制作で、パテを塗ったスタイロフォームをサンダーで削る作業をしていたら、隣のおばちゃんが敷地境界のフェンスに両手をかけて、ものすごく興味津々な様子でこちらを見ていた。目があったので挨拶をすると「それは、なんですか?」と。なんと言おうものか少し迷って、「作品を作っているんです」と答えたのだが、おばちゃんはまったくわからない、という様子で首をかしげた。遠くて聞き取れなかったのかと思い、すこし近づいて「彫刻作品をつくってるんです。展示会用の」と説明したのだが、それでもおばちゃんはぽかんとしている。ほんとうに「ぽかん」としていた。人があれほど素朴に、ぽかんとした表情を浮かべているのを見たのは初めてかもしれない。まさに「ぽかん」としか言いようのない顔だった。
作っているものの形についてのほうが通りがよいかもしれないと思い、「カラーコーンを作ってるんです」と、ジェスチャーをまじえて説明した。しかしそれでもおばちゃんはぽかんとしたままで、そればかりかすこし困った顔をして「何も知らなくて・・・」と申し訳なさそうに、自分の無知を心底恥じるように言った。僕も申し訳なく思ってしまった。「道路に、赤い三角形のあるじゃないですか」と、僕は両手で必死に三角形を作り、カラーコーンを想像させようとした。するとおばちゃんの表情がぱっと明るくなって、「ああ! あの、危ないところに置いてあるやつですか」と言った。
「そうそう。あれを作ってます」
「まあ、なんでもできて・・・」
「ははは。いえいえ」
「すみませんねえ、お邪魔して」
「いえ、とんでもないです。今日、暑いですね」
「暑くなりましたねえ。・・・なんでもできて。お邪魔して申し訳ありませんでした」
「いえいえ!」
というような短いやり取りだったのだけど、しばらく経ったいまでも、この出来事が体にまだ残っている。このおばちゃんはすばらしい菜園家で、毎日作物の面倒をきちんと見て、しっかりと手入れをし、ネギやシソや、色々な野菜をたくさん実らせている。「何も知らない」わけがない。庭をちょっと見るだけでも、僕が知らないことをたくさん知っていることが一目瞭然だし、とても腰が低くて、目があったときすぐに挨拶ができるようにさりげなくこちらに気を向けているし、挨拶する時もきちんとこちらをむいて、頭を下げてくれるような、やさしいおばあちゃんなのである。おばちゃんとは挨拶程度の言葉しか交わしたことがないが、菩薩のような佇まいから、僕はいつも何かを学ばせてもらっているのである。
しかし、おばちゃんは「何も知らなくて」と言った。まるで柳田國男の本に出てくる、田舎村の農民のような謙虚さで、自分が無知であることを恥じていた。僕はなんと答えたらよかったのか。「いえいえ」なんて言葉ではなく、「とんでもないですよ。畑の野菜だって立派に育てているし、僕が知らないことをたくさん知ってるじゃないですか」と言えばよかったのだろうか。あるいは、何かを知らないとしても、それはおかあさんのせいじゃありませんよ、とか言えばよかったのだろうか。後者はちょっと偉そうだ。でも何かを知らないとしても、それはこのおばちゃんのせいではない、ということは、おばちゃんが僕に向けてくれる常日頃の誠実な動作から窺い知ることができる。それに、何かを知らないことを宣言できるのはとてつもないことだ。

「アンパンマンは君さ」と「君はアンパンマンさ」では意味がまったく異なる

土地を所有するとはなんなのか/『建築雑誌』23年7月号 岡部明子さんのインタビュー概略

 近代的な「所有」概念を初めて唱えたジョン・ロックの念頭には、「王権が強すぎる、つまり王権神授説に対する疑問」があった。神の信託によって地上の土地が王様のものとされることによって、人々の自由な活動が行われていないという問題意識があった。それで、土地は誰のものでもない。というところからスタートするが、とはいえ人が土地を利用するときに、今日耕した場所で明日には違う人がなにかをやっているという状況では困るわけで、そこで汗水たらしてやったことが報われるような仕組みを作るところから始めよう、という文脈があり、「労働価値説」が出てくる。
(これは後にマルクスの「労働価値論」へと引き継がれ、対資本家の労働者の権利闘争へと歴史的には展開していく)
 つまり自分の労働力を費やして耕したり家を建てたりした土地には、その人に所有権が生じる。これが所有権のルーツ。
ロックは『統治二論』のなかで、所有権には二つの制約があると述べている。それが「十分性」と「腐敗」。十分性とは、自分が生活していくために十分な量に限定して土地を耕すことで所有の正統性が認められると言うこと。腐敗性とは、土地を抱え込みすぎて、結果的に腐らせるようなことがあれば、それは所有の範囲を超えているということ。
 しかしやがて社会は、労働価値説ではなく、法的に所有権を保証する、という方向に流れていった。それが生活に必要かどうかとか、無駄に遊ばせていないかとか、そういうことが問われなくなってしまった。
 法社会学の分野で「権利の束」という考え方がある。所有権は、不可分ではなく束になっていて、切り渡して譲渡することができる。(近所にマクドナルドができるとき、街のシンボルだった桜の木が切られるということがあったが、それはマクドナルドが所有権を持ったのだから桜の木を切るのは自由である、という「絶対的な所有権」に基づいて行われた行為だが、そうではなく、桜の木に普段から親しんでいた近隣の住民にも、木が生えている土地に関してそれなりの権利がある、という考え方)
 もう一つ、時間軸で所有権を考えるという方向もある。所有権は遡行的にしか存在しないという考え方で、人類学のなかで出てきている議論。何年もその土地で草を刈ったり、畑をやったり、家の手入れをしたりしてきた人には、たとえ法的な所有者でなくても、「この土地の将来をちゃんと考えなくてはいけない」「未来に責任を持たなくてはいけない」という意識が芽生える。「遡れば所有している」という考え方。遡って見えている権利というものがあるから、その先に責任と義務というものが見えてくる。
 いずれにしても、「所有」と「行為」は、本来分かち難く結びついている。土地に価値があるのではなく、土地と関わる行為そのものに価値を認めていくこと。さらに、デヴィッド・グレーバーは「価値」は「行為」に根ざしている、と言った。人が土地(自然)と付き合うことに価値がある。

岡崎乾二郎「あらゆる表現は、人為的、恣意的な約束事にすぎない(絵画の形式、彫刻、映像の形式は、歴史として語られることで正当化されていくが、それは恣意的なものにすぎず、いわばそのつどつどに正当性を暴力的にでっちあげるような営み。法律とおなじく)ということを、ダダイズムは告発する。ゆえにダダイズムは実体性をもちえず、破綻せざるを得ない」

対してシュルレアリスムは現実を解体し、夢と同化させることによってこのジレンマを回避し、実体を保とうとする。「夢の方が本当なのです」と言うことによって、生と死も時間の概念も飛び越え、開けた場所を目指す。

いま自宅のトイレの改装工事をしていて、13時ごろに休憩を挟んだのだが、お腹は多少減っていたけどお昼ご飯は食べずに、まんじゅうをふたつだけ口に入れてお茶を飲み、一服して作業を再開した。昼ごはんを食べてしまうと、そこで気持ちが一旦リセットされてしまって、続きをするのが難しいと思ったし、炭水化物が入ると眠くなってしまうので、ここは最後までやり切ってしまおうと思った。
もしこれが賃金を得ながら集団で作業を進める「労働」だったならば、ぼくは12時のタイミングで作業を中断して昼休憩を強要されていただろう。しかも、そこでちゃんと「昼ごはん」を食べなければならない。そうすると、ぼくは眠くなってしまう。ひとりひとりが担当の仕事を持ち、昼休憩のタイミングなども自由な職場だったらいいのだけど、こういう肉体労働系の仕事でそんなフレックスタイムみたいなやり方はあまり聞かない。みんなで働き、同じタイミングで休憩を入れる、という現場は、個々の人間の「空腹との付き合い方」や「休憩のとりかた」を画一化してしまう。全員が1日3食ご飯を食べるという前提に立っており、おやつを食べながらの方が仕事が捗る人がいる可能性や、すこし寝てからのほうが効率よく作業を進めることができる人がいる可能性を潰している。すべて、成果ではなく労働時間で賃金を決めていることの弊害。

あるおばあちゃん(92)との会話
歳のせいで喉が弱っているのか、一歩歩く事に立ち止まるような話し方で言葉をつなぎながら、大切な言葉を沢山くれた。


おか ねは あった り なかった りで いいの。
ちょうど いいの が いちばん
(友達が自分を手伝ってくれたことを)ずっと おぼえておき なさい
やさい が すきで さか なもす き! さいこ うじゃ ない!
しょうがっこう にねんせいの ときに だいとうあせんそう が はじまった
むかしの ひとは ばかだった のよお! がっこうへ いくと B29が しょうがっこう の うえをとんでた そうしたら かえらなくては いけないの ぼうくうごうに
べんきょうなんか ぜん ぜん
わた しはね そうさく が やりたかったんだけど かなわ なかった
(読書が好きな自分に対し、「女は本なんか読まなくていい」と言っていた父親に対して母親が「女も読書をしないといけません」と言ってくれたことについて)わたしの ははおやは せかい いちりっぱ な ひとだった

この最後の言葉には涙ぐんでしまった。まっとうなことをまっすぐにいわれることがほんとうになくなったから。あるいは、いうひとがいなくなってしまったから、心の奥の奥まで突き刺さるものがあった

ご飯を食べた後に眠くなるということはつまりご飯を食べた後に眠くなることができる、眠くなれる、ということではないか。 他人と常に行動していたり、労働の中でご飯を食べてたりすると眠くなるひまもない。つまり体が食後の眠気を意識にのぼらせてこないということ。 眠くなることができるというのは社会化されていない体を持っているということではないか。

ファミレスのテーブルに設置されているタブレットに「本人確認ジャンボ」という言葉。マイナンバーカードとの紐付けで何か金品があたる宝くじみたいなもののようだが、「本人確認ジャンボ」という言葉が強すぎる。ディストピアSFに出てきそうなイベント名だ。

日焼けした腕の皮が剥けてきているのだが、昔はもっとぺりぺりっと、大きな面積を剥がせたのに、いまは細かい単位でしか皮が剥がれない。こういうところに老化を感じる

十人ぐらいで代々木公園に泊まる夢。誰かが「これが、住めりング」と言った。

吉祥寺にいるときに富士山が噴火し(目視できた)、原付きであわてて東へ逃げる。だいぶ走ったところでコンビ二かなにかの駐車場にとめ、財布を忘れたことに気がついた。その周辺で髙橋先生とか、岡崎ちゃんとか、大西くんとか、一郎さんとか(広々としたレンガ敷きのピロティみたいな、公共施設の敷地内っぽいところに避難者が集まっていて、そのなかで「未来へ号」の黄色い車体が目立っていた)何人かの人と会い、財布を忘れたことを相談する。誰かに「それは取りに行くべきだよ」と言われ、取りに行くことにしたが原付きが見当たらない。どこにとめたか忘れてしまった。途中から非常線が張られ、これ以上西へは進めないラインができていた。原付きも見つからず、困る夢

チェーン店のカフェの「おにぎりモーニングセット」についてくるお味噌汁のアサリは漂白された味がする

Qスニーカー や ペタンコ靴の日はスタイルが悪く見えるのが辛い!
Aトップスをインしたり腰 位置が高く見えるワンピースを着れば OK
(スニーカーとトップスの色 リンクでもスラリ見えを狙って)

考えすぎてしまうこと、について考えたほうがいいかもしれない。特に他人のことについて。自分が将棋をやりたいときに、相手が忙しいことを知っていながら将棋に誘うのは、自分勝手なことだと本当に言えるのか。あるいは誘わないのは、相手のことを思いやっている(おせっかいを焼いている)からだと、本当に言えるのか

松本イオンシネマで「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー 3(吹替版しかなかったのでそれを)観てきた。最高

疎遠になってしまった友人と再会して「またよろしくね」となる夢を見た。ある本を「ウンコの描き方」の教科書として渡された。友人は「これ、教科書」と言っていた。そして「明日休みだから」と言って、缶ビールを飲み歩いていた。あまりにも幸福だった

朝バスク風チーズケーキを作り、昼から夜にかけて手羽元のマンゴー煮を使ったトマトベースのバターチキンカレー(たけのこと菜の花の素揚げ入り)と、昨日から取っていた和風だしを使った和風キーマカレー(味噌入り)と、人参と昆布と鰹節トスナップエンドウの佃煮と、大根を出汁で煮たやつと、塩だけで味付けしたダルスープを作った

高校の担任だった平野先生がいて、そこは教室のようで、他にクラスメイトは見当たらなかったけど高校の教室のような雰囲気だった。 知らない男の子が教室に入ってきて、机の前に立っていた。平野先生が近づいてきて、その知らない男子に「お前、大麻やってんのか?」と聞いた。すると男の子は観念したように「はい、すいません」と言って、カバンの中からビニール袋をたくさん取り出して見せはじめた。警察官のような人たちが教室に入ってきて、その袋を見たり触ったりして、大麻かどうかを確認していた夢

プレイ中のゲームでわからないことがあると、すぐに攻略法をインターネットで調べてしまっていることに気がついたときに、「世界を『つくられたもの』として見るようにしなさい」という心得(美大に入ったばかりのとき、ある教授も言っていた)は、たしかに大切であることは間違いないのだけど、あまりにもそれが常態化してしまうと、世界への素直な没入を妨げてしまうことにつながらないか、と思った

本と時間の関係について。すでに読んだページの厚みは読み手にとっての時間を表している、というわかりやすい話の他に例えば、親元を離れて十年ほど経った成人の子供のことを、親はどこかでまだまだ子供であると思っており、実家を出てからの年月の経過を実感できていなかったとしても、初めてその子供の一人暮らしの家を訪ねたときに、本棚に並べられている本の量を目の当たりにして「ああ、時間が経ったんだなあ」と思うような、そんなこともありうる。本棚がささやかに主張する、その持ち主が経てきた時間の量のこと

私の保存食ノートという本が素晴らしい。文章を読むよろこび。書き写したい文体

「あたしゃあねえ!」といって話し始める、記憶の中の知人。

大町にて屋根のペンキ塗り作業を終え、脱衣所の水道の簡単な工事を行って水を開通させ、それからお風呂に入って、徒歩10分弱のコンビニまでヨーグルトを買いに行った(レアチーズケーキの材料)。その帰り、音楽を聴いていた(boygenius)というのもあるのかもしれないけれど、前方にいつもの北アルプスの峰々に積もった白い雪を眺めて歩いていたら、そこで蓄えられた水が少しずつ溶けてせせらぎになり、川に合流し、この道端の水路まで流れてきているということが心の底から「理解」できて、それから風が吹いていて、鳥とコウモリが飛んでいて、雲が何層も重なっているのが見えて、空き地に雑草がびっしり生えていて、そしてそのすべてを北アルプスが見下ろしていた。なんて完璧な、奇跡みたいなシステムのなかに自分はいるんだろうと、なんだか目が潤んでしまった。すべてががっちりと噛み合っていて、かつそれぞれに自立もしていて、そして風が吹いている。その「全体」がすべからく、僕の感覚を通して脳みそにおりてきた。人間は、ぜったいにこういう環境のなかに住んだ方がよい。こういう「場所」を持って生きたほうがよい。そのまま家に帰ることができなくて、買ったヨーグルトだけキッチンに置いて、冷蔵庫から缶ビールを取り出して散歩をした。北アルプスに吸い寄せられるように西の方へ向かっていった。boygeniusとブリーチャーズとブルーススプリングスティーンとUlulUを聴いた。十九時ごろから急に空が暗くなってきて、家に帰った。