今の季節、セミの幼虫が歩いているのをよく見ますね。

セミの幼虫ってどんなやつかわかりますか?わかりますよね。茶色くて、目がくりっとしているやつです。ゆっくりとしか動けないので、昼だと取りに喰われるから夜に地表に出てきて羽化するんですが・・

小さい時、セミの幼虫をよく捕まえて無事に羽化ができるようにいろいろやってあげていました。そういうことが良いことなのかどうかはわかりませんが、今でも反射的に、人に踏まれそうなところを歩いてるセミの幼虫を見つけたら、つい拾って人目のつかない草地に話しています。もちろん羽化できる木があるようなところに。

映画新聞記者を見た。全体に「ペンタゴンペーパーズ(邦題)」を思い出した。印刷機が動く様子を終盤に持ってくる感じとか、演出も似ている。ペンタゴンペーパーズは50年前の話だけど、これは現行の政権のもとでの新聞記者と官僚の葛藤を描いている。ペンタゴンペーパーズは、「運命の瞬間」のときは割と軽い感じの演出で描かれていたけど、この映画は全体に重たい演出だった。全体的にずっと重たい感じ、という意味では単調だったけど、内閣調査室のシーンの青い光の感じと、自殺した官僚の神崎さんの家の中の赤い色味というか、自然な色味が対照的で、その行き来はスリリングで面白かった。そして終わり方がペンタゴンペーパーズと違った。答えを出していなかった。つまり「立派な人間」とは「かっこいい」とはなんなのか、というのは映画の中で、それとなく描かれているけど、その勇気ある決断をした松坂桃李演じる官僚が、その後ハッピーエンドを迎えるようには描かれていない。わからない。唐突に終わる。ボールが突然こちら側に渡される感じ。それが現代の問題を扱う映画らしいというか、その決断がどんな帰結をもたらすのかまでは描いていない。原案があるらしいので、それを読んでみたいと思った。その終わり方が気になる。

主演の女優の方がとても良かった。最高だった。神崎の部屋で松坂桃李相手に言った「私たち、このままでいいんですか?」というセリフ、これがこの作品全体を象徴している。こちら側に指を指されるような感じ。「私たち」には、観客の側も含まれている。あと、多田さんという調査室のボスから卑怯にも匿名でかかってきた電話、しかも内容は「君のお父さんの記事、本当は誤報じゃなかったんだ」というだけの、ただの嫌がらせでしかない者に対して、これはむかつく!!さあ、どう返す?と観客の誰もが思ったであろう場面で、主役の記者が返した「あの、わざわざありがとうございます。という台詞は最高だった。誰よりも自分を信じ、疑えという父の言葉を背負って生きている人間と、自分の体と現政権とを一体化させて見事な思考停止に陥っている多田との、経験値と格の違いをたった十数文字で見せられて痺れた。

しかし、これがもしかしたら一番大事なのかもしれないけど、この映画は普通にエンターテイメントというか、楽しめる映画として見た。主人公二人の心情もよく描かれていて理解できたし、何回か泣いた。面白かった。武田砂鉄さんだったか、誰かも言っていたけど、この映画が「政権批判」みたいな感じでメディアに取り上げられることがあるらしいけど、それはちょっと神経症だ。普通に楽しめばいいのに、わざわざ自分の時間を割いて目くじら立てるような人間がいることに僕はリアリティがないけど、実際そういう神経症の人はいるんだろう。私のまわりには見当たらないけど。

ある作品を知ってしまったが故に、それまで長年うまくいっていた夫婦の間の意見の違い、好き嫌いの違い、価値観の違いが露呈し、知らなければそのままうまくいっていたかもしれない夫婦の仲を分断するようなことは、芸術作品にはあり得る。芸術は人を分断し得る。

平和の少女像は、制作というより生産されてきたものだということと、昔これそのものが美術館で展示中止になったわけではなく、模型が展示中止になった、ということから、企画者側に、なんらかの、表現の自由を問う以上の意図があったのでは。

脅迫のファックスに対して警察が警備を強化したり捜査をしなかったことがまず最大の問題なんだろう。その上で、この間書いたような、物事と距離をとること、そのうえで議論を促すようなこちら側の方法自体が、リベラルな態度であり、彼らから見たらそれ自体が偏った政治思想とあり、そこに腹を立てているんだろう。もちろん土台には乗ってこない。だからこちらの言葉で、議論を、などと呼びかけても。分断が埋まるようなことはない。

全部いっぺんに解決するのは無理なんだろう。俺は勉強して、韓国へ行き、一人の人間として発信する。それしかない。そうしていくしかない。一人ずつが。

あいちトリエンナーレの「表現の不自由展 その後」の「平和の少女像」の展示が神経症の人たちによる病的な反発と脅迫のせいで中止になった。(神経症という言い方は宮台真司にならっている)

そしてこれが一番大事なのだけど、その結果その展示を俺が見られなくなった。どうしてくれる。俺は10月に見に行こうと思っていたのに。

過去に検閲を受けたり展示中止になった作品を、経緯とともに展示し、なぜそうなったのかを考えるのがこの展示で、ある場所で展示できなかったものを(外で展示しようとするのではなくて)、美術館という美術を見に来る人のためにつくられた箱のなかで見せるっていうことを通して、検閲について考える。そういうプラットフォームのためにあるのが美術という方法なのだろうけど、それができない、そういうことを普段考えていないがために物事と距離が取れなくなってしまった人たちによって、距離をとって考えようとしている俺が邪魔されている。彼らは物事に対して近距離で直接向き合うことしかできなくなっている。彼らの中には「自分か相手」しかない。自分の中にバッファーがない。プラットフォームがない。その結果神経症に陥っている。その上名古屋市長も、なんか知らんけど、人気を取るチャンスだと思ったのか、ここぞとばかりに前に出て展示の中止を求めていた。

政治家も神経症の人たちに合わせて振舞って俺のことを邪魔している。とても辛い。唯一、愛知県知事の記者会見がすこしだけ救いだった。

名古屋市長には是非、元パリ市長ベルトラン・ドラノエの「リベルテに生きる」を読んでもらいたい。

しんどい。ニュースを見過ぎた。

世田谷文学館で原田治展をみた後にオペラシティでジュリアンオピーを見た。同じ日にみてよかった。原田治は「抽象画を描きたかった」みたいことが描いてあって抽象画も展示してあったのだけど、抽象画とイラストレーションを別のものとして考えていた印象。

「みなび」の企画で、昨日山梨県立美術館に職員の人たちと三人で泊まったあとに話したこと。スウェーデンでは庭があることが、自分の家を外から眺める時間を作り、外壁を塗るという習慣を作り、それが「外から見た自分の家」を意識させる。もっというとそれが街としての共同体意識のようなものを育てているのかもしれないという仮説。「外壁を塗る」ということは一体どういうことなのか。家は自分が中で住むためのもなのに。自分の家の外壁を塗るとは?

山梨県立美術館の学芸課の通路のところに寝る。夜9時以降は外に出れない。トイレと自販機が近くにある。

警備の人に聞いたら「出るってよー。本館は大丈夫だけど、南館の収蔵庫はやばい」って。

電波が入らないのが良いと思った。

近代西洋美術を専門とする地方美術館の学芸員の人たちと飲んだ。これからは駅とかでポスターをよくみるような絵画展の印象が変わりそうだ。

アクチュアリティと言っていた。よく。地方美術館で、集客を求められる中で何ができるか、みんな考えている。なんで日本でこんなことやってんだという疑問も脳裏をかすめる。

人はスマートフォンを手にしたことによってロバに近づいていると思ったら、路上ライブを聞いていただけだった

京都nowakiで個展をやっています。新作を含むドローイングと、新しいZINEと、「村上家に泊まるワークショップ」のドキュメントなどを展示しております。よろしくお願いします!29日は在廊します。

番組に手紙を送ったことがきっかけで、先週23日にライムスターの宇多丸さんがやってるtbsラジオの番組「アフターシックスジャンクション」のカルチャートークというコーナーに出させてもらってきた。

https://radiocloud.jp/archive/a6j/?content_id=58284

「ウィークエンドシャッフル」時代の「俺の黄金コース特集」というコーナーが大好きで、今でもラジオクラウドで聞き返していて、僕の活動と共鳴するものがあると勝手に宇多丸さんに共感してたんだけど、宇多丸さんも同意してくれた。やっぱりこの特集はヒップホップという宇多丸さんの地盤があって生まれたんだと思う。

僕の「移住を生活する」には間取り図っていう考え方があって、僕の家にはトイレも風呂もないので街から見つけないといけなくて、銭湯を風呂って読んだり、カフェをオフィスって言ったり、コンビニをwi-fiスポットとして使ったりして、街を大きな家に見立てて暮らすのだけど、そうやって既にあるものを自分の見方で別のものに変える力というか、自分に合わせて読み換えていくのは、まさに「俺の黄金コース」だ。誰しも同じ景色を違うように見ているのだから。この辺のことを宇多丸さんはスケーターのカルチャーを絡めて話してくれた。彼らは例えば街中にある手すりをアトラクションとして使ったりするという読み替えをやっている。

「俺の黄金コース特集」が素晴らしいのは、「俺の」といってるので、それはとても個人的な楽しみなんだけど、それを街のなかでやっているから、その人一人の楽しみで終わらないところだ。ストリートで行われることだからみんながイメージできる。

家とか暮らしかたとかは生まれる前から決められてる。自分で決めたわけじゃないのに、生まれた以上、そのうえでゲームを始めなくちゃいけないじゃないですか。だったらやることは一つで、「俺の黄金コース」ですよ。与えられたもののなかでいかに遊ぶかということです。

大学セミナーハウス「ぐるぐるつくるワークキャンプ」に約十年ぶりに参加して、吉阪隆正への見方がクリアになった。

・住むことと家がどんどん離れている。

・家は自分の体の延長である。その設計を人に頼むのはおかしな話だ。

吉阪が言っていたこのあたりのことは、僕が大学の時から思っていた「人の家を自分が設計する資格があるのか」ということの延長にある。

住宅のプランを作るには、一つ思考を飛躍させる必要がある。それは「人が住む家を、他人である私がつくる」ことへの壁を乗り越えないと、住宅の設計はできない。この壁は僕にとってはとても高くて、僕は「私的な行動は公共へのアクションになる」という発見ができたこの壁を迂回することができた。個人的な営みでも社会的なアクションになるというロジックを使い、そこから看板や経済の話に結び付けているけど、吉阪さんの言葉を読むと、その壁はやはり無視してはいけないというか、「他人の家を設計する資格なんてあるのか」という違和感は至極まともなものなんじゃないかと思えてくる。みんな無自覚に人のものを作りすぎている。人が使うものを作ったり、人に影響を与えたりすることへの奥ゆかしさみたいなものがない。下品だ。吉阪さんもそこにひっかかっていたのだ。吉阪自邸によく現れている。建築家は人工地盤と屋根だけつくり、中身のパーティションはそこに住む人に任せるべきだという考え方。住む人が変わったり時間が経ったりすればパーティションも変わっていく。という住宅のありかた。

これは、吉阪さんなりの「ここまでは踏み込める」という建築家としての態度の現れだったのだと思う。「本来自分の家自分でつくるべきだ。でもそうも言ってられない、だから、床と屋根だけはつくる。私ができるのはここまでだ」ということだ。

藤森照信さんも言ってたけど、吉阪さんの作品(というと、齊藤先生に怒られそうだ。吉阪さんは一人で設計を進めのではなく、模型を囲んでU研究室のみんなで進めていくという方法を取っていた。それが今『吉阪作品』として語られてしまう)には、かっちりと固めたものを打ち出すというよりも、「途中でやめている感じ」がある。これは吉阪自邸にも現れている、ここまではやるけど、ここから先は私は踏み込まない。という思想があらわれている。

砂場で遊んだり砂浜で像を作ったりするように場所を作るもんだから、ここからはある人の所有地で、ここからは別の人の場所で、ここからが自然で、ここからは吉阪作品だ、みたいな区分けが曖昧になっている。

また齊藤先生が言っていた「今和次郎に会った吉阪は、コルビュジェに会わなかったら建築家にはなっていなかっただろう」という話も興味深い。

山梨県立美術館で年齢層様々な人を相手に話をして思ったこと。何か意義のあることをやっているという説明の仕方をせねばという強迫観念があるかもしれない。

ブランクラスのたくみちゃんのパフォーマンス。なぜわざわざ人を集めて見せるのかについての作品だった。

ツイッターの問題は、人を選択させるということにある気がする。フォローする、しないという選択をさせることだ、人の価値判断をするという地平に連れて行かれる。

昨日は江戸川アートプロジェクトのメンバーと花見をしてきた。余村さん、望月くん、そして鈴木諒一さん。大変にもりあがった。飲み会であんなに話せたのは久しぶりだ。だいたいいつも話せないで聞く側に回ってしまう。

プロジェクトは面白くなりそうな着地点を見つけられた。公共機関が、「作家がやりたいから」という免罪符なしに、自主的にやるプロジェクトとしてこれが実現できたら結構画期的かもしれない。

330日朝に恵比寿のナディフアパートを出発し、丸の内丸善本店まで家をしょって歩いていったのだけど、丸善に着く直前に路上でお兄さんから「アメリカの不動産投資にありませんか?」と声をかけられた。つい反射的に「あ、興味あります」と言ってしまった。「よく僕に話しかけましたね」と言ったら「なんか面白いなと思って。自分、大阪から来たんですよ。だからなんかこういう感じ、懐かしいなとおもって声をかけちゃいました」と言っていた。やはり大阪の人は違う。ボケに対してボケをかぶせてきた感じだ。そんな冗談ぽい感じで話しかけられたのだけど、話は結構真面目で、メールアドレスだけでも教えてもらえないかなどいろいろと言われた。オープンハウスという会社の人で、アメリカでの不動産への税金のかかりかたは日本のものと違うらしく、申し訳ないことに、せっかく一生懸命説明してくれていたのに、細かいことはあまり聞いていなかったのだけど、どうも新築から時間が経って価値が下がったりいろいろしたときに、かかってくる税金が日本とアメリカで全然違うらしい。まさに先日の佐藤先生のシンポジウムで出てきた「消費財」という話だ。家は消費財なのだ。

メールアドレスを渋っていたら、リーフレットだけでももらってくれないかと言われたので、最終的に「アメリカに、家を持とう」と書かれたリーフレットと名刺をもらった。

丸善でワークショップ(1時間でできることは、とても限られている。だからいま僕は自分のワークショップを考えている)をやって、そのあと僕の家は丸善には置きっぱなしにはできなかったので車で福音館書店の地下の倉庫まで運ぼうとしたら車に屋根が入らず、家の本体は車で向かって、屋根は別でタクシーを止めて無理やり詰め込んで運んだ。そして福音館書店の駐車場で合体させていまはそこにおかせてもらっている。いよいよわけがわからない。こんな運びかたをしたのは初めてだ。僕はつつじヶ丘にいる。移動生活に入りたい気持ちもあるのだけどなんだかんだやることが多くていまはそっちがおもしろい。

丸善で絵本のパネルを作ってくれていて嬉しかった

広尾を過ぎたあたり

警察官から

こんにちは。これ何してるんですか

と聞かれたので

これを家にして歩いてるんです

と言ったらすぐに

あ、これを家にして歩いてるんですか。了解です

と返ってきた。のみこみがはやい。

佐藤浩司「建築のフィールドワーク」石橋信夫記念ホールシンポジウム

1964年。ニューヨーク近代美術館。「建築家なしの建築」展。「建築のフィールドワーク」ということの始まり。

1966年。「デザインサーヴェイ」という言葉が流行った。デザインのリサーチ。寺山修司の「書を捨てよ、町へ出よう」と同時期。

・「ヴァナキュラー」という言葉は使わない。

・「建築人類学とは」建築の背後にあってそれを支えてきた文化という名の巨大な構築物の存在を知り、そこに織り込まれてきた人間と住まいの関係をもう一度確認する。

・日本でいくら建築をみても、その背後に「大地」が見えて来ない。

・建築を引っ張り出したら、その背景の文化などが全部ついてきちゃうような建築が「建築の理想」だと思っている。

・『厚い記述』

・京都のCDIが今和次郎と同じく「モノ」の調査をした。

・「地球家族」1994TOTO出版

・ブッシュマンの持ち物79点(生産財:周囲の世界と対話しながら、何かをつくりだしたり何事かを成し遂げるためにある)

生業活動の道具53

住居1

衣類と装飾品15

楽器とおもちゃ10

・我々の持ち物は「消費財」(新品の時が一番価値が高くて、使えば使いほど減っていき、最後にはゼロになってしまう。使わなければ新品なのに「使うことでモノを台無しにしていくという人生」というメッセージになってしまう)。住居もそう。

・「The Living HouseAn Anthropology of Architecture in South East Asia

*僕が「移住を生活する」時において服を着るときの心持ちと「借家で寝泊まりしている」時において服を着るときの心持ちがすこし違うと感じている。「服を着る」と「服を使う」の違いというか。「消費財」か「生産財」かの二つには割り切れないとは思うけど、その考え方にはなにかヒントがあるかもしれない。

*スウェーデンで週末に家の外壁を塗ったりして手を入れる人を見て感じたことがつながる。日本でそういう光景は見ない。消費財と生産財を考えるためには「分業」の問題を考えないといけない。分業が進み、住居が「消費財」となり、自分の手から離れていく。それは文明の「進化」なのか。そうではない気がする。つまり消費という方法では世界とつながれないのか?

「与えられたものの中で住む」というメンタリティがあるから、家までいじる必要がないとも言える。駐輪場でランニングしていたおじさんの話。つまり住居の設計は暮らしのありかたと不可分で、どこからが住居でどこからが住居でないのかという境界をつくることは不可能なのだけどそこに区分があることにしないと建築家は成り立たないし、そういう区分があることにしないと社会がまわらないということになってしまっている。

そこが不可分なのに、大学の設計課題で「別荘をたてなさい」とか「集合住宅を建てなさい」と言われた時に、多分無意識ながら無理だと思った。つまり、何を設計していいのかわからない状態に一度なり、でも課題は提出しないといけないので、そこに作家性やオリジナリティのようなものを作らなければと思ってしまう。という大学の課題の与えられ方の問題があるかもしれない。

*モノという言葉使われ方が気になる。モノの背後にある人の手触りを想像できないこと。やっぱり分業の問題がある。

昨日今日と風が強い。風は暖かいので日中の気温はもうTシャツ1枚でいいくらいに春になっているのだけど、夜は冷え込む。昨夜は用意した春夏用の寝袋ではあまり眠れなかった。冬用の方を準備するべきだった。

ここ数日いろいろなことがあり、いろいろなところに行き、色々な人と話していて、日記に残したいと思いつつ時間が取れずにいたのだけど、いますこし時間ができたので書きはじめてみると、僕の家は松陰神社前駅の目の前にある「松陰PLAT」に置いてあって、昨日はそこで眠った。その前には代官山蔦屋書店で眠った。

久々に都内で家を動かして生活している。今月のはじめに3軒目の家を完成させ、それと一緒に3331アートフェアに行って展示して、ドローイングが3枚売れた。アートフェアでは「住所に生えている木」という新しい作品を試した。つつじヶ丘のアトリエに生えていた背の低いケヤキの木に住所を彫りつけ、庭師の矢島さんと一緒にそのケヤキを掘り出して植木鉢に移して3331のギャラリーに持っていって展示した。そのケヤキは四谷未確認スタジオの黒坂くんにプレゼントした。

3331から家と共に千駄木にある往来堂という素晴らしい本屋さんにいって、今月出た「家をせおって歩く かんぜん版」の営業のために数時間滞在した。今月はこうやって本屋さんをまわりつつ、あいだで「移住を生活する」をやりたいと思っている。「移住を生活するをやりたい」というのはつまり敷地の交渉をしてそこで寝泊まりをしたいということだと思う。往来堂の店主から色々な話をききつつ(それはおいおい福音館書店のウェブサイトで連載している「ふくふく本棚」にのせるとして)、その場で本を8冊ほど売ってサインをしたりした。

そのあと巣鴨の福音館書店に家を移動させ(途中一度「職務質問」にあったが、絵本を見せたら「あ、そういうかんじですか」と一発で納得して解放してくれた。やっぱり本はすごい)、そこで一晩預かってもらって、僕はつつじヶ丘の家に帰り、翌日また福音館書店にいって家を渋谷のSPBSという店まで運んだ。歩いて2時間半くらい。ここでも店主の粕川さんから「いか文庫」など色々とおもしろい話をきいて(それはおいおい〜以下同)、そのまま1週間ほど家を置かせてもらったというか、展示させてもらった。SPBSでも寝泊まりしたかったのだけど(なんせ渋谷の、NHKの目の前という敷地だ)、大家さんからの許可が下りず実現には至らなかった。その後ぼくは家をSPBSに残し、映像人類学をやっていてアーティストのJohn Tamura Wellsと一緒に6日間ほどモンゴルに行ってきた。Johnが17年前にモンゴルに滞在してフィールドワークをしたり展示をしたりしていたという話を「変容する家」展の打ち上げの席できいて、「モンゴルでも『移住を生活する』をやってみたい」というのがきっかけとなった。後日ジョンにもう一度その話をしたら、とんとん拍子に今回の訪問の日程が決まった。資金的にもアポイントメント的にも完全に自主的な訪問なので、一人だとなかなか踏み出せずにいたかもしれないけど、ジョンは非常にフットワークが軽く、彼もモンゴルでもう一度制作をしたいと思っていたのもある。初めて行ったモンゴルはとても刺激的で、リサーチとしても実りの多いものだったのだけど、その話はまた別に書くとして、モンゴルから帰ってきて3日後の3月21日はSPBSに戻ってトークと共に、来場者に「家をせおって歩いてもらう」というイベントをやった。僕としてはいつもやっていることなので、家を背負ってなにが楽しいのだろうという気持ちがあったのだけど、みんなかなり楽しんでくれていた。「これは背負いに来なければ!」と思って京都から来たという人もいた。

イベントの翌日に家ともにSPBSを出発し、そこから歩いて10ふんくらいのところにあるBunkamuraのnadiffに行って1時間半ほど滞在。そこでも店長の飯塚さんから、本屋をやっていて面白いことや修士論文はマーク・ロスコの色の研究をしたという話などいろいろ聞いたり、サイン本をつくったり。そこでサモアから帰ってきた慶野と数年ぶりに再会したりもした。

そんでBunkamuraから30分ほど歩いて代官山の蔦屋書店に着く。蔦屋についてからイベント担当のスタッフを読んでくる間の数分間を待つため、家を蔦屋前の歩道に置いたら速攻(0.5秒くらい)で警備の人が近づいてきて

「ここは歩道なので、このような大きなものは置けないのですが・・」

と話しかけてきたので、「さすが代官山はこういう対応が早いな」と思いつつ、この家は蔦屋でのイベントのために持ってきたもので、今担当者を待っているところですという説明をしたところ

「あ、イベントの展示物ですか・・なるほど・・」

と行って一瞬困ってしまっていたが、また一瞬後には

「そういうことでしたら!」

と言って去っていった。あとでスタッフに聞いたら「蔦屋の警備員優秀なんです」と。その日の夜は慶野にGFA(ギョウザファインアート)というアツい飲み会に連れて行ってもらった。

-ここまでの記述は3月27日。以下から29日。

そして、と、二日前に書いた日記の続きをいま再開することについて、ちょっと考えたりもしたいけどとりあえず難しいことは考えないようにして、24日には担当編集者の北森さんとのトークイベント。もう少し話を先に進めたいなと思ったけど時間が足りないと感じた。あとリラックス。少し緊張してしまっていて、話がこわばってしまったように思う。

代官山蔦屋でも一泊し、書店員さんたちから色々と話を聞く。蔦屋書店は2時までやっていて、近所に住んでる小山一平に連れられてレコードが結構大音調で流れている良いバーで飲んでから蔦屋に置いてある家に帰ったりすることができた。しかし瀬野尾さんという店員さんを待たせてしまっていた。夜中2時までやって朝7時から開くということもあり、この店には24時間人がいるので眠らせてもらうことができた。書店員には同年代の人も多くて、友達のような気持ちになった。人の職場で一夜過ごしたらその人と友達になれるのかもしれない。ドミューンで働いてた人もいた。

25日に毎日こども新聞の取材を受け(記者の人は昔赤瀬川原平と街を歩く企画で一緒に仕事をしていたらしい。羨ましい。僕のこのプロジェクトを「赤瀬川さんに見せたかったですね」と言ってくれた。僕もそう思う。赤瀬川さんや今和次郎さんや吉阪隆正さんなど見せたかった人がいっぱいいる)、蔦屋を出て行こうとしたらスタッフに呼び止められる。「WIREDという雑誌の刊行記念で、WELL-BEINGについてのトークをやるんですがちょっと参加しませんか」と言われた。WIREDの編集長とドミニクチェンさんが対談するらしい。いいですよ、と言ってそうすることになった。進行がすでに決まってしまっているので、登壇することは難しいかもしれないけどイベントの最後にマイクをふるのですこし・・ということで、もう一晩蔦屋ですごすことにしたのだけど、それは結果的に二人の対談が時間オーバーで、僕は話すことはなくただ聞いていただけになったのだけど、面白かった。

ウェルビーイングという言葉は馴染みがなかったけどBeingというのが大事なのだと思う。Doingではなく。トークを聞いていて「自分の範囲」をどこまでのものに設定するのかという問題と「規範意識」をどうやってもつかということの問題だなと思った。

しかし一番やばいと思ったのはドミニクチェンさんが言っていた

「ビッグイシューを最近買って読んだらクオリティが高くてびっくりして、それまで買ってなかったけど売っているところを見たら何も考えずに即買うというアルゴリズムをインストールしたんですけど」

という話だ。誰も突っ込んでないし笑いもおこってなかったが、ドミニクさんはちょっと「どうかしている」と思った。「アルゴリズム」とか「インストール」というデジタルな言語を、自分の習慣にそのまま適用したりする。柔軟というかなんというか。しかしこれはとても効果的な気がする。自分で「インストールした」と思うことによって「買うことにしよう」と思うだけよりもずっと強く習慣化できると思う。

またフェイスブックやツイッターやインスタグラムと自分の生活との関係についても、基本的に僕たちは「いること」だけで何かを成しているのに、明文化できる「すること」をしないと投稿することができず、結果「いないことになってしまう」のが現状のSNSで、それは精神に良くないと思う。「すること」「していること」だけをとりあげて「していないこと」はなかったことになってしまう。そして「したこと」「すること」を呟いても反応が気になっちゃうし、呟かなくてもいないことにされるから嫌だ、という悪魔の連鎖。今読んでいる「ソウルハンターズ」で、

ユカギール人にとっての「知ること」は多くの場合、もともと言語によって作られた自己と世界の境界を越えるという問題であるということである。P121

と書いてあるのだけど、これはとても納得のいく言い回しで、遠藤一郎さん風に言うと「考えれば考えるほどバカになる」問題のことだ。つまり言語をつかうこと自体のなかに「自分」と「他人」の区別を強くしていく力が備わっていて、そうすると言語で考えれば考えるほどトークイベントの中で言及されていた「私のウェルビーイングを、私たちのウェルビーイングにしていく」みたいな話からは遠ざかっていくような気がする。「私たちのウェルビーイング」を「トーク」イベントのなかで取り上げること自体に無理があると言うか・・・。

そんなことを思っていたら、4月7日に新宿紀伊国屋で対談する内沼晋太郎さんが僕の本をツイッターで「これこそウェルビーイングついての本かも」と紹介してくれていて、7日にはその話もぜひ持ちかけてみようと思った。

その翌日蔦屋書店を出発し、松陰PLATにきた。松陰PLATに入っているぱっきゃまらーどという絵本屋さんや、タビラコというめちゃ良い喫茶店の人たちと仲良くなれた。good sleep bakerというクラフトビールをたくさん扱っているお店もよかった。石津ちひろさんという作家と福音館の編集者に偶然会ったりもした。

松陰PLATは良い敷地だ。世田谷区の住宅街と商店街の中間くらいにある場所で、家は二階のちょっとデッキになっているところに置かせてもらったのだけど、素敵なライティングがされていて気持ちがいいし、電源もWifiもトイレもあって銭湯も近くにある。キャンプのような気持ちだ。つつじヶ丘に帰ろうと思えば帰れるのだけど、発泡スチロールの家にあえて寝泊まりして、僕自身の、街の見え方を変えさせる。久々に発泡スチロールの家で野外で眠った。夜銭湯に行って家に帰る時、不思議と荷物が軽く感じる。

そんで翌日の昼に松陰PLATを出発。最近NONIO ART AWARDで準グランプリになった内田涼ちゃんに撮影してもらいながら移動。涼ちゃんに外から撮影してもらい、家の中からはJohnの映像人類学的な手法にならって、アクションカメラを家のあちこちに取り付けながら撮影した。

世田谷区の寺院を3箇所ほどまわって敷地交渉をしたのだけど、1箇所目は住職さんに「ちょっとうちはこまるなあ。このへんは浮浪者も多くて、一人寝るのを許したら他の人もそう思っちゃうから。昔門の前で、雨降ってるのに布団敷いて寝てるやつがいたこともあって・・」などと言われて断られる。僕があの白い家を置いて寝るのをみて「あ、ここで寝ていいんだ。俺もやろう」と思う人間がもしいるとしたら会ってみたい。でも住職さんはめちゃ人の良いおじさんだった。

そのお寺を出発しようとしたら、子連れの母親が僕の家を興味津々で眺めながらスマートフォンで撮影していたので話しかけてみたら、なんと近所に住んでる占い師(西きほ子さんという方)らしく、近所で良さそうなお寺を二軒紹介してくれた。その2軒にも敷地交渉にいったのだけど一軒目(公園と一体化している気持ちの良いお寺だった。ここで寝てみたいと思った)はインターホンを押しても反応がなく、2軒目は門の前にでかでかと「〜家葬儀」と書いた看板が掲げられていて、流石に葬式の最中に敷地の交渉はできないと思って遠慮した。もう暗くなってしまって敷地を交渉する気にもならず、翌日いく予定だった恵比寿のNadiff APARTに電話して、そこに置かせてもらうことに。29日15時54分現在もそこに置かせてもらっている。

撮影後にご飯を食べている中で、ワークショップのアイデアが生まれる。このワークショップの話を山梨県立美術館の「みなび」の雨宮さんと、Nadiffの川越さんに話してみたら二人とも乗り気だった。今まで思いつかなったアイデアだけど、5年このプロジェクトを続けてきたからこそ生まれたアイデアでもあると思う。

そんでいま僕は本郷3丁目の上島珈琲店にいる。慶野に誘われて佐藤浩司さんの退官記念シンポジウムを聞きにきている。「建築人類学」とはまた聞きなれない言葉だったけど、とても面白い。「都市で建築人類学は可能か」という話はまさに僕の興味と繋がる問題だ。