぶん100メートルはあり、本棚などモノもたくさんあって、高級ホテルのロビーのよう。もうひとつは普通のサイズ。
夜の0時で、私はチェックアウト?をしようとしているのだけど、自分の部屋がある3階にエレベーターが停まってくれないという事態になっている。そのせいで同じく困っている知らない3人組の男が同じエレベーターに乗っていて、うちひとりからなにかの因縁をつけられて絡まれる。私はいじめっ子にすり寄ることで難を逃れようとするいじめられっ子のような態度で、ニコニコと対応していた。3人のうち1人が葉っぱの模様のかわいい帽子とシャツを着ていて、その服可愛いですねと話しかけたら喜んでいた。気づくとその3人組はみんな、どこかしらに葉っぱの模様がある服を着ていて、私も帽子が葉っぱの絵柄だったので、一体感が急に増した。
何度乗っても目的の階を通り過ぎてしまうエレベーター。しかし一階には停まってくれる。何回目かの一階のフロントで、友人たちがいるのを見かけた。私たちは市販のパンを支給され、再びエレベーターに乗り込む。
という夢
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長い夢だった。覚えている限りで書き出してみる。
なんらかのチームを組んでいて、その中心メンバーのうちのふたりが私達を裏切り、犯罪を犯したようだった。その2人は罪悪感に苛まれてなのか、精神的におかしくなっていて、幻覚を見ているようで、なにもないところで「あいつ、こんなとこに!」みたいなことを言っていた。私は残りのチームの人達と、あんな様子だから、もうほっといてもいいだろう、と話し合い、解散した。
その後給食タイムになり、たくさんのメンバーたちが大きめの厨房で料理をしている。私は魔法を使えて、モノを浮かべたり動かしたりすることができるので、床のものを浮かべて回転させたりして遊んでいた。
誰かがサラダを作っていて
「前はナッツをどうやって使ったんですか?」
と聞くので
「砕いて上からかけただけだよ」
と答えたことは覚えている。
その後恋人という設定らしい知らない女と帰ることになる。女はステップを踏みながらすごいスピードで踊るように夜の公園を移動していき、私は宙を浮かびながら必死でついていく。地面に白い傘を開いて逆さまにしたようなオブジェが置いてあって、女がそこでつまづいた。
「彼女を転ばせたやつはこうやってぶっとばせよ!」
と言うので、私はそのオブジェを上から思いっきり殴った。すると真ん中のところからすごい勢いで水が吹き出してきて、そこが噴水になった。
「持ち主が戻ってきたらびっくりするな」
と女は言った。
という夢。
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PA卓のような、ボタンがたくさん並んでいるグレーの機械を作品として展示している。ボタンを押すと、色々な人の声で、たとえば「それはきっと、花の名前です。他にも〇〇などという種類もあります」「紀元前一万年!」などという音声が機械から流れる。それは「クイズの答え」で、問題は私が持っているリモコンのボタンを押すとランダムで出題されるようになっている。また機械のボタンには何の説明も書いてなくて、すべて同じ形・大きさをしているので、押すまではどんな音声が流れるのかわからない。
私が出題する問題に対して、友人たちが機械のボタンを押し、問題とはぜんぜん関係のない答えが流れることに笑い転げる、という夢。ある問題に対して、友人の島田くんが自分で答える、という変則的なパターンに笑っているところで目が覚めた。
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友人の男3人で食事をしたあと会計して(僕は5010円払った)、領収書をもらっていいですか?と言った(僕は夢の中でまで領収書をもらっている)。すると店員さんが、「領収書は開いてお出ししてもらってもいいですか? 紙の光沢がよくわかるので」と不思議なことを言われた、という夢。
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私はたぶん俳優で、ドラマの撮影をしている。ちょっと薄暗くてシックな雰囲気ではあるけどファミレスみたいに気軽に入れる夜のレストランで、相手の女性(見たことある俳優だった)と向かい合って一対一で話している。喋った台詞が何だったか大部分は忘れてしまったけど、会話の最後に「それは、なんで?」という私のセリフをなぜか相手の女性も同じタイミングで発してしまい、お互いに笑って、普通はリテイクになるところなのだけど、私にはその必要がないことがわかっていたので、「でも、これでいいんじゃない?」と言って、撮影は終了した。
なぜリテイクの必要はないことがわかったのかというと、私はどこかで目の前の光景が、夢か、あるいは過去の思い出かなにかである、ということをなぜか理解していて、いま目の前で繰り広げられている会話は、すでに放送された映像の繰り返しである、ということを知っている。つまり、今自分が演じているものが採用されたテイクであり、それ以外のテイク(つまり演じたけど採用されないテイク)を撮影しているときの光景(記憶)を、いまの自分が見るわけがないということがわかっている。ある意味で未来から決たような存在として、私はその撮影現場にいる。
終了後、なぜかレジで会計することになっていて、金額が7000円台だった。レジの裏には撮影クルーたちが集まっている大きな部屋があり、私は「ああ、みんなここで撮影の様子を見守っていたのか」と思う、という夢
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昨日じいちゃんが亡くなった。母から電話があったとき、私は愛知県の尾張瀬戸駅近くの歩道を歩いていて、国際芸術祭「あいち」2025のラーニングチームのメンバーとして、今月から瀬戸で始まる関連展覧会の会場の設営作業の買い出しから帰る最中だった。電話を切ったあと、バッグに入れていた100円ショップで買ったブックエンド30個がとても滑稽なものに見え、そしてすこしだけ重たくなったように感じられ、じいちゃんが出てくる記憶をいくつか辿りながら、1分ほどその場に立ちすくむくらいにはショックを受けたけど、実家を出た10年前からはそれほど頻繁に顔を合わせることもなくなったし、もう97歳だったし、ここ数年は認知症も進んでときおり問題も起こしていたので、実は覚悟ができていたのかもしれない。とはいえ生まれてから大学を出るまで20年以上一緒に暮らしていて、私が小さい時はとても大きな存在で、思い出もたくさんあるはずなのに、正直それほど落ち込んでいない自分にまたショックを受けている。まだ顔を見ていないので、実感が湧いていないせいもあるかもしれないが。
今年の何月だったかもう覚えていないけれど、最後に実家で会ったとき、これからはもう施設に入るから、この家でおじいちゃんをみるのは最後かもしれないな、と、別れたあとで気がついて、写真を撮っておけばよかったなと後悔したことを思い出した。そのときは施設で家族写真が撮れたらいいかなと思ったけど、それも叶わなかった。とても急な話だった。
でもまだ認知症が進んでいなかったころ(10年くらい前か→いま過去の日記を読み返したら2016年11月7日だった)、お花茶屋駅近くの居酒屋みたいな店で二人で向かい合って晩御飯を食べながら、おじいちゃんが生まれた北海道の村の話や、父に連れて行かれたアイヌのお祭の話、最初は馬喰で、そのあと旅館を経営した両親(つまり曽祖父と曽祖母)の話、淡路島に住んでいたおじいちゃん(つまり高祖父)の話を聞けたのは、ほんとうによかった。いまのうちに昔のことを聞いておこう、と当時の私が思うことができて、それをちゃんと聞けてよかった。そしてその話を『再生』の中で、思い出すように書くことができてよかった。『再生』にまた手を入れることで、もう一度思い出したい。そしていつか紙に印刷して、本としてこの世に存在させておきたい。
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新幹線の連結部のところで本を読んでたらスーツケースが客室の方から飛んできたので反射的に手でおさえて、どうしたもんかと考えていたら女がやってきたので「あ、これですか?」と親切心から尋ねたら、女はじろりと僕をにらみつけ、「はい」とか「ああ」みたいな相槌も打たず、首を縦に振るようなこともせず、まったくの無言でスーツケースを取って、戻っていった。めちゃくちゃ嫌な気分になり、感じわるっ!と悪態をついてしまった。
先日の京王線といい、電車に乗ると絶対に嫌なことが起こる。人に対して疑心暗鬼になり、疑り深く、心を閉ざしている、攻撃的な人の目。2024年、日本で働いて生きる能力とはつまり、電車に乗れる能力のことである。電車に乗っても自分を騙して平気な振りができる力。人に対して怯える力。かけられた言葉に対して無言で睨み返す力。それが社会人の鑑である。
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京王線、ドアの近くに立って本を読んでいたら駅についてドアが開き、ホームの人たちが電車に流れ込んでいるときに男が急な動作で電車から飛び出し、そのときホームから電車に乗ろうとしていたおばちゃんをかるく突き飛ばすような形になり(私は男の背中しか見えなかったのでぶつかったところを直に見たわけではないが)、おばちゃんが「ああ!」「いた!」と声をあげるも男はそのまま、本当に何もなかったかのように早足ですたすたとホームを歩いていき、おばちゃんも「いたた。腰うっちゃった」みたいな悪態をつきながら電車に乗ってきた。私はどうしたらいいかわからず、しかしおばちゃんとは目があった。おばちゃんはそのまま席に座った。
そして電車内は何事もなかったかのように元の時間に戻っていった。僕の前に立っていたサラリーマンふうの男も、ちらっと顔を上げてはいたし、なにか言いたげな目はしていたが、しかし僕と同じで結果的には立っていただけだ。そしてドア上のディスプレイには「収入が大きいと手取りが減る!?」というCM。これからの働き方、考えてみませんか、と女性がカメラに向かって呼びかける。なにか、とてつもないことが起きているような気がするのだが、そのことに気が付きにくいというか、全員が正気を失っているので、問題が問題にならない。そんな感じか。これでは、奇跡が起きても奇跡とは気が付かないだろう。
私はシミュレーションする。どう声をかければよかったのか。おばちゃんは倒れはしなかったが、もし倒れていたら私は駆け寄れていただろうか。駆け寄って、「大丈夫ですか? おい、ちょっとあんた!」とドラマの主人公のように振る舞えていただろうか。自信がない。
おばちゃんと目があったときに、大丈夫ですか?くらい声をかけてもよさそうなものだけど、私はそうできなかった。この東京の、平日の電車のせいなのか、空気の中に、自分をできるだけ目立たなくさせよう、できるだけあらゆることに無関心でいようという、そんな気持ちにさせる成分が高濃度で溶け込んでいるような気がする。大町ではこうはならない。おそらくインドネシアでもならないだろう。自分の言動、行動を抑制する装置のような、この成分はどこで精製されているのか。
部屋の中にいる象のことを誰も指摘しない感じ。空が緑色なのに誰もそれを指摘しない感じ。
このとき私の目が捉えていた文『存在の耐えられない軽さ』の「社会が豊かであれば、人びとは手を使って働かなくても精神的な活動に専心できる。大学はますます多くなっていき、大学生の数も多くなる。 大学生が卒業するためには、卒業論文のテーマを考え出さなければならない。この世にあるものすべてについて、研究論文を書くことさえできるので、テーマの数は多く、無限にある。 書かれた紙は記録保管所に積み上げられるが、その保管所は死者の祝日にさえ誰も来ないので墓地よりも寂しい。文化は生産過剰、活字の洪水、量の多さの中で消えていく。これがなぜ君のかつての祖国での一冊の禁書が、われわれの大学で次から次へと溢れ出てくる何十億 ものことばとは比較にならないくらい多くのことを意味しているかという理由なんだ」
電車の中で本を読む、というのは一つの抵抗運動と言える。
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クエほどのサイズ感の肉食の海水魚を捕まえようとしている知人を、チームの一員として見守る。魚は頭が良く、油断してる人間を食ってやろうと思っている、ということが、声として聞こえてくる。私はメンバーの一人ではあるが何故か水中目線のシーンや、魚の声が聞こえてきたりもする、という夢。
09250803
慶野さんとトモトシさんと、チダさんという知らない男性と四人で居酒屋の半個室席っぽい座敷席に座っている。私はトモトシさんに、パソコンセット一式(Mac miniとディスプレイとマウスとキーボード)を貸したばかりだったが、それが実家近くの路上に置き去りにされたまま返されたので、そのことを軽く問い詰める。しかもパソコンは、近所のタカノ化粧品店から電源を借りていて、電気貸してもらってありがとうございました、とお礼を言ってコンセントを抜くのも私がやったのである。トモトシさんいわく、通行人が多いところで使う必要があったらしいが、路上に野ざらしで返したしまったことにたいする謝罪はない。私はそのことを不満に感じる。そこへまた知らない男性二人がやってきて、席に座る。どうも慶野さんが東京にきているので、みんなで飲もう、という感じで集まっているらしい。それに気がついたところで目が覚める。
09192013
・東京は道が狭く、人と並んで歩きづらい。必然的に前後で歩かないといけなくなる。つまり上下関係での歩行を強制される
・明大前駅で警備会社の広告看板に「常識を超えろ。昨日までの安心を超えろ」と書かれていて、「安心を超える」という言葉の組み合わせはもはや詩だなと思った。
「これで昨日より安心だわ〜」と思う状況を想像する
09161420
北アルプス国際芸術祭会期中、信濃大町駅の立ち食い蕎麦屋にて聞こえた会話。
常連客らしきおじさん、カウンター席にて「二日おきに来てるよ」
蕎麦屋のおかみさん「そうねえ」
「いまはほら、アートバス(芸術祭の作品を巡るツアーバスのこと)やってる。運転手」
「えー、ガイドってこと?」
「まあガイドみたいなもんだな」
「よかったねえ、そういう仕事もらえて」
「そうだなあ」
「家にいるよりねえ、いいよねえ」
「家にいるよりいいなあ」
そしてそばをすすりはじめるおじさん。しみじみといい
09060831
かつて飼ったことのあるインコや初めて見るインコなど大小さまざまなサイズの鳥たちを再び世話しはじめる夢。今の住まい(現実の家とは違った)でインコたちを手や頭にのせたりして車に乗ってインコたちにもまれながら涼ちゃんと実家(昔の)にインコたちを連れて行く。6-7羽くらいいた。みんな人に慣れてて僕に懐いてくれていた。
昔の実家の真ん中の部屋で世話をしていたときにまーちゃんが「ひさしぶり」と声をかけてきた。まーちゃんは少年の友達を連れてきてて、僕にはなんか妹がいる設定で、その表現が妹に対して「やれるのにやれないのはやだから今度やろう」みたいなことを言ってて僕はその言い方をとがめてカッコ悪いんじゃないかとか言いだすと少年は「まじか」とバツの悪そうにしていた。インコの爪を切ろうと部屋の中で「ええと爪切りは…」と口にして目が覚めた
08242135
私はたぶんすごく天邪鬼かつ頑固で、人にアドバイスされるのもアドバイスするのも得意じゃなくて、誰かにこうしたほうがいいと言われたことを(それが一般的によいことだとされていても)すぐに実行に移すことに、すごーく抵抗を感じてしまう。それはもう生理的なレベルで、病的に、反射的に、どうしようもなく無理になってしまう。でもそれだけでは誰かと共同生活を送ることはできないから、私はたぶん、ある技を使っている。
その助言が、大事な人や信頼できる人からだったり、内容が多少なりとも納得のいくものだった場合、数日かけて吟味して、それを「自分で決めたことにして実行する」という技である。相手からすれば助言したことを自分の手柄にされかねない行為で、ひどい話だ。しかも私はそれを実行する頃にはもう、自分で決めたことだと本当に思い込んでいるので、自分の支離滅裂さにも気がついていない。まったくどうしようもない野郎だが、そうやって自分を騙していかないといつまでも永遠に人の話を聞かないのでそれよりはマシなんじゃないかと。
もし「同居人が最初は自分の言うことを全然聞かないのに数日経っていきなり言った通りのことをやり始めてしかも自分の思いつきみたいに捉えてて、意味わかんない」という悩みを抱えている人がいたら、その相手はもしかしたらこれと似たような思考回路かもしれない。
私はこれをニーチェから学んでしまった。『ツァラトゥストラ』に「なにか嫌なことが起きても、「私が望んだのだ!」と言え!その事態を自分で選んだことにしろ」みたいなことが書いてあったのだ。これはまさに神を殺した思考回路である。
私の場合、この回路に加えて「私は頑固だけど、『自分がいつまでも頑固であること』を、天邪鬼としての自分は嫌がっている」という、とても捻れた構造も関わっているかも。
08192149
先日、展覧会の作品制作のため、主催者側が用意してくれた作業小屋で一人コツコツ作業していたら、裏で田んぼをやっている農家とおぼしきおじさんがおもむろに近づいてきて「この小屋が空いてるところ、初めて見たわあ」と話しかけてきた。短い世間話ののち、おじさんは去っていったが、僕は気に入られたようで、その後も何度かいい感じに声をかけてくれ、小屋の正面の草刈りまでやってくれ、最後には「冷たい缶コーヒーやる」と、言葉通りの冷えた缶コーヒーをくれた。家から持ってきてくれたものだと思う。普段自分では買わないし、それほど好きでもないのだけど、その日は暑かったのでありがたかったし、何より純粋な好意が感じられて、僕は嬉しかった。
別の日、同じ場所で三人のお手伝いと作業していたとき、展覧会関係者の二人がアイスを差し入れに来てくれた。それは近所のコンビニで買ったという、ブドウの実を凍らせたような形・大きさ・色の、氷のボールが一袋にいくつも入っているアイスで、僕たちは一人一袋ずつそれを受け取った。その日も暑かったから冷たいものはありがたかったし、好きな味だったので喜んで食べ始めたのだけど、一袋に入っている量がそこそこ多いうえ、氷のボールは歯が緊張するほど冷たくて、後半はすこし苦労した。でも全部食べ切った。というか食べ切るしかなかった。その小屋には電気が通ってないので冷蔵庫などもない。そんな環境でアイスはただ溶ける一方なので、「食べるのを中断し、誰かにあげるか捨てるかする」という選択肢は僕には思いつかなかった。さいわい他の3人も嫌いではなかったようで、同じように全部食べていたと思うが、しかし内心どのくらい苦労して後半を食べ切ったのかはわからない。三人のお手伝いのうち二人と僕とは前日に知り合ったばかり。差し入れを持ってきてくれた二人の男性も、その二人とは初対面で、なんなら僕とも1〜2度会ったくらいの仲である。
たしかに僕にとって、アイスの差し入れは嬉しかった。しかし差し入れる側の立場を想像してみると、まだ会ったことがない誰かに持っていく物として、ひとり一袋のアイスを、それも水とかスポーツドリンクとか、そのアイスが食べられない場合の選択肢の用意がない状態で差し入れるのは、とても勇気がいる。そこに冷蔵庫がないことはわかっているので、アイスをもらった相手はその場で食べ切るしかないということが想像できるし、ぶどうが苦手かもしれないとか、体質的に氷がたくさん食べられないかもしれないとか、そもそも甘い物が嫌いかもしれないとか、いろいろ考えてしまう。僕は嬉しかったので、その差し入れは僕には「当たった」のだろう。でも外れる確率も決して低くはないはずだ。
缶コーヒーはアイスと違って溶けるものではないので、「アタリ」か「ハズレ」かはその場で判断しなくてすむ。このおじさんは、おそらく家にあったものを純粋な好意でもってきてくれたんだろうなという気持ちが伝わってきて、僕は決して好きな飲み物ではないが、嬉しかった。しかしアイスの二人は、それをわざわざコンビニで買ってきた。他の無数の選択肢の中から、すぐに食べないと溶けてしまう「ブドウ味のアイス」を選んだ。いや僕は嬉しかったので、全然いいのだけど、なにか、勢いよく開けたドアの向こうに人がいて、その人をペターン! と壁に叩きつけてしまった時のような、もやもやと引っかかるものがある。いや、おいしかったからいいんだけど……
08182343
デモなどに行っても大声でのシュプレヒコールに抵抗があることや、SNSでなんらかのアクションを「呼びかける」ことにためらいを感じてしまう理由として、ひとつ仮説を思いついた。「イスラエル」という人格をイメージできないからかもしれない。「国家」という人格をイメージできない。人格がイメージできないので、なにを批判すればいいのかがぼやけてしまうところがある。イスラエルは悪い、しかしイスラエルという言葉が何を指しているのかがよくわからない。
08100736
友人たち数人とどこかの観光地らしき場所にいる。屋外で、他にもたくさん人がいる。私たちは横幅の広い階段を降りていく。
階段の途中に、人の背丈ほどの、黒い信号機のような棒状の機械が立っていた。みんなはその機械のことをそれほど気にしていないようだった。大学の女友達(私はその人のことが好きだ、ということになっている)がそのそばを通りかかった瞬間、姿を消した。何がおきたのかわからず、みんなで「え、どこ行った?」ときょろきょろしてたら、まわりの通行人たちもこっちを見ていることに気がつき、しかもすごくまずいことが起きてしまった、というような、青ざめた顔をしていた。近くにいた見知らぬ女性が「ちょっとちょっと・・・」という感じでその機械のほうに近づき、軽く叩くような動作をして何かを呼びかけた。するとその機械についていた黒い玉の中から、かすかに女友達の声が聞こえてくる。「え・・・あ・・・」みたいな、状況がわからずに戸惑っているような声だった。機械は目の前にあるのに、それはすごく遠くから聞こえてくるようで、私は聞いた瞬間、彼女はもう戻ってこれないんだ、ということがわかってしまい、あまりに悲しくておかしくなりそうになる、という夢。
08080924
田原さんの家に遊びに来ていて、庭で寝転がっている彼の背中を後ろから見ている。左足の先を空中に持ち上げて、そのまま足を曲げたり、急にピッと伸ばしたりしていて何をしているのかと思ってよく見たら、10羽くらいいそうなスズメの群れが田原さんの足先に向かってまっすぐに飛んできて、瞬間田原さんは足を空中に勢いよく伸ばし、スズメたちを一羽ずつパパパパ……という感じで足の裏にぶつけていき、スズメたちは空中に跳ね返される。しかしまもなくスズメたちは旋回して戻ってきて、また同じように田原さんの足に向かって降下し、田原さんはそれをまた足の裏で跳ね返す、という遊びをしていた。スズメと遊んでるんだ! と私は感激し、自分もやってみる。すると一羽だけ飛んできて、私の足にぶつかってくれた。
そのまま田原さんの家に泊まり、翌日帰ろうと外に出たらすぐにスキー場にでくわした。空は晴れていて、雪はいい感じだった。私はここからスキーで山を降りて家に帰ろうと思い立ち、チケット売り場に行って一日券を買おうとしたのだが、売り場にいた荻上チキに「一日券はここで買うことができません」と言われる。「あるにはあるんですが、後日郵送になります」とのことで、しかもよく考えたらスキーもスノボもいま持ってないので滑れない、ということに気がつき、私は諦めて雪の中を降りていく。家に帰って、涼ちゃんに「最高の黄金コースを見つけた! 田原さんの家に泊まりに行って、次の日スキーで滑って帰って来れば、家の目の前まで来れる!」と報告する、という夢。
あたらしい本がでます
あたらしい本がでます!
飲食物などの 画像 と 実物 を同じ構図で撮影し、そのスペクタクルを分析する「イメージと正体の調査員」としての活動をまとめた本が盆地Editionから刊行されます。五年ほど撮りためてきた456組の写真に書き下ろしのテキストを加えた86ページです bonchiedit.theshop.jp/items/91510229
出原日向子さんの編集のもと、明津設計さんが、どこかレシピ本のような、魔導書のような素敵な本に仕立て、瀧瀬彩恵さんがこの調査の本質を言い当てる英語をあてはめ、TERRADA ART AWARD 2023から副賞という形でリサーチのサポートを受けて実現しました。ぜひ手に取ってほしいです
盆地editionのサイト、もしくは私のウェブショップ satoshimurakami.stores.jp/items/66e8257e からも予約できます。よろしくお願いします
北アルプス国際芸術祭に参加します
長野県大町市でこの秋開催される「北アルプス国際芸術祭」に参加します。私は信濃大町駅前の広場で、落ち葉の発酵熱を感じられる「足湯」をオープンさせます。とても気持ちのよい高原みたいな街なので、ぜひ。
[開催概要] 会期 2024年9月13日(金)~11月4日(月・祝)※会期中水曜定休
鑑賞時間 9:30~16:30
開催地 長野県大町市
主催 北アルプス国際芸術祭実行委員会