僕の実家があるお花茶屋というところは、江戸時代に何代目かの将軍がここを通りかかった時に体調が悪くなり、お花という人がやっている茶屋で受けた看病に感動して、お花茶屋と名付けられたという話があって、その話は僕にとってはとても重要な物語で、自分の体に刷り込まれている。各地域には固有の歴史があって、それぞれの歴史資料とか物語はそれぞれに価値があるはずで、それが他の資料に比べて価値が劣るとか優れているとかは考えても意味がないはずだ。同じように、誰かの苦労は他の誰かの苦労よりも大きいかとか、誰かの困難は他の誰かの困難と比べればさしたる問題ではないということも考える意味はない。誰かの困難や苦しさはいろいろな地域が固有に持っている歴史と同じで、その人固有の歴史の中にあるもので、他の地域の話と比べて大小とか優劣を比べることはできない。

作品素材を買うためにホームセンターに行ったら、何人か、普段ホームセンターではみないような、春に似合う洒落た服をきて、綺麗な色合いのバッグを肩から下げた、若い女性の一人客がいて、もしかしたら、外出する予定がないから、ちょっとした買い物にも服に気を使っているのか。こういうお出かけ先があるのは、みんなにとって良かったなと思った。

小さい頃の記憶、祖父がテレビのリモコンを握っていてNHKから他の局にはチャンネルを変えられなかった家庭の空気感がいつから変わったのか考えてみたら、父親と祖父とのちょっとした口論の記憶にあたった。確か、僕がなにかおもちゃのようなもので遊んでいるときに弟がそれを取り、取り合いになり、喧嘩になっただけど、父の「先に遊んでた方に権利がある」という主張と、祖父の「お兄さんなんだから譲るべきだ」という主張がぶつかった。あの価値観のぶつかり。あれは時代の移り変わりが端的に表れていたかもしれん。

COCK ROACHの4枚目のアルバムMother。ひさびさにこのバンドを聞いて、歌詞を追いながら聞いてたら気がついたらアルバムが終わっているみたいな体験の懐かしさ。特に二曲目のMotherが凄い

生き死にを繰り返し

辿り着いた街の

真ん中に聳え立つ

巨大なる母神像は

 

総てを閉じ込めた

蒼く澄んだ瞳

これがこのアルバムを表してるようだった。生き死にの繰り返しというのは、COCK ROACHを聞いてきて感じたことだった。死を歌った1枚目と、生きる欲望を歌った2枚目と、命を歌った3枚目、そして「母」について歌ったこの4枚目。

芸術が生活に必要かみたいな質問は、ドリアンは生活に必要かとか、秋刀魚は生活に必要かとか、マグロは生活に必要だけどサバは必要ではないとか、そういうことを考えるのと同じくらい意味がない。