北アルプス国際芸術祭会期中、信濃大町駅の立ち食い蕎麦屋にて聞こえた会話。
常連客らしきおじさん、カウンター席にて「二日おきに来てるよ」
蕎麦屋のおかみさん「そうねえ」
「いまはほら、アートバス(芸術祭の作品を巡るツアーバスのこと)やってる。運転手」
「えー、ガイドってこと?」
「まあガイドみたいなもんだな」
「よかったねえ、そういう仕事もらえて」
「そうだなあ」
「家にいるよりねえ、いいよねえ」
「家にいるよりいいなあ」
そしてそばをすすりはじめるおじさん。しみじみといい
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かつて飼ったことのあるインコや初めて見るインコなど大小さまざまなサイズの鳥たちを再び世話しはじめる夢。今の住まい(現実の家とは違った)でインコたちを手や頭にのせたりして車に乗ってインコたちにもまれながら涼ちゃんと実家(昔の)にインコたちを連れて行く。6-7羽くらいいた。みんな人に慣れてて僕に懐いてくれていた。
昔の実家の真ん中の部屋で世話をしていたときにまーちゃんが「ひさしぶり」と声をかけてきた。まーちゃんは少年の友達を連れてきてて、僕にはなんか妹がいる設定で、その表現が妹に対して「やれるのにやれないのはやだから今度やろう」みたいなことを言ってて僕はその言い方をとがめてカッコ悪いんじゃないかとか言いだすと少年は「まじか」とバツの悪そうにしていた。インコの爪を切ろうと部屋の中で「ええと爪切りは…」と口にして目が覚めた
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私はたぶんすごく天邪鬼かつ頑固で、人にアドバイスされるのもアドバイスするのも得意じゃなくて、誰かにこうしたほうがいいと言われたことを(それが一般的によいことだとされていても)すぐに実行に移すことに、すごーく抵抗を感じてしまう。それはもう生理的なレベルで、病的に、反射的に、どうしようもなく無理になってしまう。でもそれだけでは誰かと共同生活を送ることはできないから、私はたぶん、ある技を使っている。
その助言が、大事な人や信頼できる人からだったり、内容が多少なりとも納得のいくものだった場合、数日かけて吟味して、それを「自分で決めたことにして実行する」という技である。相手からすれば助言したことを自分の手柄にされかねない行為で、ひどい話だ。しかも私はそれを実行する頃にはもう、自分で決めたことだと本当に思い込んでいるので、自分の支離滅裂さにも気がついていない。まったくどうしようもない野郎だが、そうやって自分を騙していかないといつまでも永遠に人の話を聞かないのでそれよりはマシなんじゃないかと。
もし「同居人が最初は自分の言うことを全然聞かないのに数日経っていきなり言った通りのことをやり始めてしかも自分の思いつきみたいに捉えてて、意味わかんない」という悩みを抱えている人がいたら、その相手はもしかしたらこれと似たような思考回路かもしれない。
私はこれをニーチェから学んでしまった。『ツァラトゥストラ』に「なにか嫌なことが起きても、「私が望んだのだ!」と言え!その事態を自分で選んだことにしろ」みたいなことが書いてあったのだ。これはまさに神を殺した思考回路である。
私の場合、この回路に加えて「私は頑固だけど、『自分がいつまでも頑固であること』を、天邪鬼としての自分は嫌がっている」という、とても捻れた構造も関わっているかも。
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先日、展覧会の作品制作のため、主催者側が用意してくれた作業小屋で一人コツコツ作業していたら、裏で田んぼをやっている農家とおぼしきおじさんがおもむろに近づいてきて「この小屋が空いてるところ、初めて見たわあ」と話しかけてきた。短い世間話ののち、おじさんは去っていったが、僕は気に入られたようで、その後も何度かいい感じに声をかけてくれ、小屋の正面の草刈りまでやってくれ、最後には「冷たい缶コーヒーやる」と、言葉通りの冷えた缶コーヒーをくれた。家から持ってきてくれたものだと思う。普段自分では買わないし、それほど好きでもないのだけど、その日は暑かったのでありがたかったし、何より純粋な好意が感じられて、僕は嬉しかった。
別の日、同じ場所で三人のお手伝いと作業していたとき、展覧会関係者の二人がアイスを差し入れに来てくれた。それは近所のコンビニで買ったという、ブドウの実を凍らせたような形・大きさ・色の、氷のボールが一袋にいくつも入っているアイスで、僕たちは一人一袋ずつそれを受け取った。その日も暑かったから冷たいものはありがたかったし、好きな味だったので喜んで食べ始めたのだけど、一袋に入っている量がそこそこ多いうえ、氷のボールは歯が緊張するほど冷たくて、後半はすこし苦労した。でも全部食べ切った。というか食べ切るしかなかった。その小屋には電気が通ってないので冷蔵庫などもない。そんな環境でアイスはただ溶ける一方なので、「食べるのを中断し、誰かにあげるか捨てるかする」という選択肢は僕には思いつかなかった。さいわい他の3人も嫌いではなかったようで、同じように全部食べていたと思うが、しかし内心どのくらい苦労して後半を食べ切ったのかはわからない。三人のお手伝いのうち二人と僕とは前日に知り合ったばかり。差し入れを持ってきてくれた二人の男性も、その二人とは初対面で、なんなら僕とも1〜2度会ったくらいの仲である。
たしかに僕にとって、アイスの差し入れは嬉しかった。しかし差し入れる側の立場を想像してみると、まだ会ったことがない誰かに持っていく物として、ひとり一袋のアイスを、それも水とかスポーツドリンクとか、そのアイスが食べられない場合の選択肢の用意がない状態で差し入れるのは、とても勇気がいる。そこに冷蔵庫がないことはわかっているので、アイスをもらった相手はその場で食べ切るしかないということが想像できるし、ぶどうが苦手かもしれないとか、体質的に氷がたくさん食べられないかもしれないとか、そもそも甘い物が嫌いかもしれないとか、いろいろ考えてしまう。僕は嬉しかったので、その差し入れは僕には「当たった」のだろう。でも外れる確率も決して低くはないはずだ。
缶コーヒーはアイスと違って溶けるものではないので、「アタリ」か「ハズレ」かはその場で判断しなくてすむ。このおじさんは、おそらく家にあったものを純粋な好意でもってきてくれたんだろうなという気持ちが伝わってきて、僕は決して好きな飲み物ではないが、嬉しかった。しかしアイスの二人は、それをわざわざコンビニで買ってきた。他の無数の選択肢の中から、すぐに食べないと溶けてしまう「ブドウ味のアイス」を選んだ。いや僕は嬉しかったので、全然いいのだけど、なにか、勢いよく開けたドアの向こうに人がいて、その人をペターン! と壁に叩きつけてしまった時のような、もやもやと引っかかるものがある。いや、おいしかったからいいんだけど……
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デモなどに行っても大声でのシュプレヒコールに抵抗があることや、SNSでなんらかのアクションを「呼びかける」ことにためらいを感じてしまう理由として、ひとつ仮説を思いついた。「イスラエル」という人格をイメージできないからかもしれない。「国家」という人格をイメージできない。人格がイメージできないので、なにを批判すればいいのかがぼやけてしまうところがある。イスラエルは悪い、しかしイスラエルという言葉が何を指しているのかがよくわからない。
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友人たち数人とどこかの観光地らしき場所にいる。屋外で、他にもたくさん人がいる。私たちは横幅の広い階段を降りていく。
階段の途中に、人の背丈ほどの、黒い信号機のような棒状の機械が立っていた。みんなはその機械のことをそれほど気にしていないようだった。大学の女友達(私はその人のことが好きだ、ということになっている)がそのそばを通りかかった瞬間、姿を消した。何がおきたのかわからず、みんなで「え、どこ行った?」ときょろきょろしてたら、まわりの通行人たちもこっちを見ていることに気がつき、しかもすごくまずいことが起きてしまった、というような、青ざめた顔をしていた。近くにいた見知らぬ女性が「ちょっとちょっと・・・」という感じでその機械のほうに近づき、軽く叩くような動作をして何かを呼びかけた。するとその機械についていた黒い玉の中から、かすかに女友達の声が聞こえてくる。「え・・・あ・・・」みたいな、状況がわからずに戸惑っているような声だった。機械は目の前にあるのに、それはすごく遠くから聞こえてくるようで、私は聞いた瞬間、彼女はもう戻ってこれないんだ、ということがわかってしまい、あまりに悲しくておかしくなりそうになる、という夢。
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田原さんの家に遊びに来ていて、庭で寝転がっている彼の背中を後ろから見ている。左足の先を空中に持ち上げて、そのまま足を曲げたり、急にピッと伸ばしたりしていて何をしているのかと思ってよく見たら、10羽くらいいそうなスズメの群れが田原さんの足先に向かってまっすぐに飛んできて、瞬間田原さんは足を空中に勢いよく伸ばし、スズメたちを一羽ずつパパパパ……という感じで足の裏にぶつけていき、スズメたちは空中に跳ね返される。しかしまもなくスズメたちは旋回して戻ってきて、また同じように田原さんの足に向かって降下し、田原さんはそれをまた足の裏で跳ね返す、という遊びをしていた。スズメと遊んでるんだ! と私は感激し、自分もやってみる。すると一羽だけ飛んできて、私の足にぶつかってくれた。
そのまま田原さんの家に泊まり、翌日帰ろうと外に出たらすぐにスキー場にでくわした。空は晴れていて、雪はいい感じだった。私はここからスキーで山を降りて家に帰ろうと思い立ち、チケット売り場に行って一日券を買おうとしたのだが、売り場にいた荻上チキに「一日券はここで買うことができません」と言われる。「あるにはあるんですが、後日郵送になります」とのことで、しかもよく考えたらスキーもスノボもいま持ってないので滑れない、ということに気がつき、私は諦めて雪の中を降りていく。家に帰って、涼ちゃんに「最高の黄金コースを見つけた! 田原さんの家に泊まりに行って、次の日スキーで滑って帰って来れば、家の目の前まで来れる!」と報告する、という夢。
あたらしい本がでます
あたらしい本がでます!
飲食物などの 画像 と 実物 を同じ構図で撮影し、そのスペクタクルを分析する「イメージと正体の調査員」としての活動をまとめた本が盆地Editionから刊行されます。五年ほど撮りためてきた456組の写真に書き下ろしのテキストを加えた86ページです bonchiedit.theshop.jp/items/91510229
出原日向子さんの編集のもと、明津設計さんが、どこかレシピ本のような、魔導書のような素敵な本に仕立て、瀧瀬彩恵さんがこの調査の本質を言い当てる英語をあてはめ、TERRADA ART AWARD 2023から副賞という形でリサーチのサポートを受けて実現しました。ぜひ手に取ってほしいです
盆地editionのサイト、もしくは私のウェブショップ satoshimurakami.stores.jp/items/66e8257e からも予約できます。よろしくお願いします
北アルプス国際芸術祭に参加します
長野県大町市でこの秋開催される「北アルプス国際芸術祭」に参加します。私は信濃大町駅前の広場で、落ち葉の発酵熱を感じられる「足湯」をオープンさせます。とても気持ちのよい高原みたいな街なので、ぜひ。
[開催概要] 会期 2024年9月13日(金)~11月4日(月・祝)※会期中水曜定休
鑑賞時間 9:30~16:30
開催地 長野県大町市
主催 北アルプス国際芸術祭実行委員会
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どこかに遠征していて、用事を終えて帰るため車を取りに行くところ。車を停めた駐車場が、なにやら知り合いの人のマンションの床下で、なんらかのボタン操作をすると床下が地球防衛軍の秘密基地みたいにガチャガチャ変形し、そこに車が数台入る分のスペースが段々になって現れるというもので、弟はそこに車を入れたと言っていて、そのマンションの住人と一緒に探すのだけど、弟は車を、ドラゴンボールのホイポイカプセルにそっくりな、コンパクトな玉に変換して入れたと言っている。そんな小さくするんだったら わざわざ、こんな床下のでかいスペースに入れる必要ないじゃないかと言いつつ車を一生懸命みんなで探すが全然見つけられない、という夢。
瓦礫の中を後ろむきに吹き飛ばされていく天使のイメージ
今福龍太さんの本のおかげで知った「瓦礫の中をうしろむきに吹き飛ばされていく天使」のイメージ。ベンヤミンが、クレーの絵から霊感を得て書いたテキスト。
「新しい天使と題するクレーの絵がある。そこにはひとりの天使が描かれていて、それは自分が凝視しているものから、いままさに遠ざかろうとしているかに見える。眼は大きく見開かれ、口は開かれ、翼は広げられている。
歴史の天使はこうした姿をしているにちがいない。歴史の天使は顔を過去のほうへと向けている。わたしたちの眼には出来事の連鎖と見えるところに、天使はただひとつの破局を見ている。たえまなく瓦礫のうえに瓦礫をつみかさねては、天使の足もとに放りだしている破局をだ。できることなら天使はその場にとどまって、死者を目覚めさせ、打ち砕かれた破片を集めてもとどおりにしたいと思っている。だが強風が天使の翼をからめとり、そのいきおいが激しいために翼を閉じることがもうできなくなっている。この強風は天使が背を向けている未来のほうへと、天使を吹き飛ばしていく。そうしているうちにも天使の眼の前では、瓦礫の山が天にとどくほどに高くなっていく。
わたしたちが進歩と呼んでいるものは、まさにこの強風なのだ。」
(ヴァルター・ベンヤミン『歴史の概念について』テーゼⅨ)
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つつじヶ丘アトリエ近くのコインパーキングに昨日の夜19時ごろに車を停め、今日18時ごろに出庫しようと料金を支払ったがタイヤ留めのバーが下がらない。パネルで同じ操作をしてみても「ロック解除を確認し、すみやかに出庫してください」という表示のみ。これでは車が出せない。緊急連絡先に電話。しかし電話が混み合っていますという音声案内が流れるばかりで、8回くらいかけなおす。20分ほどかけて電話を続けてようやくつながる。つながったオペレーターのおばちゃんがいまいち事態を把握できず、何度か同じ説明を繰り返し、何分かかけて警備員を向かわせますというせりふを引き出す。到着時刻の目安が分かり次第こちらから連絡しますといわれ、電話を切る。それから30分ほどして電話が来る。60-90分くらいで到着しますとのことで、こちらとしてはそれは長いので、板をかますなどして自力で脱出していいかと聞く。少々お待ち下さいと言われ、数十秒後に、お客様のお車に破損があってもよくないし、こちらの機器に万が一損傷があった場合その請求はお客様に行くことになるので、時間が大切なのはわかるがお待ちいただけませんかと聞く。逆にこの時間のロスの損害賠償は請求できるんですかと聞いてみたが、それは出来かねますと言われる。まあそれはそうだろうとは思っていたが、オペレーターの対応がどうも、こちらの不具合のせいで申し訳ないという意志が伝わってこない感じがしてモヤモヤする。「(お待ちいただけませんかとイエス・ノー質問みたいな感じで言ってるけど)こちらの選択肢としては待つしかないってことですよね」と言ってしまった。現場にはいられないので、ついたら連絡するように伝えていただけますかとだけ言い、電話を切る。それからご飯でも食べるかと、うろうろしてやまだやに入って、スタミナ豆腐とノンアルコールビールを頼む。気温27度。やまだやのカード決済機も調子が悪いらしく、常連さんらしきひとに大将が「ちょっと待ってくださいね。いま気分悪くなってるみたい」と謝っている。20時10分、現場にいい感じの修理工みたいなおじちゃんが到着、通信エラーになっちゃってて、いま手作業でバーを下げますので、と言ってから数分でバーが下がる。無事脱出。
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友人と街をどこかに向かってウロウロしていて靴屋に入り、見ていると店主のおじさんが観葉植物にホースで水をあげつつ明らかに友人の顔面に向けて水をかけてきて僕も思いっきりかけられ、おとうさん、水かかってます、と顔面に水を受けながら言ってもすぐにはやめてくれなくて、僕は怒って店を出ていく、という夢。ほかに建物の壁にジャングルジムがはりついててそこで遊んでる二人組も見た。
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大町の家には図書室がある。最近忙しすぎるというのもあって、あまり使わなくなってきた。子供がいたら違うだろうな、という予感がある。あるいは、親が同居していたら今よりも使いそうだ。図書室というものは「外側」にあるものかもしれない。私的な、「本の部屋とそれ以外とを分けたい」という欲望ではなく、私以外の人が本にアクセスしやすい場所をつくりたい、という善の力のおかげで存在しているのかもしれない。そしてその結果生じた図書室という現実空間に「自分の部屋ではないので普段はいない」という理由によって、アクセスしにくくなっている。人がいたら、自分ももうすこしそこに行くような気がする。証拠として、私の家族が泊まりにきた時、みんな暇になると図書室に行くので、私もつられた。つまり図書室がその力をより強く発揮するためには、自分と同居人の他に、三番目の人間がいるといいのかもしれない。図書室というものは公的な場所なので、自分の家という私的な領域の中では存在が後ろに隠れてしまう。
《村上勉強堂》報告書第十二号
《村上勉強堂》報告書第十二号を発刊しました。
なぜわたしに、はるか遠くの国で起きている問題の責任があるのか
アイリス・マリオン・ヤング『正義への責任』(岩波現代文庫)から「なぜわたしに、はるか遠くの国で起きている問題の責任があるのか」を考える。
わたしたちは「自ら行為することで諸制度の運用に参加しており、その積み重ねが特に、不正義を生み出すということになる」。例えば同じ服が二つの店で売っているとして、わたしたちは安いほうを選びがちだが、しかしそれは企業間の価格競争のゲームに参加していることを意味し、服を生産している工場の労働者が低賃金で働かされる不正義を助長することになる。
特にアパレル産業においては、そのような事態を改善するため、「反苦汗工場運動」というものが起きた。「苦汗工場」とは次のようなものである。
「多くの衣類、靴、その他こまごまとした商品の生産は(…)先進国以外の国ぐにの比較的小さな製造業拠点で生産されている。(…)そうした製造業施設の労働条件は(…)つぎのことが典型的に見られる。労働者のほぼ全員が女性であり、しばしば十三歳か十四歳といった少女たちだ。彼女たちが上司から支配され虐待的に扱われるのはよくあることで、しかもセクシャル・ハラスメントは日常茶飯事である。繁忙期には一日一〇時間から一六時間も当たり前に働き、会社が納期に遅れていれば、徹夜で働くことを強要されることもある。一日の長い労働時間内でのトイレ休憩やその他の休息の機会は限られている。休暇を願い出ることも、祭日休暇も一般には許されない。(…)工場の気温はしばしば耐えられないほど高く、換気もなく、照明も不十分で、消防機能もほとんど備わっておらず、避難出口はふさがれ、衛生設備も不備で、食堂やトイレは不衛生で、清潔な飲み水さえ準備されていない。(…)抗議したり、組合を組織しようとしたりする労働者は、脅迫され、解雇され、ブラックリストに載せられ、殴られ、殺されることすらある。そして、しばしば政府は、積極的にであれ消極的にであれ、そうした組合つぶしを支援する。
(…)一般的に労働者は、正式な雇用契約を結んでいないことが多く、また、雇用主は被雇用者が実際に働いた時間をきちんとつけていないか、全く記録しないでいるために、支払いが不十分であっても、請求することができない。」(p227)
だがこの不正義は、産業があまりにも複雑であるため、構造を理解しにくい。まさか自分の服が、そのような環境で生産されているとは気が付きにくい。
「グローバルなアパレル産業の構造は、苦汗工場の労働条件に対する責任を分散してしまっている。・・・異なる多くの場所で製造された衣服を、人びとがじっさいに購入する店舗へと運ぶ、それぞれ別個の契約をしている数知れない業者や人手が関わる生産と流通の複雑な連鎖が存在している。
(…)生産と流通のこの複雑なシステムの中で、衣類を作っている労働者は、この連鎖の最底辺にいる。彼女たちが稼ぐ賃金は、一般的に一つひとつの製品の小売価格のほんの一部にすぎず、六%以下であることが多い」
そこで反苦汗工場運動の活動家たちは「大量に服を購入する市役所や、大学のようにその名前やロゴをつけた服を売る諸機関に対して、こうした衣類が生産される工場での過酷な労働条件に対して責任をとるよう要請した。(…)また、ギャップやナイキ、ディズニーといったブランド・アパレル店や、さらには(…)一般の衣類小売店の前で、店で売られている衣類のほとんどが、苦汗工場という劣悪な環境において製造されていることを説明するリーフレットを配布した。」(p225)
北米とヨーロッパでは、「こうした運動のおかげで、自分たちが購入する衣服の多くが遠い国ぐにでどのように生産されているのかについて、消費者の意識がとても高くなった」という。「以前はアパレル産業の労働者たちのことなど全く考えたこともなかった人びとのなかで、自分たちと労働者たちがつながっているという意識が芽生え、結果として、より多くの消費者が「フェア・トレード」消費に関心をもつようになり、典型的な労働条件よりも公正な条件で働く労働者たちと直接的に取引する会社を通じて製品を購入することなどを始めた。」(p237)
とはいえ問題はアパレル産業に限らない。世界には「不正義」が多すぎる。ひとりの人間が使える時間は限られており、世界のすみずみのことにまで気を回せなんて無理な話だ。
「わたしの行為が手を貸している構造上のプロセスから生じるあらゆる社会的不正義に対して、もし多くの人びとと責任を分有するのならば、それによってわたしは、非常に多くのことに関して責任を負うことになるだろう。たしかに、そう考えると、途方に暮れてしまう。
(…)さらには、この責任の射程が自分の居る場所、つまり国家によって制限されていないのならば、その程度はさらにもっと圧倒的なものとなるだろう。というのも、こんにちの世界における多くの不正義は、潜在的には地球大に広がる構造上の社会プロセスから生じているのだから。」(p221)
しかしヤングはこう言う。
「最初に指摘しておきたいのは、それがわたしたちが立ち止まるべき真実である、ということだ。(…)つまり、この世界は深刻な不正義状態にあり、その算出にわたしたちは手を貸しており、さらに、他者とともに戦ったとしても、その状態は、わたしたちの誰かが正せるようなものではないかもしれない、と。わたしたちは、そうした責任の極点で立ち止まるべきである。」
さらにヤングは、ひとりひとりの人間が負うべき責任は、それぞれの不正義への加担の度合いによって異なるのではないか、という意見に反対する。
「わたしは、それぞれのひとが、構造的不正義への加担の度合いに応じて、程度も種類も異なる責任を負うという議論にはくみしない。(…)責任が分有されるということは、わたしたちのすべてが、その責任を、分け隔てなしに個人として担う、ということを意味している」
ヤングは、人びとが「構造的不正義」への責任を回避するために使う言い訳パターンとして、以下の四つを挙げている。
(1)物象化 (2)つながりの否定 (3)直接性の要求 (4)不正義を正すのは自分の役割ではないと主張すること
(1)物象化
これは「いろいろな力が働いているから、いましているように行為する以外には選択の余地がない」というもの。
「物象化は、あたかも特定の社会関係における人間の行為の産物をモノや自然の力のように扱ってしまう」(p277)
例えば2018年に大阪で施工不良のブロック塀が倒壊し、子供が死亡するという事故が起きてしまったが、その施工現場において、上司の命令とはいえブロック塀に補強用の控え壁を入れずに作ることでいつか悪いことが起こるかもしれないと従業員が思っても、あるいは上司も同じく問題が生まれるかもしれないと感じていたとしても、「ブロック塀に控え壁を入れない」という行為は、ひとつの必然として、コントロールすることができない天候と同じように、上司と従業員それぞれの目の前に現れる。
(2)つながりの否定
「ひとは典型的に、他の多くの人びとや事象によって媒介されている制度やプロセスの中で、ともに行動している遠くにいる他者とのつながりを否定する。」(p285)
→しかしいくら願っても、現実において私たちは他者とつながってしまっている。なぜならわたしたちの日々の行為には、たくさんの「前提」があるからだ。
「一枚のシャツを買うという、この単純な行為によって、わたしがすでに前提としているのは、綿花を育て、布を織り、裁断するひとと裁縫するひとを集めて布を衣服にすることに関わるすべての人びと、裁断師や裁縫師自身、さらに、衣服を輸送し、わたしが容易に手にすることを可能にしてくれている人びと、これらすべての人びとの行為である。通常これらの人びとは、わたしの関心の外にいる。しかし、もし問われたならば、それらの人びとがいなかったら、ここでわたしの目の前にある既製服は存在しない、と認めるだろう。わたしがより安価なシャツを買おうとするさい、生産力と流通力を高めるためだとされるアパレル産業のこれらの実践が行われただけでなく、労働コストを最小化しようとする圧力や競争があらゆる過程であったことが推測できる。そして、その結果、労働者が被害にあっている限り、安価なシャツを買うというわたしの意図は、その危害に関与しており、それは、わたしが労働者に危害を加えようとしているわけでもな(い場合であっても)そうなのだ。」(p287)
(3)直接性の要求
わたしたちは目の前のこと、つまり直接出会う人びとのことで精一杯なので、遠くのことまでは考えられないよ、という主張。
「わたしの目の前にいる人びと…すなわち、家族、友人、同僚、取引先や顧客、バスの中で、路上で、お店やカフェで、参加する教会やクラブで出会う人びと、わたしの日々はそうした人たちでいっぱいだ。わたしは、耳を傾け、ニーズに配慮し、丁寧に、敬意をもって、そして協力的であろうとする。
直接的な相互行為から生じる道徳的要求は、必要に迫られていて、間髪を入れず、そして時に、際限がない。このような相互行為から生まれる責任に(構造的)不正義に関する対する責任を追加することが、わたしにあまりに多くを求めすぎているのは確かだ。」
(P290)
直接的な関係からくる感情と、遠くの人びとを思うことからくる正義の感覚のふたつがあり、「それぞれが他方の道徳的要請を曖昧にしてしまう傾向がある」。日常生活では、直接的な関係によってわたしたちのエネルギーは消耗してしまうので、より広い社会的見地をとる余裕はほとんど残らない。その見地が、直接的に関係する人たちに、より危害を加えないために必要だというのに。
とはいえ私たちは特権的な立場にいる。もしわたしたちが直接的な要求を優先してしまったら、その構造的な特権を再強化してしまうことになる。
「直接的な関係における要求と正義に関わる要求との間にある緊張は、なくすことはできない。だが日常生活において関係しあう人びとが、構造的不正義をすこしでもなくしていこうと自らを組織化し行動に向かうとき、他者に個人的に応答するために費やすわたしたちのエネルギーは、同時に、正義を実現するためのエネルギーになる。」
ようするに、これは解決できない問題だが、話しあうのが超大事だと言っている。
(4)わたしの仕事ではない
たしかに不正義はある、だがそれはわたしの仕事ではない、と私たちは考えがちだ。しかしそれは「誰だかがなにかをしなければならない、と言っていることに等しい。」(p300)
「ロバート・グディンが論じるには、不正義が存在していると多くのひとが認めながら、その問題に対処する任務を割り当てられたものが誰もいないといった状況は、まさに国家が行動するに相応しい状況である。」(p301)
しかしこれには二つの問題がある。ひとつは「国境をまたぐ構造的不正義に応えていない」(p303)。
ふたつめは「正義を助長する国家の力の多くは、その努力に対する市民からの積極的な支援にかかっている」(p305)という認識が欠けていることだ。
以上の4つ戦略によって、「構造上のプロセスの変革に積極的にならなくてもよい、そして、変革という目的のために共同行為を展開するにはいかに政治的に他者と関わっていくべきかを考えなくてもよい、そのような口実がアクターたちに与えられる。」(p306)
そんな口実を使う人たちを、不正義の是正に目覚めた人たちはしばしば非難しがちである。しかしヤングは、不正義への責任の放棄は「罪、非難、あるいは過失にはあたらない」(p306)と言っている。なぜならわたしたち一人ひとりのミクロな行為を、マクロな社会的プロセスに結びつけるのは、とても困難だからである。
「非難という実践はしばしば暗に、非難する者を非難される者よりも優位に置く働きをする。これが、非難することは権力への意志の行使だとニーチェが考えた理由だ。」(p307)
私たちに責任はある。だがその解決に向かおうとしない人のことを非難してはいけない。批判することや説明責任を求めることと、非難することは区別すべきである。非難することは、「相手を支配したい」という欲求の現れだからである。
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「北京時代」という五人組のアイドルとして、学園祭でデビューする夢。結成が決まって、ライブを一つ終えるところまで見た。笑顔をつくるのがうまくできなくて、アイドルは向いてないと思った。メンバーはシマダと一平さんで、他は覚えてない。
05290815
ある個人が自分の内界をその人なりに意識し把握したことと、内界そのものとを区別しなくてはならないだろう。それはわれわれが外界そのものと、外界を意識し認知していることを分けて考えるのと同様である。
(河合隼雄『物語とたましい』p144)
5月24日の昼寝
ちょっとね〜
失礼なんだ〜けど〜
・・・
どんなに〜
どんなに〜
待ってても〜
・・・
も〜の〜が〜た〜りは〜死なな〜い〜
・・・
E企画の〜・・・には〜
・・・
で〜き〜るか〜ぎ〜りの〜贅沢〜
・・・
などのフレーズが出てくる歌を、けっこうな大人数で、屋外で、しかも各自が方々に散った状態でマイクを持って録音しようとしている、という夢を見た。僕は「ちょっとね〜」から始まる部分を伴奏無しで、しかもなぜかここだけソロパートで歌うことになっていて、何度も何度も「ちょっとね〜」と歌い出すのだけど、どうしてもすぐに歌詞が分からなくなってしまって全然うまくいかない。あまりにも失敗が続くので橋本くんが呆れた様子で「次で最後だから」と言ってきて、僕も絶対に失敗しないぞと意気込んで挑んだのだが結局またすぐに歌詞がわからなくなってしまった。
起きてすぐに録音した。さだまさしみたいなメロディーの歌
05202247
涼ちゃんが10日ほど前に体調を崩し、朝から晩まで咳が止まらず、夜も咳のせいでろくに眠れないという日が続いていた。熱はないがとにかく咳が辛そうで、病院に通って六種類も薬をもらっていたし、私も喉に良さそうな料理をつくったり友人に薦められたものを自然派食品の店に買いに行ったり、あれこれやってみたが、なかなか症状は改善しなかった。これだけ長いあいだ、誰かが調子を崩している様子を間近で見るのは初めての経験で、心配だったのだけど、7日目くらいから、もしかしたら快方にむかいつつあるのかなという兆候がみられてきて、このまま快くなるといいなと思っていた。
そして昨晩、不思議な夢を見た。私は自分の家の寝室で横になっていた。隣で寝ていた涼ちゃんが「蛇がいる!」と、布団から飛び起きた。「蛇の匂いがする」と言う。見ると、涼ちゃんの枕元から茶色い蛇(ヤマカガシのような模様をしていた)がにゅるにゅると出てきた。蛇はいったん窓から外へ出ていったが、急に踵を返して窓に向かって突進してきた。窓はもう閉まっていたので攻撃は届かなかったが、蛇はすごい剣幕で、明らかに怒っていた。次に黒い鳥が飛んできて、こちらも攻撃的な様子で睨みつけてきた、というところで目が覚めた。
そして今日、涼ちゃんはだいぶ調子が良さそうだ。昨日まではほとんど空気みたいな声しか出せなかったが、今日ははっきりと声に音が伴っている。この夢の話をしたら、「もしかしたら、蛇は喉の不調をあらわしていたのかも」と言った。
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渋谷公園通りギャラリーの撤収がひとまず終わった。 明日アトリエに荷物を降ろして車を田原さんの家まで返しに行き、ファントムに荷物を積めばひと段落。
昨日ダメ元でTwitterで「明日お手伝いできる方いませんか?」と呼びかけてみたら、酒井貴史さんが反応してくれて嬉しかったのだけど、そこで酒井さんがなにかの漫画の一コマ画像(「いるさ!ここにひとりな」というセリフ)を貼り付けていて、昔良かったころのTwitterの雰囲気を思い出した。突然、ここにいるよ! と誰かに呼ばれる感じ。
05101006
リモートミーティング中にスズメバチが部屋に入ってきた。あわてて一階に降りて虫網を持ってきて捕まえようと一度網を振るった瞬間、それまで室内を物色するように飛んでいたスズメバチが一直線に窓のほうへ飛んでいき、あっというまに外へ出ていった。まるで人間が、網を持ってくるまでは蜂に対して何もできないことを知っているかのような動きだった。
05101915
ランシエール「無知な教師」の、教師と生徒は意志対意志の関係であるべきだという普遍的教育の方法は、編集者と作家の関係に似ているかもしれない。編集者は作家より知識を持っていなくても締め切りを設定し、原稿を書かせることによって、作家をある意味で教育することができる。そこには意志のぶつかり合いがある。一冊の本という知性を通して。
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爆撃によって焦げ茶色の骨盤と背骨だけになってしまった人間の「遺体」をSNSでみかけて以来、自分の中の、なにか大切なものが壊れてしまったような気がする。いまパレスチナで行われていることは、シオニストたちが、その土地に先だって住んでいたアラブの民を飢餓と爆撃で追い出し、自分のものにしようとしているという、とある土地で起きている個別の話であると同時に、これまでいくつもの戦争や差別を経験しつつも、私たちはすこしずつ良い方向に向かっているはずと信じてきた、世界をなんとか束ねてきた矜持のようなものを無に帰す行為で、つまりこれは私たちが守ってきたものへの攻撃で、私はいま攻撃されている。シリア危機が起きたときはあれほど心強く、ヒューマニティの最後の砦にさえ見えたドイツ政府がパレスチナに関しては完全に二枚舌になってしまっている。こんな、誰の目にも明らかに見える殺戮行為に対しても、世界は連帯できない。アメリカではトランプを支持する福音派の人たちは、エルサレムがユダヤのものになったらイエスが復活するというカルトを信じているという話も聞いた。本来は、イエスが降臨したら統一される、という順番なのだが、教義を変えてその順序を逆にしたという。いまやどこを見渡しても、私たちに共通する、よりよい世界に向けての指針のようなものがひとつもなくなってしまった。
これまでも、私たちが何も知らずに日々の商品やサービスを享受することによって、どこかの誰かを苦しめているかもしれないという、サプライチェーンの問題に関してはずっと感じていたことだったが、いまではそれに加えて、殺されるべきではない人が殺されているという、より重たい、鉛の塊のようなものがいつも、毎日何をしていても、洗濯をしていても、友人たちとファミレスで楽しく話していても、私の魂にのしかかるようになってしまった。世界が生きるにきつすぎる。私は私を守る
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グミを書いにコンビニ入ったけど釣り用のワームばかり売っていてグミがぜんぜん置いてなくて諦めて車に戻る、という夢