この世には、自立するパプリカと自立しないパプリカがある。君はそのどちらかを、知らず知らずのうちに選んでいる。

9時51分。携帯で夢のなかを撮影することに成功し、その動画を見ていたのだが、それも夢だった。

午後、地点の『ノー・ライト』を観に行った。『光のない。』のマルチリンガル版なのだけど、超えていたように思う。観る前は正直、あれ以上のものが可能だなんて思っていなかった。
『光のない。』の記憶が、あの演劇の凄みを見せつけられた衝撃が、開幕しょっぱなの「わたしたち〜」という役者から観客への呼びかけで鮮明に蘇ってきて、そのあと「わたし、たっち?」という、イントネーションをずらした発語で、ああ、僕は今こういうものを必要としていたのだと、またあのときと同じように思えた。とんでもないことを、現実の空間で実現させようとしている、という気概を感じただけで、なんだか涙がでてきて、最初の10分くらいはずっと涙ぐんでいた。
放射能という、見えないけどそこにあるもの、あるいは情報としては見えるのだけど、どうしても現実的な存在を感じられない遠くのニュースのこととか、被災者や、最近だと戦争やウイルスのことなど、「みえる みえない」「きこえる きこえない」にまつわる具体的なものごとから、空に舞い上がるように、抽象的なものへと書き換えていく手つき。
あれだけ印象的なセリフがたくさんあったのに、終わってみるとほとんど思い出せず、ただ、ものすごいものを見たという感慨だけが残るような。そして、それが大事なんだと思えるような。字幕として投影されたテキストを追いながら、わかる↔わからないを無数に反復し、その果てに、理解できるできないとか、そういう問題ではないところまでつれていってくれて、最終的に「完全になにかがつたわってきた」と感じられるような、それもわたし一人に伝わってきたと思えるような、私を信じてくれてありがとうと思えるような、魔法の時間。大砲にこめた抽象概念そのものをくらったような。途中何度も正体不明の感動で涙がでてきた。人間は表現を通してここまでのことができるのかと。バイオリンケースの使い方も、役者の配置やポーズ(特に片手を上げて、わたしたち〜と呼びかけるポーズ)や舞台の空間や衣装もよかった。主演の人たち、同じ人間、同じ空間を占めている動物とは思えないほどだった。なにかがおりていた。足だけ出して上半身埋まって声だけ出してた声楽のみなさんもほんとうに素晴らしかった。マルチリンガルという、役者の発音のつたなさがマイナスになってしまいそうな手法が、母語である日本語もイントネーションをずらしているこの劇のなかではむしろプラスに働くことも発見だったし、そのような技術を、観客を信じてきっちり、でもさりげなく使うこと、演劇の魔法をかけ続けることに注力されていた。この、抽象的なことを観客を信じてやり遂げる気概は「誰かいませんかー」と呼びかけるセリフにも象徴的に現れていたように思う。今年を締める作品としてはこれ以上ない。芸術は、やる価値があるものなのだと背中を押してくれる、消えない炎みたいな記憶。
加えて、鑑賞後に内田と話していて出てきた話題。マレーヴィチの『太陽の征服』という舞台美術のスケッチと、今回の美術の精神が似ている。
太陽を消すこと→光がないこと
遠近法への抵抗→窓(テレビ)の向こうに映る世界とこの場所との、遠さと生生しさの共存(→つまり、抽象と具象の共存。テキストは抽象が可能だが人間の体は具象なのでテキストを上演する演劇は、その融合というか乗り越えを前提として引き受けている)
奇跡的な一致に思う。舞台美術の木津氏は『太陽の征服』を知っていたのか?知っていてもいなくてもおもしろい。

12時35分

京王線のポスターにでかでかと「冬の高尾山は、富士山だ」と書いてあったが、さすがに違うのではないか。

山を山で例えるなんてありなのか?高尾山への観光斡旋ポスターなのだが、作り手の「高尾山は富士山に負けている」という意識が見えてしまっているのではないか?

14時2分

オペラシティの丸亀製麺にて、出口専用のドアからムクドリがぱたぱたと音もなく入ってきて、わずかな風をまきおこしながら、僕の上を飛んで店内を横切り、とんとんとんと着地したかと思ったら、入口専用のドアから外へ飛び立っていった。ほんの3秒ほどの出来事。店内で僕の他に気がついた人は、たぶんいなかった。あまりにも音がなくて幻覚かと思うほどだったけど、たしかに風を感じた。それも一瞬のことだったが、はっきりと、これは違うものだと感じた。自然の風、野の風だった。

本来、ひとは「場所」なのである。そのなかに潮が満ち引きする海があり、海へと流れる川があり、山や谷が連なり、朝日に照らされた湖畔の水面を風がなでて、ときには繁華街のビル陰であやしい取引をする人々が住まう場所なのである。大きな家を借りたり、アトリエを持つことは、その場所を現実という三次元空間に翻訳することなのである。その空間が都会にあるのか、山にあるのかというような、座標的な情報は重要ではない。ただ、翻訳できる場所がある、ということが一義的に重要なのである。

「小さなガラス瓶に入れた、直径1cmくらいの、乾燥したみかんの皮の切れ端を、船便でドイツに送りたいのですが、郵便局に行ったら『どうしても植物扱いになってしまうので、いちどこの電話番号にご自身で電話をしていただいて、そもそも送れるのか、送れるとしたらどのような書類が必要なのかを確認していただけますか』と言われたので、電話をしています。どのようにすればいいのでしょうか」と、『横浜植物防疫所業務部輸出検疫担当』に電話をかけ、「それはどういった意図で送るものなんですか?」と聞かれたので、どこから説明すればいいものか迷ったのだが「道で拾った貝殻とか石を小さな瓶に詰めて展示をする、ということを昔、芸術祭でやっていたのですが、それを知ったドイツの知人から『これが欲しい』と、言われたのがたまたまみかんの皮だったので、こうして電話をしているのです」と答えた。すると電話口の女性は「なるほど」と、非常に心強い相槌(ついさっきまで郵便局で『なんでこんなものをドイツに送るんだろう』といぶかしげな対応をされていたので、この女性の『よくわかりました』と言わんばかりの相槌は無性に嬉しかった)をうち、「植物を送る際は、送り先の国のルールに従わなければならないので、これからドイツのルールを調べて折り返しお電話いたします」と言った。電話を切り、僕はいま折り返しを待っている。たかだか1cmのみかんの皮を送るのになぜこんなに煩雑なことをやらなければならないのか、お金にもならないのに…いやそもそもなぜ自分はみかんの皮をドイツに送ろうとしているのか、こんな人生になるとは予想していなかったな、予想できようはずもない、などと考えながら心底めんどくさい気持ちで郵便局から帰り、僕はきただにひろしの「ウィーアー!」(テレビアニメ『ワンピース』の初代主題歌)を聞いていた。「船便」という響きから、なんとなく連想したのかもしれない(航空便の方が速いし、「SAL便」を使えば安く送れるのに、なぜ船便なのかというと、航空便がなぜか取り扱いを停止していたからである。理由はわからないが、きっと戦争とかコロナとか物価高とかそんなのだろう)。とにかく、すごくめんどくさいのだが、この、小さなみかんの皮の切れ端が船に乗せられ(ヨーロッパへの船便は二ヶ月程度かかるらしい)、どんぶらこ、どんぶらこ、と海を渡る姿を想像すると、なんだか愛らしいし、無駄なものが省かれ合理的に過ぎる世界のなかで、こうやって謎の物体が運ばれるのは、かけがえのないことなのだ、これは抵抗なのである(わずか数グラムの抵抗ではあるが)、と自分に言い聞かせ、とにかくこの小さなみかんのワン・ピースだけはドイツに届けてやるぜと決意を固くした。「二ヶ月くらいかかる」と先方に伝えたら、「That will teach me patience」という素敵な返事が返ってきた。僕もこのくらい心の余裕を持ちたいものだ……

友人のドラマーTPOGalaxyのドラムソロ公演を観に行った。椅子やお菓子が載ったテーブルや、この映像自体の構成らしきものを紙に手書きしている様子などを撮影した動画に、詩をたしなむという彼の母親の朗読をのせた映像がプロジェクションされるところから始まり、それがけっこう長く、その長さになぜか元気をもらった。朗読音声を4回も繰り返していて、これは俺にはできない、当たり前だけど観客が飽きないかなどで映像を編集するのではなく、まず自分がこうしたいというところから構成していくべきであるという態度が。観てよかった。

かもめマシーン『俺が代』を観てきた。ぽたぽたと水が滴り続ける、雨漏りしているような舞台。雨漏りって不安になるし、どこが漏れてるか見つけにくくて嫌だよな、たしかに雨漏りの時代かもな、と思った。アフタートークで永井玲衣さんが、人と人の対話を外から見ることについて、この人大丈夫かなとか、私はこう思わないなとか、そういう仕方で参加させられてしまう、身体が一緒にそこにいることで、実際に話をしていなくても関係させられてしまうところが好きだと言っていたことに関連し、かもめマシーンの萩原さんが、今回の演目も開演前に70〜75分です、と言ったと思うんですけど、5分くらいはブレがあるんですよ、なぜなら間の取り方とか、お客さんの反応を見て変えたりするから、それがリアルで見ることの面白さだし、対話に参加させられていることに似ているかもしれないと言っていて面白かったのだが、たとえばこの演目が商業的なものになっていき、舞台の規模が大きくなって観客との距離が遠くなっていくと、上演時間のブレはどんどん小さくなっていき、作品は良くも悪くも一つのパッケージとして完成されていくんだろうなと思う。どこでやっても、いつやっても同じ時間で終わる、みたいな。だとしたら、この、客と役者の対話、人と人との対話、ひいては憲法との対話も、規模の「小ささ」が大事なのかもしれない。哲学対話も、500人とかでは成り立たないだろう。その規模はどのくらいの人数で破綻してしまうのか。人と人が舞台上で話しているのを見て、この人たち大丈夫か、と思えてしまう観客席のキャパはどのくらいまで大きくできるのか。

針葉樹合板を買いにホームセンターへ来たはいいものの、一枚2500円という価格の高騰に驚愕し、代わりの方法を考えることにして購入を諦め、そういえば油性マジックが買いたいのだったと思い出して店内を歩いていると、腰袋コーナーが目に入り、あったら便利なんだろうなと思いつつずっと買ってないな、この機会に買っちゃうかと、そのあたりをうろうろしていたら、腰袋コーナーの後ろにある工具箱コーナーに意識が移り、工具箱があとひとつあったら手持ちの工具が全部入るんだよなと思って物色しはじめてしまい、最終的にめちゃくちゃ大きな工具箱とウエストポーチと、マジックを買ってホームセンターを出た。なんだか人生もこんなふうにやってきた気がする。

ふりかけは小学校のときに合法で持ち込めるおやつだった/11月26日

11月16日。魚べいという寿司屋に来た。
出てくる寿司のしゃりは毎回、きっちり同じ形、同じ大きさをしている。型抜きされたものらしい。つまり握る作業は、ロボットがやっているということだ。だがテーブルの片付けは、さっきから人間がやっている。
これは、人々の思う「ロボットが人間から奪う職業」のイメージとは逆のことが起きているのではないか?
真っ白な内装の、ディストピアSFみたいな店内で、壁のスピーカーが「セーフティ・タイムです。ホールの従業員は手指のアルコール消毒をしてください。それでは、今後も丁寧で清潔な作業を心がけましょう」と指示する。ホールのスタッフたちはそれに従う。システムが人間に命令している。
この光景を見ていると、先ほどから流れている「ゲンキズシ♪グループ♪」という店内の音楽が「デンキズシグループ」に聞こえる。

手についたぬかの匂いはまったく気にならないどころかむしろ好きだけど、手がべたつくのは嫌なのでよく洗っている。僕は匂いよりも触覚の快適さを重視しているかもしれない。服の肌触りとか、汗をかいたり庭仕事をしたあとはまず顔を洗いたくなったりとか。

広島平和記念資料館で感じた、上空から見る「地図」の恐ろしさ。人、家、生活がデータと数字になることのこわさ。これはものを見えなくさせる技術であり、上から見下ろす視点がもつ「重力」という名の暴力と、花火や折り鶴や噴水や慰霊塔など、戦争に反対するものが持つ「上昇」の力、重力に抗する視点。見上げる力と見下げる重力の対比。

数年ぶりに平和資料館へ行き、ふたたび食らってきた。全人類が五年に一度は見た方がいいと思える。展示は以前よりも綺麗な印象にまとめられていたけれど、それでもまだ強い「怒り」を感じるものになっていた。人間ならば、ヒトならば、この展示を見れば、核兵器を存在させてはならないと、皆が思うはずだと感じた。

恐ろしい怨念がこもった小銭があり、正確に二人で分けなければなにか悪いことが起こるかもしれないという状況で、僕を含めた人間三人で計算をしているのだが(くわえて、霊らしきものも2体ほどそこにいる)400÷2がどうしてもできない。135になったり275になったりして、筆算してみても間違えてしまうし、携帯で計算しようとすると携帯が固まったり、どうしても操作ミスをしてしまう怖い夢。6時に目が覚めてしまった。

今日実家近くの店で買い物をしたとき、レジで店員が、客の年代を打ち込むボタンで僕のことを20代と押していて、無性に嬉しくなってしまった。

さくらいさんが言っていた「人前で、"ここに来た目的"について話すときに、ひとつかふたつしか言えない。本当は三つも四つも五つもあるのに、人に話すときはそれが絞られてしまう」という話は、歴史を語るときにこぼれ落ちるものと似ている。
たとえば今つくられている芸術が数十年後に誰かにまとめられたとして、きっとそれはいま僕が見ている景色とはだいぶ違った、単純化されたものになっている。
「このマックっていつからあったっけ?」という質問に、「まずビッグバンていうのがあって…」とは説明しないこととも、なにか通じるものがあるかもしれない。

《村上勉強堂》計画の資金調達のため、過去に制作した作品をオンラインで販売することにしました。《移住を生活する》※のなかで描いたものになります。日本各地の家のドローイングや、地図の作品もあります。価格帯は8,000〜280,000円です。

下記リンクから、なにとぞよろしくお願いします。

https://satoshimurakami.stores.jp/

※《移住を生活する》については下の動画をご参照ください

いつもは自転車で向かうアトリエへの道を、今日から始まる「ぜったいに『学び』のないゼミをやる」のアイデアを練るために歩いていたら、反対側の歩道で、茶髪でロン毛のにーちゃんが犬を抱きかかえていて、道路脇の、通常の犬の目線では見えない高さの畑を見せながら、すごいねえ野菜いっぱいなってるねえ、と話しかけていて笑っちゃった。すこし気持ちが楽になって、ゼミで積み木でもやりながら話したらいいかなとおもいついて、百均で積み木を探すためにいつもとは違うところで角を曲がったらハナミズキの葉っぱが歩道に落ちていて、それがとても綺麗で、何かのチケットみたいだった。綺麗なものを7枚くらい拾って歩いているうちに、百均には寄らなくていいなという気持ちになった。この葉っぱをみんなに配ればいいなとおもったのだ。大きな白い布を持っているから、それを広げて葉っぱを置いて、みんなに見せればいいとおもった。そうしたら甲州街道を曲がったところで、男の子とお父さんが手を繋いでいて、男の子が道端にたまっているケヤキの落ち葉の山を、両方のくつでしゃこしゃこ蹴りながら歩いていて、お父さんが笑いながら、はっぱそんなふうにするの?と聞いて、そしたら男の子は、だって葉っぱが好きだから、と答えていた。今日はすごくいい日になりそうだな。

コンビニで売ってる、ホイップクリーム的なものがサンドされた細長い系のパンの包装ビニールの中に、なぜかもう一層あるビニールの膜に、われわれの病が現れている

まさか自分が遠い場所から美しいものとして眺められているとは思いもせずに、ただそれ自体の存在による光を発しているという点で、星と夜景は似ている。ということは夜、部屋に明かりを灯して仕事をしたり、キッチンで料理や洗い物をしたり、寝室で本を読んでいるとき、わたしは星に似ているといえる。

近所の自動車屋でハロウィンイベントをやっていて、店内からカオナシのコスプレをした子供が親と一緒に出てきた。そこへ別の親子連れが通りかかり、その子供が「カオナシがいる」と言ったのを聞いて、ぼくも確かに「カオナシだ」と思ったのだが、一人で歩いていたので口には出さなかったなと、考えこんでしまった。
子供の頃は、こういうことが起こったとき、人と一緒なら自然と口に出すことを、私は一人のときも言うべきであると思い込んでいたこと、そうじゃないと自分に対して不誠実なのだと、悶々と悩んでいたことを思い出した。一人のときも、誰かと一緒の時も、同じように口から言葉が発するのが真っ当な態度だと思っていた。

なにかを想像する力も、考える力も、それを表現する力も、すでにあなたの中にある。あなたはすでに持っている。それはあなたの中で始まり、あなたの中で完結している。たとえばあなたの中で満ちる海があり、高いところから低いところへ流れている川があり、草木の生い茂る森があるような、あなたは場所だ。

それを解き放ってほしい。中途半端ではいけない。あなたにはできる。それを自分で信じてほしい。この社会は、学校は、ときどき点数をつけたりして、あなたにはできないとか、あなたよりもできる人はたくさんいるとか、あなたの方法は間違っているとささやいてくる。そういうのは全部、全て嘘です。人と人を比べたほうが、人は不平等だと思ったほうが楽なので、みんな、自分よりもできない人がいるはずだとか、自分よりもできる人がいると思って、なまけているだけだ。人と比べずに、ただあなたのなかにあるものを解き放つことだけを考えてほしい。そこだけは、力を抜かないでほしい。

わたしはあなたに、あなたの考えを説明してくださいと頼んだだけだ。あなたは自分が考えるべきことを自分で発見し、そのことについて調べ、アイデアを出した。あなたはさらに、自分のだしたアイデアや調べたことを、別のことに関連付けることもできるはず。そうやって、あなたの中にあるものが解き放たれたと感じられたことを繰り返してほしい。

駅までの道の途中、「生まれたての子鹿」を忠実に再現したような足取りの薄毛で白髪のおじいさんと、その前には、なんという名称なのかわからないが介護用の車輪がついたあの椅子を押しているおばあさんが歩いていた。おじいさんはおばあさんに急かされながら信号を渡り、それから何かをおばあさんに言った。すると
「ちょっと待ってください」
とおばあさんが言い、信号からすこし離れたところまでおじいさんを歩かせて、道端に立ち止まり、自分が引いていた椅子におじいさんを座らせていた。歩いている僕は遠ざかりながら振り向き、それを見ていた。おじいさんは「よっこら」といった様子で腰掛け、休んでいる。おばあさんはその椅子の後ろに立ち、二人ともいま渡ったばかりの信号の方を見ている。おばあさんは口を動かしているように見えるが、何を話しているのかはわからない。何も話していないかもしれない。僕は二人が気になり、何度も振り返った。
年老いた二人でなんとか、歩くだけでもたいへんな状態だがなんとか生きている。きっと朝起きてから夜眠るまでずっと二人三脚をしているような感じだろう。どちらかが先に死んでしまったら、残された方はどうやって生きていけばいいのかと、そんなことを思った。おばあさんは、「ちょっと待ってください」と、敬語で話していた。長く連れ立っている夫婦だろうに、敬語だった。とてもよかった。

ビョーンさんという、日本に滞在中のスウェーデンのアーティストがアトリエに来たので、四人で長々と「フィーカタイム」を過ごしているとき、「行けない日が続くこともあるアトリエを、なぜ借り続けるのか」という話のなかで彼が、「イマジナリー・ストレージ」と言った。とてもいい。イマジナリー・ストレージ、いつも持っていたい。

にちようび。家の隣に銭湯があるおかげか、空気が温かい。人の声と、銭湯の煙の熱。

作品(に限らず、もろもろの制作活動)の一貫性のなさを、自分は気にしているかもしれないという話を人にしていて、何故そうなのかと思案して、
「人生をかけてひとつの大きな建物を建てるように制作するべき、といった考え方をしているかもしれない」
と言った後で、これを村上春樹ふうに言いかえるなら、
「人生をかけてひとつの大きな建物を『解体』するように制作するべき」
になるだろうな、そしてそちらのほうが実感には近いかもしれない、解体のほうが、一貫性のなさに説明がつきやすい。と考える夢をみた。

昔やっていたあるゲームをなにがなんでもやりたくなってしまい、MacBookProでどうにかWindows7を駆動できないかと、集中して頑張っていたら、「すいません」と門から男の声がした。
「いま近くで工事してたんですけどお、屋根の瓦が外れてるのが見えたんでえ、伝えに来たんですけどお」
男の目はぎょろぎょろしていて、「ちょっとやべえ話し方の人きたなあ」と思ったが、親切でいいなとも思ったので話を聞くことにした。しかし「背中を向けたら刺される」という恐怖心があり、背中を向けられなかった。人に対してこんなことを感じたのは初めてだった。
「瓦が落ちたら落ちたらあぶないんでえ、明日もしいらっしゃれば登って直せるんですけどお」と男は言う。
「どこですか?」と僕が聞いたら、
「屋根の高いところ、棟っていうんですけどお、そこがはずれてるんでえ、落ちたら危ないんでえ」と、やはりちょっとやばい話し方である。
「どこですか?」
ともう一度聞いてもまた、
「上のところ…、落ちたらあぶないんでえ」
と、繰り返す。人間の感情を持たない、ロボットと話しているような気持ちに。
なんとなく、この人とは関わらない方がいいという直感が働いたのか、僕は「明日はいます。だけど屋根はいつも登ったりしてるんで、見てみます。ありがとうございます」と、気がつけば断っていた。
「じゃあ見てみてください。落ちたらあぶないんでえ、ソレを伝えるくらいがこちらのできることなんでえ」と言って、男は帰っていった。
「…でえ」のところが、上がり調子で、とにかく話し方がやばい。
あとでアトリエのメンバーにそのことを話したら
「おれの知り合いが同じような手法で、家に来られたことがあって、たぶん詐欺だね」
と言われた。ネットで調べてみたら、似たような事例の注意喚起ががたくさん出てきた。一般的には確かめにくい屋根の上の瓦が外れていると言い、屋根に登り、法外な値段を請求したり、「これは瓦を全部交換した方がいい」などと言って契約させようとしてくる手法らしい。住宅が商品化して、自分の手の届かないものになってしまった時代の象徴みたいな話だ。
こえーな。人間こえー。
どおりで男から受ける印象が、話されていることの「親切さ」からは遠かったわけだ。