例えば近所にパン屋さんがあって店主と仲良くなったとしても「わたしもよくパン作るんですよ」とは言わないだろう。それは失礼にあたるような気がするから。でも、なぜそう感じるのか?

【TERRADA ART AWARD 2023 ファイナリスト展】
参加作家
金 光男 冨安 由真 原田 裕規 村上 慧 やんツー
会期
2024年1月10日(水)~1月28日(日)
※ 会期中無休 ※ 2024年1月10日(水)は招待者のみ入場可能
時間
11:00〜18:00(最終入館17:30)
入場料
無料
会場
寺田倉庫 G3-6F(東京都品川区東品川2-6-10 寺田倉庫G号)
https://www.terradaartaward.com/ja/finalist/

——————————
《革命をもくろむものたち》
作 村上慧

壁 横田僚平
石の欠片 川端康太
カーブミラー 中川友香
三角コーン 横田僚平
自転車 土田高太朗
スニーカー 川端康太
タイヤ 吉田舞雪
空き缶A 花井瑠奈
空き缶B 近藤千紘
電柱 土田高太朗
コンクリートブロック 吉田舞雪
ビールケース 近藤千紘
プランター 中川友香
茂み 花井瑠奈

演出/制作 村社祐太朗
録音/音響 増田義基
プログラミング/制作補助 本間大悟
機材協力 青木聖也 今尾拓真 内田望美 川松康徳
Special Thanks 池田和博 内田涼 関谷花子 田原唯之 森田彬光 森田さち安 路雨嘉

TERRADA ART AWARDの制作に追われはじめてから1ヶ月半。まさに「追われている」という言葉がぴったりで、朝から晩までスタイロフォームを電熱線で削ったりハンダごてに銅線をつっこんだ自作道具でくり抜いたり、ペンキを塗ったりモニターとスピーカーを埋め込んだり、俳優さんたちと収録をしたり演出をしてくれている友人や音響をやってくれる人と話したりでお風呂で本をよむ気力もなかなか湧いてこない。目を使いすぎているような気がして。泊まり込みで制作を手伝ってくれている友人とはもう共同生活のような日々を送っている。私はいま友人たちの絶大なる協力を得ながら、3.5インチのモニター17台と10Wのスピーカー16台と16台のアンプ、14台の「ラズベリーパイ」と、友人が貸してくれたミニPCや3台のGoProと、ヘルメット3個と、10万円分のスタイロフォームと220メートルぶんの角材と42平米ぶんのラワン合板と12万円のMAC MINIと一斗缶2つぶんのペンキと絵の具ともろもろの工具や30個以上のACアダプタ、HDMI,スピーカー,Micro USB,イヤホンコード,延長コードなどケーブル類などなどで、これまでやったことがないインスタレーションをやろうとしている。200万円くらいかかりそうな勢いである。日記に残しておきたい言葉やアイデアのメモもなかなか取れず、こういうことをやるにはやはり多少の余裕は必要なのだな。そんな怒涛の毎日でも以下の三つのメモが生まれた。
・生まれてから今日までの35年間、一日6時間寝てきたとして、合計9年ほどは寝ていることになるので、私はまだ26歳である。どおりで、35歳という歳にピンときていないわけだ。
・コーヒーはマグカップよりも湯呑みで飲んだほうが美味しい。量が少ないので冷める前に飲み干すことができるし、そもそもコーヒーをたくさん飲めないのでマグカップでは大きすぎる。手で持って熱を感じるくらいの薄手の湯呑みで飲みたいものである
・安い豚バラ肉を、めちゃくちゃ弱い炭火で三時間くらい焼くと、びっくりするくらいおいしくなることを思い出した。以前展覧会の中で必要に駆られてやったものだが、いわゆる低音調理というものだろう。味も素晴らしいが、うっすい豚バラ肉を何時間も炭火にかけつづけ、本を読んだりしていたあの時間は贅沢だった。またやりたいものだ。必要なものは数百円の豚バラ肉と炭火と本だけである。あの時間はよかった。ほんとうによかった。

アガンベンが参照していた、権力とは[何かを強制すること]ではなく、[しないでいられる権利を奪うこと]であるという、ドゥルーズの定義

[相手を気遣いすぎることは、その人の権利を侵害することになる]

つながる。生活にも仕事にも言えることだが、なにかを先回りしてやり過ぎてしまうと、それをやらなかった相手が、[自分はそれをやらなかった]という事実と向き合うことになり、罪の意識を負わされ、結果的にやらないですむ権利が侵害される。「私のやり方に不満があったら、遠慮なく別の人に訴えてくださいね(人伝に自分の不満を聞いたとしても、私は素直に受け止めますから)」と仕事相手に伝えることは、優しさからなのかもしれないが、相手の権利を侵害している。「直接言うかどうかは私が決める、言わないかどうかを決めるのも私である」という権利を。

久々の東京。行きつけのラーメン屋「見聞録」へ。混んでいた。注文時や食べている時は大将と特に話したりはしなかったのだが、会計の時「毎度!」と声をかけてくれ、それから
「いつもあったかいつけ麺だよな。"冷やし"って言うから、オ! と思ったよ」
と、満面の笑みを向けてくれた。僕もめちゃくちゃ嬉しくなってしまって、「今日は暑いから」と多分ものすごく笑顔で答えたら、大将は「ああ、今日は暑いからね」と微笑んでいる。「おいしかったです」「ありがとうございました」
そのままニコニコと店を出てしまった。ほんとうに、数ヶ月ぶりに東京に来たのだけど「いつもはあったかいつけ麺だよな」と言ってくれる店がある。贅沢なことである。

広いブックフェアのような会場(屋内)にいて、出店ブースの中にM社があった。立っているスタッフの中に、今では縁遠くなってしまったNさんの姿も見えた。あれからもうだいぶ時間も経っているし、同じ会場にいて話しかけないのも変なので、今日中にこちらから「お久しぶりです、その節は失礼しました」的な挨拶をしなければと思いつつ、なかなかタイミングを探れずにいた。私が別の誰かと話しているとき、後ろからピコピコハンマーで背中を叩いてくる人がいて、振り向くとNさんだった。Nさんは他のスタッフと一緒だった。私は(今思うと変な話だが)ピコピコハンマーで挨拶をしてきたことにはなんの違和感も覚えず、「声をかけてくれてありがとう。こちらから声をかけるべきだったけど、なかなか勇気がでなかった」という旨のことを伝えた。Nさんは短く何かを言ったが、覚えていない。なぜか肌荒れが目立って見えたのは覚えている。フェアの中にはがっつりとしたライブ会場もあって、聞き覚えのある音楽が聞こえてきたので、私はそちらに行こうとしたが、演奏中の入場はできないと止められた。会場内をうろうろしていたら、出入口に続く廊下から何人もの人が、みな涙を流しながら会場に入ってくるのが見えた。涙がは全員、目元からあごにかけて真っ直ぐに流れており、漫画の描写みたいだった。かなり異様な光景だったので、なにがあったのか泣いている人に話を聞いてみると、出口のところで変なおじさんが激怒していて、自分たちがやっている仕事に対して、ひどいことを言ってきたという。私は腹が立ち、出入り口に向かった。廊下に出ると、出口のところの右下に、道路上にある「飛び出し注意」の子供のパネルみたいなサイズ感の、かわいらしいおじさんの絵が描かれたパネルがあった。いつのまにか、ホラー映画のような雰囲気が漂っている。なんだあれ、と私が近づいていくと、かわいいおじさんのパネルが突然、びっくり箱から人形が飛び出してくるような勢いで、こちらにむかって飛んできた。私が後ずさると、おじさんのパネルはいつのまにか6枚に増えていて、出口をふさぐように縦2列横3列で並んでいた。私は怖くなって逃げた。少し経ってから、だれかがその「おじさんパネル」のいたずらをした男を捕まえて懲らしめたらしい、と会場に噂が流れた。という夢。

高校の同窓会のグループラインで流れてきた、美術の先生の訃報に対して、😢(泣き顔)の絵文字で反応することの不思議さというか、異常さ。スタンプ一つでカジュアルに感情を表現するとき、平らに均されるそれぞれの人の記憶や気持ち。確かに悲しいことではある、しかしそれを「泣き顔」の絵文字で表すのはなにかが間違っている。泣き顔の絵文字が表す「感情」と、私が感じた「悲しい」という気持ちは、はたしてどのていど重なっているのか。そのふたつは、実は全く関係がないという可能性について。

友達の家での飲み会に遅れて到着したとき、窓の外から飲み会が盛り上がってる様子が見れただけで、満足して帰りたくなる。どんなに仲の良いひとたちでも、途中で入るのは緊張するものだなと思った。

二年前に決まっていた福島原発汚染水の海洋放出がとうとう始まってしまった。わざわざ貯めてあるものを、あえて海に流すとはいったいどういう了見なのか。
二年前のVIDEONEWSの大島堅一さんゲスト番組を見返して、海洋放出を決めた「有識者会議」に流れていたであろう雰囲気を想像する。
例えば「百年もつ建屋タンクを作り、あるいはコンクリートで固めて、汚染水は1ccも外界に漏らさない」といった、「大変な事故を起こしてしまったので、腰を据えてちゃんとやります」という態度を見せてくれれば支持できるし、そのための税金なら使ってくださいと言えるのに、とりあえず黒いタンクが並ぶ見た目が「風評被害(これも加害者側が言うワードではない)」であるからといって、その数を減らすために海洋放出をする(放射性物質は薄まるから問題にはならないと言い訳までして)という結論に至った、この流れ。恥ずかしいほどに格好が悪い。とりあえず目の前に見えている問題だけを見て、「作業」として処理し、当面をやり過ごすことしか考えず、歴史に残る事故を起こしてしまった国として、国際社会に対して良い格好をするせっかくのチャンスだったのに、目指すべき理想というものがない国なので、それができない。この「理想がなく、作業でしかない」雰囲気、行政主導の芸術祭やアーティストインレジデンスに似たものを感じる。

夢日記を書くときに実感しやすい、言葉が持つ「固定作用」。夢に現れる風景やもの、人物には必ずしもはっきりとした輪郭があるわけではないのに、起きた後に夢日記として言葉にしようとすると、どうしてもそれらに輪郭を与えざるをえない。言葉は茫漠とした夢風景の印象を、ある仕方で固定化してしまう。本当はそうでないのに、そういうこととして固まってしまう。そして、この作用は夢日記に限らない。
そこで思い切って三次元にしてみること。言うなればフィクション(夢)を「模型化」すること。三次元にすると一気に、その風景の現実味が増す(絵画よりも彫刻のほうが「世界に存在してる感じ」が強いのと同じように)けど、しかし同時にそれは真っ赤な嘘でもある。夢は三次元ではなく、いわば二次元の映像に近いものとして体験されるので、三次元にしたとたんに絶対に無理が生じる。
だけどそこにはなにかリアルなものがある。その「事実」と「創作」の境界がぶっこわれたときに現れる風景に、(大袈裟かもしれないけれど)芸術の未来がある。

「BLACK LIVES MATTER」と書かれたTシャツを着た、紫色の髪の女性を渋谷で目撃したとき、「東京に来た」という感じがした。大町市では見かけない

気温は高いのに湿度だかのせいでとても涼しく感じる昼間、「寒いんだか暑いんだか注意報(携帯で見たら「さむ意味注意報」と書いてあった)」というのが出され、それからめちゃくちゃでかい地震が来る、という夢。

「村上勉強堂」は定住型プロジェクトであることは間違いないのに、「移住を生活する」同様に「動いている」感じがある。ひとつ考えられるのは「移住を生活する」は、体は物理的にめちゃくちゃ動いているが、土地から土地へ渡り歩くので、その分緊張を強いられる。それをやっている最中の「気持ち」は、頑として微動だにせず、という感じ。だが、「勉強堂」のほうは、確かに場所は動いていないのだが、舞台が「自分が購入した土地である」ので、気持ちとしては、「移住を生活する」よりも開放的に動き回っている感じがする。動き方が正反対なのである。旧い点から新しい点へ、という移動ではなく、「通う」という動き方もある、ということかもしれない。

側溝を流れる水の音がする。水の音には、意識を今この瞬間に集中させる力がある。過去や未来の、後悔や心配ごとについてあれこれ考えてしまうわたしを、いまこの場所という現実に引き戻してくれる。この、体をもつわたしに帰してくれる。(08051547)

夜あかりをつけて部屋で作業をしていると、網戸に蛾やらカナブンやらカメムシやら正体不明の羽虫やらが張りついてくるが、蜂はそうはしない。蜂はどこか知的に、自分が自由であることを知っているかのように飛ぶ。その自由は英語でいうと「フリーダム」より「リバティー」に近い。多くの蜂は社会的な動物で、各自が役割を持って働いており、その責任感のようなものが飛行の仕方に滲み出ている。探るように、警戒するように、探すように飛んでいる。ただ光へ向かっていったり、高いところへ向かっていったりはしない。蜂の自由さは、人のそれに近い。07311320

例えばボブ・ディランがホームセンターで、数ヶ月ぶりの新しいシェーバーと、店頭で気になって手に取ったシェービングフォームを買ったとして、家で昼ごはんなどを食べているとき同居人に「明日ひげ剃るの楽しみだなあ」なんてことを漏らすかということを考えてみるといい。漏らすに決まっている。一万通のファンレターを受け取ったり、コンサートホールでライブをして多くの人を感動させたりすることと、新しい髭剃りを試すのが楽しみなこと(新しい服を着ることでもいい)のあいだには、サイズの大小も質の良し悪しもない。それらはまったく同じ地平上のものである。

警視庁関係の人というのは、なぜこうも人の話を最後まで聞かないひとばかりなのか。この間は、別々の二人から「裏面の地図を見てください」という同じ台詞を繰り返し言われた。こちらが一言二言話すと、彼らは頭の中で自分の物語を作り上げてしまい、電話口の相手は、その物語の住人かのように考え、その物語にしたがって話を進めようとする。こちらはとっくに知っている情報を、さも無知な人間に教えてあげるかのように提示し、それは知っています、僕が聞きたいのは、と、こちらが続けようとした話さえも途中で「ああ、はいはい」と遮り、想像の話をし始める。途中から僕は面白くなってしまった。

友人の紹介で、朝6時から3時間くらい、ブルーベリー摘みの仕事をしている。たぶんブルーベリー畑としては小規模なその農園は湖が見える道沿いにあって、朝着く頃には向こう岸の山に筆で描いたような雲がかかっていたりする。ブルーベリーの木は等間隔に並んでいて、道路向こうの「南」と「北」とか、エリアがいくつか分かれていて、朝三人でそれぞれの担当区域を決め、竹籠を紐で腰に巻き、自分が担当することになった地区の端の通路から、一列ずつブルーベリーを摘み取っていく。茎の近くまでちゃんと黒く熟したもの(赤味が残っていないもの)で、かつ小さすぎない実、を選びながら摘み取る。これからこの通路をやっつけるぞ、と決め、作業を始めるのだけど、条件に当てはまる実を探すのは、慣れていないとなかなか時間のかかるもので、太陽が逆光だったり、葉っぱの裏や梢の真ん中あたりに実が隠れていたりして、この木で収穫すべきものは全て摘み取ったと思っていても、ふと目についたところで、それまで見逃していたことが信じられないほどわかりやすいところに、真っ黒に熟した大粒のそれが目に入ったりする。一本の道を手前から順番に進んでいって、最後まで行って突き当たり、戻ってくるときにも、さっきは目に入らなかった実が次々と現れたりする。この収穫作業において、同じ道は一本もない。同じように見えて、すべて違う道を歩いているみたいだ。その時の自分の気力や、光の差し方、風の塩梅などで、すべての道が一度きりのものになってしまう。この作業は、昔やっていたパチンコ屋の清掃バイトに似たところがある。パチンコ店におけるパチンコ台は、シマと呼ばれる区域ごとに固まって並んでいて、ぼくたちはシマとシマのあいだの通路を、手前の台から順番に拭いていく。そのときに重要なのは、丸い金属製のハンドルや、玉の受け皿や、ガラス面についている指紋の跡を消すことである。指紋がついていると、他がどんなに綺麗でも、その台は汚れている、とみなされる。しかし、いくら指紋をすべて拭きとったと思っても、通路を引き返してくるときに、光の角度によって思いもよらないところに指紋が残っていたりする。その感じがブルーベリー摘みに似ているといえば似ているのだけれど、パチンコ店の掃除は時間との勝負で、開店前の2時間ほどで、少数のチームで店内の全てを掃除しなければならない(パチンコ台の拭き掃除だけでなく、床のモップがけや、床にこびりついたガムをヘラでこそぎ取る作業など、いろいろある)ので、1台の台に何分もかけているわけにはいかない。ブルーベーリー摘みは、基本的に一本の木にかける時間はその人に委ねられている。つまり、ぼくに。パチンコ屋は白い蛍光灯に、白いリノリウムの床だけど、ブルーベリー畑は太陽光で、地面には草が生えていて、毛虫もいるし、蜘蛛もカエルもカミキリムシもいる。環境はぜんぜんちがう。でも、人間が自分の所有する土地のなかで行っている商売という点では同じだし、ものの並び方や、作業の進め方に共通するものがある。その共通項を抽出して、書き起こしてみることはできるだろうか。

吉原さんの言葉「ボロは着てても心は錦」

高速バスにて、通路を挟んで隣の席に小学生くらいの男の子と父親の親子が座っており、いろいろな熟語の意味を問う学習教材のような本を開いていた。
父親が「玄人」って、わかる? と息子に尋ね、それからこういった。
「素人ってのはわかるでしょ? 素人ってのは、何にもできない人のこと。やったことがないから。玄人ってのは、ずっと何かをやってきたから、それが上手なひとのこと」
ぼくは衝撃を受け、あゆうくツッコミを入れるところだった。なんにもできない人。なんというパワーワード。
なんにもできない人。
聞いたことがない「素人」の定義だと思ったが、むしろこれが世間一般的には通りがよいのだろうかと考えると恐ろしい。僕はアマチュアリズムはものすごく大事なことだと思っている。素人だからできることというのはあるし、玄人になってしまうとできなくなることだってある。むしろ「なんにもできない人」それは玄人なのではと言いたくなるような雑さだ。日本の美術教育の闇を感じてしまう。絵が描ける人というのは、絵が「上手」な人であり、歌が歌える人というのは、歌が「上手」な人をさすのだという価値観に染まり、それ以外に「絵のよさ」というものをはかれない。すべての絵を「写真みたいに上手かどうか」で考えてしまうような浅はかさが……

キッチンさとし
より
キッチンむらかみ
のほうが美味しそう。苗字の方が美味しそう。なぜ?

 昔、友達と散歩していて、酒を飲もうということになった。空はまだ明るかったが、僕たちはお互いに酒好きであるということを知っていた。コンビニに入り、安いウイスキーの小瓶とプラカップと袋入りのロックアイスをカゴに入れ、レジに向かった。すると店員のおじさんがレジを打つ前に「これ、ロックで飲むの?」と聞いてきた。「はい、そうしようかと」と僕が答えるとおじさんは「そこのアイスの棚のところに、カップ入りのアイスがある。そっちのほうがいいよ」と言って、にやり、という言葉がぴったりの笑顔を浮かべた。思わぬ提案に驚いたが、気がつけば僕たちもおじさんに触発され、にやり、と笑みを浮かべていた。特に友達のほうは、絵に描いたような悪い顔であった。
 たしかに袋入りのロックアイスは量が多すぎるし、プラカップも五個入りしか売っていなかったので、二人では余ってしまう。最初からカップに入っているアイスを買えば、買い物もひとつですむ。
 僕たちはおじさんに、この素晴らしい提案のお礼を言って、袋入りのロックアイスを商品棚に返し、彼のいう通りカップ入りのアイスをふたつ手にとり、お金を払ってコンビニを出た。店の前ですぐにカップを開けてウイスキーを注ぎ、乾杯をした。夏の夕方。どこからか蝉の声も聞こえてくる。まさかコンビニで、こんなにマジカルで素敵なことが起こるなんて思っていなかった僕たちは、店員のおじさんの半生を想像しながら、それを肴にウイスキーを煽り、坂道を下っていった。
きっとおじさんはこの方法を自分で編み出し、時々そうやって酒を飲んでいるんだろう。おじさんの口調からは、そんな姿が容易に想像できた。

例えば家父長制はクソだとか、ジェンダー平等を実現しなければいけないという言説はたしかに正しく、そのような社会を実現しなければいけないという点に関しては僕もまったく同意するのだけれど、しかしここ数年で急に盛り上がってきた運動であることも事実で、私たちはそれより何十年も前から生きている。人生をかけて、専業主婦として夫や子供を支えることに、あるいは優しい母親として生きることに徹して(あるいは「演じて」)、わたしは立派にやってきたと自負することに幸せを感じる人も、働いて家族を養うことだけを生きがいに頑張ってきた人もいる。その誠実な重さに対して、あなた(の演技)は間違っていた、と言う権利が誰かにあるのか。その糾弾は「あなたの幸せは間違っている」と言っているに等しい。それこそ全体主義的で、「多様な社会」からは程遠い考え方ではないか。宮本はそのような糾弾はしなかった。「魂すり減らして目指した物語はどこへ行った?」と寄り添い、歌ってくれた。そして寄り添ってもらったほうが、人は変われたりもする。難しい問題だが。

「タケイマコト」という名前のF1ドライバーが、若いインスタグラマーの人に説教をしているのを隣で見ている夢。「会社に入ってるひとなら辞めちゃえばすむ話なんだけどさあ、そういうわけにはいかねえんだもんな」と言っていたことだけ覚えている。

アリちゃんとか、ミヤタとか、主に大学生前後のころに知り合って一緒にプロジェクトに参加したり、ワークショップを企画したり、泊まり込みで遊んだりして、当時は毎日のように会っていたのに今では疎遠になってしまった人たちが勢揃いでなにかをやったあとの打ち上げのような雰囲気のなか、ぼくはすごく懐かしくて楽しくてテンションが上がりきって振り切っていて、みんなで道を歩いてお店に入ろうとするのだけど、わりと深いビニール製の軒が建物の側面から出ているお店で、「その軒下を一歩でも超えてタバコを吸うと、なにかとても良くないことが起こる」とされているところだった。何人かはそれをはみ出しているように見えた。店に入るといつの間にか人数が6-7人に減っており、そのメンツでこれから酒を飲むところなのだが、雰囲気としてはもう二次会を終えたけどまだ飲みたりなくてこうなったら朝まで飲むと決めた人たち、という感じで、残りのみんなどこかにいなくなってしまっていた、という夢。