展覧会に参加します!東京は久しぶりです。

「半開きの家」
@NITO MICHIKUSA

[会期] 2022年6月3日(金) – 6月27日(月)
[時間] 11:00 – 19:00
[定休日] 火、水
[観覧料] 400円 (ポストカード付き) 小学生以下無料
[会場] 東京都大田区蒲田3-10-17

家とは不思議なものです。
壁を立てて、領域を囲むことで、そこは心休まる場所となります。
そんな家に、どのようにすれば、外部を招き入れることができるのでしょうか。
完全に壁を壊し、野ざらしにするわけではなく、家を保持したまま、扉を半分開いておく。
元々民家であったアート/空家 二人を舞台に、内と外の共存について考えます。

アート/空家 二人では、10名のアーティストが継続的に参加する展覧会「NITO」を行なっています。その合間に「NITO MICH IKUSA」と冠した特別な企画展を、年に数回の頻度で開催しています。本展はその第2弾です。

参加作家

久留島 咲 前田 耕平 村上 慧 森山 泰地

イベント

・村上 慧「いる」日程

6月4、5、11、12、18、19、25日

●本展では大田区で京急線沿線にある2つの施設、KOCA、heimlichkeit Nikaiと連携し、合同のレセプションパーティと、3施設を巡るギャラリーツアーを行います。

・合同レセプションパーティー

6月4日(土)18時 KOCA A棟 (東京都⼤⽥区⼤森⻄ 6-17-17)

・連携開催・3ギャラリーツアー

KOCA

「曲直 / right or wrong 中島崇」

「HISUI HIROKO ITO 2023 S/S展示会 <1人でも、2人でも…>」

heimlichkeit Nikai

「Play Double – プレイ・ダブル展 -」

6月4日(土)15時 3ギャラリーツアー heimlichkeit Nikai から開始

→詳しくはこちら

https://nito20.com/exh/exhibition

vimeo内のページで、2020年に行った《移住を生活する》プロジェクトのYOKOKU-HENを一般公開しました。

名付けることについて。名前をつけるという行為自体が好きではなくて、ほとんど悪の所業だと思っていた。音楽のジャンルにしても、作品タイトルにしても。名付けることは、名付けられる前のものとものの間の関係を断ち切ることであり、活きているものの動きを止めて殺すことだと。全て名前を捨ててカオスに向かうほうが面白いと思っていた。でもカオスを守るためにはむしろ逆に、名付けることが必要なのかも。
社会的な問題に起因する違和感やジェンダーに新たな名前を与えることの利点はわかりやすくて、その物事に指をさすことができるようになると、人と問題が共有できるようになるし、それまで名付けられていなかった、硬直して悪いものになってしまった習慣や権威にも同じように名前を与えることになり、それが攻撃になる。
でもそれ以上に面白いのは、名付けることで初めて、名付けないことが可能になること。ひとつに新たに名を与えたとき、同時に名前を与えられていない領域も生まれ、名付けられる前よりも、むしろカオスが広がる。
(小説は名付けと相性が良く、詩は破壊、シュルレアリスム、野生と相性がいい?)

調布の喫茶店、60代くらいに見えるが雰囲気は若い店主夫妻と、青いエプロンをした若い女の子。女の子が配膳やら注文取りやらをやっているのだけど、店主夫婦が、さすが、とか、ありがとう、とか褒めていて、女の子の方も時々タメ口をまぜながら話してる。従業員と雇用主の上下関係を感じさせない。ほんとに働いてもらうねとお母さんが言ったり、いいよいいよと女の子が言ったり。彼女は今日、本当は休みなのか、あるいはもう辞めたひとなのか?
キッチンの雰囲気も良い。僕がブレンドのモーニングセットを頼んだら、お父さんが、順番にやる、と呟いて、お母さんが、そうだね、と、相槌。

団地内の、昨日の雨でぐしょぐしょにぬかるんだ、柵に囲われた運動場で子どもたちが3人、下半身を泥だらけにしてボール遊びをしている。その姿を、母親らしき三人が立ったまま遠まきに眺めていた

《移住を生活する》は、隣人でもなく、家族でもなく、その間にもう一層場所を作る感じ。そういう、ぎりぎり大丈夫な距離感の場所を作り出して体をねじ込む、というイメージだった。いろいろなコミュニティの外縁から外縁へ、渡り歩くようにして回っていると、外だと思っていた場所が実は中だったことがわかってくる。
誰も指をさせないのだが、確かにそこにある場所。

ステレオガールがほんとうに素晴らしい。久々にど真ん中級大好物バンドに出会ってしまった。ローゼズとかスーパーカーと出会い直したような気持ち。音を聞いてるだけでよだれが止まらない。ライブに行きたかったがもう売り切れている。

たとえずっと年下の、高校生とか中学生と接するときであっても。相手がわたしのことを目上とみなしているとわかったうえで、こちらがタメ口を使うときに感じる「なんかわたしえらそうだな」という違和感を大事にする。ときどき、その上下関係を脱臼するように、敬語を差し挟む。どんなに親しい関係であっても、関係に少しでも上下がある場合は危ない。

デカルト曰く、悲しみは食欲を減退させない。ただし、そこに憎しみが混ざっている場合は別。

表現に関して子供の自由な発想は良いよね的な話に対して、いや表現は知識と鍛錬が必要なのであって、最初から何の縛りもなくただ自由にやるというならそれは良い表現とは言えないという意見があり、またそれに対する反論として例えば子供の落書きとアクションペインティングの作品の区別がお前につくのかと言う質問が飛んでくるが、表現とは何かを志向している状態そのものに宿る凄みのことのであって、自分がはまってしまっている枠組みを自覚しそれを打ち破ろうとする過程それ事態が重要で(そして大抵の場合はそうとそうでないものの区別はつく)、表れたもので判断できるかどうかだけを議論しても意味はない。

埋まったスケジュール全体を見渡して、これをこなすのか…と絶望するとき、ひとつひとつの予定は見えていない。逆に予定をひとつずつ、これは楽しみだと練っていくときは、全体のことが見えていない。拡大縮小する時間の例。

夜行バスに乗っていたのだけど、パーキングエリアで停車したので休憩かと思ってトイレに行った。トイレから出たら、遠くでバスのドアが閉まり、発車してしまった。行かないでーと、手を振りまわしながら走って近づくも、結局バスは行ってしまった。僕は遠ざかるバスをずっと眺めていた。その後ろ姿がなぜかコンクリートミキサー車だった。とりあえず携帯で近くのホテルを取ろうと操作を始めた。地図アプリを開き、西に大きな川があり、そこに長い橋がかかっていることを確認。あのバスは、これからこの橋を渡るんだろうと思ったあたりで目が覚める。焦った。

なんらかの言い間違い、嘘の発覚、情報の行き違い、あの言い方は良くなかったなあとか、そういった心の機微をちゃんと伝えずにいることを繰り返すことによって、あるいは単に相談不足によって、ドミノが倒れていくように、人間関係が決定的に壊れてしまったとき。政府間外交の失敗のちいさな積み重ねによって、衝突が避けられなくなったとき。手に取ろうとしたケチャップのわきに醤油差しが置いてあるのが目にはいらなくて、袖にひっかけて倒してしまい、醤油が床に零れた瞬間。

出来事が不可逆的に進行してしまい、取り返しがつかなくなった、ありとあらゆる瞬間に「ピタゴラスイッチ」のテーマソングを再生する。最後の「ピタ・ゴラ・スイッチ♪」のところで、その出来事は仕方のないことだったのだ、回避できなかったのだ、という諦めを軽やかに与えてくれる。

「廃電化製品無料回収」の白いチラシがポストに入っている。 その末尾に電話番号が書いてあって(担当:小田)と書かれている。小田さんはこの電話番号を受ける「担当」という役柄を与えられている。この二文字を企業のチラシなどで見るとしんどい気持ちになる。小田さんが小学校や中学校の日々のなかで勉めていた学業や遊びや、家族に育てられた思い出や、恋や人生の葛藤などが消され、なかったものにされているような感覚。

世の「長生きしているおばあちゃん」の多くは、ある一定のスタイルに収束していく。

地方の電車、山ちゃんと二人で乗っている。僕が先に降りるのだが、ドアが閉まってから、車内の山ちゃんが手に僕の財布を持ち、「盗ってやったぜ」と言わんばかりの笑みを見せてくる。僕は怒り、急いで改札を出て、駅員さんに事情を話し、タクシーに乗れば500円くらいで次の駅まで行ける、といわれる。僕は山ちゃんに電話をかけ、するとおばさんの声がする。確認したら、まちがいなく山ちゃんの電話だったので、これは多分母親なんだろうと推測して、この人にも事情を話す。タクシーに乗ろうとするのだが、それはものすごく古い、おもちゃの木箱のようなものだった。ワンルームマンションの浴槽くらいの大きさしかなかった。乗ると、子供用のゴーカートのように、足で漕いで前に進むものだった。運転手が漕いでくれる。結構速いが、僕の方にもペダルがあればもっと速いのに、と思った。途中、坂道を下った先で猿の群れに遭遇し、猿を払いつつそこを過ぎた途端に、猿が車の後ろから飛び乗ってきて、髪の毛を引っ張ってきた。痛い、痛いと、運転手も僕も言った。タクシーの運転手は途中で交代し、その娘らしき人が出てきた。しょうこさん、というらしい。どうやったのかはわからないが、とにかく最終的に財布は返ってきて、イベント会場みたいなところで山ちゃんと再会し、わざと盗っただろうと怒ったら、また盗ろうとしてきたので、階段を降りていく山ちゃんに僕は空のカップアイスを投げつけ、山ちゃんをキレさせる。僕はジャンプして山ちゃんの目の前に着地。そのまま取っ組み合いが始まったところで目が覚める。

風呂で考えたこと
・さいきんマイミーンズの「そういうことだった」を聞きまくっているせいで、もしかしたらあの一言が原因だったのかなあとか、あれとあれはつながるかもしれないと思ったときに、「そういうこと〜だったのか〜」という一節が脳内に流れるようになった。
・土屋公雄が最終講義で僕に向かって言った、「アーティストになんかなって欲しくなかった」という言葉。みんな笑っていたし、僕も笑っていたが、なぜこれが笑い話になるのか、考えてみたらよくわからない。そして、今考えるとそれが「こんなに苦労が多いのに報われない」というよりも、「制作なんかやってなければ、思い悩んだりせずに過ごせる日々がきっとあるのに」というニュアンスだとしたら、共感できる。
・遠藤一郎さんと先日神保町で偶然、しかも数年ぶりに再会してから、ものの1,2分で「さとし、あそべ」とわざわざ面と向かって言われたこと。あんなに真剣な「遊べ」は、聞いたことがない。背筋が伸びた。遊べと言われたのに。彼はまた、「遊ばないと、腐るから」とも言っていた。それは、いまとても、痛いほどよくわかる。彼からしたら、まだ僕の「遊ぶのが大切」という認識は甘いのかもしれない。彼はそれを感じたから、僕から何らかの、いっぱいいっぱいなオーラを受け取ったから、そう言ったのかもしれない。でも、昔よりは理解できるようになっていると思う。人は歳をとってしまうと、遊ばなくなる。気をつけないと遊ばなくなる。そしてそれは、その人は気が付かない方法で、その人を腐らせていく。

ロニ・ホーン展。彼女が語っていた「黒い水の話」がとても良かった。自分も消えたくなる。水彩のテキストのコラージュやドローイングは、彼女の集中力の凄まじさを見せつけられた。展示のやりかたなども含めて思ったのは、「ささいなアイデアでも、徹底的にやればモノになる」ということ。最初はささやかでいい。誰にでも思いつきそうなことでいい。でも、それをずっとやり続けること。人の目を本当の意味で気にしないこと。「黒い水」の中に体ごと入り込み、その水と一体になると同時に、「水の外側」との接続を経つこと。そんな制作態度が伝わってくる。これは元気がでる。これからも制作をしていこうと思える。
美術館は人がとても多くて驚いた。美術見にくる人って、こんなにいるのかあと思った。良いことだ。カメラのシャッター音は本当にやめてほしいが、こちらが彼らとかち合わないタイミングで観に行けばいいことだ。棲み分ければいい。そう。たとえ断絶があっても、仮にお互いに全く分かりあえなくても、「同じ部屋」にいること。ここをおさえる。
ロニ・ホーンを観た後、閉館時間ぎりぎりで3分だけ観たモネの絵画がすごすぎて、ロニ・ホーンの印象がかなり消し飛んでしまった。やはりモネはすごい。僕が運転で疲れていて、ハイコンテクストな展示を観る体力が少なかったこともあるだろうが。

ウェルベックの新作は「夢」が重要なファクターになっていて、朝目が覚めて、夢がまだ頭の中に残っている状態で執筆を開始していたらしい。ちょっと試してみるかと僕も朝早く起き、なにかかけるかなとパソコンにむかってみたが、すぐに鼻水がでてきてとまらなくなり、たまらずパソコンを閉じて仰向けに横になる。二度寝してもう一度起きると、ぴたりと鼻水はおさまっている。ほんとうに鼻にもう一人べつの生き物が住み着いているみたいだ。

0856

原因がわからないなら、そこにとどまることもしばらくは許されます。道路上で車が動かなくなってしまった時、本人にその原因がわかっていない限りにおいて、それが許されるのと同じように。それでもいずれは警察がやってきて、追い払われてしまいますが。

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斉藤先生に、大きな作品を買ってもらい、倉庫でそれを運んでいる夢。高橋先生もいて、後ろ姿が斉藤先生みたいだったのでそちらに話しかけてしまった。

全ての土地を所有したら、それは土地を所有したことになるのだろうか

移住を生活するを長くやっていたせいで、いつもなにかに追われているようなメンタリティが染み付いてしまった。

現状が最高!とか言うと怒られる風潮

金沢に夜行バス往復弾丸ツアーで、「オオニシ・ザ・ファイヤーパンク」のライブを観に行ってきた。八時間かけて行ったのだが、ライブは10分弱で終了した。その後学生たちが飲み会を設けてくれたのだけど、その時上原くんが話してくれた、いずれは参謀本部を作って壁に肖像画を掛けたり、文人を招きたいという夢、めちゃくちゃ良かった。この世界には「参謀本部」が足りないのではないかと思えた。僕も彼を倣って、自分のアトリエを参謀本部と呼ぶことにする。
金沢21世紀美術館にも行ってきた。観光客の女性たちはみんなベージュのコートを着ていた。全国各地のベージュのコートが21美に集結していた。

JTの人からもらった「ploomTECH +with」を時々吸っているのだけど、なかなかにアバンギャルドな商品だ。「IQOS」や「ploom X」は、紙タバコの「一本が終わるまで吸う」という吸い方を踏襲していた。これではまだ紙タバコという概念の亜種でしかなく、電子タバコであることにユニークではない。その点「ploomTECH +with」は、喫煙者の喫煙習慣そのものを根源的に変えようとしている。匂いが全くなく、同席している非喫煙者のストレスも、喫煙者側が感じる申し訳なさもない。一個のカートリッジをひと吸いで一旦中断し、15分後にまた少し吸ってもいいし、10分以上吸い続けることもできる。生活を変えるプロダクト。習慣は人間を変えるが、その習慣そのものを作りに来ている。CDが主流だったころにアルバム単位で聞いていた音楽を、サブスクで曲単位に聞くようになった感覚に近い。