狛江の地べた音楽祭と、下北沢の440というライブバーでのツーマンという、2つのライブイベントをはしごしている。地べた音楽祭は友人たちが企画・出演していて主に田上碧目当てで、440はUlulUというバンド目当てで行った。思うに、田上碧はどんどん風に近づいている。彼女は現象になりたいのかもしれない。ぼくもいつか現象になりたい。
UlulUもよかった。「風」の歌い出し、鳥肌たってしまったし、ちょっと泣けた。こわいくらいにすべての曲が好みで、このバンドを見つけられたのは今年最大の発見である。歌詞がほんとうにいいのだけど、「歌詞」といいたくない。「文章」といいたい。彼女らは「文章」を歌っている。
それと、うまく言えるかわからないのだけどなんというか、からだがかたい感じというか、関節のかたいサウンドがずんずん進んでいく感じがたまらない。歌詞(文章)も含めて、とても親近感を感じる。友人に「さとしが書いた文みたい」と言われてうれしかったし、そう感じるのもわかる。
音楽をずっと聞いていて、瞬間と永遠の「近さ」について思った。たとえばギターの弦をかき鳴らす瞬間、あるいは「でんしゃ」と歌い出す瞬間に、永遠の時間を見てとることは、結構簡単にできる。
ギターという概念と、ここで鳴っている一本のギターと、それを鳴らす人と、鳴らす人が影響を受けてきたであろう音楽と、そしてここで音が鳴らされたことによって未来に作られていく影響と、それらすべての歴史がライブ中のあらゆる一瞬に結実しているわけで、すべての一瞬には永遠が包み込まれているのだなと。まあ当たり前といえば当たり前なのだろうけども。
そして何よりも問題なのは、地べた音楽祭を抜け出して下北で2時間のライブを観て、狛江に戻ろうと思ったら特急に乗ってしまい登戸まで来ても、まだ僕の手には地べた音楽祭から持ち帰ってしまったプラカップのゴミがある。ずっと捨てられないでいる。ゴミ箱がないから。ゴミが捨てられない国、日本。

「相手」という言葉について。この言葉が使われる時、そこには三つの立場がある。つまり、自分(A)が誰か(B)と話しているときに、Bが話題に出している第三者のことを、Aの立場から聞くと、「その相手は誰なの?」という使い方になる。目の前のBだけに対して「あなたの担当は私です」「おまえの相手は俺だ」と言う際も、どこかに第三者の存在を感じさせる。人間が二人しか存在しない世界を想像してみると、「相手」という言葉は使いにくい。

人に誘われて山に登ってきた。渓流の岩に座ってカップラーメンを食べた。川の水を温泉と混ぜた天然の露天風呂に入ったりした。
めちゃ楽しかったし、すごく疲れたし、疲れたことで元気がでた。
元気を出すためには体を疲れさせるのがいいのかもしれない。

山道を歩いているときに思った。
山道の地面は傾斜があるし、石とか木のねっこで、でこぼこしている。足首はそれに対応するためにいろいろと角度を変える。膝は曲がったり伸びたりする。腕も前後左右にぶんぶん振られる。足の裏は危険を察知するのがうまい。この部位たちの働きで、僕の体は垂直に保たれている。
これを繰り返すことが、元気をくれる。平らな道とはぜんぜん違う。平らな道を歩いているときは、体はそんなに動かない。腕もふられないし、足の裏も特に何も察知しない。それはスムーズに歩くためにつくられたものだから。道路では、自分が歩いているということを忘れている。

でも山道は違う。歩いている!と毎秒思う。
自分は歩いている!
それがだんだん、生きている!になってくる。一歩ごとに、生きている!生きている!という感じだ。
僕は生きている!僕は、生きたいという意志をもっている!僕は命である!
そんな宣言を、一歩一歩している。これは、前向きにならざるをえないではないか。

それからもうひとつ「つまづき」について考えた。
歩いていて、二回くらい転びそうになった。木の根っことかにつまづいて。そのとき僕に何がおきているのか考えた。
それまでに見ていた景色とか、頭の中にある不安な気持ちとか、ざわざわした感触が、すべて瞬間で吹き飛ぶのだ。
つまづきそうになったそのとき、僕は自分が持てる全ての力を使って、体勢を立てなおそうとする。体は変なふうに曲がるし、変な声は出るし、かっこわるいけど、そんなことにはいっさい構っていられない。
僕の体のすべてが一瞬で本気を出すのである。心臓も、頭も、足首も、腕も、肺も。その集中力たるや。他人という存在はすっかり消えて、世界に自分だけになる。
そうしてつまづきから立ちなおったとき、まるで新しく生まれかわったような気持ちになる。つまづきはrebornなのである。

書いていたらまた山に登りたくなってきたぞ。

15時34分

高松市美術館の展覧会に参加してからまだ三年しか経っていないのだと思うと、これからもまだまだ人には出会えるだろうと思える。連載を書籍化できなかった喪失感は大きいが、これもやがて反転してなにかになるだろう。消化できなかったものが体にくすぶることは、制作する私にとっては必ずしも悪いことではない。ただ問題は、この顔面の住人である。これからやるぞ、と気力がわいているときに、こいつが邪魔をしてくるのがほんとうにうざったい。さっきからずっと鼻水がとまらないのである。

 

18時55分

まさかぶどうの房と、メガネを取り間違えることが起こるなんて想像もしなかった。

風呂上がり、一時間ほど前に爆速で食べ終えた、皿にのったぶどう(ナガノパープル)の房を、そのとなりにおいていたメガネと間違えて手に取り、指先の感触で「ん?」→「これはメガネではない」→「ぶどうの房である」となった。しかし、このふたつが醸し出すオーラは似ているかもしれない!細長い感じとか、なにかが左右に飛び出している感じとか。大きさ感とか。

 

19時20分

世界ぜんたいをまるごとふんわりつつむほどの大きさがありながら、世界の中でたったひとりの人と他の人が対立してしまうようなことが起こるとき、その間に入って緩衝材として機能し、傷をやわらげてくれるような、すべてを包みながらもすべてのあいだの隙間をうめていくような、水のようなスピノザ。この先世界でなにがおこっても、それはすべてスピノザによって説明されていると思ってしまうような強さ。

WANDAを観てきた。吉祥寺アップリンクで。観終わったあとにじわじわと、すごいものをみたのではないかという感慨が押し寄せてくる。
監督が主演もしているという情報をあとから知って、さらにぐっときた。
女の年齢と、それによって異なってくる社会的な立場と、世の中の雰囲気。殺人者の男と何故か一緒になってしまう、滑稽なはずなのだけど笑えず、かといってかなしいとかかわいそうとかでもなく、ただ女として生まれてきた体がそこにあり、これとともに生きていかなくてはいけないらしいぞ、という、体の関節がはずれそうなからっぽさと、その裏側にある、くるしいほどのいたたまれなさ。
なんとなくルシアベルリンを思ったりもした。それとマルグリット・デュラスを読んでみたくなった。

あるアーティストの手伝いで、数人で川に流木を集めに行った。広々とした川辺に、見渡す限り大小さまざまな流木が流れついていて、なかなかすさまじい光景だったのだけど、そのアーティストが、拾った流木を、持ってきた段ボールの箱に合わせてぽきぽき折りながら入れていた。
おれは「折るんかい!」とおもった。「流木はすべてを知っている」と言い、現地の土や泥で「精霊」をつくると宣言して、わざわざ流木を集めに行った先で、物体の規格化の権化みたいなダンボールという箱の大きさに合わせて、流木を手で折るという暴挙。しかしそれを指摘する人はほぼおらず、ぼくも口に出せなかった。機会があれば本人に聞いてみたいけど、流木についてどう思っているのか。流木には長い時間が刻まれていて、その形、色、表面の滑らかさにはそれが刻まれている。その力を借りたいと思ったから流木を集めに行ったのではないのか。段ボールに合わせて折られた流木ははたして流木なのか。

道を歩いていたら、自転車に乗った小学生くらいの男の子が赤信号の前で、暑さにやられて倒れるところを目撃した。男の子はすぐに起き上がり、自転車に乗り直して前にいる友達に合流し、どこかに行こうとしていた。隣を歩いていた人も目撃したらしく、「死んじゃうんだから、熱中症で!」と騒いでいた。
僕は急いで自動販売機で水を買い、車に乗って窓から少年に渡そうとした。「これ飲んで!熱中症だから水分とって!死んじゃうからね!」しかし少年は、「大丈夫です」と受け取らなかった。少年はスポーツドリンクを持っていたのでぼくは「じゃあそれをたくさん飲むようにして!」と言って別れた。
おそろしいのはここからで、僕が車を道端にとめたところで、さっきの少年たちが自転車で集まってきて、一人がドアをあけようとしてきた。「どうした?」と聞いたら「ここにはこれから〇〇(ききとれなかった)が来るから車をうごかしてください」という。それはすぐにうそだとわかる言い方だったので「こないよ」と僕は言って車を動かさなかった。
そうしたら今度は少年たちが車のまわりを取り囲み、ベタベタさわったり落書きをはじめたりした。僕は車内にいるので確認はできないのだが、少年たちの姿勢と表情から、落書きをしていることはわかった。
僕は「え、なんでこんなことすんの?警察よぶよ」と言った。「警察よばないよお」と少年は言った。僕はスマートフォンをだして電話をかけようとしたのだけど、あわてていて、番号入力の画面に移行するボタンが見当たらない。ぜんぜん電話ができないので、携帯を耳に当てて警察に電話をするふりをした。一人の少年がそれに気がつき「やべー!」と騒いでいる。僕はかまわず続け、それから電話を切ったふりをした。
すると少年たちは逃げるのかと思いきや、逆に興奮し始めたらしい。僕が電話を切ったとたん、窓ガラスが割れる音がした。見るとフロントガラスに小さな穴が空いている。石を投げたらしい。少年はガラスが割れたことにちょっとびっくりしているようだったが、それでも騒ぎ続けた。なんでこんなことするんだと聞いたが、よくわからない答えが返ってきたところで目が覚めた。起きると枕元にゲンガーのぬいぐるみが立っていた。

今日はぼくの誕生日。もう20分以上鼻くそをほじっている向かいの少年。

大学の恩師土屋公雄の言葉でいちばん強烈だったのは、学年全員の前で発していた

「みなさんは生きてて楽しいですか?…嫌なことばっっかりだ!」

である。いまでも元気をもらっている。

「デバイス」と「クラウド」について、友人の話。

生身だと耐えられないが、自分をある種の「デバイス」だと考える、つまりここにいる自分は本体ではなく、どこかに「クラウド」があるのだと思うことで、人からの言葉を真に受けすぎることや、不誠実に耐えられるようになる。そしてそれは「青春の終わり」である。

制作だ制作。今宵も書いて消して書いて消して貼ってはがして塗ったり燃やしたり作品にならなくても発表できなくても誰の目に触れなくても誰にも気づかれなくてもこれをこうしたりああしてみたりちょっとなおしたりやめてみたりあっちからもってきたそれを加えてみたりして制作するすべてのものたちに幸あれ

朝、外宮にお参りしたとき、正宮にて、中年の半袖短パンで手ぶらの男性が一人、頭を下げて、ぐっと両手を握りしめて目をつぶって、ほんとうに祈っているようだった。「祈り」というのは、こうやってやるのかと。ほんとうの祈りというものを初めて見たかもしれないと思った。
その男性は他の人たちが次々参拝しては去っていく中、一人で、5分以上はその姿勢のままでかたまっていた。目を奪われたし、胸に来るものがある。ほんとうに祈っている人というのは、傍目にもすぐにわかる。あんなにきれいなもの。

伊勢の「みたすの湯」露天風呂にて、大学生くらいの男が3人、謎かけをしあっている。お題は雨。
一番声のでかいやつが「ととのいました!」と、露天風呂にいる全員に聞こえそうな声で叫んだ。
「雨とかけまして、メンヘラとときます」
「その心は?」
「いずれやむでしょう」
「おー」
「すごい」
「いやあ、これ自信あったからでかい声出した」

「病む」を「止む」とかける。正反対の意味。それがいい。救いがある。ちょっと恥ずかしくなったけど。

風呂を出たら猛烈な雨が降っていた。

最高のアイデアが最悪のタイミングでやってきた。神よ…と思った。心から、自然に「神よ」という言葉が出てきた。神よ、なぜ昨日ではなく、今日なのですか?

人との関係ほど不可逆なものはないのかもしれないな。一度崩れたらエントロピーは増大する一方であり、考えてしまうのは過去に自分が発した言葉、態度のことで、あのときにああしておけばなにか変わっただろうかとか。しかし、いくら考えても原因はわからない。というか相手のせいにも、自分のせいにもしたくない、するべきではない。世界はそういうものではない。スピノザならこう言うだろう。すべては必然的におこるのであって、他のありようなどはいっさい存在しないのだと。あなたがその状況に陥った原因などは、誰にもわからない。ものごとは、気の遠くなるような数の必然の連鎖でできているから、その原因をまるごと理解することなどできない。わたしたち人間はただ、「結果」を知らされるのみ。自分自身の感情の原因すらわからないのだから。相手も同様に、自分の感情の原因などわからない。そもそも、わたしたちがものごとを考えることができているのは、思考の解像度が荒いからである。それが起こった真なる原因などわからないからこそ、それにまつわることを考えることができる、できてしまう。だから自分がこうやってあれこれ考えてしまうのは、解像度が荒いからなのだと、自分に説明することで感情を癒すしかない。「説明する」ことで、能動性を取り戻すしかない。説明することで、自分も相手も赦すこと。これがあなたには足りなかった。だから破裂させてしまった。ゆるしなさい。はい、ゆるします。わたしは、すべてをゆるします。もうひとつ、素晴らしい過去のことを、負の感情とともに思いだすこと、そういう類の考え方をシモーヌ・ヴェイユはこう糾弾する。それは、その輝かしい過去すらも葬り去っていることになる、と。あなたの大学の恩師は「記憶は過去にはない。現在にあるのだ。過去を思いおこすとき、それは現在なのだから」と言っていた。この考え方は故人を懐かしんだり、遠く離れた恋人のことを思うときには、救いになる。だけど今回のあなたのような、誰かとの関係が壊れてしまったケースでは危険かもしれない。なぜなら過去のことを思い起こすのをやめたとき、つまり「現在のことを考えている現在」に戻ってきたときに、過去から呼びだした記憶と、現在との落差にがっかりすることになってしまうから。この落差が堪えがたいのなら、過去は現在に呼び起こすべきではない。ではどうすればいのか。過去の出来事を、過去のものとしてそのまま大事にすること、これしかない。ものごとは現在にしか存在しないという覚悟を決めること。覚悟を決めさない。けっして比べないこと。自分と他人、過去と現在を、けっして比べないこと。そして、あらゆる瞬間のものごとに、永遠の相をみること。

悲しみの手綱を握れ 人間が向き合える数は限られている

①すみません終了後の報告になってしまいましたが、9月27日「超絶縁体iiii」に出園しました。

②今月の福音館書店の新刊「母の友」特選童話集『こどもに聞かせる一日一話』に僕の「あくびをしてはいけない国」が収録されています。うれしい!短くておもしろい話が30こ収録されて1,650円。1話50円。ほぼタダ!

③3331 ART FAIRに出展します。新作をつくっています。

村上慧

よろしくお願いします。

今日から伊勢に滞在するのだけど、その前に一晩立ち寄った名古屋にて、デニーズで本を読んでたら、「みなさんもご存知の通り、在日外国人は日本が好きな人ばかりではありません。日本に住んでいる外国人の中にも、日本が嫌いな人がいるのです。そういう人たちが警察官になり、先生になることがありえるのです。その危険について皆さんに考えてほしいのです」というスピーチを大音量で垂れ流しつづけている車が外にいる。さっきからこのあたりをぐるぐると走り回っており、どうしても耳に入ってきてさいあくである。日本は人じゃないんだから。こういう、ヘイトスピーチとまではいえないものの、明らかに人々の心を疑心暗鬼の沼にはめていく、悪い言葉を規制する「考え方」はないだろうか。

しかしこのデニーズはさいこう。ベテラン店員のおばちゃんが、店内のあちこちにいる常連客とちらちら話している。同じ人間が、この場では客と店員に分かれているだけ、ということを思い出させてくれる。

岡崎乾二郎が入口から登場し、みんなの前で床に氷で「器」と描く夢

例の、大きな桜の木が突然根こそぎ切られた敷地で工事が始まっていたので、何が建つのかと思って気にしていたが、なんとマクドナルドだった。工事柵に掲示されていた。
街のみんなの木を切りたおしそうなやつのなかでは最大の、悪の帝王みたいなボスが、一番話の通じなさそうなやつが来た感がすごい。オチとしては面白いが。

0時50分
いま住んでいるアパートのことを未来に思い出すとしたら、二階の共用廊下から見える外灯の下に停まっている赤い車の後頭部かもしれない

10時22分
朝に「クラッツ焼きとうもろこし味」と「エムアンドエムズチョコクリスピー」を食べたらお腹を壊すということを学んだ

14時21分
電車の広告にウンコについての本があり、キャッチコピーが「ウンコいってきまーす!と言えない君へ」だった。
そういえば小学生のころか、我々のあいだではウンコをするということが何故かご法度とされる文化があり、男子トイレの個室はいつみてもドアは開きっぱなしで、閉まっているのをみつけたときには、だれかうんこしてるーー!と全員で騒ぎ出す始末だった。理不尽が過ぎる話だけどあの拘束力は非常につよくて、一度うんこを我慢しすぎて行方不明になってしまった子まで現れた。みんなで探していると、下駄箱のある東屋のすのこのうえにぽとぽとと、茶色いそれが足跡のように続いているのを誰かが発見し、たいへんな騒ぎになったのだ。のちに見つかった彼のことを攻める人はいなかった。彼が逃げ場のない生理現象と意地にはさまれて追い詰められていたことは、誰もが想像できたから。
いまもそんな文字通りクソみたいな風習が小学校に残っていないといいけど、もし残っているならば、「ウンコいってきまーす!と言えない君へ」というキャッチコピーには問題がある。ウンコ行ってきまーす!と言えないのは、その子のせいではなく、空気のせいだからである。それを個人の問題にすり替えてしまうのはよくない。

23時43分
夜道。交差点のお地蔵さんに、ご苦労さまですと頭を下げてみた

オペラシティアートギャラリーでライアン・ガンダー展を観た。
制作意欲もりもりに沸くほど面白かった。ふふっと笑ってしまう軽やかさとイギリスのアーティストっぽいひょうひょうとした感じもありつつ、作品の中に意外なほど直球なエモいテキストがあり、ぐっときてしまった。
曰く「…そこで私はあなた方に別の乾杯を贈りたい。観客の皆さん、時間を惜しむことなく、知性に意欲的な観客の皆さんに。共犯関係になり、複雑でいてくれる鑑賞者の皆さん、5秒の情報や未成熟なもの、センセーションや表層的なものを求めるのではなく、もっとそれ以上の、なにか深みのあるもの。不可解でまだ知らないものを求める鑑賞者の皆さんに乾杯を。アーティストの仕事を信じ、それに時間を費やし、エネルギーと好奇心を注いでこの壮大な方程式を完成させてくれる鑑賞者の皆さんに…」

そのあと下のパブでギネスのハーフパイントをキメてから渋谷へ。Bunkamuraザ・ミュージアムの「かこさとし展」。「宇宙進化地球生命変遷放散総合図譜」が目当てだったのだけど、かこさとしの膨大な仕事量にまず圧倒される。好奇心と熱量。この宇宙、地球、命、社会、芸術もろもろ全ての世界をまるごと理屈で捉えて、絵本で紹介してやろうという熱量。気の遠くなる話だけど、やってのけている。
そして最後に「宇宙進化地球生命変遷放散総合図譜」を観た時は鳥肌が止まらず、目が潤んだ。スピノザの直観知や熊楠の曼荼羅のことを思った。ビッグバンから始まり、動物だけでなく植物までも網羅した進化の樹形図。その年表にはところどころに「太平洋戦争」や「明治維新」などの歴史上の出来事も書かれていて、しかしそれとは無関係に進化している膨大な数の生物のイラスト。人間という存在を惑星のスケールで描こうとしているよう。

彼女が上司と一緒に夢に出てきた。ふたりとも僕の車に乗り、海沿いの崖のようなところでUターンをした。場面は電車にうつり、知り合ったばかりの二人の若い人もいて、その二人とわかれたあとに、彼女のインスタグラムのフォロー数が二人増えている、という細かすぎる発見をしたところで目が覚めた。

桃うますぎ事件が勃発した

アトリエにて、外からアブラゼミの悲鳴(じーじーじじじじ…という、あの通常の鳴き方ではなく、鳥につかまったり、人間につかまったりしたときに出す、びびびびーーびびびーーという叫び声)がずーっと聞こえているので様子を見に行ったら、ぼくの部屋の窓格子でアブラゼミの二倍はありそうな体長のカマキリにまさに捕食されている最中だった。
カマキリはセミの羽の根元を両腕でぐっとつかんだまま、首元のあたりに噛み付いている。セミは時々びーびーーと叫びながら羽をばたばたさせているが、カマキリの上半身がすこしゆすられる程度で、逃げられそうにない。そんな生きたままのセミを、カマキリは首を動かして咀嚼している。
珍しいもんみたなあと嬉しくなって写真をとり、部屋に戻ってもしばらくはびーびーという蝉の断末魔がときどき聞こえていたが、やがてそれも聞こえなくなり、羽をばたつかせるぱたぱたという音だけになり、ついにさきほどその音も聞こえなくなった。