ビョーンさんという、日本に滞在中のスウェーデンのアーティストがアトリエに来たので、四人で長々と「フィーカタイム」を過ごしているとき、「行けない日が続くこともあるアトリエを、なぜ借り続けるのか」という話のなかで彼が、「イマジナリー・ストレージ」と言った。とてもいい。イマジナリー・ストレージ、いつも持っていたい。

にちようび。家の隣に銭湯があるおかげか、空気が温かい。人の声と、銭湯の煙の熱。

作品(に限らず、もろもろの制作活動)の一貫性のなさを、自分は気にしているかもしれないという話を人にしていて、何故そうなのかと思案して、
「人生をかけてひとつの大きな建物を建てるように制作するべき、といった考え方をしているかもしれない」
と言った後で、これを村上春樹ふうに言いかえるなら、
「人生をかけてひとつの大きな建物を『解体』するように制作するべき」
になるだろうな、そしてそちらのほうが実感には近いかもしれない、解体のほうが、一貫性のなさに説明がつきやすい。と考える夢をみた。

昔やっていたあるゲームをなにがなんでもやりたくなってしまい、MacBookProでどうにかWindows7を駆動できないかと、集中して頑張っていたら、「すいません」と門から男の声がした。
「いま近くで工事してたんですけどお、屋根の瓦が外れてるのが見えたんでえ、伝えに来たんですけどお」
男の目はぎょろぎょろしていて、「ちょっとやべえ話し方の人きたなあ」と思ったが、親切でいいなとも思ったので話を聞くことにした。しかし「背中を向けたら刺される」という恐怖心があり、背中を向けられなかった。人に対してこんなことを感じたのは初めてだった。
「瓦が落ちたら落ちたらあぶないんでえ、明日もしいらっしゃれば登って直せるんですけどお」と男は言う。
「どこですか?」と僕が聞いたら、
「屋根の高いところ、棟っていうんですけどお、そこがはずれてるんでえ、落ちたら危ないんでえ」と、やはりちょっとやばい話し方である。
「どこですか?」
ともう一度聞いてもまた、
「上のところ…、落ちたらあぶないんでえ」
と、繰り返す。人間の感情を持たない、ロボットと話しているような気持ちに。
なんとなく、この人とは関わらない方がいいという直感が働いたのか、僕は「明日はいます。だけど屋根はいつも登ったりしてるんで、見てみます。ありがとうございます」と、気がつけば断っていた。
「じゃあ見てみてください。落ちたらあぶないんでえ、ソレを伝えるくらいがこちらのできることなんでえ」と言って、男は帰っていった。
「…でえ」のところが、上がり調子で、とにかく話し方がやばい。
あとでアトリエのメンバーにそのことを話したら
「おれの知り合いが同じような手法で、家に来られたことがあって、たぶん詐欺だね」
と言われた。ネットで調べてみたら、似たような事例の注意喚起ががたくさん出てきた。一般的には確かめにくい屋根の上の瓦が外れていると言い、屋根に登り、法外な値段を請求したり、「これは瓦を全部交換した方がいい」などと言って契約させようとしてくる手法らしい。住宅が商品化して、自分の手の届かないものになってしまった時代の象徴みたいな話だ。
こえーな。人間こえー。
どおりで男から受ける印象が、話されていることの「親切さ」からは遠かったわけだ。

「山品」でもりそばを食べた。格の違うものが、さらりと出てくるような店だった。
この蕎麦屋はたしかに、グーグルの口コミ評価も高い。とても高いが、それが一体なんだというのか。この奇跡のような蕎麦と、この口コミの星の数にいったいどのような関係があるというのか。
この目の前の、ほんとうに目から涙が出るほどおいしい蕎麦。この「恩」をどうやって返せばいい?と思えるほどの蕎麦。グーグルなどが世に現れるよりもずっと昔から、ここで作ってきたのだ。水もきのこも漬物も、ここらで採れたものを使い、何十年もこの場所で打ち続けたであろう、この蕎麦を思えば、インターネットに書かれた星の数に、いったいどんな意味があるというのか。
客がたくさんいる。美味しいものはやがて広まる。自分の腕を信じて、ものごとを続けること。継続すること。ちょっとやってみてうまくいかなかった程度で、うじうじする資格などないと言われているようだった。

遠藤一郎さんと再会した。もう十年以上の付き合いになるけれど、いまだに底がしれない。『芸術作品の根源』そのものみたいな人だ。
最近の彼が頻繁に言う「これは夢です」や「夢の方が本当だから」といったたぐいのせりふは、この現実とは別のところに軸をつくり、人々をそちらの方に引っ張ろうとする力である。目の前に広がっているこの世界は夢なのだと思うことは、一見現実逃避的でネガティブなようだけど、彼に言われると力が湧いてくるから不思議だ。まるで凧の糸を引くように、夢(叶えたいものとしての「夢」と、寝ている時に見る「夢」の二つの意味があるように思う)が現実のほうに引っ張ぱられて、二つが重なってしまう。
「これは夢だ」という感触は、確かにある。正確には「夢を見ているような感じ」は、特に最近、わかる気がする。
社会の変化が目まぐるしすぎて普段は認識できていないけれど、ふと冷静になって立ち止まると、まるでシュルレアリスムのような、とんでもなく支離滅裂な世界になっているじゃないかと思うし、僕自身にしても、結構な頻度で移動をして、知らない景色を見たり、新しい人に出会ったり、あるいは人と別れたりするこの日々は、ほんとうに夢を見ているようだ。過去と未来と現在がどろどろに溶けてしまって、ただただ「世界」が広がっているような感じというか。
「これは夢だ」という感触は、決して悪いものではない。創造的なアイデアと、それを実現する勇気を得る「場所」に行くための「世界認識の方法」のようなもの。
遠藤一郎が車にでかでかと描いている「未来へ」という言葉にも「これは夢です」と通じるものがある。というよりも、もう少し先に進めた概念かもしれない。
どんな状況の人間にとっても、「未来」には希望が存在しうる。そう考えると、どこか「死」すら感じさせるので、すこしこわくもあるけれど、息苦しいこの世界をさーっと抜けて、生と死も、時間の概念も全て飛び越えて、視界が開ける場所を目指すようなイメージが湧いてくる。
かつてシュルレアリストたちは現実を解体し、ある意味では夢と同化させようとしていた。そういう意味では遠藤一郎もシュルレアリストであり、僕も自分のシュルレアリスムを実践していきたい。時間も場所の概念も超えた景色を見たい。

さすらい姉妹『むすんでひらいて』を信濃大町の美麻遊学舎跡地で観た。観たというか、体験した。三つの焚き火と、開演前のそわそわした雰囲気、出演者がせりふを忘れていることに笑ったり、ぜんぜん何を言っているのか聞き取れないのになぜか泣けてきた公演本番、公演後の赤飯のおにぎりと豚汁、たくあん、でかい鍋のきのこ汁の炊き出し、「いっぱいあるから食べてくださいね〜!」と呼びかけるスタッフか客なのか曖昧な人たち、火の前で酔っ払ってアコギで歌う人、踊る人、すべてが渾然一体となり、世界に、こんな場所がまだ残っていたのか…涙…という、なぜか懐かしい気持ちに。
せりふを忘れていること自体が芸になるという現象、これはなんらかのアイデアのヒントになりそうだと思った。

「せりふをぜんぜんおぼえてねえやつはあっちいけ!」
「せりふ覚えられなくても、来年も出してちょうだい!」

公演後の炊き出し、その場にいる誰に対しても、「食べてくださいねー!いっぱいあるから!と声をかけていた。なにか、光りかがやくものが溢れていた。反プロフェッショナル、反資本主義を地でいくという態度が貫かれていた。本当の反資本主義は、資本主義社会のなかではそう簡単に浮び上がらないという、ごく当たり前のことを思いだした。

「もう忘れてしまったというのだろう」

という出演者の合唱が頭の中でまだ響いている。
彼らはあくまで「出演者」であって、ここで「役者」という言葉を使ったらなにか大事なものを取りこぼしてしまう。彼らは各々に仕事をしながらこの公演に出演している人たちであって、役者が本業ではないらしいから。プロの役者は一人もいないらしいから。
「地べた音楽祭」を観たあとでここに来れてよかった。それぞれに違う、このめちゃくちゃな現状に対してのアプローチはあるのだ。遠くにきたなとおもえる場所であり、親戚が集まるような場所でもあった。

昨日の酒がまだ残っている。起きて冷蔵庫にあるごぼうをどうにかしようと思いレシピを調べて甘辛ごぼう炒めをつくることにする。必要なものはごぼうと片栗粉と醤油と砂糖と酒のみ。からい要素がレシピに見当たらない、これで甘辛になるのかなあと不思議に思いつつ作ることにしたものの砂糖がないことに気がつく。スーパーにいくのか、面倒だなあ、でもまあ、いくか、としばし時間をかけてスーパーにいく決心をし、イヤフォンをつけて徒歩十分弱のスーパーへ向かう。音楽は昨日からずっとUlulUのアルバムを聞いている。スーパーでうろうろする。舞茸と牛乳とてんさい糖と卵と米とカニカマとねぎときゅうりと明治のミルクチョコレートとホワイトチョコレートを買う。昼に天津飯をつくろうと思いついたのだ。ここ一ヶ月天津飯にはまっている。家に帰り、昨日買ったUlulUの3曲入りCDをかけながら目玉焼きと甘辛ごぼう炒めをつくる。片栗粉がない。家にあるだろうと思っていた片栗粉がなかったのだ。小麦粉で代用してみた。冷凍しておいたパンにスライスチーズをのせてトースターで焼く。その間にたまっていた洗い物をする。洗ったばかりの大きめの皿を拭き、目玉焼きと、つくった甘辛ごぼう炒めの1/3ほどをのせ、焼き上がったパンに蜂蜜をかける。残りの甘辛ごぼう炒めはタッパーに入れて冷蔵庫へ。入れたタッパーにはまる蓋が見当たらず、近い大きさのもので無理矢理ふたをした。案外いけるもんだ。牛乳にMIROを溶かす。朝ごはん、と言っても食べ始めたときには十二時を過ぎていた。食べ終えて、冷蔵庫からぬか床を取り出し、さっき買ったきゅうりを二本漬ける。明後日には食べられるだろう。まとめて洗い物をして、歯を磨き、洗面台の前に軽く掃除機をかけて、たまごとカニカマとネギとチョコレートと、洗濯したタオルと一泊分の着替えを持ってバッグに詰め、自転車のカゴに入れてアトリエに出かける。途中、緑色のヘルメットをしてピンクの自転車に乗った小さな女の子を前方に捉える。その前には黒い自転車のお母さんらしき女性。二人を追い越す時、女の子がこういうのが聞こえた。

「自分が成長するんだよ?」

アトリエに着き、カニカマとたまごとネギとミルクチョコレートを冷蔵庫に入れるが、ホワイトチョコレートが見当たらない。どこかで落としたか、持って来るのを忘れたのだ。

・世界を一枚の紙の上に描きたいという「欲望」について考えること

・歩いていたら蛾が止まっていたり、公園があって喫煙所があったり、地図をもって本の中を歩いていくような本

・一万円拾ったときに警察署で言われた「一万円札の持ち主」という言葉。お金を所有するという言い方。HAPSのプロジェクトで食事をしているとき、食べているあいだは不思議なことに、食事を楽しむ消費活動というよりは、ほとんど労働をしているような感覚であったこと。
・かきなおしたかった地図
ロングのウインドライン、シチュアシオニストの地図、村上の地図、友人たちの地図、知人の地図
からだ
・土を口にしただけでお腹壊した話
・街は内臓であるという話
・気化熱の冷房
快適さとは何か
「暑いけど、この暑さは納得できる」ことの重要さ
体調(腸内細菌たちの複雑な運動。自分は「結果」しか意識できないこと)
食事(能動的にたべること。情報は食べられない)
時間
蛾の話
記憶(時間をランダムアクセスにとらえる。過去は現在にあること。現在を引き伸ばすこと)
お金
銭湯の脱衣所で硬貨を「汚い」と思うことと、コロナ下、お金を使う場所ではマスクを求められることが多いこと
言葉
21美ムン&チョン展フライヤーの「彼女たち」という主語の話、「彼ら」ではなく。隠れた差別意識
嫁、と言ったことで目覚めた何か
高松次郎の作品のこと
移動
移住を生活すること。
時間は線形ではない。現時点から360度広がっている。場所のようにたずねることができる。我々は思い出すというときに時系列順に遡って思い出すのではなく現在からある点へ、その点からまた別の点へとランダムにアクセスしている。そして思い出すとき、それはもはや過去のものではない。その過去は現在に持ってこられている。つまり現在からある場所へ行き、何かをここれ持ち帰るようにしながら我々は生きている。過去を思い返すことが苦しみとなるとき、その人はその喜びの過去も殺している(ヴェイユ)
・イメージと正体の調査報告(付録)
・年賀状が印刷物に成り下がった話
・メディア、媒介者としての貨幣。金を使う場でマスクをつけている自分に気がついたこと
・なぜ「自分の地図をかく」ではなく「かきなおす」なのか
・与えられた地図の暴力性と、自分の地図をつくることの暴力性
・「確かに”地図"は測量のために歩き回った人の生の痕跡を消すようになっています」(インゴルド)
・しかし地図論を書きたいわけではない

・「とほうもない時間のなかの点としての今の生活」みたいな
・アナキズムとしての実践
・日々の生活への応用篇
・「地図を燃やせ」
・「今からどこででも、どんなふうにでも生活を始めることができる」あべこうたさんの言葉

・タイトル

 思いがけない名刺と動詞の組み合わせ
「蛾とは約束ができない」「情報は食べられない」
お金を「払う」とは意地でも言わない。「交換する」と言う
デジタルとアナログ
貨幣とコロナとマスク
労働することは、体をデジタルに見ること
レシートと支払い
結婚式のご祝儀を電子マネーで払うこと。ご祝儀はお金のモノの側面を強調する
amazonギフト券を買うことと、アナログからデジタルへの変換
・松村圭一郎「くらしのアナキズム」に引用されているジェイムズ・スコットの「文字それ自体が距離を破壊するテクノロジー」という言葉。例えば「徴税」や「戸籍」のシステムに従うことが国からの管理に従うことであるというような視点を持つのは簡単だが、「文字」それ自体が支配のテクノロジーであるという視点は、さすが人類学というか、壮大なちゃぶ台返しを目の当たりにした気持ちになる。学校の歴史の授業なんかでは国の識字率が上がることは良いことだと習うけれど、それはある意味では奴隷根性の現れでもある。
・また稲作が国家にとって重要なのは税収の予測が立つからだという考え方、これもよく言われていることなんだろうけど、ここから、なんらかの予測を立てると言う営み自体が、奴隷根性の現れであると考えることはできるか。保険とか?保険という商品の考え方は、いわば国家の支配を後押しするものなのか。過去に日記で書いた、計画と無計画の話もつながるか。
・フィクションと嘘について。あるいは一人称でエッセイを書くことについて。五所純子さんの本
・広告収入を消化する
・「魂のある食べ物」について
・奥能登でやった「移住生活の交易場」で、店の裏で聞き耳を立てていたら客がみんな誤解して帰っていった話。特に二人組だと、二人で憶測を話し合うことによって思い込みを強化することがよくわかる。また買い方もバラバラで面白い。二三味でコーヒーとカフェオレとケーキ2個買ったレシートを見て、お代わりしたんだろうな、それがたまらないと言って買っていった人もいるし、誕生日だからと買っていった人もいるし、このきれいな桜貝なら数百円ならほしいと純粋に物で買う人もいるし、システムが面白いと買う人もいるし、こんなに安くていいんですかと、美術作品として買う人もいる。そして、こんなものによく値段つけられるなと言う人もいる。「俺もやろう」とか言う人もいる。ポロックの絵をみて「俺もかける」とかいうのと同じように。
・インゴルドの『ラインズ』。印刷技術のおかげで我々の「表面」に対する認識がかわったという話があって、手書きで書かれたテキストを声に出して読んでいた中世の頃、本を読むということは先人の「足跡」を探しながらたどるような感覚だったんだけど、印刷されたものを黙読する現在においては、あらかじめ全てが見渡せる地図を眺めるような感覚に近いと言っている。確かに「地図」は測量のために歩き回った人の生の痕跡を消すようになっています。熊本市から阿蘇山を通って大分県臼杵市に続いている57号線の道路を家と一緒に何度か往復して九州を東西に反復横飛びするように動いて同じ場所で違う出来事を引き出すようなことができるかなと思った。
・頭の中に地図がどんどんできてしまう。僕の無意識が、目的地への最短ルートとか、善悪の価値観とか、あるべきお金の使い方とか、年齢に相応しい年収とか、年齢に相応しい振る舞いとか、習慣とか常識とか思想とかを勝手に作ってしまう。「かきなおせ」ではぬるいかもしれない。
・「学び」とか「気づき」とかそういう、意味ありげなことについて。意味ありげなことを書く恥ずかしさに向き合うこと。「意味を問う」とは?授業中教科書に描く落書き。階段の手摺にお尻を載せて滑ること。道で石ころを蹴って歩くこと。踊ること。道の石ころを蹴るようなものを書きたい。ただ踊っているようなもの。
・スマホを家に置いて、方位磁針と歩数計を身につけ、バインダーを手に地図を描きにいく。

・地図は「亜空間」に現れる
・地図の定義。他の人がイメージできる要素がひとつでもあり、それが3点以上記されていれば、それは地図になる。たとえば「あ」という字だけを街の中であるきながら探すと地図ができる。
・「移住生活の交易場」も地図である。値段という共通要素によって。

狛江の地べた音楽祭と、下北沢の440というライブバーでのツーマンという、2つのライブイベントをはしごしている。地べた音楽祭は友人たちが企画・出演していて主に田上碧目当てで、440はUlulUというバンド目当てで行った。思うに、田上碧はどんどん風に近づいている。彼女は現象になりたいのかもしれない。ぼくもいつか現象になりたい。
UlulUもよかった。「風」の歌い出し、鳥肌たってしまったし、ちょっと泣けた。こわいくらいにすべての曲が好みで、このバンドを見つけられたのは今年最大の発見である。歌詞がほんとうにいいのだけど、「歌詞」といいたくない。「文章」といいたい。彼女らは「文章」を歌っている。
それと、うまく言えるかわからないのだけどなんというか、からだがかたい感じというか、関節のかたいサウンドがずんずん進んでいく感じがたまらない。歌詞(文章)も含めて、とても親近感を感じる。友人に「さとしが書いた文みたい」と言われてうれしかったし、そう感じるのもわかる。
音楽をずっと聞いていて、瞬間と永遠の「近さ」について思った。たとえばギターの弦をかき鳴らす瞬間、あるいは「でんしゃ」と歌い出す瞬間に、永遠の時間を見てとることは、結構簡単にできる。
ギターという概念と、ここで鳴っている一本のギターと、それを鳴らす人と、鳴らす人が影響を受けてきたであろう音楽と、そしてここで音が鳴らされたことによって未来に作られていく影響と、それらすべての歴史がライブ中のあらゆる一瞬に結実しているわけで、すべての一瞬には永遠が包み込まれているのだなと。まあ当たり前といえば当たり前なのだろうけども。
そして何よりも問題なのは、地べた音楽祭を抜け出して下北で2時間のライブを観て、狛江に戻ろうと思ったら特急に乗ってしまい登戸まで来ても、まだ僕の手には地べた音楽祭から持ち帰ってしまったプラカップのゴミがある。ずっと捨てられないでいる。ゴミ箱がないから。ゴミが捨てられない国、日本。

「相手」という言葉について。この言葉が使われる時、そこには三つの立場がある。つまり、自分(A)が誰か(B)と話しているときに、Bが話題に出している第三者のことを、Aの立場から聞くと、「その相手は誰なの?」という使い方になる。目の前のBだけに対して「あなたの担当は私です」「おまえの相手は俺だ」と言う際も、どこかに第三者の存在を感じさせる。人間が二人しか存在しない世界を想像してみると、「相手」という言葉は使いにくい。

人に誘われて山に登ってきた。渓流の岩に座ってカップラーメンを食べた。川の水を温泉と混ぜた天然の露天風呂に入ったりした。
めちゃ楽しかったし、すごく疲れたし、疲れたことで元気がでた。
元気を出すためには体を疲れさせるのがいいのかもしれない。

山道を歩いているときに思った。
山道の地面は傾斜があるし、石とか木のねっこで、でこぼこしている。足首はそれに対応するためにいろいろと角度を変える。膝は曲がったり伸びたりする。腕も前後左右にぶんぶん振られる。足の裏は危険を察知するのがうまい。この部位たちの働きで、僕の体は垂直に保たれている。
これを繰り返すことが、元気をくれる。平らな道とはぜんぜん違う。平らな道を歩いているときは、体はそんなに動かない。腕もふられないし、足の裏も特に何も察知しない。それはスムーズに歩くためにつくられたものだから。道路では、自分が歩いているということを忘れている。

でも山道は違う。歩いている!と毎秒思う。
自分は歩いている!
それがだんだん、生きている!になってくる。一歩ごとに、生きている!生きている!という感じだ。
僕は生きている!僕は、生きたいという意志をもっている!僕は命である!
そんな宣言を、一歩一歩している。これは、前向きにならざるをえないではないか。

それからもうひとつ「つまづき」について考えた。
歩いていて、二回くらい転びそうになった。木の根っことかにつまづいて。そのとき僕に何がおきているのか考えた。
それまでに見ていた景色とか、頭の中にある不安な気持ちとか、ざわざわした感触が、すべて瞬間で吹き飛ぶのだ。
つまづきそうになったそのとき、僕は自分が持てる全ての力を使って、体勢を立てなおそうとする。体は変なふうに曲がるし、変な声は出るし、かっこわるいけど、そんなことにはいっさい構っていられない。
僕の体のすべてが一瞬で本気を出すのである。心臓も、頭も、足首も、腕も、肺も。その集中力たるや。他人という存在はすっかり消えて、世界に自分だけになる。
そうしてつまづきから立ちなおったとき、まるで新しく生まれかわったような気持ちになる。つまづきはrebornなのである。

書いていたらまた山に登りたくなってきたぞ。

15時34分

高松市美術館の展覧会に参加してからまだ三年しか経っていないのだと思うと、これからもまだまだ人には出会えるだろうと思える。連載を書籍化できなかった喪失感は大きいが、これもやがて反転してなにかになるだろう。消化できなかったものが体にくすぶることは、制作する私にとっては必ずしも悪いことではない。ただ問題は、この顔面の住人である。これからやるぞ、と気力がわいているときに、こいつが邪魔をしてくるのがほんとうにうざったい。さっきからずっと鼻水がとまらないのである。

 

18時55分

まさかぶどうの房と、メガネを取り間違えることが起こるなんて想像もしなかった。

風呂上がり、一時間ほど前に爆速で食べ終えた、皿にのったぶどう(ナガノパープル)の房を、そのとなりにおいていたメガネと間違えて手に取り、指先の感触で「ん?」→「これはメガネではない」→「ぶどうの房である」となった。しかし、このふたつが醸し出すオーラは似ているかもしれない!細長い感じとか、なにかが左右に飛び出している感じとか。大きさ感とか。

 

19時20分

世界ぜんたいをまるごとふんわりつつむほどの大きさがありながら、世界の中でたったひとりの人と他の人が対立してしまうようなことが起こるとき、その間に入って緩衝材として機能し、傷をやわらげてくれるような、すべてを包みながらもすべてのあいだの隙間をうめていくような、水のようなスピノザ。この先世界でなにがおこっても、それはすべてスピノザによって説明されていると思ってしまうような強さ。

WANDAを観てきた。吉祥寺アップリンクで。観終わったあとにじわじわと、すごいものをみたのではないかという感慨が押し寄せてくる。
監督が主演もしているという情報をあとから知って、さらにぐっときた。
女の年齢と、それによって異なってくる社会的な立場と、世の中の雰囲気。殺人者の男と何故か一緒になってしまう、滑稽なはずなのだけど笑えず、かといってかなしいとかかわいそうとかでもなく、ただ女として生まれてきた体がそこにあり、これとともに生きていかなくてはいけないらしいぞ、という、体の関節がはずれそうなからっぽさと、その裏側にある、くるしいほどのいたたまれなさ。
なんとなくルシアベルリンを思ったりもした。それとマルグリット・デュラスを読んでみたくなった。

あるアーティストの手伝いで、数人で川に流木を集めに行った。広々とした川辺に、見渡す限り大小さまざまな流木が流れついていて、なかなかすさまじい光景だったのだけど、そのアーティストが、拾った流木を、持ってきた段ボールの箱に合わせてぽきぽき折りながら入れていた。
おれは「折るんかい!」とおもった。「流木はすべてを知っている」と言い、現地の土や泥で「精霊」をつくると宣言して、わざわざ流木を集めに行った先で、物体の規格化の権化みたいなダンボールという箱の大きさに合わせて、流木を手で折るという暴挙。しかしそれを指摘する人はほぼおらず、ぼくも口に出せなかった。機会があれば本人に聞いてみたいけど、流木についてどう思っているのか。流木には長い時間が刻まれていて、その形、色、表面の滑らかさにはそれが刻まれている。その力を借りたいと思ったから流木を集めに行ったのではないのか。段ボールに合わせて折られた流木ははたして流木なのか。

道を歩いていたら、自転車に乗った小学生くらいの男の子が赤信号の前で、暑さにやられて倒れるところを目撃した。男の子はすぐに起き上がり、自転車に乗り直して前にいる友達に合流し、どこかに行こうとしていた。隣を歩いていた人も目撃したらしく、「死んじゃうんだから、熱中症で!」と騒いでいた。
僕は急いで自動販売機で水を買い、車に乗って窓から少年に渡そうとした。「これ飲んで!熱中症だから水分とって!死んじゃうからね!」しかし少年は、「大丈夫です」と受け取らなかった。少年はスポーツドリンクを持っていたのでぼくは「じゃあそれをたくさん飲むようにして!」と言って別れた。
おそろしいのはここからで、僕が車を道端にとめたところで、さっきの少年たちが自転車で集まってきて、一人がドアをあけようとしてきた。「どうした?」と聞いたら「ここにはこれから〇〇(ききとれなかった)が来るから車をうごかしてください」という。それはすぐにうそだとわかる言い方だったので「こないよ」と僕は言って車を動かさなかった。
そうしたら今度は少年たちが車のまわりを取り囲み、ベタベタさわったり落書きをはじめたりした。僕は車内にいるので確認はできないのだが、少年たちの姿勢と表情から、落書きをしていることはわかった。
僕は「え、なんでこんなことすんの?警察よぶよ」と言った。「警察よばないよお」と少年は言った。僕はスマートフォンをだして電話をかけようとしたのだけど、あわてていて、番号入力の画面に移行するボタンが見当たらない。ぜんぜん電話ができないので、携帯を耳に当てて警察に電話をするふりをした。一人の少年がそれに気がつき「やべー!」と騒いでいる。僕はかまわず続け、それから電話を切ったふりをした。
すると少年たちは逃げるのかと思いきや、逆に興奮し始めたらしい。僕が電話を切ったとたん、窓ガラスが割れる音がした。見るとフロントガラスに小さな穴が空いている。石を投げたらしい。少年はガラスが割れたことにちょっとびっくりしているようだったが、それでも騒ぎ続けた。なんでこんなことするんだと聞いたが、よくわからない答えが返ってきたところで目が覚めた。起きると枕元にゲンガーのぬいぐるみが立っていた。

今日はぼくの誕生日。もう20分以上鼻くそをほじっている向かいの少年。

大学の恩師土屋公雄の言葉でいちばん強烈だったのは、学年全員の前で発していた

「みなさんは生きてて楽しいですか?…嫌なことばっっかりだ!」

である。いまでも元気をもらっている。

「デバイス」と「クラウド」について、友人の話。

生身だと耐えられないが、自分をある種の「デバイス」だと考える、つまりここにいる自分は本体ではなく、どこかに「クラウド」があるのだと思うことで、人からの言葉を真に受けすぎることや、不誠実に耐えられるようになる。そしてそれは「青春の終わり」である。

制作だ制作。今宵も書いて消して書いて消して貼ってはがして塗ったり燃やしたり作品にならなくても発表できなくても誰の目に触れなくても誰にも気づかれなくてもこれをこうしたりああしてみたりちょっとなおしたりやめてみたりあっちからもってきたそれを加えてみたりして制作するすべてのものたちに幸あれ

朝、外宮にお参りしたとき、正宮にて、中年の半袖短パンで手ぶらの男性が一人、頭を下げて、ぐっと両手を握りしめて目をつぶって、ほんとうに祈っているようだった。「祈り」というのは、こうやってやるのかと。ほんとうの祈りというものを初めて見たかもしれないと思った。
その男性は他の人たちが次々参拝しては去っていく中、一人で、5分以上はその姿勢のままでかたまっていた。目を奪われたし、胸に来るものがある。ほんとうに祈っている人というのは、傍目にもすぐにわかる。あんなにきれいなもの。

伊勢の「みたすの湯」露天風呂にて、大学生くらいの男が3人、謎かけをしあっている。お題は雨。
一番声のでかいやつが「ととのいました!」と、露天風呂にいる全員に聞こえそうな声で叫んだ。
「雨とかけまして、メンヘラとときます」
「その心は?」
「いずれやむでしょう」
「おー」
「すごい」
「いやあ、これ自信あったからでかい声出した」

「病む」を「止む」とかける。正反対の意味。それがいい。救いがある。ちょっと恥ずかしくなったけど。

風呂を出たら猛烈な雨が降っていた。

最高のアイデアが最悪のタイミングでやってきた。神よ…と思った。心から、自然に「神よ」という言葉が出てきた。神よ、なぜ昨日ではなく、今日なのですか?

人との関係ほど不可逆なものはないのかもしれないな。一度崩れたらエントロピーは増大する一方であり、考えてしまうのは過去に自分が発した言葉、態度のことで、あのときにああしておけばなにか変わっただろうかとか。しかし、いくら考えても原因はわからない。というか相手のせいにも、自分のせいにもしたくない、するべきではない。世界はそういうものではない。スピノザならこう言うだろう。すべては必然的におこるのであって、他のありようなどはいっさい存在しないのだと。あなたがその状況に陥った原因などは、誰にもわからない。ものごとは、気の遠くなるような数の必然の連鎖でできているから、その原因をまるごと理解することなどできない。わたしたち人間はただ、「結果」を知らされるのみ。自分自身の感情の原因すらわからないのだから。相手も同様に、自分の感情の原因などわからない。そもそも、わたしたちがものごとを考えることができているのは、思考の解像度が荒いからである。それが起こった真なる原因などわからないからこそ、それにまつわることを考えることができる、できてしまう。だから自分がこうやってあれこれ考えてしまうのは、解像度が荒いからなのだと、自分に説明することで感情を癒すしかない。「説明する」ことで、能動性を取り戻すしかない。説明することで、自分も相手も赦すこと。これがあなたには足りなかった。だから破裂させてしまった。ゆるしなさい。はい、ゆるします。わたしは、すべてをゆるします。もうひとつ、素晴らしい過去のことを、負の感情とともに思いだすこと、そういう類の考え方をシモーヌ・ヴェイユはこう糾弾する。それは、その輝かしい過去すらも葬り去っていることになる、と。あなたの大学の恩師は「記憶は過去にはない。現在にあるのだ。過去を思いおこすとき、それは現在なのだから」と言っていた。この考え方は故人を懐かしんだり、遠く離れた恋人のことを思うときには、救いになる。だけど今回のあなたのような、誰かとの関係が壊れてしまったケースでは危険かもしれない。なぜなら過去のことを思い起こすのをやめたとき、つまり「現在のことを考えている現在」に戻ってきたときに、過去から呼びだした記憶と、現在との落差にがっかりすることになってしまうから。この落差が堪えがたいのなら、過去は現在に呼び起こすべきではない。ではどうすればいのか。過去の出来事を、過去のものとしてそのまま大事にすること、これしかない。ものごとは現在にしか存在しないという覚悟を決めること。覚悟を決めさない。けっして比べないこと。自分と他人、過去と現在を、けっして比べないこと。そして、あらゆる瞬間のものごとに、永遠の相をみること。

悲しみの手綱を握れ 人間が向き合える数は限られている

①すみません終了後の報告になってしまいましたが、9月27日「超絶縁体iiii」に出園しました。

②今月の福音館書店の新刊「母の友」特選童話集『こどもに聞かせる一日一話』に僕の「あくびをしてはいけない国」が収録されています。うれしい!短くておもしろい話が30こ収録されて1,650円。1話50円。ほぼタダ!

③3331 ART FAIRに出展します。新作をつくっています。

村上慧

よろしくお願いします。