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喫茶店で窓ガラスにとまった羽虫を、隣のテーブルに座っていたおばちゃんが靴でバンと潰した。素早く、迷いなく。ぶよ、刺されたら危ないから。よくさされるのよ。と言う。しかしそれはブヨではない。それは無害な羽虫だ。

三鷹駅でやった「看板図書館」で僕と話し、紙コップの裏に書いた電話番号までもらったという人に珠洲で会った。その人は、僕が参加した年の瀬戸内国際芸術祭にも行ったらしい。僕が鍋をやっている会期ではなかったけど、三鷹で、僕から小豆島の話を聞いたと言ってた。僕は何も覚えていない。僕という球体は、自分で思っているよりもずっとずっと大きいものかもしれない。

8人で池に立つ波紋をただ眺めて過ごした時間を思い出す

みんなで会社を辞める必要はない。ただ転出届を出せばいい。そして転入届を出さなければいい。そうすれば何かが変わるんじゃないか。

驚くべきことに、車の中でも間取りが生まれる。運転席が書斎、仕事部屋。後ろが寝室、居間、食卓。

四人ほどの若者たちが僕の展示を見て、ショップ前で立ち止まり、そのなかの女性一人が僕の「移住を生活する」を手に取ってパラパラとめくりながら「すごお、村上さんの日記。うわあ・・・何者なんだろう。京大生をこじらせたらこうなりそうな気もしますけどね」と言い残して去っていった。

拾った物を交換するショップ、高いという人がほとんどだが(たっか!これが1750円!)(ていうか、これみて!これ1317円!)(これのどこに2000円の価値があるん?)、ひとりだけ、これはやすいですよー!と言って買っていった。その人は、普段からコマーシャルギャラリーに通い、作品を買ったこともある人だった。

面白いという人も多い。芸術祭に来るだけある。

2ミリほどの赤と黒の虫。髪の毛よりも細い一本一本の足は体の倍くらいの長さ。綿のシャツの繊維に左のいちばんうしろの足を取られて身動きができないらしい。そこから動けない。本の2ページほどを重ねて、虫の体の服の間に入れて、取られた足以外の五本を紙の上に乗せ、踏ん張る足場を用意する。虫との共同作業だ。いま、共同作業をしているということが、よくわかった。彼も紙の上で踏ん張り、僕はその紙が動かないように注意して掴んでいる。そして、足は服の繊維からではなく、虫の胴体から取れた。虫には、ぷち、と言う音が聞こえてそうだが、僕には聞こえなかった。足が5本になった虫は、本のページの上を、ごく普通に。最初から足は5本ですよと言わんばかりに歩いている。僕は紙を少し折り、紙を、僕が座っている木のベンチの脚に当て、本からそちらへ移動するように誘導する。虫はそのとおりに動いてくれた。僕の服の胸のところには、それがそこにあると思ってみなければ見落としてしまうような、細くて小さな黒い彼の左足が残っている。

自分が作ったものや参加したイベントをSNSなどで素直に宣伝することがどうしてもできない

白菜を育てていたつもりが、いつのまにかモンシロチョウの幼虫の家族を養っている。

おしっこじゃなくて、麦茶の方捨てちゃった

道の駅の駐車場、運転席に座ってカロリーメイトを食べていた。ほんの少し小雨を感じる程度で、風もなかった。助手席の窓も運転席の窓も開けていた。突然、右側がシパッと猛烈に光り、視界の隅で白い光の柱が一瞬立つのを捉えた。次の刹那にはズドォンという地響き。そのあとで雷が落ちたと理解した。右耳にしばらく耳鳴り。ここから2,300メートルほどの、病院の屋上か、電信柱に落ちたらしい。全く静かな朝だったので、ほとんど夢みたいな雷だった。まさに晴天の霹靂だった。晴天ではないけど。思わず、こわっと呟いて車と窓を閉めた。落ちた方を注意して眺めても、特に何も変化がない。外灯もついてる。道の駅のトイレから出てきたひとは、ごく普通に歩いている。雷を感じたのは自分だけなのかと疑いたくなるほど、何事もなかったかのような朝が続いているだけだった。

イタリアンカフェこだま。今日もサラダサービスしてくれた。前回もサービスしてくれた。そんなつもりじゃなかったんですが、と言ったら、いやあ珠洲がうるおっとんのはおかげさまなんでねえと、あのオーナーが言った。となりの従業員のおばちゃんが拍手した。寒くなってきましたねえ。体気をつけて、と

意味ありげなことを書くのが恥ずかしくて、なんだか色々なことがどうでもよくなってきてしまった
意味が問われすぎている。たぶん最近踊ってないせいだ。コロナ禍のせいか?考えすぎているのか。
授業中教科書に描く落書きとか、階段で手摺に尻を載せて滑ることとか、道で石ころを蹴って歩くこととか、踊ることとかに意味なんかない。
道の石ころを蹴るようなものを書きたい。ただ踊っているような。

必要とされたらそこから去らなくてはいけないと、8年前の僕は日記に書いた。もう一度考えなければいけない。つくったものによって人に知られていくこと。自分の業績が世界に蓄積していくというのは、貯蓄の考え方そのものじゃないか。この考え方から離れるべきではないのか。書いてて恐ろしい。ちょっとどうかしてるかもしれない。しかし作家は自分の足跡を自分で作っていくもの。自分でつくった文脈を自分で踏襲して、先に進むもの。これはそうなんだろう。でもこれと、自分の実績が世界に蓄積して、評価が定まったりするのは、別の話だ。なにか新しいもの、良いものを作り続ければ、次の作品が注目されたり、人に見られたりする?それは弥生時代以降の貯蓄の考え方そのものではないか?まがりなりにも「移住を生活する」などと言う以上、世界に蓄積してしまったものはすべて壊すべきではないか?自分の足跡だけを見るべきではないか?キャリアとか、評価が定まるとか。すべてあの原発を爆発させた価値観ではないか?どうせ人生一度しかないし、その中で何度でも生まれ変わるべきではないか?年齢をリセットすることはできないとか、そんなことは関係ない。河原温は参考になるか。あるいは中原昌也みたいに自分の仕事を忘れていけばいいのか。

珠洲に10年以上前に越してきて、年1万円の家を借りて住んでいる人から働きすぎだと言われた。週休1日では働きすぎ。逆でもいいと。たぶんぼくはまじめすぎる

珠洲弁で眠くなることを「ありがたーなる」と言うらしい。素敵すぎる。
朝ごはんの特選いなり4種の差し紙に書いてあった。レストラン浜中が作った弁当。
ご飯食べてたら通りかかったおじさんふたりと話す。一人は広島の福山から、車で旅をしていると言ってた。もうひとりはわからない。彼らが去ってから、手に芸術祭のパスポートだけ持ったおじさんがやって来て僕の作品のスタンプだけを押して去っていく。こういう人は結構いる。スタンプを集めるとなにかが当たるらしい。結構いるが、慣れない。全く作品を見ずにスタンプだけ押す人、毎度少しだけ傷つく。

音楽で行けるところと本で行けるところは違う
本を読むのと音楽を聴くのは共に遠くに行けるのだけど、行き方と行き先が違う気がする

金沢でドライブ・マイ・カー。くらった。3時間という長さをあまり感じなかったし、終わってから映画館を出たら外が明るすぎるように感じたし、携帯の電源をつけるのが嫌だった。

西島秀俊の顔面が好きなのかもしれない。
音楽と、無音の使い方もよかった。特に北海道に入ったときの無音がすごかった。演奏にジム・オルークの名前を見つける。

最後の最後、ソーニャがワーニャ伯父さんに手話で語るシーンでなぜか突然涙が出てきた。理由がわからない
あと、物の固定カメラでの撮影がめちゃかっこいい。雪の中で倒壊した家のショットと、車のショットは鳥肌。

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同じ館でスーサイド・スクワッド。最高。でかいヒトデと戦うところ、隊長が各隊員に、あいつはごちそうだ、あいつは誰だ?ママだ!と言って攻撃させるシーンで泣いてしまったし、落ち葉でシーンの説明しちゃうところとか超笑った。もう一度見たい。

ここから最寄りの映画館まで車で1時間50分。公共交通機関では4時間かかる

新潮1400記念号の高山羽根子「夢だとでも思ったか?」凄みがあって良かった。本当に面白かった。ボブディランの歌詞に感じる童話のような狂気というか。魂に刻み込まれた。

今日は辻さんに教えてもらったこれも良かった。人類は雑草圏で生活を始め、今もその中で暮らしている。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/weed/52/2/52_2_85/_pdf

道の駅すずなり。同じ人が毎日来てトイレに寄って帰って行ったり、毎日同じ時間に隣の家からお経が聞こえて、なんだか毎日が「再生」されてるみたいだ

スーパーは公共を体現する。人はスーパーによってつくられ、スーパーは人によって作られる。人それぞれの「地図」が違う。利用者何人かで一つのスーパーの地図づくりをしたらそれぞれ違うものができるだろうし、みんなの地図をたくさん重ねるほど現実のスーパーに近づいていくだろう

土曜日早朝ゴルフバッグを持って車に乗り込むお父さん