が、すぐに理由は判明した。そこで撮影された動画は即SNSに載せられ、広告として機能するのだ。集まった人たちは観客であると同時に(「である前に」と言った方がいいかもしれない)広告塔なのである。好きなアーティストの役に立てるし、自分はこれが好きなのだという自己主張もできる。バンド側としても、お金を払ってくれる上に自分たちの宣伝をしてくれるのだから、利害が一致しているのだ。
ライブが始まったとたん、前の人も隣の人も、みんなスマートフォンの四角い光を手に持ち、画面越しにライブを見始めた。中にはリアルタイムで友人に動画を送り、メッセージをやりとりしている、さながらリポーターのような人までいた。ここが地獄かと思った。
いままで広告というものは、何かモノや公演などの「商品」を人々に認知させるためにあるものと思っていたが、どうやら事情が変わっているらしい。当の商品である「公演」それ自体も広告として機能してしまうのだとしたら、もはや「純粋な」商品や、公演の「本番」などは存在しないことになる。いわば万人による、万人に対する広告という闘争状態である。
広告は全てを日常に回収する。なぜなら広告とは、「選択」「購入」といったことがらと関係のある、資本主義という日常空間に根ざしたものだからである。
ぼくにとって音楽、特にライブは、商品としての顔を持ちつつも、そのような日常から離れたところへ人々を連れていく側面を持っていると思っていた。「選択」も「利害」も「自己主張」も消えた世界への没入を促してくれるものだと思っていた。そこにスマートフォンという、日常の権化とでも呼びたいものが持ち込まれ、ライブ会場はバンドの宣伝会場と化したのである。ぼくは目をつぶった。
ハイデガーは『芸術作品の根源』のなかで「道具」について、「履いている靴のことを意識しないでいられればいられるほどそれは靴として優れている」と書いている。それは「ある素材が有用性に埋没すること」を意味する。それに対し、有用性に埋没しないように素材を扱うことによって「真理」を顕現させる、というのがハイデガーのいう「芸術作品」である。たぶんそんな感じである。
さきほどのライブは芸術活動でありながら、有用性に埋没した道具と化してしまったように思われる。なぜそうなってしまったのか。それは目的が与えられてしまったからである。もっと売れたいとか、役に立ちたいという目的が与えられてしまい、ライブ会場は「目的と手段」という資本主義の円環に閉ざされてしまい、いわば道具の奴隷になってしまった。
さてここからが本題なのですが、「学ぶ」という言葉には、この「有用性への埋没」に近い、危険なものがあるように思われるのです。誰にも頼まれず自分でなにかを学んでいるぶんには一向に構わないのですが、美術館や企業が主催するワークショップや教室、あるいは書籍などのキャッチコピーやテーマとして、この言葉が使われるているのを見ると、すこしこわくなります。「学び」という名詞になるともっと気持ちが悪いですね(どうでもいい話かもしれませんが、学校の「校」という字は、組まされた足に木製の足枷がつけられた形を意味するそうです)。
この言葉はなにか、到達するべき正しい場所を思い起こさせます。なんらかの知識が説明によって伝達され、自分のものになることを通して、ある高みへのぼり、それを利用できるようになるという目的を想起させます。これは「道具」となにが違うのでしょうか。目的と手段に支配された日常空間となにが違うのでしょうか。その空間から逃げつつ、学ぶことはできないのでしょうか。
『芸術作品の根源』のなかには、なにかを利用したいという気持ちは「制圧欲求」であるという主旨の記述があります。そして、芸術作品はそれに端的に抵抗するとも書かれております。
ぼくはこれに賛成します。あらゆる場所や時間が広告で埋め尽くされ、商品に変えられてしまう世界のなかで、目的と手段の円環から逃げるためには、芸術をやるしかないと思っています。なにかに利用され、なにかを利用することを拒み、ものを道具とみなし、人を素材とみなすあらゆることがらから逃げつづけるプロセスのなかに体をひたし、慣れさせる。そのために集まることはできませんかね。
とはいえ、これだけではなにをすればいいのかわからないので、道すじを考えました
・特権的な説明がなにもされない集まりである
・集まった時間を過ごし、話をする集まりである
・制作や発表が要求される集まりである