カナリアーズ第一回公演『ガガたち』を三鷹SCOOLで観た。
先日知り合った俳優のりおんくんが出ているということで行ってみた。とっちらかった玉手箱みたいな印象。楽しく観れたけど、雑然としている。俳優たちの動きになんとも削がれていない感じがあり、それが気になるのだが、発する言葉と体の動きが奇跡的にぴったりと合いグッとくる瞬間もしばしばあった。りおんくんがいつも舞台に棒立ち状態で、逆三角形の文鎮みたいに落ち着いてくれているのをみるたびに家に帰ってきたような気持ちになりほっとする。最近の芸能とか政治にまつわる話題が観客と共有されている前提で笑いを取るみたいなせりふが何度かでてきて、僕はあんまり好きじゃないのだけど、ビートルズのハローグッバイの歌詞の訳は、郵政民営化で職を失った父がハローワークに行ったという意味だ、というくだりには笑ってしまった。
しかし最近あんまり演劇を観れていないので、先日の円盤に乗る派とどうしても比べてしまう。なんにせよ、世の中にある理不尽や違和感に気がつくということは、なにかを背負わされるということであり、その「背負ってしまったものを語るべきタイミング」はあるよな、ということを思う。

銭湯の脱衣所に僕はティッシュがほしいのだ。濡れたメガネを拭きたいからだ。しかし近所の銭湯の脱衣所にはティッシュがない。というか、多くの銭湯にはティッシュがない。なので、僕はいままで何度それを試み、風呂から上がった瞬間に、ああ、また忘れてしまった!と思ったことだろう。それが今日、生まれてはじめて今日、家から箱ティッシュを持って銭湯にいくことに成功した!

自分の生活が政治によってまもられていることを実感できるのは、粗大ごみをだすときくらいである

誰もいないよるの公園で白いポロシャツのおじさんがぽつんとひとりテーブルでコンビニ弁当を食べていた。電灯を頼りに、パスタらしき麺状のものを箸でつまんで上にもちあげていた。寂しい人だといってしまえばそれまでだけど、そうじゃないんだな、いまこそが今日いちばんの瞬間なんだ、これが俺の至福のときなんだと訴えているかのような後ろ姿。目に焼き付いてしまった。(06202206)

最初に犬王と友魚が出会う橋のセッションで泣きそうになり、しかしここで泣いてはまだ早すぎると思って堪えたのだけど、結果的にあそこがピークだった。序盤からそのセッションのあたりまで、怒涛のアニメーション展開に目が喜びっぱなしで、ほんとうに観にきてよかった、これはかなりの傑作なのではと、今後の展開にわくわくがとまらなかったのだけど、友魚がバンドを結成したあたりから音楽映画のような雰囲気になってきて、アニメーションの力が減じた感がある。音楽に合わせてアニメーションを当て込んでいるような時間が、すこし冗長で退屈に感じられた。けれど、それを差し置いても最高だった。虐げられたものたちが、死者の媒介となって言葉を放ち、人々を熱狂させること。表現とは声を聞くことであるという、大事な原則に立ち返らせてもらったような気持ち。犬王という実在の人物の話というのもあり、過去にこんなことが本当にあったかもしれないと思うと、ぐっときた。原作を読みたいと思った。古川さんはこれをどう書いたのか。

蒲田のNITOにて友人から、20代前半のころ、虚偽のプロフィール(偽名、丸の内で経理の仕事をしていること、趣味など)をことこまかに構築して、都内の色々な相席屋に行って30分間演技をするということを繰り返していたというやばい話を聞く。相席屋は女性が無料で飲食できるので、お金がなかったからというのもあったらしいが、なにより本人が偽の自分を演じるのを楽しんでいるようだった。なんにんものひとと話すから、偽のプロフィールがどんどん研ぎ澄まされて、情報がこまかくなっていくのが面白かったと言っていた。

また大学3年のときに精魂込めて書いた論文の引用元などを教授陣が全然読んでくれなかったことに怒りを覚え、生来のパンク精神を発揮し、4年の卒論の時に学会を破壊してやろうと思い、「アクティビズムとアートをつなぐ先駆者」として、実際には存在しないアーティストをでっちあげ、論文を書き、そのパネル展示では「遺族から借りてきた絵画作品」と銘打って、自分で適当に描いた抽象画を飾ったり、生まれてから没するまでの年表もつくって発表したらしい。参考文献も捏造したらしいが、案の定教授陣はそれにあたることはせず、彼女の発表は学内で賞をもらったという。全部終わった後で、担当教官に「うそなんです」と告白したらこっぴどく怒られ、他の先生方に頭を下げてまわり、どうにか卒業取り消しを免れた。明るい語り口でやばい話が次々と繰り出されるので驚いた。もうアーティストを名乗っていい。自分のためにやっている、というのがいい。

・デカビタCダブルスーパーチャージ

・タピオカミルクティーアッサム茶葉100%使用

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食べた。

ヨーグルト、フルーツパフェ、パンケーキ、ホイップクリーム、ブルーベリージャムアイスクリーム、ストロベリーショートケーキ、キウイ&バナナスムージー、ミルクシャーベット、クッキー&バニラシェイク、アイスミルクティー、メロンソーダ、カスタードクリーム・クレープ、あんみつ、ラムネ、かき氷、しろくま、あんずボー、食べたい

ミシマ社が今月26〜28日に主催するオンライン企画「こどもとおとなの夏の放課後」に参加することになりました。
「学んで、遊べる、居場所がほしい!」をテーマに、四人の講師が日替わりで行うオンライン講座です。
他に、自家製天然酵母パン屋「タルマーリー」のお二人や、料理研究家の土井善晴さん、文化人類学者の松村圭一郎さんが参加されます。ぼくはこの顔ぶれにかなりびびってますが、もしご興味があればリンクを覗いていただけると嬉しいです。四つセットでも、単発でも受講できます。
よろしくお願いします。

⇩⇩⇩詳細⇩⇩⇩

https://mishimasha.com/news/1066/

7/26(火)~29(金)19:00~20:30(途中10分休憩あり)
7/26(火)「菌を育ててピタパンをつくろう」タルマーリー(渡邉格さん・麻里子さん)
7/27(水)「土井善晴のお料理学校」土井善晴さん
7/28(木)「家をつくる、その前の『アイデア』の練習」村上慧さん
7/29(金)「はじめてのフィールドワーク」松村圭一郎さん

野崎さんとのワークショップ打ち合わせの中で家は何かを守るものであると同時に攻めるものでもあるというながれで「攻める家」について考えていて、ではなめくじをサーチ・アンド・デストロイしていくのは暴力だが、なめくじが嫌で家の壁に塩を塗りたくっている人がいるとして、それはなめくじへの暴力なのか、とツイッターで書いてみたら、「かべ痛みそう〜」という鋭角なリプライが届いた。

重たい音を軽々しく鳴らすように、根を持ちつつも身は軽くありたい。毎日新しい人に会い、酒を飲み交わしたい。毎晩違うライブハウスに行き、二度と会わないであろう一晩限りの仲間達と朝まで踊って、ラーメンでも食べて家に帰り、夕方まで寝たい。考えてもしかたないと分かっていながら、どうしても考えてしまう不安に心を削られたくない。おだやかに他人を気にせず、自分の時間を持ち、調子よくありたい。自虐の誘惑に惑わされず、人と人は違うことを芯から理解したい。現状を肯定し、しかし満足しきるわけでもない、苛烈な平穏を。まるで大音量の無音で街を包み、地表にある一切の境界線を消して白い大地を出現させる、あの雪みたいな苛烈な平穏を手に入れるために日々を過ごしていく。(06130045)

先日行った渋谷のライブ、演奏中の動画撮影がオーケーだったのは、それがバンドの広告になるからか。その動画を人に見せたり、SNSであげたりすることはたしかに広告になる。無限広告地獄…。
いままで広告というものは、何かモノや公演などの「商品」を、人々に認知させるためにあるものだと思っていたけれど、どうやら違うらしい。当の商品である「公演」それ自体も広告として機能してしまうのだとしたら、もはや「純粋な商品」や、「公演本番」などは存在しない。全てが全ての広告になっている世界。リヴァイアサンみたいだ。万人による、万人に対する広告。
そして広告は全てを「日常」に回収する。なぜなら「本番」のない世界は非日常のない世界であり、ハレとケの区分けのない世界であるから。ライブの本番中に写真を撮り、その写真をその場で友人に送る行為は、音楽を聞きに来ている、というよりも、音楽を聞きながら日常を過ごしている。(06120202)

ごく弱火の炭火で、30分〜1時間ほどかけてじっくりと焼いた豚肉細切れ(塩胡椒味)は、びっくりするほどうまい。

ムン・キョンウォン&チョン・ジュンホ「どこにもない場所のこと」/金沢21世紀美術館。小さな船で遭難する男の映像作品、すばらしかった。小さな植物を大事に育てているところ、漂流してきたパラソルをさしてまどろむところ、夢をみるところ。いろいろなシーンがつながり、しかも映像全体で始まりと終わりがない。切れ目なくループしている(ループする映像が展示室内に置かれることが一般化している美術館でしかできない体験だと思った。映画館ではなく)。果てのない海をぽつんと一人であてもなく漂い、ときどき嵐に遭ったり日差しが気落ち良かったり、海に浮いている変なものを拾ったりする感じは、誰もが自分のことにひきつけて考えられると思うし、社会全体のことにも、インターネットのメタファーにも見える。海にグリッド線が引かれているのも良かった。ムン&チョンの展示全体に、なにかを「表現する」とかそんな次元の話ではなく、作家としてなにかを背負うこと、背負わされること、の覚悟を見ているような。そんな態度と、モチーフを絞り、普遍的な問題に昇華させるセンスが。元気でた…。
中谷宇吉郎雪の科学館も最高だった。ダイヤモンドダストを、冷凍庫とプチプチをつかって発生させる実験。過剰冷却水を凍らせる実験。チンダル像をみる実験。特にチンダル現象、バケツの底にできた氷なんて身近なもののはずなのに、そんなことになっているとは全然知らなくてほんとうにびっくりした。(06102247)

・選択肢があることの不幸について
選択肢があるということが、かえって不幸を呼んでしまう例は身の回りにありふれているように思われるのだが、そのことを指摘する人がほとんどいない。選択肢というものはあるほどよいというのがほとんど社会通念みたいになってしまっているけど、しかし他人のことをうらやんだり妬んだり、自分を卑下したりする原因のほとんどは、選択肢があること、別の選択肢の可能性を考えてしまうことに起因するのでは

・自分が「良い」と思うことが、かならずしも人を気遣うことではないとき、どうすればいいのかわからない
金沢にて何人かで飲んでいて、後輩的立ち位置の子が終電を逃した。ぼくはその子のキャラクター的に、みんなから「終電逃しちゃったの!?どうすんの!タクシー?お金すこし出そうか!」みたいに過剰に気にされるのが嫌に感じるのではないかと思った。自分がその人だったら嫌だな、ではなく、「その人としての自分」は気にされたくない、と直観的に感じた。しかし当然ながら、みんなその子のことを心配した。大丈夫ですよ、とその子は言った。兄に迎えに来てもらいます、ということになり、店を出た。
そして店をでてからぼくは、少し迷ったけど、「終電を逃したことに関して、自分は全然悪いと思ってない」という意味のことをいった。あれは正しかったのか。たしかに権力勾配はあった。あまり褒められたせりふではないことはわかっている。わざわざ言わなくても、黙っていればよかった、黙っているのが無難だったかもしれない。でもたしかに、みんなから気にされるのは嫌だという直感があった

雲と山の稜線のあいだの空がプラチナに光ることがある

たいへんだ明日は早朝に起きねばと思ったあとで、いや8時って別に早朝とは言わないのではないかと思い直し、しかし普段の自分からしたらじゅうぶん早いから、堂々と早朝を主張すればいいではないか。たしかに、小学生たちはとっくに1日を始めており、学校で色々と勉強をしているかもしれない。会社に勤める人たちは自分のデスクについたり仕事相手と会ったりして、お金を稼いでいるかもしれない。ぼくの1日のスタートは、その他大勢と比べれば遅いかもしれない。しかし、ぼくはぼくの時間を生きている。自分には自分の現場がある。何時からが早朝なのかは自分で決めればいいではないか。それが、人間というものではないか…

円盤に乗る派の演劇作品を初めて拝見しました。

後半、幕の向こうに自動車が出現したときは笑ってしまいましたが、その後のドライブのシーンでゲストハウスのOWNERが突然「なんかへんだあ〜」というせりふを連発しながら両手を振り上げたあたりで、こちらまで「なにかがへんだ」という気持ちになり、心底こわくなってしまって鳥肌が立ちました。いま何か大変なことがほんとうにおこっているんじゃないかと、まわりをみまわしたりしてしまって、でも他に同じ反応をしている人はいなくて、どうやら自分は劇の一場面を見ているだけらしいということを思い出し、でもそれがわかったあともずっと胸がざわついていて、いったい何を見させられているのか、これはただのフィクションで、舞台上に役者と音楽と照明があるだけのはずなのに、それらと自分とのあいだでなにか得体のしれないプロセスが発動して、一瞬何がなんだかわからなくなり、あとになって、あー、演劇の力なのかもしれないなあと腑に落ちたのでした。これまでいくつか演劇を見てきて、役者が光を纏っているように見えたり、せりふが異常に耳に入ってきたりする神秘体験をすることはありましたが、あんなにこわくなったのは初めてでした。ぼくも作品をつくる人間なのですが、あのような魔術を扱える演劇というジャンル、羨ましいなあと思えました。
OWNERは両手を上げただけでなく、ドアを開けて外に出て「なんかへんだあ〜」といいながら地面をごろごろと転がっていましたが、ああ、すごい雨ってこういう感じだよねえとも。
観劇直後はなんというか、魂の抜けた肉体たちがへんてこな振り付けでスカを踊っている国に放り出されたような気持ちになり、これは咀嚼が必要だなと思ったのですが、あとからあとからじわじわと、例えばムサシ丸が話すときの不思議なイントネーション、語尾の「よお〜」の感じには、古典芸能に通じるものがあるなあとか、『船弁慶』のなかでは女性だからという理由で帰らせられる「静ちゃん」が、より人間以下の存在である犬として登場し、しかもそれが一番まともな話しかたをしているなんて皮肉が効いているなあとか、そういえば義経伝説に置き去りにされた犬の話もあったなとか、いろいろなことについて人と話したくなる作品でした。犬だからという理由で置き去りにされた静ちゃんを演じた畠山さんが、終盤平家の亡霊「ヒラオカくん」として9太郎に復讐するというところが、今回ベースになった古典と現代をつなげるパイプだったように思います。
僕も男なのですが、男性の肉体を持つことを選択した「記憶」はないけど、同性の先祖(劇中では「兄」でしたが)たちが行ってきた加害の歴史は背負っている(ワイツゼッカーの「罪はないが責任はある」という演説と通じるものがありますね)し、その被害を受けた亡霊の復讐を喰らうことはあるよなと。(亡霊は自分なのではないか、とも思いましたが)
終盤、静ちゃんだかヒラオカくんだかわからない存在が、亡霊に襲われてベッドに寝ている9太郎の傍で筋トレしながらプロテイン飲んだりソファをコロコロで掃除したりしているのも素晴らしかったです。
また9太郎もムサシ丸もロボットっぽいのですが、しかし断じてロボットではなく、なんだか肉体をもっていることの悲しみのようなものがイントネーションや振り付けから感じられて、劇の全体に、魂のない肉体が踊ってる雰囲気が通底しているようにも思えました。それは能を観たときに感じるものにも近いです。ムサシ丸がなとりさんだったときはロボットっぽいなど思ったんですが、劇が進むにつれて役者の橋本さんがどんどん役に入り込んでいったのか、ムサシ丸になってしばらくしたころには、もうただの肉塊が蓄音器みたいに話してるなと、役者ってすごいなあと思いました。とりとめのないことを長々書いてしまいました。とにかくほんとうに観れてよかったです。ありがとうございました。

アトリエの近所に広いコインパーキングがあって、その敷地と道路の境界あたりに、大きな桜の木が二本あった。毎年春には、ちょっと圧倒されるくらいの量の桜の花が咲いて、通りすがりにみんな写真を撮っていたし、その桜に面した道路に立って反対側を見ると、屋根の向こうに大きな銀杏の木も生えていて、コンクリートと砂利に覆われている住宅街のなかで、その二種類の樹は、四季の巡りを感じさせる、大事な存在だった。街の樹。みんなの樹だった。先月、コインパーキングが取り壊され、更地にする工事が気がつけば始まっていて、すこし心配だったのだけど、桜の木は敷地の際に生えているので、まさか抜かれないだろうと思っていたのだけど、抜かれた。というよりも、むしり取られていた。五本の赤い鉄のツメがアームの先についている重機が、桜の幹を、その途中から割り、えぐり、むしりとっていて。中身が白くむきだしにされていた。久しぶりに感じた。怒りの感情。純粋な怒りは無色透明であることを思い出した。通りすがりの人たちもみんな、うわあ…とか、え?…とか呟きながら写真を撮っていた。あるおばちゃんは「ひどいことするわねえ」「ミサイルが飛んできたのかと…ウクライナのこと思い出しちゃった」と言っていた。僕はえぐられた桜を絵に描いた。内田が工事のスタッフに頼んで大きな枝を一本もらってきてくれたので、二人で20本くらい挿し木にした。発根促進剤も植木屋さんで買ってきて、土は赤玉土や鹿沼土や黒土でいろんなバリエーションをつくった。どれかに根が生えてくれれば、どこかに地植えして再生できるかもしれないと。

そんな桜をもぎたおした跡地で、ついに工事が始まった。仮囲いには看板が掲げられていて、会社名は大きく「seed」と書いてあった。ばかにしているのか。ここにどんな施設ができようと、絶対に利用しない。(06031752)

pk shampooの「夜間通用口」に出てくる「月が照らす光」という歌詞。おもしろい。月が照らす光とはつまり月光のことだろうけど、ふつう「月が照らす〇〇」とか「光が照らす〇〇」とはいうけど、「〇〇が照らす光」という言い方はしない。光はなにかを照らす方であって、照らされる方じゃないから。でも、たしかに、月は太陽の光を反射している。だから「月が照らす光」といういいかたは正しい。でもこうやって光自体を主役にしている言い方、あまり聞いたことがない。
「月が」の部分までだと、主体が月なのかと思わせるのだけど、「照らす光」まで聞いたときに、光が主体であることがわかり、頭の中でイメージする対象が、月から光へスライドする。
このスライドと、月が太陽の光を反射しているイメージが一致している。
また、この言い回しからは、言外に太陽の存在も感じさせる。気持ちがいい。自分の母国語が日本語で良かった。

1:深夜ラジオがつまらなくなった。SNSによって深夜ラジオも昼間のラジオも一緒くたに、同じコンプライアンスを守るようになり、濃淡が消えたせいである。また発行部数が少ないことで深夜ラジオのような内輪ノリが成り立っていた雑誌のインタビュー記事に細かい問題点を見つけ、わざわざ写真に撮ってSNSで晒すのも同じ根。この罪深い行為はミーム化した方がいいのではないか。なにかしら名前を与えたほうがいいのでは。とても微妙な問題だけど、ある種キャラクター的に「女ならピンクみたいな偏見あるから」みたいな話からあえて始める会話術もありうる。目の当たりにして、上手だと思った。言われた方も、ぜんぜん嫌じゃなかったと言っていた。
2:土地を探しているときに見つけた、at homeの土地売買のページにある、荻窪の奇妙な形の物件。1.6m✕19.5mの、めちゃくちゃ細長い二等辺三角形で600万円。0.4m×14.4mの三角形で70万円というのもある。やばすぎる。何につかえというのか。東京で、駅から近いから、どんな形だろうと坪単価に換算してこの価格です、という、土地の値段を機械的に決めていった先の、成れの果て感。ここで何ができるのか、大喜利をやれと言っているのか?
3:セブンイレブン吉祥寺通り東店がおもしろいらしい。中国人のオーナーで、街の個人商店みたいな立ち位置になってるという。

京王線各停新宿駅行、乗る電車を間違えたことに気がついたらしい男子小学生二人組が騒いでおり、次で降りるぞとわーわーやっているところに女子高校生が大丈夫?という調子で話しかけ、一緒に行こうかと言って3人で新宿駅で降り、女子高生は携帯でなにかをすごいスピードで検索しながら、4番線に59分発の電車があるからそれ乗ればおっけーと二人に諭し、3人は階段を登っていった。
この女子高生、それだけにとどまらず、手にキャップ帽を持っている。小学生に話しかける前に拾った、座席に落ちていた忘れものである。きっと駅員に届けるつもりなんだろう。またこの人が座っていたところは優先席なのだけど、終始浅く座っていて、笹塚駅で乗ってきたおばちゃんにすかさず席を譲ろうとしていた。他にも空いていた優先席があるにも関わらず、迷いはなかった。
なにかの主人公を見ているような気分。車両の中心があの子だった。電車を間違えたおかげでいいものをみた。
きっと彼女は日常的にあんな感じなのだろう。だから、いろいろと引き寄せるのだろう。

そしてぼくはその後に乗り換えた中央線。中央線という名の暴力を久々に体感した。中央線という名の豚小屋、中央線という名の家畜小屋。

発酵熱を使って暖房をつくったさいにもらった助成金の報告書を論文調で書いている。慣れない。主題は13ポイントのMS太ゴシック体、副題は11ポイントのMS明朝体とし両端は「- -」でくくるとか、数字は二桁以上は半角で一桁の場合は全角で書くとか、やたら細かいルールがめんどくさいというのもあるのだけど、それ以上に、本文を書いている時にどこまで前提を遡ればいいのかわからなくなる。例えば背景と目的を説明する時「ここ10年だけ考えても災害が多いですね。災害は電気やガスなどインフラを寸断させ、日頃わたしたちがどれだけそういうものに頼っているかを浮き彫りにします」みたいな話から始めてみたのだが、東日本大震災で停電があったことはさすがにみんな知ってるから書かなくていいかな…とか、いや、広範囲に停電が起きたことは書いておいた方がいいか、でもさすがに「地震があると停電がおこる」ことは知ってるよな。それも危ういのか?もしかして「そもそも地震とはプレートとプレートが…」みたいなところから書いた方がいいのか?いやいやそんな馬鹿な。しかし最近スピノザとかデカルトを読んでいるせいか、地震とは一体…地震を認識する自分という主体とは…みたいな、いやいや、そんな馬鹿な報告書があるか。

アトリエの地面で茶色くて細長い紐状のものがうねうねと波打つように動いていて、はじめミミズかと思ったのだが近づいて思わず声が漏れた。久々に、本当に久しぶりに見るカナヘビのしっぽであった。手のひらにのせてもずっとうねうねと動いている。涼ちゃん!これ見て!田原さん!これ見てください!と、気がつけばみんなに見せて回っていた。本体から切り離されても、敵の注意を惹きつけるためかしばらく動き続ける習性、というかそういうシステムになっている。かなり長くて、15センチ以上はあったと思う。傷口からは白い半透明の四本の突起のようなものが飛び出している。たぶん、肉。四本の突起は傷口の四隅から出ていて、まんなかには骨らしきものの断面が見える。もしかして僕は気が付かないうちに踏んでしまったのか、だとしたら申し訳ないと思ったので、草むらに向かって謝っておいた。謝ってすむもんではないとは思うけど。何事もなく、新しい尻尾が無事に生えてくることを願う。

昨日寝るのが4時前とかになってしまったので、今日の活動開始が14時を過ぎてしまった。アトリエに向かう途中、小学生の下校軍団とすれ違いまくる。毎日毎日、活動開始時間が遅いことに、なんだか焦っている。この焦りはどこから来るのか。おれはこれから一日を始めるのだという態度で堂々としていればいいのに。朝早く起きて活動すべしという昔からの刷り込みなのか。このままでは3時間くらいしか活動ができないと思ってアトリエに行くも、しかしアトリエでは、ずっと集中しているはずもなくだらだらと報告書の論文書きをして時間が無為に過ぎていく、そしてまた次の日に、なんとなくざわざわしながら過ごす。今やっている仕事が要するに性に合っていないからだろうが、この日々はつらい、せめて堂々としていたい。厄介な刷り込みを受けたもんだ。
真下を向きながら歩く小学生が二人いて、自分もむかし下ばっかり見て歩いてたことを思い出した。
それと、たぶん3年生くらいの小学生男子が、道路の向かいをうつむいて歩いていく小学生に対して「〜〜〜しなかったらわかってんだろうなあ!腹パンよんじゅっぱつ!」と叫んでいるところにも遭遇した。いじめられてたら嫌だなと思ったので、しばし、うつむいている子に、アトリエに遊びにくるかと声をかけようかとか思ったが、それはそれで不審者ではとブレーキをかけてしまった。